デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
13款 財団法人私立高千穂学校
■綱文

第45巻 p.514-516(DK450189k) ページ画像

大正2年10月26日(1913年)

是日、当校創立満十周年記念式並ニ記念講堂開堂式挙行セラル。栄一臨席シテ演説ヲナス。


■資料

高千穂学報 二十八 第四一頁 昭和四年一一月 校則(DK450189k-0001)
第45巻 p.514 ページ画像

高千穂学報 二十八  第四一頁 昭和四年一一月
  校則
    一、沿革
○上略
大正元年十月高千穂学校創立満十周年紀念講堂竣工
○下略


竜門雑誌 第三〇六号・第一七―一九頁 大正二年一一月 ○高千穂学校十周年紀念式場に於て 青淵先生(DK450189k-0002)
第45巻 p.514-516 ページ画像

竜門雑誌  第三〇六号・第一七―一九頁 大正二年一一月
    ○高千穂学校十周年紀念式場に於て
                      青淵先生
  本篇は青淵先生が十月廿六日午前十時高千穂学校創立満十周年記念式に臨み、演説せられたるものなり
 今日は高千穂学校創立満十周年の記念式を挙行せらるゝと云ふ事で吾々も御招きに預りましたが、誠に光栄に存じて居ります。高千穂学校の幼稚部・小学部・中学部は大久保の方に置いてあります、大久保の校地も結構な高台で、まゐる都度気が清々いたしますが、高等商業部に属するこちらは、又格別に見晴しもよろしく、その上、大層空気が綺麗なので、何となく心持がのびのびといたします。かかる善い場所に、御覧の通りの立派な校舎が出来ましたことは、最初より本校評議員諸君の末班に連つて、及ばずながら力を添へて上げて居る私共の深く愉快に存ずる次第であります。
 - 第45巻 p.515 -ページ画像 
 川田校長は熱心に教育に従事せられて、僅かの年月の中にこの高千穂学校も、今日の如く幼稚部・小学部・中学部及高等商業部の四教育機関を有する盛大な学校に進められました。然るに、何時も校長は、斯の如き盛況に向つたのは全く諸先輩の御同情に基くと申されて居ます。これは校長の謙遜の美徳であります。こちらの校長は当校創立後常に中正なる方針を定め、自宅又は当校塾舎から通学する者の外一切入学を許されないことにいたし、生徒を我が弟や子のやうに思つて愛して育てられます。然れど、俗に云ふ飴を嘗めさせると云ふことはなく、よく愛しよく叱ると云ふ工合に程善く生徒を導かれます。それ故教員諸君も出来得る限り全力を出されます。随て生徒は楽しく学び、父兄諸君は安心して子弟を託されます。又一つは時代であります。若し時代の要求がなければ、如何に校長が熱心なる教員と共に学校の事業に尽力されても、今日のやうな盛況を見ることは出来ませぬ。
 今日日本に於ては、次第次第に忠孝の情が乏しくなりつゝあるかのやうに見えます。若しも忠孝の情が全く無くなつたならば、人でなく国でないと覚悟すべきであると存じます。近時所謂教育事業の発達に従ひ、忠孝の心が乏しくなると云ふ事は、洵に悲しむべき次第であります。
 抑々我が国が、今日の如く文明となつたのは、忠孝の心に学術思想の加はつたからであります。然るに教育の発達するに従ひ、忠孝の精神は漸次科学の進歩にうち負かされ、人心の傾向危殆に陥りつゝある現状は、遺憾千万であります。今日の教育の方法と私共の若い時分の教育の方法とは雲泥の差があります。現今教育の仕方は甚だ精密で、私共の受けた教育は甚だ粗略でありました。然るに只一つ師弟の間柄は到底今日の比ではありませんでした。其間柄が極めて温い、而して師と父と同一の権利を有して居られました。今日の有様を見ますと、先生が寄席に出る芸人の風でありますから、師弟の間柄が温い様なことは到底望まれませぬ。独り当高千穂学校は、校長を始め職員一同が甚だ親切な態度を取り、大体に於て世界の進歩に後れぬ様にと心掛け師弟の間柄に於ては古に摸せられるので、実に理想的の善い学校であると思ひます。
 教育上、市中雑沓の地は不都合な点が多多あるやうに存じますが、こちらのやうな閑静な場所で、、自分の宅かさもなければ学校の塾舎からまゐるものに限り之を引受けられ、小規模の下に昔の家塾と今の学校との善い処を斟酌して、篤実な手堅い人物を養成せらるゝ方針は、時代の要求に適して居ると存じます。随て本校の尚年と共に隆運に向ひますことは吾々の確信して疑はぬ所であります。
 終りに当校長の一層摂生に心を用ひ健康に注意せられんことは、吾吾が他の評議員一同と共に切に希望する点であります。実は昨年御入院当時は一時大層気遣ふたことでしたが、幸に全快の上病気前よりも一層健康に御見受けするやうになられ、悦に耐へぬ次第であります。
 今後も本校の為めに、十分に御丹精を願はねばなりませぬが、それと同時に末久しき成功を収めるには、永く身を使ふ工夫をせねばなりませぬ。度々聞く話でありますが、彼の川越喜多院の南光坊天海など
 - 第45巻 p.516 -ページ画像 
は、百二十二歳まで生きられた。喜多院の再興などは八十歳の時に経営に着手せられたさうであります。此の時が慶長の五年で、慶長の十七年に家康公に伏見で謁見をせられたのでありますから、その時は九十一歳の高年であります。それから将軍家の尊信を得て三代に歴仕し百二十二歳の珍らしい高齢まで存命せられたさうであります。尤も天海程の人であつて見れば、五十歳位でも凡人の百歳・二百歳に相当する仕事は仕遂げられたに相違ありませぬが、百二十二歳まで生きられた為に、一層偉大な仏力を現はされた訳であります。要するに勤勉力行と云ふ事は、極めて大切な事であるが、それと同時に勤勉力行を永く続ける事が肝心であります。永く使へる身を早く使ひ切るのは、それは短気と申すものであります。川田校長がこの上とも将来の摂養に念を入れられて、職員生徒は勿論私共の悦を極正しく極継続的に遂げしめられん事を重ねて切望してやまぬ次第であります。