デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
15款 二松学舎 1. 財団法人二松義会
■綱文

第45巻 p.547-549(DK450205k) ページ画像

明治44年3月31日(1911年)

是月二十三日、当会ニ対シ皇太子殿下ヨリ金三百円下賜アリ。是日、二松学舎講堂ニ於テ拝戴式挙行セラル。栄一之ニ臨ミテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK450205k-0001)
第45巻 p.547 ページ画像

渋沢栄一日記  明治四四年          (渋沢子爵家所蔵)
二月四日 晴 寒
○上略 銀行倶楽部ニ抵リ、二松義会寄附金ノ事ヲ談ス、山本・豊川・大倉・馬越ノ諸氏来会ス○下略
  ○中略。
二月八日 晴 寒
○上略
午前十一時宮内省ニ抵リ、渡辺大臣ニ面会シテ二松学舎ノ事○中略ヲ請願ス○下略
  ○中略。
三月三十一日 曇 軽寒
○上略 午前十時番町二松学舎ニ抵リ、東宮殿下ヨリ御下賜金ノ事ヲ賀ス三島中洲翁其他ト談話ス、式場一場ノ祝詞ヲ述フ○下略
  ○中略。
四月二十日 晴 軽暖
○上略 白岩竜平氏来リ、二松義会寄附金ノ事ヲ談ス○下略


中外商業新報 第八八九四号 明治四四年二月五日 実業家連の会合(DK450205k-0002)
第45巻 p.547 ページ画像

中外商業新報  第八八九四号 明治四四年二月五日
    実業家連の会合
渋沢男爵・豊川良平・馬越恭平・山本達雄・大倉喜八郎の諸氏は、我国漢学の年々衰頽するを慨き、四日午前九時銀行倶楽部に会合し、三島毅翁の創立に係る二松学舎基金募集の件に付て協議し、近日の内一般有志者に向つて募集趣旨書を発することに決せり


竜門雑誌 第二七五号・第六四頁 明治四四年四月 ○二松学舎の光栄 東宮殿下の御手許金御下賜(DK450205k-0003)
第45巻 p.547-548 ページ画像

竜門雑誌  第二七五号・第六四頁 明治四四年四月
    ○二松学舎の光栄
      東宮殿下の御手許金御下賜
東宮侍講文学博士三島毅氏の創設に拘る麹町一番町四十六番地なる二松学舎は、明治十年の創立以来四十年余、専ら『仁義忠孝』の鼓吹に努め、東洋特有の道徳文学の普及に尽し来たりしが、此度永遠に学舎を維持せん目的より二松義会なるもの起り、卒業生中子爵入江為守氏を推して会長となし、愈々財団法人と為したるは四十二年六月の事なり、之れより二松学舎は全く義会の管理に帰し、翁の三男文学士三島
 - 第45巻 p.548 -ページ画像 
復氏舎長となり、博士は只督学として教務を執る事になりたるが、同舎の創設以来三島博士の尽されたる功績と、青淵先生が義会創設以来顧問として尽力せらるゝ事、而して同舎の創設以来の成績と二松義会の精神なる『仁義忠孝』の鼓吹とは、何時しか畏くも 東宮殿下の御聞に達し、三月二十三日村木侍従武官を経て、青淵先生を御召出しの上金参百円御下賜の御沙汰を賜はりたれば、青淵先生には直ちに出頭して恭しく拝受せられたるが、私塾として斯る恩典を被りたるは前例なき所なるを以て、無上の光栄として、同月三十一日午前十時より同舎講堂に盛なる拝戴式を挙行せりと云ふ。


竜門雑誌 第二七五号・第七一頁 明治四四年四月 ○二松義会恩賜金拝戴式(DK450205k-0004)
第45巻 p.548 ページ画像

竜門雑誌  第二七五号・第七一頁 明治四四年四月
○二松義会恩賜金拝戴式 別項記載の如く二松義会に於ては 皇太子殿下より特に御下賜金の御沙汰を蒙りたるは空前の光栄なりとて、三月三十一日午前十時同塾顧問の青淵先生御出席の上、同義会に於て恭しく恩賜拝戴式を挙行せられたる由。


二松学友会誌 第二七輯・第八六―八七頁 明治四五年一月 財団法人二松義会記事(DK450205k-0005)
第45巻 p.548-549 ページ画像

二松学友会誌  第二七輯・第八六―八七頁 明治四五年一月
    財団法人二松義会記事
  自明治四十三年一月至同十二月二松義会第八回会報
○上略
一、三月二十三日、東宮殿下ヨリ金三百円ヲ本会ヘ下賜セラレタリ
一、三月三十一日、東宮殿下ヨリ御下賜金之レ有リシニ附キ、二松学舎講堂ニ於テ拝戴式ヲ挙行セリ、当日三島督学(中洲先生)・入江会長、渋沢・阪谷両顧問出席セラレ、細田理事先ヅ開会ノ辞ヲ兼ネテ今回御下賜金之レアリシ顛末ヲ述ベ、次ニ入江会長ハ、今回ノ恩賜ヲ辱ウセシハ吾ガ孔孟ノ教ヲ奨励シタマフ御旨意ニ外ナラズト奉察ストテ、此ニ従事スル者ノ奮発勉励セザルベカラザルヲ述ブ、是ニ於テ三島督学ノ演説大要左ノ如シ
この度の御下賜金ありしは真に難有き次第なるが、これは決して此方より求め奉りしにあらず、御上より偶然賜はりしことである、自分の職務が日々東宮に侍して居るので或は求めし所ありしやと疑はれぬものでもない、又た疑はれてもよろし、兎に角余は求むといふ如きことはおくびにも出さなかつたのである、若しこれを出すが如きは私情たるを免れない自ら省みて疚しいのである、然るに此の如く思かけもなく御上より賜はりし次第は誠に有難き極みで恐懽に堪へないのである
渋沢顧問乃ち左の如く述べらる
此の度の恩賜に就ては、特に自分を召し出されて御沙汰ありしといふ関係あるに由りて、自分は一言述ぶるのである、惟ふに維新以来泰西の文明物質界に浸々と輸入せられて目覚しき発展をしたるも、精神界は如何と云ふに甚だ如何はしき状態を見るのである、是非忠孝仁義の根本義を発展せねばならぬ、恩賜の御意は此辺に存することゝ信ずる兎角人の弱点は一旦志を立てたるを半途にして屈撓変化するといふことである、此点に於て特に中洲博士の勲功は欽仰すべきである、一時は大学の講座にも漢文を見ざるの衰運なりしにも関せず、不屈不撓に
 - 第45巻 p.549 -ページ画像 
斯道の為めに尽力せられ、遂に将来永く学孫を断滅せしめさらんとするので、これに就て恩賜ありしは実に敬賀すべきことである
次に阪谷顧問又た演述せらる○下略