デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
11款 慶応義塾
■綱文

第45巻 p.426-431(DK450166k) ページ画像

大正11年10月18日(1922年)

是日、当塾ニ於テ福沢先生言行研究会開催セラル。栄一出席シテ講話ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK450166k-0001)
第45巻 p.426 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
十月十八日 水 午后三時 故福沢先生言行研究会ニテ、御講演ノ約(慶応義塾)


竜門雑誌 第四一五号・第七三頁大正一一年一二月 ○青淵先生の福沢先生観(DK450166k-0002)
第45巻 p.426 ページ画像

竜門雑誌 第四一五号・第七三頁大正一一年一二月
○青淵先生の福沢先生観 左の一篇は青淵先生が『福沢先生言行研究会』の需めに依り語られたるものゝ由にて、十月廿八日の三田新聞に掲載せるものなり。
 (前略)先生との対面は多くなかつたが論説等により先生を知つた当時(明治初年)政府及び民間は漢学の影響で、主義は主義で実行出来ぬものと思つてゐたが、先生は之に反して実学で生産殖利を論じ実際を重んじた。明治廿七年日清戦争の時、先生は自ら奮つて国民に力を入れねばならぬと御相談を下すつた。坂本町の銀行集会所に銀行家を集め、先生は国運隆替の分岐点こゝにありと論じ、従軍者に対し百万円の寄附金を募集しやうと提議された。さうして御自分が一万円を出すといはれた。然しその当時の事で中々に集まりそうもなかつたので、銀行家と相談し寄附の代りに五千万円の公債に応じて下さいとの政府案に対し先生も同意された。其時真に先生の愛国者なる事をつくづく感じた(中略)先生は些細な事に周密で偉大な人格者である事は西郷と同論すべく、他の宗教的方面に於ては日蓮に比肩すべき偉人であつた。
   ○本資料第二十八巻所収「報国会」参照。



〔参考〕竜門雑誌 第三五三号・第六八―七五頁大正六年一〇月 ○福沢先生及び独立自尊論 青淵先生(DK450166k-0003)
第45巻 p.426-431 ページ画像

竜門雑誌 第三五三号・第六八―七五頁大正六年一〇月
    ○福沢先生及び独立自尊論
                      青淵先生
  本篇は雑誌「現代之実業」記者が「福沢先生及独立自尊論」なる題号を提して、青淵先生の意見を懇請せるものにて、六月発行の同誌特別号に掲載せるものなりとす(編者識)
    △維新前には福沢翁を知らず
 余は元来儒学的教育を以て養はれ、維新前京都在住中の如きは所謂保守主義を奉じて居たものであるから、勿論外国の事などは知らなか
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つた、亦知らうとも思はなかつた。従つて当時の洋学者の如きは、これを異端邪説の徒と見て居つたのである。故に、当時率先して洋学を鼓吹し、新思想の宣伝に努めて居た福沢諭吉先生のことも余は一向に存じなかつたのである。
 所が、その後余は図らずも恩命を蒙つて徳川民部公子に随伴し、欧米各国を漫遊することゝなつた。即ち、公子を奉じて瑞典とか和蘭とか独逸とか英吉利とか、当時の余等には全くすべてが珍奇を極め驚歎に値ひする国々を経廻り、そゞろにその国々と日本との相違を感じた殊に白耳義国へ参つた時の如きは、国王レオポルド二世陛下が民部公子並びに吾々を招待され、恐れ多くも食事を共にされて、民部公子にしきりと鉄の話をされた事がある。それは公子の一行が前日に同国リエージの製鉄所を見た後だつたので、陛下はそれを見た所感は如何にと云ふお尋ねであつた。公子がそれに対して、大仕掛けで面白い事であつたと答へられると、陛下は更に語を継いで、鉄の出る国及び鉄を多く費ふ国でなければ富強でないことを語られ、白耳義が小国ながら富強なのはその為めであると言はれた。そこまではよいが、右の次第であるから日本も向後は沢山鉄を費ふ国になつて富強の実を挙げるが好い、それには是非白耳義の鉄を求めて呉れる様と、最後に聊か広告めいたことを言はれた。これは洋行中の一挿話であるが、私共は驚いた。これが一個の商人か実業家か乃至財政当局者位の人なら兎に角、苟くも一国の君主たる人が斯やうに品物の勧誘めいたことを言はれた欧州と云ふ所は異つた所だと今更の如く驚いたのであつた。それやこれやから、以前は頑固な保守主義者であつた余も、この洋行によつて全く宗旨を代へねばならなかつたのである。
    △福沢翁と余との初対面
 帰朝して見ると既に日本の政治状態はすつかり変つて居る。而して王政古に復り、天下は朝廷の御手に帰したので、余もその後一年ばかりすると明治政府から召されて役人となつたのである。この時は、余も洋行中大分見学をしたことであるから進歩的になつて居り、すべての政は従前通りでなく改進的に致さうと思つた。余等の上に立てる大隈・伊藤の参議達も同じく改進的の思想を持つて居たので、陛下の仰せ出された五ケ条の御誓文の御趣意を真向に振り翳し、万事に急進的政治を励行したのである。
 而して当時余の奉ぜる役柄は、今の大蔵省の事務だつたので、余は早速地価や租税の改正を思ひ立ち、並びに度量衡制度の改正などを決行することをした。乃で余は、其れ等諸制の改正係を設け、地価・貨幣・度量衡の改正から、租税の物品納を廃して金銭納とすることなど凡そ数百枚に亘る浩瀚な改革意見書を起草し、これを大隈・伊藤の諸参議に提出したのである。参議もこの長文には大分閉口したらしく、長すぎると云ふ話であつた。而して余は実にこの旧制改正の条文を案出する為め、初めて当時の碩学福沢諭吉先生に面謁の必要を生じたのであつた。
 所が、この初対面の時から、先生は他の人々と大分異なる特色を種種発揮されたことであつた。余は、主として度量衡改正に就て先生の
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意見を求めに参つたのであるが、先生は初対面の余に向つて御自作の「世界国づくし」や「西洋事情」を取り出し、種々に教示さるゝ所があつた。余は、兎に角、一風変つた人だと云ふことを初対面の時から感じたのである。
    △福沢翁と余との共通点と反対点
 その後、余は暫く福沢先生に会ふ機会もなく、その中官吏を廃して野に下つたのである。野に下つてからは、実業上の用件などで追々福沢先生の慶応義塾から出た人々と面会の時機が出来、その人々の特色をも次第によく知り得たのである。而して、それ等門下の人達や、或は別方面からして福沢先生と云ふ人は、独立自尊を唱へる人だとか、商工業を重んずる人だとか云ふことを聞き知り、先生は実に生きた学者であつて、旧来の空漠な意見を持つ方でないことを察した。殊に、先生が極力商工業・実業界の活動を主張せられ、実業界の人は、政治界の人と区劃すべきでない、少くも両者は同じ列にせねばならぬと言はれたのは全く先生のすぐれたお考へに依るものであつた。この点に於て、余は殊に先生と主義を同じうするものである。余は当時、多く先生と会ふ機会を有たなかつたが、右のやうな次第から深く先生の人と為りを敬慕し、亦その慧智慧才を感歎して居つたのである。
 けれども、唯一つ先生と余との間には氷解せられぬものがあつた。それは、恐らく両者の学問の素地が異ふところから来て居るものと思ふが、忠孝に対する観念が聊か先生と余と相違して、この点には推服出来なんだ、即ち先生の説によると、楠公の死と権助の首くくりとはその死に方の無意義なる点に於て相似てゐると云ふ風に申されたのであるが、これは余の何処までも同意し兼ねる御説である。余は世間の事物にこそ改進的な意見も有すれ、元来儒教で叩き上げられた頭であるから、「忠孝は人たるの本」と云ふ思想には毫頭疑惑の生ずるを容さぬ主義である。然るに、不幸にして福沢先生の御説の急激なる、以上の如き事にまで及ばれたのは余の深く遺憾とする所である。勿論これには先生として種々なる御弁駁があり、後には皆明かになつた所であるが、余は今日でもあれ丈けは先生として激越に過ぎたことではなかつたかと思ふのである。その他の点に就いては皆々敬服すべきことばかりで、慶応義塾建学の功績偉大なるは申す迄もなく、「世界国づくし」「文明論之概略」等の著述も甚だ有益であり、独立自尊の大格言亦大に可なりと言はねばならぬ。
    △一時は福沢翁と政戦に相見ゆ
 明治もやゝ進んだ頃、福沢先生は彼の時事新報を起して大に啓蒙の文を物された。
 恰度その頃、余は、故の《(人脱カ)》福池桜痴居士と相知り、これと大分懇意にして居つた。それで、余は伊藤公が米国に赴かれる時、公に推薦して居士を同国へ同伴さして貰つた位である。勿論福池は通人、余は野暮、彼は洋学通、余は無識、彼は才子、余は才子ならずで必ずしも共通の点ありし訳でないが、互に意気相許すものがあつたと見えて、吾等は親しく交つて居たのである。後に、国立銀行設置に就き、政府から余に其取調べを命ぜられたのであるが、余は専らその骨子を作り、
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桜痴居士に諸種の翻訳を委ねて、これを完成したことであつた。殊にその条例等に関する文書の字句は、一々居士の修正補筆に待つたのである。斯くの如き事情から、余は何かにつけて居士と親密にし、居士が東京日々新聞を起すや、余はそれに補助を為したのであつた。
 これより先き、大蔵省の官吏を退いて実業界に身を投じた余は、再び政治向きの事には関係すまいと契つて居た。然るに玆に東京市会が始めて開かれることになつて、時事新報に拠る福沢先生と、東京日々に拠る福池氏とは互に政敵となつて覇を中原に争ふことゝなつた。恰かも故楠本正隆男が市長時代で、この両雄はやがて相共に市会に出てなほ争覇を続けて居つた。余は先きに述べたる如き事情もあるので勿論直接には争ひの渦中に投じなかつたものゝ、陰に福池を助けて福沢先生に反対したものである。
 併し乍ら、これ等はほんの一時的の事で、その後福沢先生も政治界には念を断たれたし、余は尚更のこと少しも関係しなかつたのであるから、自然に右様の懸け隔ては消滅した次第である。即ち、其後は、先生と余と何かにつけて相会する折には、打ち溶けて談論も致した。殊に先生の門から出た人で、荘田平五郎とか、藤田茂吉とか、その他財界政界の大達者となられた人々とは親交を生じたるが多く、而して未だにその交を続けて居る次第である。
    △福沢翁と余の協力一致
 斯くの如く幾多の紆余曲折はあつても、結局先生は余に取つて畏敬すべき人物であつたに違ひない。併し乍ら、何を申すも、先生と余とは根本の素養が違ひ、また立場が異ふので、余は何時も先生に敬意を払ふのみで過した。即ち、先生は純粋の西洋学派であるし、余は然らず、先生は学者であるが、余は実業家であると云ふ風に、先生と余とは始終懸け離れた生活をして来たのである。
 然るに、その後明治二十七年の日清戦争の時に方つて、余は大に先生と親しくする機会を生じた。即ち、彼の大変事に際会したので、余等国民は挙つて国の為めに奮励努力する所なかるべからずと云ふのが原で、こゝに福沢先生と余とは率先国民の精神を鼓舞し、出征者を後援する計劃を申合せたのである。その結果渋沢は主として実業家の間を遊説し、これを口にて説得すべしと云ふことにし、福沢先生は時事新報に拠つて大に筆の力を揮つて国民の精神を振起せようと云ふ約条を致したのである。斯くして両人は相合して出来る丈けの金を作つて、一つには戦費の補助を為し、一つには戦病死傷者を慰問若しくは弔問する計劃を立てたのである。斯くて口の人としての余と、筆の人としての福沢先生と相俟つて、先づ百万円の寄附金を募ることに着手した。
 所が、この計劃は、未だ実行に移らざる中に時の総理大臣伊藤公の知る所となり、公から改めて一事を依頼された。それは百万円の寄附金は要らぬ、その代り公債を募集して貰ひ度い。この方は寄附でなく政府の負債になるのだから、無論応募者には相当の利子を附して返済する故、五千万円の公債を募つて呉れと云ふことであつた。即ち、伊藤公は百万円位の寄附金では到底間に合はぬから、公債として五千万
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円を募り度い、それには是非銀行家と新聞社との協力賛助を仰ぎ度いのであるとの意味を懇々諭された。これに依つて、先生と余とは俄かに慰問的の寄附金募集は止めて、五千万円の公債募集に力めたのである。ところが幸ひに諸方の賛助を得、東京市丈けで五千万円の半額以上は契約が出来、尚ほ全国各地にも遊説して効を奏した。この時は、余も及ばず乍ら大に努力し、先生の筆の力と相俟つて聊か功を成した積りである。
 此の公債募集は、翌二十八年にもう一回行はれた事である。併しこの第二回の時には、余は病気(二十七年冬から二十八年春迄)で起たれなかつた為め、自ら運動し奔走するわけにも行かず、自分としても僅かに第一銀行をして之に応ぜしめたに止まつた。この時には、福沢先生は殆んど独力を以て東奔西走され、亦筆を縦横に揮つて、第二回公債の成功を計られたので、余は従前の行き懸り上特に之を感佩した次第である。
    △後年に知る福沢翁の真価
 その後再び協力一致して致した仕事もなかつたが、折々の会合等ではちよいちよい先生にお会ひしたのである。その間余の方から二・三回先生の邸をお訪ねしたことも覚えて居る。亦た或る時は大隈侯のお邸で共に午餐の饗に与かり、相寄つて種々なる懇談を致したこともある。これ等が、先生と余の交際の荒ましで、この以上特に込み入つた関係はなかつたのである。
 以上の話でも一通り分る如く、余は先生に対して、最初の中は何となく疑念を懐き、亦た何となく変挺古な関係になつて居つたことを感ずる。供し乍ら、後年に至つては、よく先生の先生たる所以も了解さるゝに至り、初めて稀に見る偉人であることを知つたのである。それを後ればせに知つた余は、今更乍らもう少し先生に親しみ近づいて置けばよかつたとも思ふのである。
    △福沢翁の特長に就ての感想
 要するに、福沢先生の特徴を評すれば、第一はその見識の高かつたことである。何物にも屈せず怖れざる先生一流の特色はこゝに最もよく現はれて居る、次ぎには何事につけても、眼の付けどこの早かつたことである、先生は夙に洋学の学ぶべき旨を伝へられ、西洋風の風俗習慣を鼓吹されたのも皆そこから来て居る、それに比べると余の如きは、甚だ時候後れであつたと言はざるを得ぬ。
 亦、先生に就て、特に推称すべきは、神聖なる国の発達は如何しても富の力に待つ外ないと主唱された一事である。これは当時の人としては真に驚くべき卓見であつて、学者側に尚ほこの言を為された人あるは推服に値ひする。而して、之は先生と余の偶然一致した意見であつて、先生はそれを口に説き、余は自ら行つたのである。
    △余の独立自尊観
 最後に、余は、先生が極力高唱された独立自尊と云ふ事に就いて一言所見を述べて見よう。惟ふに、明治初年の時代にあつては、我国の民衆尚ほ未だ旧慣を去らず、旧習を脱せず、民間の人々と言へば、一体に卑屈に過ぎ、独立の気象に乏しかつた。これを、英国などの個人
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思想や個人主義の発達せるに比すれば、その差霄壌も啻ならなかつたのである。
 この迷妄の時代に於て、先生が大に個人の力の尊ぶべきこと、個人の権力の重んず可きことを説かれたのは真に最も時宜を得たもので、先生の明智にあらずんば、容易にこれを喝破し難かつたのである。況して当時は、国を挙げて斯かる思想を危険視したるに於てをやである余は、その時代と先生の明智とを引き較べてこそ始めてこの独立自尊の言葉に意義あり精彩あるを思ふのである。
 勿論、この独立自尊と云ふことは、今日と雖も大に念とすべきことで、殊によい意味に於てこれを心懸けて欲しいのである。併し乍ら、世上兎もするとこの語義の正しき所以を忘れ、やゝもすれば傲慢不遜に亘ることを敢てし、以て独立自尊の主義を発揮するが如く言ひ做して居る者がある。斯くの如きは、独立自尊の意義を穿き違へた匹夫の勇者の為すことで、これは所謂「慢は損を招ぐ」の類ひでなければならぬ。
 前にも言へる如く、人は或る時代、或る境遇に於ては、周囲の力により、習慣によつて卑屈に陥り、終に自ら個人としての人格を無みする如きことがある。これは真に遺憾な次第で、福沢先生が最初に独立自尊を説かれたのも、全くさる卑屈の風を正さるゝ為めであつたと信ずる。然るに、それを漫に誤解して、傲慢に流るゝこと、不遜に亘ることを敢て言行するに至つては沙汰の限りである。こは何処までも、東洋流に謙譲すべきは謙譲してこそ、一身もよく修まり、一家もよく治まり、一国もまたよく平和なるを得るのである。率直に申せば、この独よがりの風が慶応義塾出身者中の独立自尊を穿き違へた人の中にはないとも限らぬ。果して然う云ふ人があつて無謀な行動を敢てするに於ては、これ却つて福沢先生の名声を恥かしむるものである故、余は先生の高名の為め、三田の名誉の為め、さる事の無くならんことを切望する次第である。