デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
13款 財団法人私立高千穂学校
■綱文

第45巻 p.533-537(DK450200k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、当校ヨリ弔詞ヲ贈ル。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六二頁 昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK450200k-0001)
第45巻 p.533 ページ画像

竜門雑誌  第五一八号・第二〇―六二頁 昭和六年一一月
    葬儀○渋沢栄一
十五日○一一月
○中略
 一、青山斎場着棺  午前九時四十分
 一、葬儀開始    午前十時
 一、葬儀終了    午前十一時三十分
 一、告別式     午後一時開始三時終了
○中略
また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業界を代表した郷誠之助男の弔詞朗読があり、他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の如く葬儀を終了した。
○中略
    弔詞
○中略
 尚ほその他弔詞を寄せられたる重なるものは、左の如くである(順序不同)
○中略
 高千穂学校長
○下略


竜門雑誌 第六四五号・第八―一二頁 昭和一七年六月 青淵先生を懐ふ 川田鉄弥(DK450200k-0002)
第45巻 p.533-537 ページ画像

竜門雑誌  第六四五号・第八―一二頁 昭和一七年六月
    青淵先生を懐ふ
                     川田鉄弥
 - 第45巻 p.534 -ページ画像 
 私も今年は齢古稀に達しましたが、青淵先生には永い間かれこれと一方ならぬ御指導を蒙りました。高千穂学校が今日のやうに、幼稚部初等部・中学部・高等商業部の四つの教育機関を有し、既に卒業生も数千名を出し、卒業生の中には各方面の第一線の職務に従事されて、抜群の御奉公を致して居らるゝ方々も少くありません。これも全く青淵先生の賜であると思ひ、御深恩のほどは一時も忘れたる時とてなく常々御高風を追慕申上げてをる次第であります。
 私が青淵先生に始めておめにかゝりましたのは、たしか日露戦争の当時の頃かと思ひますが、それは西南戦役で名高いかの隈山将軍、谷干城子爵の御紹介であつたと記憶してをります。
 世の中は不思議なもので、昔から子爵家に関係の深い麦堂鈴木善三翁といふ方があります。この方から、青淵先生が大患の際、慶喜公が親しく病床を御見舞になり、公と先生とは互にお顔を見合はされたばかりで、感動の極、相共に落涙されたといふ美しいお話や、また飛鳥山に邸宅を定められた時も、第一銀行が兜町に創立された時もお供をして敷地をお勧め申上げたといふやうなお話をも承つたことがありますが、この鈴木翁は、旧幕時代、神田鎌倉町に乾物問屋を営んでをられた有名な素封家で、青淵先生の御長女が穂積家に嫁がれ、また御次女が阪谷家に嫁がれました当時も、何彼と奥向の御用を弁じられてをつたやうな訳で、大変に先生の御眷顧の厚かつた方ですが、この老翁のお孫さんが中学時代に、私の家塾から学校へ通はれ、唯今では早や五十余才にもなられ、当代の御主人となつておいでです。世の中といふものは、総じていろいろと人々の関係が繋がり合ひ、結び合ふところに成立つてゐるもので、私は寺内元帥と同期に陸軍士官学校を卒業された陸軍大佐平岡芋作翁の所へ、学生時代からよく遊びに行つたものですが、唯今ではこの翁のお孫さんも高千穂高等商業を卒業され、また曾孫に当るお子さんも現に高千穂中学に在学してゐるといふ訳です。その平岡さんのお宅は、牛込田町、谷将軍のお宅のお隣でした。平岡さんは大佐時代には寺内さんと共に陸軍の三傑と謳はれた人でしたが、惜しむらくは病のため現役を退き徳川(家達)公爵家の家令となり、よく忠節を尽された方で、かの有名な青淵先生の恩人平岡円四郎といふ徳川家《(一橋)》の重臣の御一族でした。
      士魂商才
 明治三十八年、私は青淵先生に、学校の玄関へ掲げて朝夕職員や生徒一同と共に服膺致したい考で「士魂商才」の四字を額面に仕立てられるやう御揮毫を依頼申上げましたことがありましたが、その時、先生は次のやうな御手紙を私に下さつたのでした。
○中略
 まことに思慮の深い御意見で、この御教示にもとづいて中庸にある「至誠以賛天地之化育」の語を御揮毫願ひましたのですが、それを、先に申した麦堂鈴木善三翁が老後の余技にとて彫刻されました額が、今日も学校の玄関高く掲げられ、永く後学をして先生の御高徳に浴せしめてをる次第であります。
      官尊民卑
 - 第45巻 p.535 -ページ画像 
 或時のこと私が先生に教育上の卑見を申上げ、小学時代には放任主義でよろしいと思はれるが、中学時代に入つては相当厳格な躾け、即ち訓練を施すことが必要であり、さてこの過程を越えて大学時代に達したならば、もはや本人の自重にまち、あまりやかましく申さぬ方が却て結果がよろしいやうに考へられると申上げたことがあります。その際、先生から古代支那の種樹、即ち植木師の郭橐駝といふ人のお話が出ました。郭橐陀といふ人は今申す植樹の名人でありましたが、或人がこれに向つて、あなたが植ゑつけた木といふ木は、いつもみごとに成長するけれども、それには何か秘伝でもあるのですかと尋ねました。郭橐陀はこれに答へて、別に秘伝と申すやうなものもないけれども、あへて申すならば、私はそれぞれの樹木の種類や性質に従つて、それを最も適当な地味地質の所に植ゑつけ、さて一旦植ゑつけた以上は世間の人々のやうに、無用の気を費して、やたらに手を加へたりしないまでのことです。兎角多くの人々は、植ゑつけの後、ついたかどうかと心をやつして、朝夕となく工夫をこらし、甚しきに至つては心配のあまり爪で幹を掻いて生気の有無を試みたりするが、私は一切そんな事をしないのが、秘伝と申せば秘伝でせうかと申したといふことです。
 さういふお話の末に、先生のお話は段々と官尊民卑のことに移り、兎角明治以来折角民間の事業がよく発達しかけても役人が干渉に過ぎ所謂助長の弊、世話をやき過ぎて却てその結果を悪くするといふことについて、縷々と御高説を拝聴したことでありました。私もかねてさうした枝葉に拘泥して根本を枯らすといふ行き方には十二分の警戒を以て対しなければならぬといふのが持論でありましたから、先生の御説もまことに肯綮に当るおもひで窺つたのでありました。明治四十一年のことでしたか、高千穂中学校の新築校舎落成式に際し、その時には某伯や某男などもお見え下さつたのでしたが、その席で青淵先生はフト私を顧みられ、川田先生はお役人が嫌ひですからねえと申され、笑はれたことのあるのを思ひ出しますが、さういふ風に、先生は私の教育の方針については深く御共鳴、御同感下さつてなにくれとなく常に御庇護を賜つた訳で、私としましては誠に男子として本懐此上もない知遇に与り得ることが出来たのでありました。御鴻恩の忘却し難い所以であります。
      以心伝心
 実を申上げますと、私は東京帝大で漢学科を専攻致しました者で、中学時代にも毎朝学校へまゐる前、漢学の先生の所へ立寄りましては特別に四書五経の講義などを聴いてをりましたやうな訳で、私の教養と申すものはすべてその漢学が根柢となつてをります。その上、同村の先輩である先に申した隈山谷干城将軍に、十三・四歳の学童時代から接してをり、日本の神道のお話を伺つたり、将軍の祖先谷秦山先生の全集を見せていたゞいたり、これなどは拝借して浄写したものですが、さうして日常坐臥の間に水の浸込むやうな深い人格的薫陶を受けたものでした。余談に亘りますが、その谷子爵の曾孫に当られる方が先年東京帝大の西洋史科を御卒業で、唯今では高千穂中学の先生をお
 - 第45巻 p.536 -ページ画像 
勤め願つてゐるといふ訳であります。
 余談はさておき、秦山先生は山崎闇斎先生一派の学風を受けられた気骨傑れたお方で、藩主山内家から重く用ゐるとのお声がかりのあつた折も退いて仕へず、そのため秦山先生のおかくれになつた際には、貧困の極、喪を発すること能はずといふ悲惨な状態に陥つてをられたといふ逸話さへ伝つてゐるくらゐで、それによつて察するも平生守る所の堅かつた高潔な人格者であられたのでせう。従つて、将軍の風格の中にもおのづからさうした祖先の血の流れてをつたことはいふまでもありません。その谷将軍に幼少の頃から親炙してゐたといふことが自然私をして、神道と儒教の精神を打つて一丸となし、その調和融合を実現せんとする、かの山崎闇斎先生の学風を敬慕せしめる結果に導いたのでありませう。いま崎門の学風といつたものを一言にして申すならば、保守即進取とでも申せませうか、或人が闇斎先生を捕へて、たとへば支那が孔子を大将とし、孟子を副将として我が神国を攻撃に参つたならば如何と尋ねられたる時言下に、一撃以てこれを破らん、これ孔孟の道なりと喝破せられたと申しますが、さういふ夷狄の教をも取つて以て我が国粋を豊かにする糧とすると共に、あくまでも己の本道を失ふところのない、柔軟で、しかも堅固な、真の日本的なる和の精神は、かやうにして幼少の頃から私の心中に深く養はれ来つたものでありますが、その点に関しましても青淵先生は悉く私の信念、私の主張を御喜び下さつてほとんど以心伝心の裡に共感共鳴の感激を覚えたことも実に一再に止まりません。しかも私の先生に於ける思想的交流は、けつしてさうした隠微の黙契に終始したのではなく、現に先生は私に対して機会ある毎に、かの○○○○翁の先見と長所とを讚へられると同時に、教育の方針に関する限り、つひに翁と意見を同じうすることの出来ないといふことを明言せられ、日本肇国以来の国粋の尊貴なる、忠孝の美風、家族制度の良俗は、校名の高千穂と共に永久に子孫の間に輝かしめねばならぬ所以を強調せられたのであります。私も段々と年をとり、今年は早や古稀の齢を迎へ、かつては少壮の客気にまかせ、先生の膝下に跪いて、臆面もなく卑見を陳べ、大言壮語したことを思ひ起しますと、まことに汗顔に堪へざるものがありますたとへばこんな事もありました。――高千穂学校の校庭には、松蔭先生の士気七則をしるした碑が建てられてをりますが、その裏面に私が「死」の一字を書き、彫刻させたものが現存してをりますが、生徒からよくこの「死」といふ文字の所以を聞かれるのです。さういふ場合私はいつも静かに、それは他でもない、死なない人間になれといふ心持を托したものだと説明して来ました。つまり、何も大将になれとか大臣になれとかいふのではなく、青淵先生が常に申された所謂甘くもないが辛くもない、何時いたゞいてもイヤと思はない米のやうな、人に飽かれない仁義の徳ある尊い人間になるやうにと説明してゐる次第ですが、さういふ私が、左様明治四十五年、たしか四十歳の年でしたが、大病を致しまして、回生病院といふへ入院致しました。○中略 さういへば明治二十七・八年戦役に武勲を輝した山路独眼竜将軍の青山斎場に於ける告別式当日のことでありました。私は帝大の上級生で、同
 - 第45巻 p.537 -ページ画像 
郷の学生を代表して弔詞を読んだことがありました。その席には、多分青淵先生も御列席であつたかと思はれますが、私の熱誠をこめた朗読は、光栄にも特に霞山近衛篤麿公の感動を買ひ、現下の帝大学生中かくの如き熱血男子あるかといたくも激賞せられ、あれは何人なるかと時の大学総長浜尾新先生にお尋ねあつたといふことを後に到つて当の浜尾先生から承つたのでありましたが、それかあらぬか後年公がその最愛の令嬢(大山公令夫人)をして高千穂小学校に入学せしめられまた、公の学習院院長時代の生徒たりし今の伯爵有馬頼寧氏は、その学習院在学中、その中等科第三学年より第五学年に至る最も大切なる期間を、公の御紹介によつて私の家塾へ入門せられ、そこから学習院へ日々通学せられたのであります。なにか大変自賛めいた話にも聞えて、或は少からずお聞苦しかつたかとも思ひますが、上来私が我が校出身の人材を挙げたり致したのも、本意はそれによつて私の功を矜らうといふのではなく、いはゞ私が教訓を与へたといふよりは、むしろ私如き者からさへ教訓を取り、身を立てて功を遂げられた幾多の人士をもつ、幸福と喜びとをあらはしたかつたからであり、またさうすることが青淵先生に対する頌徳として、最も適つたことであると信じたからでもあります。さらには、私のやうな者が教育家として過分な栄誉を担ふことが出来ましたのも、実に教育といふものが決して郷原的な所謂人格者や道徳家によつて達成されるものではなくて、むしろ一個の人間として渾身の熱情を傾けて直接に子弟の心魂に訴へるといふところにあるからだと思はれ、もしまた菲才不徳の私にさうした誠意熱情すら欠けてゐたとするならば、決して青淵先生の恩顧を受くるの機会に恵まれることもなかつたらうと思はれます。自分を先生に比べるやうで憚多いことではありますが、先生もその青壮の時代には極めて熱血的国士であつたと伝へられます。私も今日古稀の老翁となり、客気の青壮時代を追懐してまことに感慨に堪へないものもある次第で私も先生にあやかり、長生の上、論語と算盤とをもち物心両方面から大東亜政策を考慮したいと存じます。(三月廿四日――文責在記者)