デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
8款 早稲田大学
■綱文

第45巻 p.332-337(DK450132k) ページ画像

大正6年9月26日(1917年)

是ヨリ先、当大学学長天野為之ノ引退ニ際シ、学園ニ紛糾ヲ生ズ。総長大隈重信病床ニ栄一・中野武営・森村市左衛門及ビ豊川良平ヲ招キ調停ヲ依嘱ス。是日栄一、当大学維持員ニ就任シ、十月五日校規改定調査委員トナリ、更ニ十一月二十八日同調査委員会長ニ推サレ、種々尽力ス。


■資料

大隈侯八十五年史III 同編纂会編 第四三三―四三四頁 大正一五年一一月刊(DK450132k-0001)
第45巻 p.332 ページ画像

大隈侯八十五年史III 同編纂会編 第四三三―四三四頁大正一五年一一月刊
 ○第九篇 第十四章 早稲田大学創立三十年祝典
    (五)早稲田大学の隆運
 その後、早稲田大学は一層隆運に向つたが、大正六年夏、聊か動揺を生じ、暫く平和を破つたことがあつた。この事は君の関知しないことであるけれども序に一言したい。紛争の原因は時の学長高田早苗が大隈内閣の改造に際して入閣し、その後を継いで学長となつた天野為之の周囲にゐる二・三のものが高田前学長の真意を誤解した事、及び天野学長の前後の措置が宜しきを失つたにある。その他二・三の小原因もあるが、帰するところ、それは一部野心家の妄動に崇られたのである。そして一方政治的野心家の手がそれに乗じて、早稲田大学の上に伸びた形跡があつた。
 君は大学の紛争について深憂し、七月三日自邸へ高田早苗・坪内雄蔵・天野為之の三人を招き、懇談の上、速かに解決すべきことを命じた。三人は君の旨を体して退出したが、天野を擁する者のうちには、往々君の意に背いて、故らに大学の平和を破らうとする行動をしたものがあつた。そのため、大学の要職にゐた浮田和民・市島謙吉他七名は責任上、辞表を君の許に提出した。君はそれを遺憾とし、それ等の人々に向つて辞任を思ひ留まるべきことを勧告し、且つ別に天野為之を招き、三十余年来の情誼を披瀝して、この際、大学の平和のため、学長を辞し、名誉の地位にゐて、今後尽力すべき旨を懇ろに諭した。
 その後、君は始終、大学のことを念頭に置き、一意、その平和を計り、新たに進展を為すべきことにつとめたが、八月下旬、突然、胆石病に悩み、最早どうすることも出来ぬ有様となり、病中、渋沢栄一等を呼んで調停のことを依嘱した。幸ひ時局はよき方へ進展して間もなく早稲田大学は平和な局を結んだ。そして今度は君の総裁の下に新たに選出せられた理事を置き、それによつて一切の校務を処理することとなつた。○下略
 - 第45巻 p.333 -ページ画像 

半世紀の早稲田 早稲田大学出版部編 第二九一―二九二頁昭和七年一〇月刊(DK450132k-0002)
第45巻 p.333 ページ画像

半世紀の早稲田 早稲田大学出版部編 第二九一―二九二頁昭和七年一〇月刊
 ○第一篇 第四章 拡充期
    第八節 所謂『早稲田騒動』
 総長大隈が首相の、名誉学長高田が文相の印綬を解いてからも、学園の諸種の事業は伝統を逐うて、外面は順調に進みつゝあるものゝ如くであつたが、内面には動々もすれば萎靡沈滞の兆が見えぬでもなかつたので、一部の人々はそれをいたく憂慮してゐたところ、遂に所謂『早稲田騒動』が惹起されて、世間の耳目を聳動するに至つた。
 いふところの『早稲田騒動』は、高田が入閣した為めに、其後任に推されて学長となつた天野為之の任期が将に尽きようとする少し前に初まつた。今日はまだ事件の展開について詳述する時期に達してゐないから省くが、極めて簡単に其の経過にタッチして置くことだけは不必要であるまい。其紛擾の原因としては、一部の不平やらお互ひの誤解やらが計へられるであらうが、さうしたことも玆では取扱はぬことにして、八月二十日大隈総長が軽井沢の別荘から帰京して、直ぐ胆石病が再発して重態となつたにも拘はらず、其紛擾が止まなかつたのみならず、寧ろ却つて拡大するやうな形跡があつたので、渋沢栄一・森村市左衛門・豊川良平・中野武営など、平生大隈総長に親近してゐる人々が、総長の委嘱を受けて平和の回復に努力することになつた。けれども、其斡旋の甲斐もなく、天野の任期が満ちてしまつたので、いはゆる『理事内閣』を組織した坂本三郎・塩沢昌貞・金子馬治・田中穂積らが、紛擾に関係したと認められた数人を罷免したところ、遂に革新団と称する一群の人々が学園の教場を占領するといふ結果を生じて、少くとも一時は社会の耳目を聳動せしめた。
 そこで九月中旬に至つて前述の理事が其職を辞し、更に平沼淑郎・吉田東伍・徳永重康・内ケ崎作三郎・宮田脩が理事に選ばれ、互選の結果平沼が代表者となり、紛擾の解決が漸く見られるに至つた。
○下略


早稲田学報 昭和二年一一月 早稲田大学と私 渋沢栄一(DK450132k-0003)
第45巻 p.333 ページ画像

早稲田学報 昭和二年一一月
    早稲田大学と私           渋沢栄一
○上略
 而して私が直接学園に関係する様になつたのは高田学長時代に早稲田大学基金管理委員長をしてからであります、その後は学園も急激な発展をしてゆきましたが、不幸にも大正六年所謂早稲田騒動なる学園にとつては洵に不祥事が勃発した為めに、学長が辞任せらる様なことになりましたから、老侯は病床近く森村翁・中野武営・豊川良平の三氏に私とを招いていはれるには『我輩は今日まで泣き言と愚痴とをいつた事が無かつたが、今度こそは困つた。どうか援けてもらいたい』と入念の御頼みですから、此際お引受けするより仕方があるまいと云ふわけで四人でお引受することになり、主に中野氏とはかり専任の学長を置くことにして、その後しばらくして高田さんが再び学園に還られて学長の任に就かれ、私達四人が維持員になることになりました。
○下略
 - 第45巻 p.334 -ページ画像 

集会日時通知表 大正六年(DK450132k-0004)
第45巻 p.334 ページ画像

集会日時通知表 大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
九月廿一日 金 午前九時 早稲田大学ノ件ノ為会合(兜町)


東京日日新聞 第一四六九八号大正六年九月二二日 渋沢男、愈乗出す 森村、豊川、中野三氏と共に 早大維推員たるを快諾す(DK450132k-0005)
第45巻 p.334 ページ画像

東京日日新聞 第一四六九八号大正六年九月二二日
  渋沢男、愈乗出す
    ――森村、豊川、中野三氏と共に――
    早大維推員たるを快諾す
後任幹部銓衡委員上原・坪谷・中桐・永井・宮井・松山の諸氏は昨日午前九時渋沢事務所に渋沢男・森村男・中野武営・豊川良平の四氏と会見し、母校の急を訴へて此際維持員として学校の為尽力せられたしと懇請する所あり、種々交渉の結果前記四氏も之を快諾せり、而して維持員は定員十八名なるが、現在の所、任に在るは大隈信常・三枝守富・天野為之・鈴木喜三郎の四氏にして之に渋沢男等四名を加ふるも猶十名の不足あるより、銓衡委員は昨夜六時より富士見軒に会合し人選に就き凝議し、別項の如く其顔触を決定したれば、本日夕刻より更に丸の内中央亭に委員会を開きたる上、これが発表をなすべしと
    △渋沢老男は語る火消しを頼まれた
      ◇立派な学園を潰したくなさに
「早大問題の火の手はなかなか鎮まらぬ、そこで銓衡委員から私共に火事を消して呉れと頼んで来たので、廿日に四人が集つて相談した上消せるか何うかは判らぬが引受けたのである、私にしても中野・森村・豊川の三氏にしても年寄故、青年の
 ◇相手となり 何処までやれるかは余程考へて見なければならぬ、然し今は議論をして居る時ではない、日本には元来立派な私学が沢山ない所へ、彼れまで成長して来た早稲田学園を潰すやうな事があつては実に遺憾である、私等のやうな老人四人が今更になつて飛出した主意は、全く
 ◇立派な私学 を潰したくないと言ふ心に外ならぬ、引受けた以上は、今度出来る他の幹部の人達とよく談をして、最善の方法を講じたいと思ふ、今度御願ひした維持員はいづれも立派な方々ゆゑ、其人達が揃つて承諾すれば、円満の解決が見られようと思ふ」云々


集会日時通知表 大正六年(DK450132k-0006)
第45巻 p.334 ページ画像

集会日時通知表 大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
九月廿五日 火 午后一時 早稲田大学へ御出向
九月廿六日 水 午前八時 天野為之氏来約(飛鳥山邸)
        午后四時 早稲田大学へ御出向(恩賜館)


早稲田学報 第二七二号大正六年一〇月 校報 代表者及ひ幹部の更迭(DK450132k-0007)
第45巻 p.334-336 ページ画像

早稲田学報 第二七二号大正六年一〇月
 ○校報
    ○代表者及ひ幹部の更迭
九月十二日学長阪本三郎、理事維持員田中穂積・塩沢昌貞・金子馬治・安部磯雄・中島半次郎、名誉理事維持員市島謙吉、維持員坪内雄蔵・浮田和民・田中唯一郎の諸氏、辞表を提出すると共に、之れが後継幹
 - 第45巻 p.335 -ページ画像 
部の詮衡方法をも、教授会並に評議員会に委嘱せられたるに依り
○中略
斯く選出せられたる教授会並に評議員会詮衡委員諸氏、日夜奔走斡旋の結果
 男爵渋沢栄一   男爵森村市左衛門 伯爵松平頼寿
   中野武営     豊川良平     内藤久寛
   宮川鉄次郎    宮田脩      昆田文二郎
   吉田東伍     平沼淑郎     徳永重康
   内ケ崎作三郎   服部文四郎
の十四氏を維持員に推薦したる所、服部文四郎氏の推薦に応ぜられざりし外、他の十三氏は全部快諾せらるゝの内意を得たりしに依り
△維持員会 九月二十六日午後一時、恩賜館会議室に於て維持員会を開き
 大隈信常・坪内雄蔵・市島謙吉・浮田和民・三枝守富・田中唯一郎・坂本三郎・塩沢昌貞・田中穂積・金子馬治・安部磯雄・中島半次郎
各維持員来会、新維持員を選挙し旧維持員辞する法律上の形式を採りて新維持員を選挙し、此に於いて
△新維持員会 前掲新維持員全部貴賓室に会合。大隈信常・三枝守富及び他の旧維持員亦之に加はり、旧維持員より引継を受け、新維持員会の成立を告げし後ち、宮川鉄次郎氏を会計監督に選挙し、理事の選挙に移り
 平沼淑郎・徳永重康・吉田東伍・内ケ崎作三郎・宮田脩
の五氏を選挙したる所、五氏何れも承諾せられ、当分学長を置かざる事に決し、互選の結果平沼淑郎氏を代表者理事とし、担任事務を左の如く決定して散会せり。
○中略
△維持員会 十月一日午前九時恩賜館貴賓室に開く。男爵渋沢栄一・男爵森村市左衛門・伯爵松平頼寿・豊川良平・大隈信常・三枝守富・内藤久寛・昆田文二郎・平沼淑郎・徳永重康・吉田東伍・宮田脩・内ケ崎作三郎各維持員出席。左の規定を議定し、尚委員選挙の問題に就き来る五日午前九時継続会を開くこととに決し散会せり。
  早稲田大学校規改定調査会規程○略ス
△維持員会の校規改定調査委員選挙 十月五日午前九時恩賜館貴賓室に於いて維持員会を開き校規改定調査委員会規程第二条に依り校規改定調査委員の選挙を行ひたるが、渋沢男爵・松平伯爵・中野武営・大隈信常・三枝守富・内藤久寛・昆田文二郎・平沼淑郎・吉田東伍・徳永重康・宮田脩、内ケ崎作三郎各維持員出席。協議の末維持員中より
 渋沢男爵・中野武営・昆田文二郎・宮川鉄次郎・平沼淑郎・徳永重康・内ケ崎作三郎
七氏を推選する事に決し、後ち暴風雨被害復旧事業其他に就き協議する所ありて散会せり。
○下略
   ○早稲田大学校規(大正四年改正)ニヨレバ、維持員ノ定員十八名、内七名ヲ終身トシ、十一名ヲ任期五年トス(第七条)。ソノ辞職又ハ除名ニハ他
 - 第45巻 p.336 -ページ画像 
ノ維持員ノ五分ノ四ノ同意ヲ得ルコトヲ要シ(第十条)、改選又ハ補欠ニハ維持員ノ三分ノ二以上ノ同意ニヨリ之ヲ行フ(第八条)。維持員会ハ本大学ノ最高機関ニシテ、重要ナル事項ハ同会ノ決定ヲ要ス。定時会(毎月一日)ト臨時会トアリ(第十・十一条)、学長・理事等ノ推薦ハ皆維持員会ノ決議ニヨル。


早稲田学報 第二七二号大正六年一〇月 雑報 新維持員諸氏を迎ふ(DK450132k-0008)
第45巻 p.336 ページ画像

早稲田学報 第二七二号大正六年一〇月
 ○雑報
    ○新維持員諸氏を迎ふ
我が大学旧幹部の突如たる辞職は一時事局をして混沌裡に陥らしめ、愛校の士をして悲観の情を懐かしめたり。然るに教授会及び評議員会より選出せられたる詮衡委員諸氏の熱烈なる奔走と周旋とによりて、一道の光明を天の一方に認むるに至りぬ。そは実業界の耆宿元老たる渋沢男・森村男・中村武営氏・豊川良平氏の奮然蹴起して難局の衝に立たるゝの決意をせられし事也○中略 上記十三名維持員諸氏が多難の秋に至りて新幹部たるを快諾せられしは、吾人の感謝に堪へざる所也。殊に四耆宿が終身維持員たるを承認せられしは、殊に感銘せざるべからざる所也。吾人は諸氏が大隈総長の下にありて本大学の新進路を開拓せられんことを希望す。


集会日時通知表 大正六年(DK450132k-0009)
第45巻 p.336 ページ画像

集会日時通知表 大正六年     (渋沢子爵家所蔵)
十月一日 月 午前九時 早稲田大学維持委員会(同大学)
   ○中略。
十月五日 金 午前九時 早稲田大学維持委員会(同大学)
   ○中略。
十月廿六日 金 午前十一時半 早稲田大学ノ件ニ付中野・豊川・天野・森村男・山田五氏ト御会見(銀行クラブ)
   ○中略。
十一月二日 金 午前九時 早稲田大学理事員会御出向(同大学校)
   ○中略。
十一月十三日 火 午前九時 早稲田大学維持員会(同大学)
   ○中略。
十一月廿八日 水 午前九時 早稲田大学校規評議員会(同校講堂)


早稲田学報 第二七四号大正六年一二月 校報 校規改定調査委員会(DK450132k-0010)
第45巻 p.336-337 ページ画像

早稲田学報 第二七四号大正六年一二月
 ○校報
    ○校規改定調査委員会
其の第一回を十一月二十八日午前九時恩賜館会議室に聞く。出席は
 渋沢男爵・中野武営・平沼淑郎・徳永重康・宮川鉄次郎・内ケ崎作三郎・上原鹿造・増田義一・山田英太郎・浦部襄夫・渡辺亨・早速整爾・宮井安吉・田中穂積・塩沢昌貞・永井一孝・寺尾元彦・中桐確太郎・松平康国
の各委員。平田譲衛・昆田文二郎両委員欠席。
先づ役員の選挙を行ひたる処、左の如く当選せり。
 - 第45巻 p.337 -ページ画像 
 会長   男爵渋沢栄一氏
 副会長  中野武営氏
 幹事   平沼淑郎氏
○下略


集会日時通知表 大正六年(DK450132k-0011)
第45巻 p.337 ページ画像

集会日時通知表 大正六年       (渋沢子爵家所蔵)
十二月六日  木 午前十一時 早稲田大学基金管理委員会(大隈邸)
   ○中略。
十二月十五日 土 午前八時 早稲田ノ件ニ付、西岡時次郎氏来約(飛鳥山邸)
         午前九時 早稲田大学定例維持委員会(恩賜館)


早稲田学報 第二七五号大正七年一月 校報(DK450132k-0012)
第45巻 p.337 ページ画像

早稲田学報 第二七五号大正七年一月
 ○校報
○維持員会例会 十二月十五日午前九時、恩賜館に於いて開会。松平伯爵・渋沢男爵・内藤久寛・大隈信常・昆田文二郎・平沼淑郎・徳永重康・内ケ崎作三郎・宮田修・吉田東伍各維持員諸氏出席。席上報告及決議せられたる事項左の如し。
○中略
○基金管理委員会 十二月六日午前十一時総長大隈侯爵邸に於いて開会。大隈総長及委員長渋沢男爵を始め委員森村男爵・中野武営・大橋新太郎・村井吉兵衛・安田善三郎・原富太郎の七氏即ち委員全部出席学校側出席は代表理事平沼淑郎氏を始め理事宮田脩・維持員宮川鉄次郎両氏及前会計理事田中穂積氏にして、幹事前田多蔵・会計主任高橋三郎両氏之れに陪す。
先づ平沼代表理事より大正六年度の決算及大正七年度の予算を提出して詳細の説明ありて之れが承認を求め、次に宮田理事より過去十年に亘る本大学の会計状態審査の結果を述る所ありたる所、大橋・村井の両委員主として現金諸帳簿類を検査せられ、後ち渋沢委員長各委員に代りて右承認の旨を大隈総長に述べ、終りて一同午餐を倶にし、午後三時散会せり。
○下略


竜門雑誌 第三五六号・第七一頁大正七年一月 ○早大基金管理委員会(DK450132k-0013)
第45巻 p.337 ページ画像

竜門雑誌 第三五六号・第七一頁大正七年一月
○早大基金管理委員会 十二月六日大隈侯爵邸に於て、早稲田大学基金管理委員会開会せられ、大隈総長及び同管理委員長青淵先生、森村男・中野・大橋・村井・安田(善三郎)・原(富太郎)の六委員全部出席し、基金及記念資金六年度決算並に七年度予算の承認を与へ、次で宮川会計監督及び宮田会計理事より、過去の会計状態に関し説明する所あり、終つて散会したる由。