デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
8款 早稲田大学
■綱文

第45巻 p.326-332(DK450131k) ページ画像

大正6年2月3日(1917年)

是日当大学、帝国ホテルニ於テ春季校友大会ヲ兼ネ栄一ノ喜寿祝賀会ヲ催ス。栄一出席シテ謝辞ヲ述ブ。又記念トシテ南薫三揮毫ノ栄一ノ肖像画ヲ当大学内ニ掲グ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正六年(DK450131k-0001)
第45巻 p.326-327 ページ画像

渋沢栄一日記 大正六年          (渋沢子爵家所蔵)
二月三日 晴 寒
○上略午後五時半帝国ホテルニ抵リ、早稲田大学ヨリ案内ノ宴会ニ出席ス、大隈総長・高田名誉学長・天野学長其他校友二百名余来会頗ル盛会ナリ、天野氏先ツ余ノ功労ヲ述ヘテ、喜寿ヲ祝スル為メノ宴ヲ張リ
 - 第45巻 p.327 -ページ画像 
タル事ヲ縷言ス、大隈侯・高田氏共ニ余ニ対スル賞讃ノ演説アリ、余モ答辞ヲ述ヘテ宴ヲ徹ス
○下略


集会日時通知表 大正六年(DK450131k-0002)
第45巻 p.327 ページ画像

集会日時通知表 大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
二月三日 土 午後五時 早稲田大学ヨリ御案内(帝国ホテル)


竜門雑誌 第三四五号・第一〇九頁大正六年二月 早稲田大学の青淵先生喜寿祝賀会(DK450131k-0003)
第45巻 p.327 ページ画像

竜門雑誌 第三四五号・第一〇九頁大正六年二月
○早稲田大学の青淵先生喜寿祝賀会 早稲田大学出身の京浜在住者諸氏は、二月三日午後五時より帝国ホテルに於て、春期校友大会を兼ねて、同大学基金管理委員長として多年尽瘁せられたる青淵先生の喜寿祝賀会を催されたり。当日の来賓は大隈侯爵・青淵先生・高田名誉学長・天野学長其他校友八百余名にて頗る盛会なりし由


早稲田学報 第二六五号大正六年三月 校友会報 【○渋沢男爵喜字祝寿春期校友会】(DK450131k-0004)
第45巻 p.327-332 ページ画像

早稲田学報 第二六五号大正六年三月
 ○校友会報
    ○渋沢男爵喜字祝寿春期校友会
二月三日(土曜)午後五時より麹町区内山下町帝国ホテルに於て、例年の通り春期校友大会を兼ね、基金管理委員長渋沢男爵喜字祝寿会を開く、此日平年に比し厳しかりし寒気未た緩ならざりしに拘はらず、渋沢男爵喜字の祝を兼ねたる大会の事、且つは其後久しく温容に接するの機を得ざりし総長大隈侯爵亦臨席あればにや、定刻前より接踵来着の校友忽ち休憩室に充てられたるグランドホールを埋む、ホールの正面先づ来会者の眼眸を引付けたるは、男爵の本大学に効されたる功徳を彰し、又其の恩に謝するの意を表すると同時に、男爵喜字の祝意を表する意を以て、今回本大学に掲け、以て其の徳を記する事となつたる男爵の油絵肖像なり。画は東京美術学校出身、後ち欧洲に遊び技大に進みて帰朝、少壮画家として斯界に知らるゝ南薫三氏の揮毫に係る。男爵福徳円満の相生けるが如し。○中略
斯くて食堂開かれ、一同着席、晩餐を共にす。靄然たる会衆歓談笑話の間、挙ぐる杯、運ばるゝ皿の数の重なるうち、デザートコースに入るや、先づ拍手に迎へられて……
   ○会長天野為之博士挨拶、大隈総長及高田名誉学長ノ祝辞略ス。
との祝辞演説あり。次に急散《(霰)》の如き拍手に迎へられて……
基金管理委員長渋沢男爵
 侯爵閣下、満場の諸君、今夕の如き盛大なる宴に参列致して、学長を始め侯爵閣下・高田名誉学長から斯の如き御賞讃の言葉を賜りましたことは、殆ど何と御答をして宜しいか、答へるに言葉を見出し得られぬ位であります、今侯爵は年を取ることは忌やだと仰しやいましたけれども、若し是れが五十位であつたら決してこんな事はして下さらぬと思ふ。六十一でもしては下さらぬと思ふのであるから此の先き百の歳があるとしても、矢張り七十七でも喜ぶべきものとしても必ずしも間違つた事ではなからうと、先づ以て大に自から賀する訳であります。それから、斯の如き讃辞を頂きますやうな私は
 - 第45巻 p.328 -ページ画像 
早稲田大学に対して功労はございませぬ、洵に功甚だ少なくして賞多く、如何にも恐縮に存じますが、之れから先き仮令五十年生きて居られませぬでも、二十年生きて居つても、其間に大いに此の負債を償却しようと云ふ観念が本夕益々強くなつた訳であります。
 今侯爵の御言葉の通り、早稲田の学校の其始めは、あらゆる猜疑の眼を以て見られた、其頃は渋沢と交を同じうして居つたけれども、学校のために敢て求めることはしなかつた、併し其の疑が解けたに依つて大いに力を添へて呉れと言ふた、同時に渋沢も之を諒として学校の為に爾来力を尽した。斯ふ云ふやうに仰せられましたが、其力といふは頗る微力で、殊に私は一身は実業界の者で、自己の為めに侯爵の仰せの通り多少働きましたが、其働きや至つて拙で、其為に出来た財産は甚だ乏しい、併し左様に自分が乏しいから、社会の為めにも始終損ばかりして居つただらうと諸君が思召すならば、夫れは違ひます。社会の為には私は大いに富ました積りであるが、唯自分のために富まさなかつた。侯爵から右様な仰せを蒙つて、此早稲田に対して仮令微力たりとも力を添へましたのは斯様であつた。全体私は学問と云ふものが、時の権力に依つて重んぜられるとか軽んぜられるとか云ふ様な軽重をなすことは頗る宜くないことだ。私は学者でないから其意義がどうであると云ふことは分りませぬけれども、若い時分から斯う云ふ観念を有つて居りました。学問といふものは今の言葉で独立とか何とか言ひますが、独立と云ふのはどれ程のことか知らぬが、政治と学問は違ふといふ観念は始終有つて居つた。自国の学問が果してさう云ふ有様になるとは以前から思ひ得られなかつた。而して学問がもつと進まなければならぬといふ事から考へますると官立のみで満足とはどうしても思ひ得られない。
 斯う考へますると、此の如き名誉ある、此の如き学識ある大隈侯爵のやうな御方が力を入れ、之れに従ふ諸君が十分なる学識と経験とを以て御遣りになるならば、必らず此学校や育英の上に大に功績があるであらう。又さう云ふものゝ成立つは頗る結構である。而して其学校の有様を拝見しますると、学ぶ為に要する費用は他に較べると至つて少なくして、其功が多い。極く通俗の言葉で言ふと、良い品物が廉く買へると云ふ訳である。此の如きものはどうか繁昌御させ申すやうにしたいものだと云ふことが、私の学校に対して仮令微力たりとも御尽力申したいと思ひ、多少御力添と申しては失礼ですが、仰せに従つてあれへも是れへも勧めると云ふやふに今申す趣意から聊か微力を尽したのであります。其力たるや至つて小でありますが、畢竟総長始め学長其他総ての諸君の御力入れ、又此所に御出でる諸君などは已に業に学成つて社会に御出遊ばして、此学校の効果を段々に、内にして進め、外にして証すると云ふことから、斯く大学校になつたと云ふことは、私共与かり関する者すら却つて寧ろ名誉を感ずるやうな次第に至りましたのを深く喜びます。
 唯今侯爵は私の身の上に就て、半世紀の前である其昔は斯様な有様であつた、明治政府に勤めた時分は斯う斯うであつたと云ふ、殆ど昔の青年の頃の事まで悉く御知悉で御示しを頂きましたが、真に深
 - 第45巻 p.329 -ページ画像 
い縁故を有つて居りますので、此御言葉に甘へて、或は繰返すことになりますが、校友諸君には、多分まだ申上げたことはないやうに心得まするから、私が侯爵の知遇を受けた時の身の上話を少々申上げて見たいと思ひます。
 私は丁度今侯爵の仰せの通り、元とを申しますと百姓でありまして何だかえらい斯う過激な感じを以て、聊か革新主義に奔走したるものであります。それから事極まつて、一橋の家来でありましたから其革新の意志が貫徹せぬで、大いなる失敗を以て、遂に憫れなサンピン武士と云ふものに相成つたのであります。軈て一ツ橋は将軍になつた。其将軍になると同時に私は欧羅巴へ派遣を命ぜられた。其留守に幕府は倒れて王政になつたと云ふ訳であります。故に私一身から申すと、もう政治界と云ふものは一から十まで失敗して、総てもう考が尽きてしまつたと申さねばならぬのであります。況んや自分の主人と仰いだ徳川慶喜といふ人は将軍となり、遂に逆賊となり僅に一身を保つて謹慎恭順して、私がフランスから帰つて見ますると、駿河に実に憫れむべき有様で蟄居して居られたのであります。今日の時代から申すと、上御一人が我々の奉ずべき君であるから、君臣の関係が広くなりましたけれ共、其当時の君と云ふのは所謂君臣三世、此観念を以て仕へました。其観念は此人をしてどうか尭舜たらしめたいと思ふたのであります。然るに其有様が今申すやうな事でありましたから、もう失敗した身の上に更に又此条理上から政治界に……若しも才能があるとしても、時めくと云ふことは自分の本心ではない。もう全く政治は断念する。何か其他に於て、日本に力を尽すことがありはしないかと考へたのであります。丁度フランスに居る時分に、彼の国の実業界の有様に付き、之も固より詳しく知る所ではない、殆ど其一端を窺ひ知ることしか出来ませぬけれども、併ながら日本と大に違ふと云ふ有様だけは、概見ながら見たのであります。さうして、英仏あたりの力の強いのは、民間の実業の鞏固な為めであると云ふこと丈けは僅に知り得たのであります。同時に日本をして、斯くあらしめたいと云ふことを考へざるを得ぬのでありました。故に政治界を断念する以上は、此方面に微力を尽さうと云ふ考で帰朝匆々、洵に姑息千万な方法でありましたけれども一種の法立てを組立つて、之に依つて一身を維持しよう、又聊かながら謹慎して居る慶喜公を御慰め申さうと云ふのが私の覚悟であつたのであります。所がそれは明治二年の初で、其二年の十一月に朝廷から召されまして明治政府に奉仕しなければならぬ場合になつたのであります。私の心には実は甚だ心ならざる事でありました。是非御免を蒙つて駿河に帰ると云ふ所存を以て出て参つたのであります。忘れも致しませぬ、十一月の十八日と覚えて居ります。三日の日に職を奉じまして其十八日であつたと思いますが、当時侯爵は築地に御出になりました。侯爵の御邸は築地にありました。今の精養軒の所の橋を渡つて向うの本願寺の側でありました。まだ役所では一寸御辞儀をしましたけれども、シミシミ御近付きを願はぬ。けれども私も自からが書生根生を有つて居つたからして、長官だからと
 - 第45巻 p.330 -ページ画像 
いつて百拝九拝して御話をするでなしに、礼儀を欠かなければ友人の心を以て話をして宜い、斯う云ふ私は所存であるから、是非止めて頂きたい、帰りたうございますと云ふことを親しく申しました。此時に大隈侯爵の私に対するの御訓諭、之が実に非凡であつた。私は今猶ほ其仰せられたことを能く記憶して居る。段々申上げますと夫れを御聞きになつて、一通りは分つた。一応無理ならぬことである。慶喜公に対して情誼を守る、至極結構である。併し君は、此日本の今日をどうしても革新しなければならぬと云ふ精神は丸で止んでしまつたのではなからうか、商工業を発達させたいと云ふことは武士のする仕事ではない、之れは町人のする仕事である。それを相当の志を以てやつて見ようと云ふならば、新しい手段を講ずるのが道ではないか、果して然らば、此日本の実際を君はどう見るか。成程慶喜公に対しては甚だ情が深いが、日本国を改めなければならぬといふ君が家を出た時の観念は、全く忘却した訳になりはせぬか、申すも恐れ多いけれども、天子が斯うして東京へ御行き遊ばされた之れから先きは詰り言へば日本を新に開くのである。拵へ上げるのである。開く所ではない、新造といつても宜い位である。丁度取りも直さず高天原に八百万の神達が神集まりに集まつて、神謀りに謀つて、之れから真に国を建造しなければならぬのだ、君も其神の端くれだ、なぜ十分に務める心にならぬ。慶喜公に対する情誼も宜いが、夫れは如何にも小ではないか、情誼の為し方は幾らでも外にあるではないか、それで役人をして居れば相当の禄も出来ると思ふ。殊に大蔵省と商工業との関係は、即ち其源泉となつて居るやうなものである。それで今辞して帰りたいと云ふことは一向了解が出来ない。だから同意は出来ない。私の説に従つて是非試みて見ることにするが宜からう。斯う云ふことで、一言の下に私の請願は却下を受けたのであります。併し此却下は洵にさう言はれて見れば御尤である。斯う思ひましたから、速に恐入りました。洵に私の考が足らなかつた。それなら数年間必死に務めて見ませう。どうか御取做しを蒙りますと言つて、即座に御受をした。始めは余程強い考を有つて真に動かぬ了簡で、何大隈が何を言つたつて説得して見せやうと云ふ位な了簡で往つたのが、なかなか説得所ではなかつた。之は真情聊も懸値のない御話である。侯爵も必ず御記憶があるに違ひない。
 それから四・五年大蔵省に務めましたが、其間に多くは侯爵に従つて御指図を受けましたが、後には故井上侯爵に随従を致した。而して其後ち官を辞しまして、実業界へ入つたのであります。今侯爵の仰せには、自分が官職にある時分には来る人も沢山あるが、官を辞すると来なくなつたと云ふことである。私も或は其一人であつたか知らぬが、私自身はさう思ひませぬ。官にあるとないとに拘はらず真に知己と仰いで始終御交情を全うした積りであります。そこで今考へて見ますると、洵に、私は其時の思入は何だか自分が一旦斯うしようと思つて居たが、侯爵の奇抜な御議論から志を変ぜしめられたやうな気がして、心に心安くないやうなことが時々あつた。併ながら、再び考へて見ますると、全く侯爵は私の為には大恩人で、若
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しこの場合に、唯単に駿河の小さい商工業に従事しましたならば、仮令私が如何に微力を尽しても、夫れなりで終つたらう。幸に其時に侯爵の御説諭で思止まらせられて、大蔵省で根本の事務に従事しましたから、随つて其数年の後に職を辞しまして銀行を経営するに就いても、謂はゞ本筋なる大きな範囲に働き得られたので、是は全く明治二年の十一月十八日、侯爵の御説得が全く原因したものと思ふて、実に侯爵に負うて居る所の大なるを感ずるのであります。其侯爵の御心配なさつた早稲田大学に対して、私共が些々たる微力を尽したと御賞讃を賜はるなどとは、之はあべこべの話と思ひます。私こそ大いに尽さなければならぬと思ふのであります。
 侯爵は、渋沢は論語を好むと仰せられました。私は論語知らずではごさいませぬ。論語読みの論語知りの積りでありますが、さう論語をたんと読んだと云ふ結果ではありませんが、多少考へて居りまするのは、丁度侯爵が之れから十分な活動をして往つたならば、決して今七十八が直ぐ渋沢の能力の終る場合ではなからう。百迄も更に其以上迄もと仰せられましたが、如何にも左様私は考へます。此二千六百年も前の孔子を批評するのも可笑しうございますが、孔子が十五にして学に志し、三十にして立つて、四十にして惑はず、五十に天命を知る。六十にして耳順ふ、此の如く順を追うて進んで来たのである。それで丁度六十八であります。方々を流浪して魯の国へ帰つて来て、仕へる考を止めて、今侯爵の仰せられた様に著作に掛つたと云ふのが六十八であります。六十八から五年しか居らなかつた。七十三で死にました。之れが全体孔子が若し前の通りに楚へも行き、斉へも行き、秦へも行き、衛へも行くと云ふやうに、方々を流浪して居つたならば、或は七十八若くは百迄生きたかも知れない著述に掛つた為に六十八から七十三に終つた形になる。或は之が其寿命を詰めたかも知れぬと思ふのであります。私の如きは実業界も隠退しましたが、幸か不幸か、侯爵のやうに学問がないから、著述に耽けるやうなことは出来ませぬ。職は辞しましても、矢張り奔走致して居るのは昔日と同じであります。唯其方面が、実業界が精神界……精神界と申して私は精神を裨補する程の大人物でも何でもありませぬが、併ながら、或は養育院とか若くは救世軍とかいろいろな事に活動しなければならぬことになつて居る。
 若し此の如くして居つたならば、孔子の如く之れから五年で死ななければならぬのが、或は侯爵の仰せの通り百位迄生きられるか知れんと思ひます。唯悲しいことには前に申しました通り、実業界に長く従事し、社会は多少富ませましたけれども、自から富むことが少ない為に、自から早稲田から此の如き方法をと仰せられても、夫れに応ずる力の少ないことを甚だ残念に思ひます。度々私は世間から寄付を頼まれた時に、丁度貧乏人の大晦日が来て働けば宜かつたと思ふと同じやうに、アヽ金持であるなら宜かつたらうと思ひますけれども、どうも其時丈の考で、平生は旨く往かないので、まア仮令少々でも、長者の万灯より貧者の一灯と思つて是に応じます。但し自身の出すのは少なうございますが、他から出させることは大にや
 - 第45巻 p.332 -ページ画像 
る積りでおります。之れから先き早稲田に対しても、自己が出すと云ふことは甚だ少なうございますが、他から出させることには十分の力を尽す積りであります。どうか仰付け下さることを望みます。
                       (拍手大喝采)
との謝辞あり、終つて一同再び先の休息室に入り歓談に時を移して散会せり。○下略