デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
13款 財団法人私立高千穂学校
■綱文

第45巻 p.511-514(DK450188k) ページ画像

大正元年10月12日(1912年)

是ヨリ先、当校校主川田鉄弥病ム。是日、当校ニ於テ、其全快祝賀式挙ゲラル。栄一出席シテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三〇〇号・第三五―三八頁 大正二年五月 ○不老長生談(DK450188k-0001)
第45巻 p.511-513 ページ画像

竜門雑誌  第三〇〇号・第三五―三八頁 大正二年五月
    ○不老長生談            青淵先生
  本篇は昨年十月十二日、高千穂学校々長川田氏の病気全快祝賀会の招待に応じ青淵先生が其席上に於て、講演せられたるものなり
                         (編者識)
 今日は川田校長が全快せられたに就いて、学校で御祝があるといふ事で、吾々も御招に預りましたが、誠に光栄に存じて居ります。私は今より七年程前に、校長と同じ病気の肺炎に冒された事がありまして余程苦がい経験を有して居まするので、所謂同病相憐れむといふ側からして、今日の祝賀式には、一層の同情を有して居る次第であります
 私は御覧の通りの老年でありまするにも拘らず、克く此の病気を凌ぐ事が出来ました。ところで、校長は私より年も若く、又平素より御丈夫な方で居られるので、今回の御病気もよし医者は何と言はうが必ず御恢復になる事と素人請合をして居ました。殊に昔から積善の家には余慶ありと申して、つまり陰徳といふものには、必ず陽報があるものである、川田校長は、熱心に教育に従事せられて、僅かの年月の中に此学校をして幼稚部・小学部・中学部及専門部をかね有する盛大なる学校に進められた。吾々が他の評議員諸君の末班に連つて、及ばずながら力を添へて上げて居るのも、つまる所、中心たる良校長の誠心誠意に同情し敬服して居るからの事であつて、即ち将来国家の良国民を作らるべき、校長の善事を為すを補助する意志に外ならぬ。畢竟、校長は、凡ての人を代表して善事を為して居られる、これは当然善い報酬を受けられねばならぬ訳で、此の点から申しても、今度の御病気は必ずお直りになるに相違なしと、心に信じて居りました。
 とは申すものゝ、最初に私が校長の容態を見ました時には、実は内内憂慮致して居た。恰度九月の十日前後に私は病院に参りましたが、御面会は致しませんでした。病室に這入るは易い事ではあるが、神経が頗る興奮して居らるゝやうであつたので、故意と見舞もせず、病室を訪ひも致しませんで帰りました。
 其後、電話で容態を聞きますと、一向思はしくない、悪い方に向ふ計りであると云ふ事で、大層心配を致しました。幸に其翌日は少し見直したとの事で、幾分胸を撫で下して居ましたが、両三日経ちまして多分十六日であつたと思ふが、小池国三氏が尊来で、御話には、何分熱は下がる事は下がつたが、感情が高まつて、未だ中々安心処ではない、まづまづ九分九厘までイケなかつたのが、今日やつと一・二分の望は取り止めた、と云ふ点までしか行つて居らぬ。御大葬の事でひど
 - 第45巻 p.512 -ページ画像 
く気がゝりと見えて、是非参列をしたい、参列が適はずば遥拝をさせて呉れと、毎日毎日看護人を攻めて仕方がないので、今日は未だ十二日だと云ふ事にして、だまして居る、十二日十二日で十六日まで推し通して行く積りにして居るが、経過もやゝ良好になつて、意識も幾分明了になつたやうであるから、さう、何日までも十二日を通す訳には行かぬ、処で本人は死んでもよいから行く、と言ひ張つて頑として動かぬ、これは一つ、よく得心の参るやうに、渋沢に話させたら宜からうといふ、小池氏の御考へから、態々其の相談に見えたのであつた。それで、私は早速これから直ぐ行くからと、病院に通じさせて置いて、五時頃から出かけて参つた。奥サンや身内の人と色々打合せをして、場合に由つては、アナタ方の弥縫策を非難するかも知れないから、そこの辺は前以て御勘弁を願つて置くといふて、病室に行つて御面会をした。話して見ると、御本人はどうしても病気がそれ程悪いとは思ふて居らぬ、相変らず御大葬には是非出ると頑張つて居らるる。それはイケない、第一今日はもう十六日になつて居ますぞと申しました所、それは怪しからん、成程道理で十二日が二度計り有つた気がする、ナニ二度所か三度有つた筈だ、それにあなたは、一体此処を何処だと思つて御座る。宅だ。宅なものですか、此所は病院ですぞ。そんな筈はない、懸物からして、西寮の二階に違ひない。と云ふ調子でありましたから、色々今までの成行きを話しましたところ、やつと得心致し、御日限後なれば、詮ない事である、これからは、お言葉に従つて子供心になりかはつて、専ら静養に努めるから、と云つて涙を流して居られた。そこで自分が、明治三十七年の五月から七月まで患つて居た時の経験を話し、病気に抵抗するのはよくないと言ふ事を懇々と話した所、能く納得をせられ、その後病勢も順当に軽減して、終に退院せらるゝやうになり、自分も偶然に面目を施した訳であります。誠に此の上もない事でありますが、それにしてもあの大病の中に居て、精神をこめて、忠愛の念を忘れず、奥サンや其他の看護の人々が病勢の激変を懸念せられて、十二日をイクツも作りて、弥縫に弥縫を重ね、愈々致方がなくて、私に御相談の上、私より実を明かさせるといふ事に致しましたところ、幸に納得をされて、其後安心なる治療を施す事が御出来になり、病気の経過も適順に赴いたといふ事であつて見れば、私も図らず忠告の仕甲斐があつたやうな次第で、愉快に感じて居りますかう云ふ大患が僅に一ケ月間で、本復退院の運びに参り、今日この式を御挙げになる事に就いては、職員生徒御一同の御悦は申すまでもなく私等まで誠に悦に耐へぬ。そこでこれからは病後の静養が一番大切である。イカニ丈夫な人でも大患後は摂生に努めぬとイケヌ。自分もあの病後は脳が悪く、翌卅八年に至りて病気は全く本復しましたけれども、それにしても極健全とは申されなかつた。それは手配も平素の健康の工合も違ふ事でありますから、そんなに長く要せぬかも知れぬが、何分にも摂養が肝心である。第一川田君などは、大切な身であるから、モー少し長く使ふ工夫を自分でせられねばならぬ。度々聞く話であるが、彼の河越喜多院の南光坊天海などは、百二十二歳まで生きられた。喜多院の再興などは八十歳の時に経営に着手せられた、此の
 - 第45巻 p.513 -ページ画像 
時が慶長の五年で、慶長の十七年に家康公に伏見に謁見せられたのであるから、其時は、九十一歳の高年である。其は将軍家の尊信を得て三代に歴仕し、一百二十又二歳の珍らしい高齢まで存命せられた。尤も、天海程の人であつて見れば五十歳位でも、凡人の百歳・二百歳に相当する仕事は仕遂げられたに相違ないが、百二十二まで生きられた故に、一層偉大なる仏力を現はされた訳である。要するに、勤勉力行と云ふ事は、極めて大切な事であるが、それと同時に、勤勉力行を永く続ける事が肝心である。永く使へる身を、早く使ひ切るのは、それは短気と申すものである。
 川田君は、十数年来病気に罹られた事がない、至極達者な方であつたので、自然恢復も早かつた事と信ずる、其の上、大病後は身体の組織が一変して、一層達者に成る事と聞いて居るから、今回の大患は、これからさき一倍健康な身になられる兆と考へられる、それにしても病後の摂養が何より第一である。
 恰度此の学校にしても、これまでに漕ぎ付けるに就いては、川田君の丹誠は一通や二通ではない。善い方に導くには、多大の丹誠を要する事であるが、悪い方に落すには誠に一歩である。何の雑作もない。でありますから、予期の如く末久しき成功を収めやうとする為めには今少し永く、身を使ふ工夫をせねばならぬ。
 今回は図らずも、病症に関する私の一言が治療に幾分の功能を現はし、誠に愉快に思ふ次第であるが、此の上とも将来の摂養に念入れられて、職員生徒は勿論、私共の悦を極正しく、極継続的に遂げしめられん事を熱望してやまぬ次第であります。(了)


渋沢栄一書翰 川田鉄弥宛 (大正元年)一〇月三一日(DK450188k-0002)
第45巻 p.513 ページ画像

渋沢栄一書翰 川田鉄弥宛 (大正元年)一〇月三一日  (川田鉄弥氏所蔵)
貴地昨日御発之尊翰今夕落手拝見仕候、爾来益御清適御元気も追々御回復之御様子ニ相見へ慶賀此事ニ御坐候、誰ニても大患後ハ何となく疲労多く、所謂心経過敏ニ相成候ものニ付、平常之事ニも動し易き恐有之候間別而御用心被成度候、老生抔も三十七年五月初より之肺炎、其七月ニ至り全愈せしも、冬期まて兎角気分相勝れ不申、時々懸念致候様之事共有之候、呉々も完全之御本復を待て、御活動之事ニ被成候様致度候、学校事務ニ付、もしも御心配之義も御坐候ハヽ、精々御心添可致ニ付御遠慮申越可被下候《(無脱カ)》、追日向寒之候東京ハ朝夕衣を重ね候事も有之候位ニ御坐候、可成緩々御保養祈上候、右拝答旁匆々如此御坐候 不宣
  十月三十一日               渋沢栄一
    川田盟契
       坐下


竜門雑誌 第六四五号・第一一―一二頁 昭和一七年六月 青淵先生を懐ふ 川田鉄弥(DK450188k-0003)
第45巻 p.513-514 ページ画像

竜門雑誌  第六四五号・第一一―一二頁 昭和一七年六月
    青淵先生を懐ふ
                       川田鉄弥
○上略
      以心伝心
 - 第45巻 p.514 -ページ画像 
○中略 私が、左様明治四十五年、たしか四十歳の年でしたが、大病を致しまして、回生病院といふへ入院致しました。急性肺炎といふので、一時は全く危篤の絶望状態を彷徨したのでしたが、御存じの非常なる高熱つゞきに心気全く興奮致し、誰が何と慰撫致してもいつかな鎮静に赴かない。これには近親の者も手の施しようもなくほとほと困却致してをります折柄、唯今の小池証券社長小池厚之助氏の先考小池国三翁の提議により、これは青淵先生にお縋り申さうより他に方法はないといふことになり、先生には寸暇をも惜しまるゝ御多忙の御身を三たびまでも枕頭に親しく私をお見舞下され、諄々と慰諭のお言葉を賜つたおかげで、漸くにして私も心神の安静を得、幸にも九死に一生を得た訳で、いはゞ先生は私にとつての命の親と仰ぐべきお方でもあり、御恩情のほど肝に銘じて忘れかねてをりますのですが、同時に、いかに病中とは申しながら、かゝる御煩ひをおかけしなければならなかつた自分の未熟さに思ひ到る時、まことに慚愧に堪へぬ思ひが致します幸にも、さういふ私が教育者として大過なく生き永らへ、しかもその間、自分の教を受けた人々の中からは、首相も、大臣も、大将も、学者も輩出するといふ有様で、各方面に少からず国家のお役に立つてゐるといふことは、身に余る光栄と申さなければなりません。○下略