デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
8款 早稲田大学
■綱文

第45巻 p.364-366(DK450141k) ページ画像

大正11年10月20日(1922年)

是日栄一、当大学創立四十周年記念式ニ臨ミ、記念講演ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK450141k-0001)
第45巻 p.364 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年        (渋沢子爵家所蔵)
十月二十日 金 午後三時 早大創立四十年記念式記念講演会(早大校庭)


竜門雑誌 第四一四号・第六二―六三頁大正一一年一一月 ○早大創立四十年記念講演会(DK450141k-0002)
第45巻 p.364 ページ画像

竜門雑誌 第四一四号・第六二―六三頁大正一一年一一月
○早大創立四十年記念講演会 早稲田大学にては本年同校創立四十年に相当するに付、十月二十日午前十時より、同校の教授・校友・学生等胥謀り護国寺に於ける故大隈総長の墓前に参拝報告祭を執行し、更に午後三時より故総長銅像前にて祝賀記念式を行ひ、基金管理委員長青淵先生・名誉学長高田早苗博士、並に学長塩沢昌貞博士等の記念講演ありて盛会なりしと云ふ。


竜門雑誌 第四一七号・第三五―三八頁大正一二年二月 ○早稲田大学創立四十年記念式に於て 青淵先生(DK450141k-0003)
第45巻 p.364-366 ページ画像

竜門雑誌 第四一七号・第三五―三八頁大正一二年二月
    ○早稲田大学創立四十年記念式に於て
                      青淵先生
  本篇は大正十一年十月廿日、早稲田大学創立四十年記念式に於ける講演なりとす。(編者識)
 只今名誉学長高田君より大演説があらせられまして、昔語りと仰しやつたが、昔も勿論語られたが、未来をも大層語られたやうでございまする。本学園に対する全体の希望、又大学の今日に及んだ由来を、説き去り説き来つて、吾々をして実に愉快又緊張せしむるやうに思はしめたのでございます。定めし諸君も同感を以て御聞きなされただらうと思ふのでございます。其後に立つて、学問にとんと知識経験のない私が何等申上げることはございませぬ。唯だ四十年御目度うござると申せば、それで私の職分は済む。更にもう一歩進めれば、丁度今名誉学長の言はれた通り、此二十三日から大阪方面に勧誘に出掛けます一生懸命でやりますから、どうぞ皆様左様御承知下さい。是れだけで先づ用事は足るのでございますけれども、幸に私は八十三歳で、かゝる席に参上して、仮令学問上の話が出来いでも、昔語り、即ち今名誉学長が言はれた通り私のは真の昔語りであるが、それでも出来るのは第一に自分が愉快と思ふのみならず、諸君も多少は御喜び下さるだらうと思ふのであります。(拍手)
 名誉学長の講演中の下半分は本大学、否、日本の学事に就て、或は
 - 第45巻 p.365 -ページ画像 
理想、或は実際を説かれたのであるけれども、其初めは故大隈侯爵、又故伊藤公爵を経とし緯として縒り絡んでお話がありました。此事に就ては私が其当時の事を能く存じて居る。名誉学長も随分お年寄であらるゝさうですけれども、私に較べると大変にまだ若い。度々記憶を繰返すのでございますが、故大隈侯爵に私が初めて御目に懸つたのは明治の二年でありましたから、今を去ること五十四年前である。私は中々の青年であつたのです。いつでも八十ではありませぬぞ。(笑声)其時の私の希望は、日本の実業界、商工業の進歩を図るに在るのです今日の皆さんには御分りなさる人は、満場の諸君中ありませぬでせうが、併し其明治二年の図り方は、今日の図り方と実際違ふといふことを申上げても、皆さんには分らぬ。年取つた方でなければ分らぬ。当時真に此姿では、仮令政治家が威張つても、学者が力んでも、日本はどうなるかと思ふたのは蓋し私の全くの近眼的婆心ばかりではなかつたやうであります。此点に就て故侯爵に御話しました。私は実は官吏を御免蒙らうと思つたのを、遂に止められて、つひ官吏になつた。それから六年に予ての所思を遂げたのであります。爾来大隈侯爵又は伊藤公爵などには、始終先輩として度々叱られもしたし、又御引立も蒙つたものでございます。今日の此四十年の式典は、即ちそれから十数年隔つたことであつて、丁度今名誉学長講演中の、伊藤公爵が後に来て講演をなされたといふことに就ては、故大隈侯爵は屡々私にも御話があつたのである。蓋し其話は、或は故侯爵は渋沢も其時、乃公を疑つたか知らんといふやうな観念を以て言はれた場合もあつたやうである。それは何かといふと此学校を或る政党の一の機関にしやう、働き手にしやうとした如く伊藤公爵が疑を有つたといふことが、故侯爵の大に憂慮し、且残念に思はれたことであつて、度々談話が出ると、自分の考は決してさうでなかつたけれども、当時私が政治界に相当な名を有つた為め、不幸にして悪観察を受けたことを遺憾とする。併し後に至つて、世間一般は兎に角伊藤公爵は十分に了解されて、大きに誤つたといふことを言はれたのを、私は今も尚ほ満足に思ふて居るといふ話は、幾度も繰返して伺つた事であります。丁度名誉学長の今公侯爵を経緯として御話をなすつた既往の事、其当時始終私は両方に接して居つた為に、深く実際を承知して居りますから、名誉学長の御話が如何にも真に近いと思ふて、昔懐しく思つた。此事を諸君に御知らせすると、古い事だ、詰らぬ事だと思はれるか知らぬが、併しながち諸君は聞いたことがないことは、私が慥かに証明するのであります。
 世の中の進歩は実に想像以外であつて、所謂萩の下露、野裏の露が大河になり、又一つの若葉が大きな鬱蒼たる木になる如くに、実に此大学の今日に及んだ其昔を顧みますると、高田学長の所謂昔語りが真に忍ばれるやうであります。只今学長が乃公は三十円の月給で生活したと仰しやつたが、若し其事を言ふならば、私が実業界に這入つて、第一銀行の頭取になつた時、幾ら月給を貰つたと思召すか、私は五十円でありました。故に高田学長の三十円も私は高つたかも知れぬと思ふ。世の中の事物は総てさう云ふやうな有様であつた。私は昔、丁度二十年ばかり前に独逸に行つて、クルツプの工場を見た時、ある一つ
 - 第45巻 p.366 -ページ画像 
の工場の脇に古い番小屋のやうな物が立つて居ました。何の訳か分らぬが其所へ連れて行つて言ふのに、是が一番最初のクルツプが、工業を始めるときの事務所であつたと言はれました。其脇の方に色々銅像などが立つて居て、此人が骨を折つた、此人が骨を折つたといふ既往の経過が示されて居た。其当時の堂々たる輪奐の美を供へて居る有様と、今の話とを見較べて、成程昔は斯うであつたか、斯くも盛大に進むものかなと思ふた目が今も残つて居ります。総て或る事柄にはさういふことがあるものです。丁度今学長の本大学の昔を語られたることを思ひ合はすと、夫れと是れとは事柄の違ひはありますけれども、其進歩の有様を今に思ひやるやうで、実にゆかしい、快い話でございました。併し、畢竟左様に進歩して行くのも、一般社会、即ち我帝国の進歩が、諸君の学業を必要とする。之に対して供給力が十分なければならぬといふことになるのであるから、或はこちらから言ふたら、学問を拵へて居るから、絶えず世の中が進むのだとも言ひ得ませうけれども、反対の言葉で云へば社会が吾々を要求するのだとも言へるのであります。故に、要するにどうしても諸君が此必要を満して、社会に大なる貢献を供するに於て、初めて益々其の必要が増大し得るであらうと思ふのであります。若し其効果が少くあつたならば、自ら要求を減ずる、随て供給も必要がなくなる、このことは要するに諸君御自身の身に御問ひ下さることが必要であらうと思ふ。今学長は頻に、教育に就て其機関、其原則になるべきものに深く御注意がありました。洵にそれは吾々も希望する所、第一に其経営に於て、斯かる事柄は大方の賛同を受けねばならぬ。唯だ学校が人の金を目当にするといふ訳ではありませぬ。世間に向つて寄附金の募集は卑しむべき事業でないと考へて、只今名誉学長のお話の通り、近日中に京阪地方に参るのでございますけれど、社会が左様に同情を寄せて下さるといふことは、其必要があるからである。其必要を生ずるのも真に効用を足すからである。若しそれが真の効用を足さなかつたならば、実に甚だ時機を誤ると言はなければならぬ。斯う考へて見ますると、吾々の苦心は皆な満場の諸君の世間に尽す効用の大なるに依つて光を持ち、之に反対するに依つて吾々は大に世の中から謗らねばならぬから、吾々をして世に誉れあらしむるも、亦世に叱られるやうな人にするのも、諸君の是れから先きに世に立つ働きに依つて定められると申すものであります。斯く申すと諸君に責任を負はすやうであるけれども、蓋し是は自然の道理である、四十年の式典に際して、どうぞ将来益々斯くありたいと望む次第であります。五十年・六十年の祝典、私は其時には演説することは出来ませんけれども、更に又丈夫な人が申上げることであらうと思ひます。是れで御免を蒙ります。(拍手喝采)