デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
15款 二松学舎 1. 財団法人二松義会
■綱文

第45巻 p.544-547(DK450204k) ページ画像

明治43年7月7日(1910年)

是日栄一、華族会館ニ於テ開催セラレタル当会第一回顧問会ニ出席シ、二松学舎ノ拡張ニ資スベキ基金募集ノ議ニ与ル。後、金三千円ヲ寄付ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK450204k-0001)
第45巻 p.544 ページ画像

渋沢栄一日記  明治四三年          (渋沢子爵家所蔵)
七月七日
○上略 六時華族会館ニ抵リ、二松義会ノ開催スル晩飧会ニ出席ス、土方・阪谷・小松原氏等来会ス、夜食後マテ種々談話ヲ為シ夜十一時王子ニ帰宿ス


二松学友会誌 第二七輯・第八四―八五頁 明治四五年一月 財団法人二松義会記事(DK450204k-0002)
第45巻 p.544-545 ページ画像

二松学友会誌  第二七輯・第八四―八五頁 明治四五年一月
    財団法人二松義会記事
  自明治四十三年一月至同十二月二松義会第八回会報
      第一 経過紀要
○上略
一、七月七日ヲ以テ顧問会ヲ華族会館ニ開キタリ、義会理事皆出席シ入江会長開会ノ辞ヲ述ベ、細田理事義会成立ノ来歴及将来拡張ノ原案ヲ述ベ、以テ顧問諸氏相当ノ助力アランコトヲ求ム、中洲先生二松学舎創立ノ精神及学舎三十余年間ノ盛衰変遷ヲ述ベラル、其ヨリ顧問諸氏ノ評議ニ入リ、細田理事提出ノ原案中資金調達ノ方法ヲ議成シテ散会セリ、当日出席セラレタル顧問ハ左ノ如シ
 土方伯  阪谷男     渋沢男
 福島男  小松原前文相  三島中洲翁
一、右顧問会評議ノ結果、小松原前文相ハ秋涼ノ好時節ヲ待チ義会ノ為メ東京ノ有力ナル実業家ヲ招キテ義捐ヲ勧誘スルコトヲ諾セラレシガ、事故ノ為メ来年度一月ヲ以挙行スルコトヽ為サレタリ
○中略
      第二 本年度義捐申込額及其人名
一金一万六千九百五十五円
   内訳
 - 第45巻 p.545 -ページ画像 
  金二十円(第五回)     久保雅友君
  金五円           間野遺秉君
  金百十円(但勧業債券額面) 細野伝次郎君
  金三百円          高頭仁兵衛君
  金四十円(第三回)     速水柳平君
  金五十円(第二回)     細田謙蔵君
  金三百円          小野正弘君
  金五円           栗島辰夫君
  金二十円          福沢定興君
  金三千円        男爵渋沢栄一君
  金五円           久松林之助君
  金五円           森鉄五郎君
                三島毅君
  金一万三千九十五円
                三島復君
   但二松学舎敷地二百十八坪二合五勺一坪六十円ノ見積
 累計二万四千九百七十一円九十二銭
○下略


二松学友会誌 第二六輯・第五三頁 明治四四年四月 財団法人二松義会紀事(DK450204k-0003)
第45巻 p.545 ページ画像

二松学友会誌  第二六輯・第五三頁 明治四四年四月
    財団法人二松義会紀事
○上略
其後顧問も既に数名の多きに達したれば、去る七月中に顧問会を華族会館に開き、三島毅・土方久元・阪谷芳郎等の諸顧問、入江為守・細田謙蔵・池田四郎次郎・速水柳平の諸理事出席の上、会務拡張に付協議せり


二松学友会誌 第二八輯・第四七頁 明治四五年八月 財団法人二松義会記事(DK450204k-0004)
第45巻 p.545 ページ画像

二松学友会誌  第二八輯・第四七頁 明治四五年八月
    財団法人二松義会記事
  自明治四十四年一月至同年十二月二松義会第九回会報
      第一 経過紀要
一、前年度会報ニ記シタル顧問小松原英太郎氏ハ、本年度一月十六日東京市内居住ノ実業家諸氏ヲ華族会館ニ招キ、本会ノ為ニ尽力有之度旨ヲ依嘱セラレシニ、其結果トシテ諸氏ヨリ続々入会ヲ申込マレタリ
○下略


二松義会二松学舎略史 第二頁 大正五年四月刊(DK450204k-0005)
第45巻 p.545 ページ画像

二松義会二松学舎略史  第二頁 大正五年四月刊
    財団法人二松義会略史
○上略
明治四十四年一月十六日顧問小松原英太郎氏ハ、都下ノ紳商数十人ヲ招請シ、本会ノ為メニ尽力センコトヲ依嘱セラレタリ、是ヨリ本会ハ一段ノ発展ヲ見ルニ至レリ
○下略

 - 第45巻 p.546 -ページ画像 

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK450204k-0006)
第45巻 p.546 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年          (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 晴 寒
昨夜又腹瀉セシニヨリ○中略 夕方二松学舎ノ事ニ関シ、小松原文相ヨリ会同ノ筈ナリシモ、電話ヲ以テ之ヲ謝ス○下略
一月十七日 曇 寒
○上略
細田謙三《(細田謙蔵)》氏来リ、昨日小松原氏官舎会合ノ状況ヲ縷述ス○下略


二松学舎六十年史要 国分三亥編 第二五一―二五二頁 昭和一二年一二月刊(DK450204k-0007)
第45巻 p.546-547 ページ画像

二松学舎六十年史要 国分三亥編  第二五一―二五二頁 昭和一二年一二月刊
 ○附録 追懐談
    二松学舎と私            細田謙蔵
○上略
是れより先、中洲先生から当時上京中の鹿児島造士館の教授山田準君を使として、次の様な申し入れがあつた、「細田は富山から帰つて来た時に、二松学舎の維持会を起して二松学舎をもつと盛んにしてやると云つて、そのまゝになつてゐるが、此の際その意志を実行してぜひ大いにやつてくれ」と仰せられたと云ふ事であつた。その時私は山田君に「私は今二松学舎に出てゐる傍中学にも勤めて居て、これで私の力は全部出し切つて居るからこれ以上はつくせない、一つ君がやつたらどうだ」と云ふと、山田君は「それはやり度いけれど、何分自分は鹿児島に居て十分な事が出来ないから、どうか君がやつてくれ、実際の仕事は若い者にまかせておいて、指図だけして欲しい」と云ふので「それはいかん、私は請け合つた以上は自分でやらねば気がすまない性分だから、さう云ふ無責任な事は出来ない」「いややつてくれ」と云ひ合つた結果「それではもう一奮発やらう」と受け合ひ、すぐ二松出身の古い人二十五人の名で趣意書を作り「二松義会」と云ふものを作つた。さうして日中は中学と二松学舎の為めに教授し、夜は義会の事務を執つた。その時に発起人二十五・六人の名で寄附金を集めた。その勧誘状を同志数千人の人に送つた其はまことに忙しい思ひをした池田精一・池田四郎次郎等の諸君と趣意書を発表した結果、ぼつぼつ集つては来たが、しかし中々はかばかしくない。結局千円内外と云ふ情けない結果であつた。しまひには発起人迄が「二十五名の人がいつたいいくらの金を集めるつもりか、善く出来てたかだか二・三千円程度であらうが、そんな金で学校が維持出来るものか」などと私を冷かす始末であつた。私はかう云ふ事を始めた以上、少くとも数万の金を集めねば先生に言葉がない。これはぜひ自分の手で実現してみせると私は一生懸命やる事にした。子爵入江為守君を推して会長とし、時の文部大臣小松原英太郎氏を顧問にたのみ、文部大臣の名で東京屈指の金持を集め相談会をやつた。結局其の会は文部大臣が開く事とし、渋沢栄一とか大倉喜八郎とか有数の金持を十数人華族会館に招待して寄附金の事をたのんだ結果、その席上で寄附金を書き込んでもらつたが其の結果はまことに良好であつた。其の時に席上で三万円内外の寄附がありまして、自分は非常に嬉しかつた。家へ帰る途中で嬉しさの余り絶句が一首出来た。其辞に曰く
 - 第45巻 p.547 -ページ画像 
 荒廃窃歎桃李園。滋培欲報老師恩。平生強骨今何軟。枉拝幾多朱頓門。
それ以来金を集めて、いよいよ明治四十四年の四月に七・八万円の寄附金を置土産として奈良へ赴任したのである。
○下略