デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
9款 同志社大学
■綱文

第45巻 p.407-410(DK450158k) ページ画像

大正3年6月13日(1914年)

是ヨリ先、栄一中国視察ノ旅程ヲ了ヘ、帰京ノ途ニ在リ。是日、当大学ニ到リ、学生ニ対シテ講話ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK450158k-0001)
第45巻 p.407 ページ画像

渋沢栄一日記 大正三年          (渋沢子爵家所蔵)
六月十三日 曇時々晴又小雨夜ニ入リテ雨頻リニ至ル 気候軽暑
○上略 午飧後同志社ニ抵リ、原田校長ノ依頼ニ応シテ生徒一同ノ為ニ一場ノ支那視察談及修身上ノ訓示ヲ為ス、畢テ同社女学部ノ教室ニテ茶菓ノ饗アリ○下略


竜門雑誌 第三一四号・第二二―二五頁大正三年七月 ○京都同志社大学に於て 青淵先生(DK450158k-0002)
第45巻 p.407-410 ページ画像

竜門雑誌 第三一四号・第二二―二五頁大正三年七月
    ○京都同志社大学に於て
 - 第45巻 p.408 -ページ画像 
                      青淵先生
  本篇も亦青淵先生が支那漫遊より帰京の途次、京都同志社大学校長原田助氏の懇請を容れ、六月十三日同大学講堂に於て講演せられたる筆記なり。
 校長及び学生諸君、只今原田校長よりの御紹介中、故新島先生の同志社大学設立に際し、余が多大の尽力を致せしとの御讚辞は却て痛み入る次第なるが、当時先生が誠心誠意学界の為め熱心に御奔走の有様を拝して感佩措く能はず、大磯百足屋に於ける最終の対面等の往事を追懐せば、今猶悵然懐旧の情に堪へざるものあり。而も今日御校がかく盛大堅実なる発展を遂げられる実状を親しく目撃しては、先生が真に精神の人なりし事を愈々深く感服せざる能はず。蓋し滾々たる源泉なくんば洋々の水決して流れざればなり。
 顧れば余は実業界に身を投じて以来、明治六年より大正三年の今日まで四十余年間、終始同一の銀行業務にのみ従事せしを以て誠に進歩の跡鈍く、世には丁稚小僧より頭取に昇進せし人すらあるに、余は依然頭取より頭取の地位を守るのみにて誠にお恥かしき次第なれど、其代り世間の進歩には聊か貢献せし所あるを以て、却てそこに無上の快楽を覚ゆる者なり。従て余と御校とは活動の方面を異にせるを以て関係自然に遠かりたるやの観あれど、互に好意を以て交はる機会は依然として甚だ多し。例せば先年我国精神界の帰一を計らんとして設立せられし帰一協会に於ても、余は原田校長及びギユーリック博士等と一昨年来親しく事を共にしつゝあり。殊に博士の如きは学殖深く識見博く、正に是れ精神界の一雄と称すべし。されば如此校長教授諸氏と親交を結び居る余の如きは、蓋し門を異にするも室は同じく、麓を異にするも嶺は一に志し、軈ては同じ高嶺の月を見んとの素志を懐く者なれば、例令道を異にする其方面違ひの話も亦或場合に多少の参考たらずとせず。
 余が今次の支那行は真の漫遊に過ぎずして、唯々彼国政界及び実業界数名の人士と会見して互に意見を交換し、又は名所旧跡を探索するの外何等の用務使命無し、抑々少壮の頃余が受けたる孔孟の教は実に当時唯一の教育経典なりしかば、其道により陶冶せられたる余は自然孔子廟参拝の宿志を果し度く、且つ近時漸く儒教頽廃の徴候表はれんとするを憂ふる余は、之が原因も亦多少研究に価すと思惟せし事、我が目的の一なり。
 次に我国今日の隆盛を致すに当て、明治維新後政治軍事及び教育の力与て大なりしは勿論なりと雖も、今や富の力が武力に随伴する時代は漸く過ぎ去り、弱肉強食・討伐侵略は暴戻野蛮の弊風として排斥せらるゝに至りしを以て、吾人は専ら強固なる意志と深き道理に則り、正当なる手段方法を用ゐて国富の増加を計ることを務め、兼ぬるに武力を以てし、以て国光を発揮し国威を高めざる可らず。
 翻て思ふに隣国支那は版図広大にして天恵亦頗る豊富なるに人工未だ殆ど揚らず。依て英米独仏其他の強国争て視線を此国に集め、今や夫々大に画策する所あらんとす。然るに阿部仲麿、伝教・慈覚両大師以来、千有余年の親交を重ねし同文同種の我日本は、彼と恰も唇歯輔
 - 第45巻 p.409 -ページ画像 
車の関係にあり乍ら援助の効果微々として甚だ振はず、之れ豈に遺憾の至りならずや。夫れ国力の発展は実業の力に依らざる可らず、而して実業の隆盛は専ら広大なる範囲に依らずんば得て望む可らずとせば日支貿易の必要なる敢て贅言の要なかるべし。然るに我国対支貿易の状況を考察するに、海産物雑貨等多少の輸出なきに非ざるも、惜い哉未だ其大動脈には毫も力を入るゝ能はざりき。於是か昨年孫逸仙氏の渡日に際し、余等同志相謀りて中日実業公司なる企業会社を設立し、合弁組織によりて鉄道其他の事業経営に従事せん事を約したり。余等の真意は蓋し実業上彼我相愛の理想を実現せんとするに外ならず。
 さて従来商業を名けて「平和の戦争」と称し、商業を戦争に比したりしと雖も、思ふに平和の戦争なるもの固より存在するの理なし、夫れ戦争に当ては常に勝者の利する丈け敗者は損するものなれども、元来商業は互に有無相通じ自他共に利するを以て原則と為す故、どこ迄も仁義道徳を実行するを得るものにして、余は今日まで人を倒し人を損せしめし事なく常に他を利しつゝ同時に己が財を作りしなり。されば吾人の対支企業亦常に此の如き抱負を以て画策せられ、資本金の如きも五百万円を折半して両者平分に出資する事となり居れり。然るに不幸第二革命の勃発に際し右の計画一時挫折の止む無きに至りしを以て、此度親しく支那北方の当局者に面会熟議の必要を生じたれば、此方面の用務を弁ぜんと欲したる事は此の行第二の主要なる目的たりしなり。
 以上二ケの使命を果さん為め、約一ケ月の旅程を以て先月二日東京を発したりしが、不幸中途病を得て孔廟参拝の機を失ひ、遺憾乍ら僅かに第二の使命に関する活動を為せしに止るも、各地に会見を重ねし人士とは互に胸襟を披瀝してよく理解和合の実を挙げたれば、今後活動の地盤のみは充分に造り得たる事と信ず。
 今行程の順路を辿り、之等短日月の間に瞥見したる大要を語らむか
 上海は盛大なる外国商館櫛比し、泰西的組織の下に活動せる東洋の一大要港たり。今や其殷賑神戸にも優るが如き観を呈し、過去三十年間によくも斯くまで長足の進歩を遂げ得たるものかなと感歎せざる能はざりき。
 蘇州は地味肥沃農産亦甚だ豊富なれども、一般人民の生活状態頗る賤しく、道路も狭隘にして又著しく不潔なり。
 西湖には西湖十二景及び岳飛廟等ありて風景絶佳なり。蘇州寒山寺は今や頗る荒廃して殆ど見る影も無く、支那詩人の誇張徒らに行人を失望せしむるのみ。
 南京に至て先づ感じたるは支那の城壁に就てなり。凡て我国各地の城塞は主として一人一城主を保護せしに反し、彼国の城壁は専ら住民全般の保護に任ず、而して其最大なるものを彼の有名なる万里の長城なりとす。当市の城壁は周囲九十里五代当時の造営に係り、後、明の太祖此地に都して以来今も猶其の遺業所々に散在す。若し余をして支那人たらしめば是等旧跡の保存には、蓋し一大頭痛を惹起せしめらるべきか。
 大冶鉄山は最も天恵に富み、我若松製鉄所に於て一年三十万噸の鉄
 - 第45巻 p.410 -ページ画像 
を製作するうち、其大半は材料を此地に仰ぐと云ふ。唯鍬を以て山の表面を掘るのみにても、優に六十パーセントの含有量を有する良鉄鉱を得べく、而も僅に十八哩の鉄道によりて船積するを得。唐の大宗の時其採鉱の残滓を堆積せし小山現今附近に塁々たり。是すら猶五十パーセントの鉄を含むと云ふに至ては其天恵真に驚くに堪へたり。
 長江筋の長くして洋々たること亦聞きしに優るものあり。現今の支那にては東坡の所謂「水落石出」の趣ある処殆ど存せず。上海より六百哩を遡るも猶幅員一哩に及ぶ、其壮大思ふ可し。
 漢口より去て北京に赴きしが、此地は城壁幅広く壁上にて小児の遊戯、大人の散策すら為し得るが如し、滞都中は来往繁く多忙なりしを以て、旧離宮一ケ所を観覧せしのみ。
 明の十三陵は世祖以後、二・三代の霊を祠り陵数十三を算す。主陵参拝の道に並列して、巨大なる石像・石馬・石人等あり。其規模頗る宏大にして、殊に石材は悉く四川省より運搬せられしと聞きては只驚くの外なく、其保存施設亦蓋し頭痛ものなるべし。
 天津に至りし後不幸病を得て専ら引籠り勝ちなりしかば特に云ふべきものなし、依て無止旅程を変更し孔廟参拝は遺憾乍ら自然中止するの外なかりき。
 要するに支那にては一般の文化猶甚だ低く、農工業亦頗る幼稚にして、官民の間柄も我国とは実に雲泥の差異あり。概して云へば各人の個性はよく発達せるが如きも、国家観念に至ては甚だ貧弱なるが如し殊に積年弊政の結果、富む者は愈々富み貧者益々乏しきを加へ、一人の富を致すが為には万人貧に陥るの弊なしとせず。吾等は如此貧富の隔絶甚しきを見るに付けても、人のふり見て我ふり直す所あらざる可らず。
 今や我国は物質的文明著しく進歩せしと雖も、精神上の修養に至ては猶未だ満足の域に達せず、智徳並進の不完全なる結果は軈て己れさへ富めば他は顧るに及ばずとて、自然道徳破壊の端を発し、人格向上無くして富力智識のみ徒らに増進せば、却て落伍者続出して隣国の覆轍を踏むの虞なしとせず。動もすれば貨殖の道と道徳の離反せんとする実業界に於ては、此心懸け殊に肝要なり。故に余は此度四百余州到る所に此一事を注意して吹き廻りしを以て、支那にて説きし所を反覆し聊か諸君の参考に供せんとせしに過ぎず。