デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
15款 二松学舎 1. 財団法人二松義会
■綱文

第45巻 p.566-568(DK450214k) ページ画像

大正8年5月15日(1919年)

是年、三島毅ハ九十歳、栄一ハ八十歳ニ達セルヲ以テ、当会ニ於テ祝賀会開催ノ計画アリシガ、是月十二日三島毅逝去ス。是日栄一、青山斎場ニ臨ミテ弔辞ヲ述ブ。


■資料

二松学友会誌 第四〇輯・第四九頁 大正八年五月 財団法人二松義会記事 自大正七年八月至同年十二月(DK450214k-0001)
第45巻 p.566 ページ画像

二松学友会誌  第四〇輯・第四九頁 大正八年五月
    財団法人二松義会記事 自大正七年八月至同年十二月
○上略
一、十月二十九日、臨時評議員会を開き、大正八年には三島中洲先生は九十、渋沢男爵は八十の高齢に躋らせらるゝに付き、五・六月の交を以て賀筵を開くことを協議せしに、満場一致を以て可決せり
○下略


二松 第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第一二頁 昭和六年一二月 中洲文詩(DK450214k-0002)
第45巻 p.566 ページ画像

二松  第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第一二頁 昭和六年一二月
 ○中洲文詩
    己未春賀渋沢男八十
夙謝朝官伍市民。男明治之初為大蔵少輔無幾辞之隠東京市欲将財務済人群。創開垂範新銀行。創立第一銀行為天下模範大著酬恩旧将軍。男原仕徳川厚山公一橋邸近年私開史局嘱博士学士著公伝記数十巻以報旧恩遠継先賢哀此煢。男継幕老楽翁公遺志拡張東京府養育院常尊古論重斯文。男平生尊信論語為処世方針聖言仁寿不欺我。八十康寧為世勤。
                   九十翁三島毅拝草


二松学舎六十年史要 国分三亥編 第五七頁 昭和一二年一二月刊(DK450214k-0003)
第45巻 p.566 ページ画像

二松学舎六十年史要 国分三亥編  第五七頁 昭和一二年一二月刊
 ○第一編 第二章 歴年沿革
    大正八年
○上略
 五月十二日午後六時中洲先生九十歳の高齢を以て薨去せらる。特旨を以て正三位に叙せられ旭日大綬章を授けらる、十四日勅使を差遣し幣帛及祭粢料を賜はる、同十五日葬儀を青山斎場にて挙行し、市外荏原郡池上村字小池に葬る。
 督学に土屋弘を推戴す。
○下略
  ○明治四十二年二松義会成立シ二松学舎ハソノ管理ニ帰ス。依ツテ同四十三年一月学舎ニ督学ヲ置キ三島毅ヲ推ス。(「二松学舎六十年史要」ニヨル)

 - 第45巻 p.567 -ページ画像 

渋沢栄一 日記 大正八年(DK450214k-0004)
第45巻 p.567 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年          (渋沢子爵家所蔵)
五月十五日 曇 軽寒
○上略 午前九時青山墓地ニテ三島中洲翁ノ神葬アリ、霊前ニ於テ弔詞ヲ述フ、道徳経済合一論及論語算盤説ヲ詳述シ、翁トノ交誼ニ関シ詳細ニ由来ヲ説ク○下略


竜門雑誌 第三七二号・第四〇頁大正八年五月 ○三島中洲翁逝去(DK450214k-0005)
第45巻 p.567 ページ画像

竜門雑誌  第三七二号・第四〇頁大正八年五月
○三島中洲翁逝去 二松学舎の創立者従三位勲一等文学博士中洲三島毅氏は長く病気の処、五月十二日午前十一時三十分遂に麹町区一番町の自邸に於て逝去せり、享年九十歳、葬儀は同月十五日午前九時青山斎場に於て神式を以て執行せられ、青淵先生には二松義会の会長にもあり、殊に縁故浅からざる間柄なるを以て式場に参列せられたる由


財団法人二松学舎第拾七回決算報告 第一頁大正九年二月刊(DK450214k-0006)
第45巻 p.567 ページ画像

財団法人二松学舎第拾七回決算報告  第一頁大正九年二月刊
    自大正八年一月至同年十二月二松学舎第十七回決算報告
      第一 経過紀要
○上略
一、五月十二日督学三島毅氏薨去セラレシニ付、本学舎ハ弔意ヲ表シ三日間休業セリ、尚又青山祭場葬儀ノ節ハ渋沢舎長ハ舎員ヲ代表シテ弔辞ヲ述ベラレタリ
○下略


竜門雑誌 第三八二号・第二五―二七頁大正九年三月 ○故三島中洲先生の霊前に於て 青淵先生(DK450214k-0007)
第45巻 p.567-568 ページ画像

竜門雑誌  第三八二号・第二五―二七頁大正九年三月
    ○故三島中洲先生の霊前に於て
                      青淵先生
  本篇は昨年五月十五日故三島中洲先生の葬儀場に於て青淵先生が二松義会々長及個人として先生に対する感想を披瀝せられたる弔辞の概要、即ち是なり。(編者識)
 私は二松義会の会長として又一面には個人として、中洲三島先生の葬儀に当りて先生に対する感想を吐露したいと思ひます。順序は違ひますが個人関係から述べることゝ致します。
 私は明治十三・四年頃、他人の紹介によりて先生と御識り合になりましたが、色々と御説を伺ひますと誠に能く話が合ひました。先生は決して訓詁学者でなく唯今神官の読ました祭文の中にもあります通り先生は学問を活かして用ひられました。又義利合一説を書かれまして常に其趣旨を宣べられました。是は全く私の宿志と一致しました。
 明治四十年頃、先生は道徳経済合一論といふ論文を著述されて、其冒頭に中庸の誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり、といふ本文から説き起し、更に書経・周易・礼記・論語・孟子等の古経書を引用されて、此れが道徳中の経済である、彼れが経済中の道徳であると一々例証を挙て詳細に説明されました。この御説は私の平生実行する所と一致して居る様に思ひました。
 私の七十歳になりました時に、一友人から祝賀として贈られた書画
 - 第45巻 p.568 -ページ画像 
帖中に、論語と算盤シルクハツトと朱鞘の刀を描いたものがありました。先生は之を見て怪んで問はれましたから、私は之に答へて此シルクハツトの礼帽と護身の利剣は、一見反対の不調和ながら熟視すれば能く調和するものである。又論語と算盤も同じくして、道徳と経済とが相依り相扶けて初めて世の用を為すのであるといふ意味を寓したのでありますと答へましたら、先生拍手して是は妙だと賞讚され、終に論語と算盤説といふ一文章を作りて私に下されました。而して其文章も詰り道徳経済合一といふことを、語を換へて説明されたのであつて其中にも亦各種の経書を引用されて両者の関係を委しく述べられてあります。私は先生にして初めて学者の側から道徳と経済とを全く密着せしめたといふことを喜ぶのであります。私は又四十余年来身を実業界に投じ、常に生産殖利を経営して、而して正義人道を誤らぬ商人となりたいと期念しましたから、先生と親睦して学者の方面から能く相照応して、私の履行する所の経済が先生の道徳と一致いたしましたと思へば、誠に無限の感を興すのであります。上来陳述したる理由から私は先生を老師とし、畏友として常に教を乞ふて居りましたのであります。
 然るに一昨年入江二松義会会長が辞任されて選挙の末、私が其後任に当選したと言はれたるにより、平生より先生の為めに努力したいと思ふて居りましたこと故、敢て之を引受けることゝ致しましたが、私は能く先生の平生を熟知して居りますから、先生は必ず百歳の寿を保ち得らるゝと予期して、二松学舎の拡張も充分の歳月があると思ふて油断したるの罪なるか、又は私の不肖其勉強の足らざりしか、学舎の拡張事業未だ其緒に就かざるに、先生は道山に帰へられて、今日此の霊前に於て不満足なる報告をすることゝなりましたのは、洵に慙愧に堪へぬのであります。故に将来大に奮励して先生の遺業を完成せんことを期せねばなりませぬ。
 余事でありますが、私は斯文会にも関係して居りますが、同じく孔子の道を尊崇する団体であつて、先生にも生前に種々御尽力があつたのであります。二松義会も今日では無論中洲先生一家の会には非ざれども、先生の篤学励行よりして今日あるに至り、殊に私に対して十分に頼むとの御遺言は、私に於ては死しても忘るゝことの出来ぬのであります。故に私は将来飽く迄も微力を尽さうと思ふて居ります。但し私も既に八十歳の老齢にして前途幾何も無いのでありますから、別して激急進行せねばなりませぬ。之を以て弔辞と致します(満堂嗚咽の声あり)。


渋沢栄一 日記 大正八年(DK450214k-0008)
第45巻 p.568 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年          (渋沢子爵家所蔵)
六月二十九日 晴 暑
○上略 午後三時二松学舎ニ抵リ、三島中洲翁ノ五十日祭ヲ訪ヘ○下略