デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
15款 二松学舎 2. 財団法人二松学舎
■綱文

第45巻 p.613-618(DK450229k) ページ画像

昭和3年12月5日(1928年)

是日栄一、二松学舎専門学校ニ到リ、学生ノタメニ講話ヲナス。


■資料

集会日時通知表 昭和三年(DK450229k-0001)
第45巻 p.613 ページ画像

集会日時通知表  昭和三年        (渋沢子爵家所蔵)
十二月五日 午前十一時 二松学舎ニ御出向


二松 第二号昭和四年七月 渋沢子爵講話 昭和三年十二月五日於二松学舎専門学校(DK450229k-0002)
第45巻 p.613-617 ページ画像

二松  第二号昭和四年七月
    渋沢子爵講話
           昭和三年十二月五日於二松学舎専門学校
 私は只今国分先生から紹介された渋沢であります。最初に皆様に御断りすることは、主治医よりの注意に従ひ、絶えず頸巻をして居る訳で、失礼ではございますが其点は御免を願ひます。
 渋沢は本日本校に出まして皆さんに御目にかゝる事は、曾て国分先生や山田先生から懇望せられまして、必ず参ると御約束致しましたことを幸ひに本日其の約束を果し得ましたので、皆さんも御喜び下さる
 - 第45巻 p.614 -ページ画像 
ことゝ思ひますが、其れ以上に私は嬉しく感ずるので有ります。
 只今国分先生から御丁寧なる御紹介に預りまして、寧ろ溢美の嫌がありはせぬかと思ひます。然し故中洲先生に対する、私の深い感情の御交際は唯今御紹介下された国分先生の御話は違つて居るとは申ませんが、寧ろ其れ以上と申上げ度いのでございます。
 私は子供の時分には四書を読み、五経も素読しましたが、俗に申す百姓読みであります。其の外多少漢籍を見ましたけれども、それが決して漢籍を嗜んだとは申されぬのであります。
 大儒者である三島先生と、深い交際があつたと御話しては、或は自ら衒ふと皆さんが誤解なさるかも知れませんが、決して左様ではないのでございます。此れは先程の国分先生の御話の通りであります。所謂肝胆相照すとでも申しませうか、方面違ひの両人が御互に相助け合ふと申しても敢て過言ではないと思ひます。只今から其の成行を御話することに致します。
 こんな事から御話するのは筋違ひの様でありますが、此の事に就て少しく申上げ度いと思ひます。それは私が中洲先生に対する尊信の念を強めたのは、亡妻の碑銘を書いて頂いた時でありまして、其の碑銘を手にして、成程漢文の力と申すものは斯く迄に偉大のものであるかそれは三島先生に於いてさうであると思うて、先生の漢文に強い尊敬を持つたのでございます。今申したことは余談で、其の上自分の先妻のことを御話しすることは頗る可笑しい事でございますが、先妻は明治十五年に死にました。私の妻は、学問の先生でもあり、成長する間深い御世話に預つた恩師の妹であり、艱難の裡に私を能く助けてくれた関係もある上に、俄に病んで死んだのですから、私は其の死を非常に悲しみまして、碑文を先生に書いて下さいと十七・八年頃御頼みしました所、先生は詳しい御話を聞かなければ書くことは出来ぬと言はれ、結婚の動機から死ぬ迄の色々の事に就て御尋ねがあり、殆んど裁判所へ出て取調でも受ける様な具合に御聞になりました。
 碑文を草せられたので、拝見すると、何とも言へぬ感に打たれ、流石は中洲先生であると尊信の念を一層深くしたのであります。御話が亡妻の事に迄及んだのについては、御免を願ひます。御話は変りますが私が海外に行きましたのも、単なる私事でなく、国家的の観念所謂志士としての心持で参りましたのであります。未だ其時分は実業界に出ましたばかりでありましたが、私は朝に之を聞き夕に実行すべき底の道を説いて居る孔孟の教を準縄として、実業に進まねばならぬとの信念を持て居りました。然るに其当時の実業界の人々のなかには、古めかしい漢学が、何で吾々に利益があると罵倒した人もあるさうであります。
 私は実業界を、漢学即ち学問の働きで、何とかせねばならぬと先生に所信を御話し申上げたところ、至極同感である、然し世の中の人の言ふことが間違つて居るのには困たものだと申され、御互に話を進める間に、終に先生は、自分は学問の方から実業を説き、あなたは実業の方から学問を説かれ御互に相助け合つて、論語と算盤との義利合一論を主張唱道しようではないかとの御話しでありまして、此れから一
 - 第45巻 p.615 -ページ画像 
層先生との御交際は深くなりました。私は今も猶先生の教に従て、義利合一説を必死に唱へて居ります。此事は死ぬまでしなければならないと思つて居ります。
 中洲先生と渋沢栄一とが如何に深い交りをしたかは、個人的に御話したことがあるかも知れませんが、斯様に皆さん方が御集りの様な席で御耳に入れるのは初めであります。私は此の話に対して、中洲先生の霊も其通りと御頷き下さるであらうと思ひます。
 国分先生から話された通り、中洲先生が自分の亡き後は、渋沢がよいと私を舎長に推されたときに、私に詩を贈られました。其の詩を今日は持参致せばよかつたのでありますが、つひ取紛れ持つて参らなかつたことは皆さんにおゆるしを願ひます。其の時の詩の句は、全体を覚えて居りませんが、結句は確か「青淵の水は洙泗より来る」であります。青淵は私の雅号で、洙泗とは孔子の学を指すのでありまして、青淵の水は敢て洙泗より来たものではありませんが、要するに中洲先生は、私が此処の舎長になつて呉れゝば後輩が恩恵を受けると云ふ意味を申されたのかと思ひます。斯様に私を思つて下さつたことは非常に嬉しく存じて居る所でございます。
 先生の御考の様に私は決して皆さんに恩恵を与へ得るものではありません。只中洲先生は左様に思うて下さつた。今日かうして皆さんに御目にかゝるのは、甚だ御恥しいことでありますけれども、今の様な先生の御言葉に対して、何にも役に立たぬ舎長の名を冒すことは済まぬと思ひながら、国分先生や山田先生から仕事は今後吾々がするから名だけ持てと云はれるので即ち名だけで今日は罷出ました訳で御座います。右の理由ですから皆様に対しては何も為めになる事は申されません。皆さんが大人である中洲先生を能く御理解になりまして、此処で学ばれるからには、必ず其の主旨と思召を倍々強めて下さることに努めて下さいますれば、私の面目も立つ訳でございます。此事は特に申し上げ度いのでございます。
 別に講演として申上る様な材料も持て居りませんが、私は論語が好きであります。学而・為政・八佾と論語の二十篇の何処に何と云ふ事があるとは、未だ挙げられませんが、唯文字に拘泥せず、精神に依てこの事は斯くやつて行くべきであると云ふ風に、目で読むのでなく、心で読むのでなければいけないと考へて居ります。
 私は道徳と経済との合一、道徳と政治とが一致せねばいかんと思ひます。どうも今日の学問の仕組が宜しくない。左様に申しますと現今の学制を非難するやうに聞かれては反て恐入りますが、今日学問の制度と云ふものが智育と云ふ方面から来た為めに、其方にのみ傾いて居る様に思はれます。智育の為めに悪くすると害を与ふる風にまで偏して居る様に私には思はれるのであります。中庸に「好学近乎知。力行近乎仁。知恥近乎勇。」と説いてありますが、知仁勇の字句も之から出たのであらうと思ひます。近頃の俗に申す物識りと云ふ科学者がありますが、第一新しい言葉を使ひ、それが国の名であるか、又は品物の名であるか、或は人の名であるか分らない様なのがある。其れを覚えて来て父に尋ね、知らないからとて親を馬鹿扱ひにするものがある
 - 第45巻 p.616 -ページ画像 
皆さんの内には無いだらうが、さういう人が幾らもある。之は学問の弊であります。論語にはそんなことは教へてありません。巻を開くと先づ第一に「学而時習之不亦説乎。有朋自遠方来不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。」とある。これは孔子が相当の歳に考へられたことを云はれた様に察せられます。其次に有子や曾子などの説いて居ることは、実に学生の皆さんに必要な事が言うてある。有子は孔子の十哲の中には這入つて居りませんが余程優れた人の様に存じます。有子は「其為人也孝弟。而好犯上者鮮矣。不好犯上。而好作乱者未之有也君子務本。本立而道生。孝弟也者。其為仁之本与。」誠に教育の根本から説いてあります。所が今日孝悌の教を教へる所が何処にあるか、否な無いとは申しません、此の二松学舎がそれである。私は今日此処に参りまして実際それは真実と感じたから申すのであります。
 然らば論語ばかりで身が治まるかと非難する者もありませうが、教育勅語を拝見しても論語の精神が這入つて居ると申上げ度く思ひます今日二松学舎に来て、たとひ世間が何と思うても、平常信ずることを多数の皆さんに聞いて頂き度いから申上げるのであります。
 論語の講議を申し上げるのではありませんから、一々何はどうと陳べ立てゝ申し上げませんが、いつたい今日の世間は本を大切にして真に曾子の説いた様に「吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。与朋友交而不信乎。伝不習乎。」と云ふ様に、自反的と言ひますか、自ら抑制し、反省する精神に乏しいやうに思はれます。何も間に合へば宜いと云ふよりは、終に論を以て大なる胡魔化しをします。其れは泥棒である。斯く申すと或る仕事に少しでも金を掛けてやるよりも、結局泥棒するのが一番宜いことになる。即ち只取て来る程安いものはない。孔子の教にはさういふ事は教へてない、必ず其の品物に対する価を払うて、お互に利益するのであります。これが、私が実業界に主張する処であります。同じく事を争ふにも、悪い富は絶対に排斥して取らぬのであります。之をわかり易く申しますと、智慧を絞て労力を費して出来た品に対して、相当の利益で売り、買ふ方もそれだけの価値を認めて買ふと云ふ風に、両者が智慧と努力とによつて得るところの利益が真の利益であります。総べて争ひに因て生ずる利益は悪い利益であります
 株式の様に何も労力を使ひませんで、単に買ふとか売るとかでやる又有るとか無いとかきめて、有ればそつちへやる、無ければこつちに取ると定めて、利を争ふ博奕と云ふものがさうで、唯全く運でやる。之れは商売とは云へぬ。商売といふものはさうではない。此の品を拵へて売る為めに、其拵へる人は相応の智慧と労力を砕いて拵へ、それに対して相当な利益を得て売る。それを買つた人は、之を以て便利を得て、大に利益する所がある、かういふのが真正の商売で、これこそ真に中洲先生の御説の義利合一であります。自分の利益しただけ、人の損するのは即ち博奕で、商売と博奕の差別は斯の通りである事は、皆さんは能く御了解になりましたと思ひますが、兎角に紛らはしく考へる人があります。
 私は明治六年から大正五年迄四十余年の間第一銀行の頭取を勤めて居りまして、刻々の間にも利を争ふ様な商売を致して居り、学者など
 - 第45巻 p.617 -ページ画像 
から申しますと、卑しい商売の様に思はれますが、此間世間から何とか云はれたかも知れませんが、私は自己の利慾を貪る為めに銀行の頭取をしたのではありません。勿論利益を得ることに努めましたが、その利益は先方も吾も御互にする利益で、丁とか半とかで極める利益でない、最も完全に義に叶つたものと信じて居ります。中洲先生が学問の方からやつて居られることを、私は実業界にあつて、事業の方からやつたので、つまり中洲先生と御約束したことを実地にやつて来たのでございます。只今申し上げましたことは、前に申し上げたことを繰返して云うたのに過ぎません。私が身柄にもなく、三島中洲と云ふ大儒者の後に立つて、此の学舎の長になつたことは、余りに不似合なことでありますけれども、只今申し上げた様なわけで、立つたのでございます。
 中洲先生から舎長を頼まれました時、私は先生の様な御丈夫な御身体に比べて、其れまで生きて居られるかどうか分りませんと申ました其の時先生は八十幾歳かであつて、九十になられた前だつたと思ひます。先生はあなたは私よりも十余りも下であるからやれる。兎に角息のあるまでやつてくれと仰せになり、私としても九十の歳を先生同様に迎へる事は、其当時予期して居りませんでしたが、止むを得ず御言葉に従ひ、御引受けした様な訳であります。ところが本年十二月、今一ケ月過ぎると、とうとう私も九十歳になりますが、私が九十になると、先生の霊に九十歳の御告げを申し上げ度いと存じて居ります。
 先生の御勧めに因つて、学舎長を御引受けした以上は多少たりとも力を尽さねばなりませんし、又幾分でも尽したいと思うて居ります。色々な事柄に就てはとても先生になぞらへる程の事はありませんけれども、相ならぶ事の出来ないと思つた寿だけでも、相近づくに至たのは先生の御恵み、御蔭であると、深く喜ぶところで、在天の先生の霊も亦、御喜びくださるだらうと思ひます。
 皆さんが将来御学びになりますのに、唯単に漢籍だけで、宜しいと申し上げるのではありません。総べての学問も、十分に御学びにならねばなりませんけれども、殊に儒教に対する、中洲先生の遺された多くの事柄に就てよく考へられて、軽佻浮薄な学問をなさらぬ様に御願ひします。本日はこれで失礼致します。以上。


渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第五九六頁昭和八年一二月刊(DK450229k-0003)
第45巻 p.617-618 ページ画像

渋沢栄一翁 白石喜太郎著  第五九六頁昭和八年一二月刊
 ○第四篇八漢学
    その三 二松学舎
○上略
 子爵と中洲との関係は、明治十六年子爵が前室宝光院の碑文を依頼したときからである。『碑文は人の姿を写すものだ、故人の人と為りを知らなければ書けない』と中洲が主張した為、子爵は曲さに宝光院の性行を述べた。之によつて出来た中洲の文は、今も谷中の渋沢家の塋域に『渋沢氏孺人尾高氏墓』の碑陰を飾つて居る。二人は爾来機会ある毎に会談したが、道徳経済合一論と論語算盤説とによつて特に深き共鳴を禁じ得なかつた。
 - 第45巻 p.618 -ページ画像 
○下略
  ○右ノ「渋沢孺人尾高氏之墓表」ハ本資料第二十九巻所収「同族」明治十五年七月十四日ノ条ニ、又、三島毅述「道徳経済合一説」ハ同第四十一巻所収「諸家ノ批評及ビ論説」ニ収ム。