デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
6款 埼玉県大里郡八基公民学校
■綱文

第45巻 p.301-303(DK450119k) ページ画像

大正15年5月16日(1926年)

是日栄一、郷里血洗島ニ赴キ、当校ニ於テ生徒ニ演説ス。


■資料

集会日時通知表 大正一五年(DK450119k-0001)
第45巻 p.301 ページ画像

集会日時通知表  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
五月十六日 日 午前九時 血洗島ヘ御出向(王子駅発)
        午前十一時十七分 深谷駅御着
        渋沢治太郎氏邸ニ御一泊
  十七日 月 午後二時五十七分 深谷駅発
        午後五時 王子駅着


渋沢栄一全集 山本勇夫編 第三巻・第五七八―五八一頁 昭和五年九月刊 【実際教育に就いて――八基村公民学校の成立――】(DK450119k-0002)
第45巻 p.301-303 ページ画像

渋沢栄一全集 山本勇夫編  第三巻・第五七八―五八一頁 昭和五年九月刊
    実際教育に就いて
      ――八基村公民学校の成立――
○上略
      三
 偶々私の生家を継いでゐる渋沢治太郎が、八基村の村長となり、養蚕の如きにも力を入れ、農村に近代文明の応用をしやうとし、折にふれて公民教育を起す要があると唱へて居り、私も其意見には大いに賛成した。そして私の寄附で八基村に青淵図書館といふ田園図書館の設備も成り、次で、此頃公民学校が成つたといふので、先般(五月十六日○大正一五年)私は久々に八基村へ帰省したのであつた。非常に前置が長くなつたが、私の此談話の眼目とする処は、此公民学校の事であるのである。
 其日午前十一時頃、村長を初め地方有志の出迎を受けて八基村に入り、青淵図書館階上で、村長・助役・校長・教員・生徒打寄つて、私が行つたのを機会として、公民学校経過報告会が行はれた。私にも訓辞演説をせよと云ふことであつたから、村の人々が心から迎へて呉れたに対し、非常に愉快になり、群集が多く子供であつたから、よく理
 - 第45巻 p.302 -ページ画像 
解したか何うかは疑問であつたが、大体次のやうに述べた。
 「今日此処で皆さんに親しくお目にかゝることが出来て、実に嬉しくてなりません。私は二十四歳の時、郷里を出掛けまして、今年で恰度六十四年目になりますから、今年は八十七歳になりましたが、幸にも斯様に達者で居ることを喜んで居ります。其の六十四年前、私の常に心苦しく思ひ、郷里の方々に申訳ないと思つてゐた点は、郷里を留守にしたことであります。回顧して見ますると、多少は社会にも貢献した様に思ひますが、それでも今尚郷里を去らずに吾が八基村のために尽した方が、遥かによかつたと思ふことが度々あります。それが今日此処で皆さんの前に於て、殊に将来吾が八基村を双肩に担つて起つお若い人々の前に、お詑びすることが出来たと思ひ、斯様に嬉しいことはありません。
  其のお詑びの一端でも表はす様にと思ふて私の力添へした公民学校も、先程から村長・助役・校長等よりの報告により、大変結構に進んで居ることを聞いて嬉しく思ひました。
  私は既に二十数年前から申して居ることではありますが、教育も其の地方に適切なる教育が行はれ、実際に役立つ様な学問でなければならぬと思つて居ります。現今の教育法を見ると、総てが皮相なる外国文明の模倣であり、軽薄なる都会生活の模写であり、次第に質実剛健の精神に富む人が少くなる様に思はれますが、かゝる国家は極めて不完全なもので、之では我国の前途も、実に不安でなりませぬ。
  唯今は教育方面のことを申し上げましたが、其他日本の政治をなすところの日比谷に於ける、帝国議会の様を御覧なさい。斯様に政治が堕落し、学問が抽象的になつては到底一国が盛になる筈はありません。之を盛にするには如何にしても一層道徳の向上を図らねばなりません。然し此処で御注意を願ひ度いことは、道徳と共に経済を進めなければならぬといふことであります。即ち人は物質ばかりで生きることが出来ないと同様に精神ばかりでも生き得るものではありません。物質と精神、換言すれば道徳と経済が一緒に進まなければならぬといふのが、私の長い間の考へであります。故に、自分が儲け様としても、他人を苦める様なことがあつてはなりません。自分の富むことは、同時に社会の利益になり、国家を富強になさせる様なものでなければならぬと思ひます。
  こゝに伊太利の大宰相ムツソリニーの手紙がありますが、実によいことが書いてあります。此の中に『人生新生命は他人の経験を同化することによつて充実する』といふことがありますが、我が国民も外国文明を徒に模倣することのよくないことが充分御分りになると思ひます。我が国は決して諸外国の遠く及ばない我が国独特の建国主義がありますから、之を尊重して三千年来の精華をして、大に発揮させる必要があると思ひます。最後に皆さん、中でもお若い皆さんに対して特にお願ひ申しますのは、先程来申し上げました様に自分は郷里を後にした申訳として、其のお詑びの印に郷里の公民教育に微力を致したのでありますが、諸君の心掛け一つで此の微力を
 - 第45巻 p.303 -ページ画像 
致したことが永遠に賞揚もされもしますし、又批難冷笑の種ともなるのであります。願くは出来るだけの御努力を下さる様、切に希望して止まない次第であります」
 郷里のことでもあるから、話しながらも其感じは特別で、懇切に述べたやうな訳であつた。村長や校長も、これで公民学校に魂がはいつたと喜んだ。
○下略


(高田仙治)書翰 渋沢栄一宛 大正一五年五月一八日(DK450119k-0003)
第45巻 p.303 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕渋沢栄一 日記 昭和二年(DK450119k-0004)
第45巻 p.303 ページ画像

渋沢栄一日記  昭和二年          (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 快晴 寒威昨日ト同シ
○上略八基村長治太郎氏来訪、爾来ノ病状ヲ話シ、曾テ八基村ニ設立シタル公民学校ノ効果及成績ニ付テ余ノ理想ヲ詳述シ、将来ノ注意ト努力トヲ促ス○下略
  ○中略。
一月十五日 曇 寒気昨ト同シ
○上略朝食後八基村学校長高田仙治及助役栗田栄太郎二氏来リテ、余ノ米寿ニ躋リタルヲ祝スル為メ村民代表トシテ賀詞ヲ表スル旨ヲ告ク、会見シテ学校ノ将来ニ付校長ニ種々ノ注意ヲ与フ○下略