デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
15款 二松学舎 2. 財団法人二松学舎
■綱文

第45巻 p.628-640(DK450234k) ページ画像

昭和6年12月1日(1931年)

是年十一月十一日、栄一歿ス。当学舎学長山田準・理事国分三亥並ニ生徒総代等弔問、十五日葬儀ニ際シテハ、生徒一同葬列ヲ送リ、理事佐倉孫三二松学舎代表トシテ青山斎場ニ於テ弔辞ヲ贈ル。是日、当学舎講堂ニ於テ追悼式ヲ挙行ス。又是月二十日発行ノ当学舎校誌「二松」第七号ヲ『青淵先生追悼号』トス。


■資料

二松 第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第一六九―一七〇頁昭和六年一二月 学校日誌抄(昭和六年五月廿三日ヨリ)(DK450234k-0001)
第45巻 p.628 ページ画像

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二松 第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第一五頁昭和六年一二月 弔辞 青山斎場 達山 佐倉孫三(DK450234k-0002)
第45巻 p.628-629 ページ画像

二松  第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第一五頁昭和六年一二月
    弔辞 青山斎場
                   達山 佐倉孫三
維昭和六年十一月十一日我二松学舎長子爵渋沢先生以病薨去。生等悲痛哀悼。胸塞気迫。不能成言。聊披瀝鄙懐。謹告其神霊。先生生誕之地。在秩父連峰之下。鎌倉幕府時。有畠山熊谷榛沢諸将。以武大著。流風余韻所存。出卓爾如先生者。所謂地霊人傑者是也。明治維新以来財界之雄岩崎・高島・安田・大倉諸氏相尋而凋落。独先生不騫不崩。保南山之寿。所謂碩果不食者是也。先生与先師中洲翁肝胆相照。因其懇嘱。為我舎長。経営尽瘁。以致校運之隆昌。而一朝溘逝。生等不能無盲亀失浮木之感也。因思先生九十有二歳之閲歴功績。求之古今東西未多見其匹儔。而当此国家多事之秋。為白玉楼中之人。不啻財界之一大損失。又実学界之恨事也。不啻生等抱終天之悲。又知先師無恨之憾也。嗚呼一念到于此。五内欲裂。敢綴蕪言以代弔辞。(二松学舎代表)
 - 第45巻 p.629 -ページ画像 
  ○右ハ「竜門雑誌」第五一八号『青淵先生薨去彙報』ニ収録サル。


二松学舎六十年史要 国分三亥編 第七五頁昭和一二年一二月刊(DK450234k-0003)
第45巻 p.629 ページ画像

二松学舎六十年史要 国分三亥編  第七五頁昭和一二年一二月刊
 ○第一編第二章歴年沿革
    昭和六年
○上略
 十二月一日、本舎講堂に於て故渋沢舎長の追悼式を挙ぐ。
○下略


二松 第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第三―八頁昭和六年一二月 青淵先生追悼式(DK450234k-0004)
第45巻 p.629-631 ページ画像

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二松 第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第三二―三九頁昭和六年一二月 追悼之辞 財団法人二松学舎常任理事 国分三亥(DK450234k-0005)
第45巻 p.631-633 ページ画像

二松  第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第三二―三九頁昭和六年一二月
    追悼之辞
         財団法人二松学舎常任理事 国分三亥
 我財団法人二松学舎が渋沢青淵翁を舎長として迎ふるの光栄を得ましたのは、大正六年で御座いまして、爾来星霜を閲する事が十五であります。其の間熱誠なる董督指導と、深厚なる誘掖薫陶とを受けて居つたのでありまして、深く我々の感謝して止まない所で御座います。我学舎は、曩年先師中洲先生を失ひ、今また青淵翁を失ひまして、誠に盲亀浮木を離るゝの感がありまして、哀悼痛惜に堪えないので御座います。就きましては本日の三七日を卜しまして此の追悼会を開きまして、聊か哀悼の意を表し、併せて感謝の情を表はしたいと思ふのであります。
 翁の経歴及び功績は天下周知の事実で御座いますけれども、聊かその概略を述べまして功績を追懐して見たいと思ふのであります。按じますに翁は身を畎畝の中に起され、まだ幕末の事でありましたが、夙に尊王の大義を唱えられまして、攘夷倒幕の企をせられたのでありますが、事志と違ひまして、或る機縁によつて、一つ橋家の幕下に入られまして、仕官をせられましてから間もなく、その英才を認められ、
 - 第45巻 p.632 -ページ画像 
非常に重用をされて、慶喜公の命を受けて、其の令弟なる、民部公に随ひ仏蘭西に遊ばれたのであります。それから明治元年に帰都せられましたのであります。在仏中より時運の推移と国家の将来を慮られて産業経済を発達さして、国富を増進せしめそれによつて商工業の位地をも向上するの急務を認められまして、深く決心をされる所があつたのでありますが、新政府は翁が野に居られる事を惜しまれまして、財政方針の確立に努力をしてくれる様にといふ懇請が非常にあつたので遂に政府に入つて枢機に参せられたのであります。其後に素志に従つて野に下られまして、実業界に入られて、力を経済興国に致されたのであります。斯の如くして、経済界に尽されました結果が、産業と経済とが、顕著なる発達を遂げまして国富の増進が今日の様になつたのでありまして、全く翁の経営と指導との力であると断言しても誰も溢美と申す者はございますまい。其功績偉勲は世既に定論ありまして、翁の経歴は直ちに明治・大正・昭和を通じての経済発達史であり、又産業発達史であると考へるのであります。先に賜はりました御沙汰書の中に 誠ニ経済界ノ泰斗ニシテ朝野ノ重望ヲ負ヒ、と詔はせ給はりましたのは、誠に其の所であります。翁は又晩年は財界を退ぞかれまして、更に社会公共事業と国民精神の教育とに一身を捧げられまして奉公の誠を致されたのであります。又国民外交の代表者として、世界の平和と、人類の幸福を増進する事に最善の努力を払はれまして、一度米国より欧洲に遊ばれ、又三度米国に赴かれまして外国特に日米の親善に力を尽されたのであります。更に又、国際聯盟協会の会長として平和の促進に尽される事が多かつたのであります。是が為に翁は、印綬を帯びざる外務大臣、或は偉大なる民間外交家としての称がありまして、非常にかういふ点について功績のあつた事は、私が縷々する必要はないと思ひます。又最後の奉公としては本年の九月六日に病床より、支那の水害賑恤につきましてラヂオ放送をされて、国民に衷情を訴へられたのでありますが、その至誠の迸る所は誠に人をして感嘆せしむるものがあつたのでありまして、当時相当に衰弱をせられて居りました様でありますが、私も此のラヂオ放送を聞きまして、翁の実に人類愛に燃えたる所の熱誠には深く感激を致したのであります。不幸にして支那の頑冥なる、翁の好情を無視する事になりましたのは誠に千秋の恨事であると思ふのであります。御沙汰書の中に 実ニ社会人ノ儀型ニシテ内外ノ具瞻ニ膺レリ。と宣言はせられたのは即ち是等の点を申された事と考へるのであります。
○中略
 翁が、今回重患を伝へられましたのは、本年の十月三十一日であつたのであります。爾来病勢が一進一退を致しまして、十一月九日に到りまして、危篤に陥いられたのであります。その翌十日の日には、新聞は或は号外を発して薨去を伝へた程であります。而もその事なくして、昏睡状態に居られた事が殆ど三十何時間といふのであります。平生の身体の御強健の然らしむる所とは申し乍ら一つの奇蹟であるのであります。かういふ風にして昏睡状態を持続されて或日の来るのを待つて居られた様な心持がして仕様がないのであります。終に十一月十
 - 第45巻 p.633 -ページ画像 
一日に入る事僅か一時間五十分にして昇天をされたのであります。此の日は実に世界大戦争が終息致しました平和紀念日であるのであります。此の日は翁は屡々講演若しくはラヂオ放送等をせられました。誠に翁に取つて思ひ出の深い日であつたのであります。翁が此の平和紀念日たる日、世界の平和といふ事に非常に綣々として居られた翁が、平和紀念日に於て、大往生を遂げられたといふのは偶然と申せば偶然で御座いませうが、何だか一種そこに不思議な神秘の潜んで居る様な心地が致して仕様がないのであります。今や満洲に於ける日支衝突の事件は端なくも国際聯盟の問題となつて居りまして、将来如何なる事端を発するか分らない事情になつて居ります。平和に深く心を致して居られた翁がこれに就いては、定めて地下に於ても御関心の事と思ひますが、幸に日本の正しい主張が聯盟の理解する所となり、支持する所となつて円満な解決を見るに至らんとして居ります。翁の在天の霊必ずや加護を垂れ給ふ事である事を私は信ずるのであります。
 時艱にして偉人を懐ふ。近時内外国情不安の秋、外に外交難あり、内には経済難あり、思想難あり、まことに国情多事な此の際此の時、国民外交の代表者である翁、経済界の泰斗である翁、労資協調及び教化事業の重鎮たる翁を失ひました事は人多き人のなかにも人ぞなき現代に於て、真に痛嘆哀惜に堪えぬのでありまして、巨星墜ちて天地冥い様な感じがいたすのであります。
 之を以て哀悼の辞といたします。   以上   (青山貞速記)


二松 第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第五八―六二頁昭和六年一二月 謝辞 (青淵先生嫡孫)渋沢敬三(DK450234k-0006)
第45巻 p.633-636 ページ画像

二松  第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第五八―六二頁昭和六年一二月
    謝辞
              (青淵先生嫡孫)渋沢敬三
 初めてお目にかゝります。私は孫の敬三であります。此処に遺族と致しまして初めて此の学校へ参る事にならうとは実は全く予期しなかつた事で御座いました。我々遺族と致しましても祖父は九十六位までは生きてくれるだらうと、平生の強健をたのみに望んで居りましたので御座います。今年の三月頃から腹部に異状を来しまして、頑固な便秘を伴ひ腸狭窄の症状を起した為に、終に九月七日・八日に至りましてそれが非常な苦しみとなつて現はれたのであります。主治医初め皆心配致して居つた事が如実に出たものであります。これが老人に及ぼす苦痛を考へる時には九十二の老齢な祖父にメスを加へる事は一般から言へば避けなければならぬ事であるにも拘はらず、終に之を実行した次第であります。それが九月十四日の日で御座います。恰度十三日の日が非常な大雨で御座いました。それが十四日の朝になりますと、恰も今日の如くからりと晴れて非常な気持のいゝ天気で御座いました祖父は朝から早く起きまして、今日は手術であると申して居りました手術をするときめます前には祖父に多少の異論がありました。異論の主なものは、自分は何も切られる事がいやでもなければ死ぬ事がいやでもない、現代の医学は尊信するけれども、人工肛門をつけるといふのは、何だか特に目立つた妙な療治をするのではないか、さういふ事では、自分は嫌だ。自分はすべて、今の現代の科学に対して決して異
 - 第45巻 p.634 -ページ画像 
議を申さないが、私なるが故に特に万人に施こさない奇妙な療治をしてくれるならば断はると頻と申して居りました。いやさうではないとよく申しましたら、よく納得して、それでは致さうといふことになりました。手術の一時間前頃まで皆で話をして居りました。三国志に関羽が腕をあの時代の名医に切つて貰ふ話が御座います。我々も小さい時に読んで、すつかり忘れて居りましたが話して貰ふと思ひ出しました。あの時分から支那は偉い。ちやんと麻酔の薬が出来て居つた、これを使ふ事が出来た、関羽がそれはいやだ、唯切つてくれと黙つて酒を飲みながら腕を出して肉をそいで、骨の所まで切つて了つたといふ話を致して居りまして、私はどうも関羽程強くないから切られるのはいやだとか言つて笑つて居りましたが、然し私から祖父の事を申上げては何とも申訳ありませんが、今から手術台に上る人とは思はれません、真に従容として居りました、流石偉いものだと私自身思ひましたこれから、腹を大きくたち割るといふ時に、あの位悠然として居られるのは、偉いものだと実は敬服をして居つた訳であります。手術もすぐすみましたし、食事が行けば、ずつと癒つて了ふ筈で御座いましたが、祖父と致しましては――ネルソンに比較しては相済みませんが、I have done my dutyといふ感じが強かつた。生き永らへて余生を貪ぼるといふ事に対しては、非常に嫌な気持を持つて居た様でした。貪ぼるのは嫌だ。天命であるならば、おとなしく従ひたい、それで食物に対しましては、自ら餓死を図つたのでは御座いませんが、食事の進まざるに任せた傾向が御座います。我々が随分奨めましたにも拘はらず聊かの食事も段々といけなくなりまして、終に三十一日に大熱を発しました為に、皆も心配致しましたが祖父自身も死の近きを覚つたらしく見えました、十一月の六日頃我々が枕頭に寄りました時に、陶淵明の帰去来辞を突然申し出ました。突然といふけれども恰度十一月二日に、皇太后陛下から 畏くも明治節の菊を眺めて慰さめよと仰せられて、それは立派な菊の花を頂戴した。その菊が御座いました。その菊を見て思ひ出した事でも御座いましたでせうが、帰去来辞を初めからずつと暗誦いたしました。然も単純な暗誦でなしに、自分は学問はないから委しい事は知らぬけれどもと言つて、色々講釈をしてくれました。尤も歯が御座いませんので、言葉がはつきり致しませんでしたが、頻りと講釈をいたしまして、自分の心境を語りまして、今の気持は帰去来辞の様だと言つて居りました。その後で冗談に支那に陶淵明が居なくて困りますねと言つたら、日本にも居ないじやないかと言つて、冗談を言つて居りましたが安らかにあつた様に私にも見えました。八日の日に聊か熱が退きましたら、新聞にも出ましたから御承知か知れません、実業家の方に遺言めいた事を申しました。九日の朝やや全く革まつた様でありましたが、其間も聊かの苦痛はありません。熱の上つた時に幾分悪寒を覚えたといふ事以外には、ちつとも苦痛がなかつた。祖父は平生から、どうか死ぬ時は安らかに死にたい、死ぬまで意識がはつきりでいたい。よいよいになつて了ふ、くだらぬ事を言ひ出すといふ事は避けたいと常に申して居りましたが、その希望が幸にして達せられました。八日全く病の革ります前に、明確な意識の
 - 第45巻 p.635 -ページ画像 
場合に於いて、先輩に対して平素の高誼を謝し、又遺言をしました。それで九日朝から意識不明になつて、国分先生もお話になりましたが十一日の朝まで持ちました次第であります。十日には、何とかして、我々も十一日迄持たせたいと考へましたが、徒らに自然にさからつて持たす事は祖父の本意でないので、お医者とも談合して、一生懸命に時間を過したといふ程では御座いません。全く、自然に十一日に生きのびました次第であります。死の瞬間に於きましても、全く、何と申しますか、私自身脈を執りまして見守つて居りましたけれども、単純に肉身の祖父に別れるといふ哀戚を忘れて、唯もう夕陽が沈むのを見て居るといつた様な気分で見て居つた次第であります。
 甚だ詰らぬことで御座いますが、唯親しくその場合に居りました者の語として、追悼会を遊ばしていたゞく為に、死の前後に於ける事情を簡単に申上げた次第であります。
 今日は非常な御丁重な追悼会をして頂きまして、殊に、本校の学生諸君全部お集まり下さいまして、国分先生其他皆様の御丁重な御話を頂きまして、祖父もさぞかし満足して居る次第であらうと感謝して居ります。甚だ非科学的な申し分で御座いますが、祖父がこゝに出ましたならば、何と申上げたらうと先程一寸考へましたのであります。甚だ恐れ多い事で御座いますが、御沙汰書の言葉を引用致しますと、高く志し又速く慮る、といふ事が御座いますが、この中には、或は、朝に立たれない方があるかも知れぬ、従つて野に下られる方があるかも知れぬが、高く志すといふ事と、遠く慮るといふことは、自分に頂いた言葉としては身に余る言葉であるが、志は高く慮は遠くなされたい自分はそれに当らなかつたか知らんが、皆様には是非さう願ひたいといふことを、あのにこにこした顔で、御頼みをするのではなかつたかと一寸思ひましたのでございます。また色々な事を縷々申上げ、先程の頭本さんの御話には面白く受け答へて、色々申上げたらうと思ひますが、今やその命日に、私がこゝに代つて立たなければならぬ事は、私としても実に歎げかはしい次第でございますが、遺言の中にも、自分の気持といふものは、常に此の世にあつて、皆様と共に暮したい、自分は死んだ者として他所他所しく取り扱つて貰ひたくない、死ぬといふのは、私が悪いのじやない、私が死んで行きたくて死んでゆくのじやない、悪いのは病気だから、叱言は病気に言つてほしい。死んでも他人行儀にして貰ひたくないと申して居りました。どうかその気持を皆様も思つて頂きまして、祖父が死にましても皆の心の中のどこかに秘めておいて頂いて、よそよそしくでなく常に愉快に交はつて頂きたいといふ事を遺族として申上げたいと思ひます。
 甚だ簡単でございますが、今日は誠に御丁重な質実にして味の籠つた、追悼会をして頂きまして、其上追悼歌までお作りを頂くといふことは非常な光栄と存じます。厚く御礼を申上げまして壇を下ります。
                   以上  (青山貞速記)
    閉会の辞              佐倉孫三
 今日の追悼会は、当校としては、誠に行届きませんにも拘はらず、嫡孫の敬三君が列席下さいまして、誠に有りがたう存じます。子爵の
 - 第45巻 p.636 -ページ画像 
御臨終の御話を伺ひまして実に言々句々心肝に徹しました次第であります。世間に追悼会といふものも随分ございますけれども今日の如く我々の心を打つお話を承はつたのは、実に初めてゞあります。頭本先生の、亜米利加に於いて色々と子爵の尽されたお話、これらは生きた御話でありまして、実に感慨無量でありました。もう申上げる事は何もありませんが、こゝに掛けてあります中洲先生の筆にて、青淵先生の八十を賀する七律の詩幅は、中洲先生がお歿りになる恰度一ケ月ばかり前に渋沢子爵が八十になられたといふので、先生は、此の詩をお作りになり先づ全紙にお書きになりました。所が、少し墨が薄かつたといふので、お気に入らず、改めてお書きになつてそれを渋沢家に差上げられた。そこで残つた方は下書きではない、第一番目の書で、それを当時私が頂戴して居つた。今日之を学校に寄贈し表装しまして掲げました次第であります。中洲先生御存命なら百歳余子、子爵より十歳多い、九十の先生が歿くなられる一ケ月前に斯の如き詩書を作られた。実に偉人といふものは偉いもの。又之をお受けになつた子爵も両両相俟つて実に立派な方でございます。之を以て終りといたします。
                         (青山貞速記)


二松 第七号特輯渋沢青淵先生追悼号昭和六年一二月 青淵先生追悼号目次(DK450234k-0007)
第45巻 p.636-637 ページ画像

二松  第七号特輯渋沢青淵先生追悼号昭和六年一二月
    青淵先生追悼号目次
噫青淵先生……………………………………山田準……………一
青淵先生追悼式……………………………………………………三
  祭故二松学舎長青淵渋沢子爵文………池田四郎次郎……五
  祭文………………………………………牟岐喆雄…………六
  追悼歌…………………………………………………………七
遺藻一片
  青淵先生遺詠五首……………………………………………九
中洲文詩
  渋沢孺人尾高氏墓表………………………………………一〇
  題論語算盤図賀渋沢男古稀………………………………一一
  己未春賀渋沢男八十………………………………………一二
生栄死順
  青淵渋沢先生八十八寿序(二篇)……佐倉孫三………一三
  弔辞………………………………………佐倉孫三………一五
  青淵渋沢先生八十八寿序………………山田準…………一六
雨愁風悼…………………………………………………………一七
  岩渓晋    滑川達   東敬治    酒巻幾
  鶴岡伊作   久保雅友  高草木重敬  金子堅太郎
  山田準    菅沼常   奥忠彦    米津逸三
  萩原八十吉  鶴岡伊作
  挽渋沢先生………………………………山田準…………二〇
  次韻………………………………………五十三士………二一
  故渋沢子爵の人格を偲びて(和歌)…鵜木岩助………二八
  渋沢子爵の薨去を聞きて(俳句)……柳井貴三………二八
 - 第45巻 p.637 -ページ画像 
日米交懽
  渡米土産米国二大実業家との会見記……………………二九
其人如玉
  追悼之辞…………………………………国分三亥………三二
  講話………………………………………頭本元貞………三九
  青淵翁と統計学…………………………横山雅男………五五
  謝辞………………………………………渋沢敬三………五八
  閉会の辞…………………………………佐倉孫三………六二
  二十年前の思出…………………………林訒……………六三
  青淵翁の信念論語と算盤………………山田準…………六六
  子爵渋沢青淵先生を憶ふ………………浜隆一郎………七〇
  思出の一節………………………………佐倉孫三………七五
  渋沢子爵の薨去について予の追憶……萩原八十吉……七七
  噫青淵渋沢先生…………………………慶野正次………七八
  同…………………………………………荒川三郎………七九
  故舎長渋沢青淵先生を憶ふ……………浦野匡彦………八〇
  渋沢青淵先生を憶ふ……………………池田松郎………八一
  渋沢舎長を悼む…………………………吉度勇厚………八二


二松 第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第一頁昭和六年一二月 噫 青淵先生 校長 山田準(DK450234k-0008)
第45巻 p.637 ページ画像

二松  第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第一頁昭和六年一二月
    噫 青淵先生
                  校長 山田準
 去月十一日は我前舎長渋沢青淵先生が永遠に地上より其姿を消された其日である。自分は其朝論語の屏風に取廻された遺骸を飛鳥山の邸に拝し、十五日には青山斎場にて最後のお訣れをなし、更に本月一日は三周日に当るので、我校講堂にて追悼式を挙行したが、余哀綿々尽くべくもあらず、玆に我二松誌を追悼号として発行する。
○下略


二松 第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第六六―七五頁昭和六年一二月 青淵翁の信念 論語と算盤 山田準(DK450234k-0009)
第45巻 p.637-640 ページ画像

二松  第七号特輯渋沢青淵先生追悼号・第六六―七五頁昭和六年一二月
    青淵翁の信念
      論語と算盤           山田準
 孔夫子の信念は天である。青淵翁の信念は論語である。翁の一生は論語の発露である。今其由来を繹ねんに、翁は十六・七歳までに一通り漢籍を読破した。論語崇拝の芽は此時に萌ざしたであらう。其後明治六年大蔵大輔を辞した時、玉乃世履等が之をとめた。翁は今後論語を以て商業を営むから止めてくれるなと、断然野に下つた。其より道徳経済一致の説を高唱した。我三島中洲先生との交渉を尋ねんか、明治十六年翁が前年歿した夫人尾高氏の墓表を先生に依頼したに始まるかゝる事より度々歓談の機会が出来、折柄先生は義利合一の説を学士会院で講演した。其れが翁の道徳経済一致説と符合したので、意気が非常によく合うたのである。
 さらば今こゝに「論語と算盤」なる言葉の由来を討究せんに明治四十二年先生七十歳古稀の賀に溯らねばならぬ。当時各方面の知人親戚
 - 第45巻 p.638 -ページ画像 
門下など先生の七十を祝ふべく種々の贈物をした。此時先生に深く恩顧を受け、長岡の人で東京瓦斯会社の重役を勤めて居た福島甲子三と云ふ人が、先生に贈るべきものを考へた末、現代名士に頼んでいろいろの書画筆を揮つて貰ひ、其を瀟酒たる書画帳に装釘し介眉帖と題して贈呈した。其中に一段目立つたのは越後から出て油絵の名人であつた小山正太郎といふ人の筆になる一図で、其は固より福島氏が青淵先生の持説に基づいての発案であるが、中央に「シルクハツト」と刀剣を画き左右に論語と算盤を配したもので、小山氏は其上に賛して「礎論語。営商事。執算盤。説士道。非常事。非常功。」と題した。刀剣は大和魂武士道を意味し「シルクハツト」は西洋の新智識を意味し、又算盤とは道徳経済の一致を表はしたのである。当日古稀の賀筵に連なつた人々は物珍らしげに福島氏の諾れる此画帖殊に小山氏の筆に見入つたが、中洲先生は当時八十歳最も之を感嘆して翁の精神を最も善く表現したものは此であると手を拍つて賞讚した。其後翁を訪うた時一文を作つて贈ることを約束したが、其後先生の手に依つて雄篇が成つた(此の全文は本誌中洲文詩の欄に収む)
 右先生の文は「題論語算盤図賀渋沢男古稀」と題して右三段より成つて居るので、一段は青淵翁が論語に拠つて、算盤を把り算盤は必ず論語に拠り、両者一致して成功せるを説き、次の段は論語中に算盤あり、又易は利を説く算盤の書なるが其利は皆義より出でゝ居る故に是は算盤の中に論語があるので、両者は二にして一で、画師が之を二つに分けて画くは深く翁を知る者でないと説いて論語と算盤は相助くるものにあらで、一つのものだと論じてある。是は先生の義利合一説が玆に出たのであるが、三段は愈々古稀を賀する段取りとなり、人の寿命は定数があつて是は天の算盤である。然かし疾を慎しみ衛生を勉めずば其の定数を生きることが出来ぬ。然るに論語に孔子は「斉、戦、疾」を慎しむとある。翁は既に論語を奉じて居なさるからは、必ず疾を慎しみ衛生を勉めて天数の寿を尽さるるであらう。さらば古稀七十の齢ぐらゐでは止まぬであらうと述べてある。果して翁は、更に二十二年を加へて九十二の定命を以て、本年十一月十一日逝去されたのである。
翁七十六歳の時、外遊数日前中洲先生に寄せた書簡がある。左に掲ぐ
 朶雲拝誦仕候、其後多忙に紛れ御起居も御伺不申上候処老閣益御清適之段欣慰之至に候、小生客月末より九州中国及大阪地方巡回、引続き本月廿三日之春陽丸に乗組米国へ罷越候予定に御座候、発途前是非寸時たりとも拝眉仕度と相考居候も種々之雑事蝟集いたし困却仕候、御心に掛けさせられ高作二首御贐被成下真に知己の高賚と難有拝受仕候、名利奔競は商賈間のみに無之、挙世皆然りとも可申姿に有之、実に長大息の至に御座候、小弟決而明月之皎然たる事は難期候もせめては自ら欺ずして人をも誤らしめざる事に心掛申居候、右に付而は日常論語算盤説は必要にして須臾も離るべからざるものと存候、尚御奨励に従ひ一層努力之覚悟に御座候、いづれ両三日中に拝趨万可申上候 匆々拝復
  十月十七日               渋沢栄一
 - 第45巻 p.639 -ページ画像 
    中洲老先生
        玉案下
右の書簡は大正四年十月十七日の日附であるから翁は七十六歳にて先生は八十六歳である。
 元来翁は一生に三度外遊されたと聞いて居るが、此遊は三度目であつたと思ふ。此遊は桑港に於ける巴奈馬運河開通記念博覧会視察を兼ね、朝野人士と会見して両国の親善を謀り且つは実業家と信念などの問題を携へて渡米せられたと聞くが、其の出発の僅か七日前の書簡が是である。されば名利奔競の風を大息し、文末論語と算盤説に言及して「御奨励に従ひ一層努力の覚悟云云」というてある処など軽々看過してはならぬと思ふ。
 さて介眉帖に論語算盤の図を画いて翁に贈呈した福島甲子三氏は、其後事情あり十七年勤続の東京瓦斯会社を退社したるに、翁は氏を日韓瓦斯会社監査役に推挙し、後又宝田石油株式会社の重役に推薦した氏は或る年翁を訪うて招隠帖に揮毫を請ひたるに、翁は「貴公には年来論語算盤説を書いて呈げようと思つて居る」と言はれた。然かし多忙なる翁の事なれば一・二年過ぎたるに、氏は偶々疾を得て会社を辞し、東京駒込なる洗心庵に帰臥した。翁は之を聞いて、病中の慰藉に加へて、旧約を果すべく、中洲先生の作なる「題論語算盤図賀渋沢男古稀」一文を謹厳なる筆法もて揮毫して贈られたが、其前に説明の文がある。其は左の通りである。
 余平素尊信聖学。以為道徳経済非二途。故決不可離。因以論語与算盤喩之両翼双輪。居常以是訓誡子弟。完其担当事務。且自勉実行焉友人福島甲子三。深奇此喩。往年余齢届古稀也。君命画師作之図見贈。一日中洲三島翁来視図。亦奇之。乃作論語算盤説一篇。博引経伝。闡明其義於是余之持論愈明愈確矣。頃者君臥病無聊。寄書求余書翁文。蓋欲掲諸楣間日夕諷誦以自遣也。余嘉之。書以贈云。
  大正辛酉二月
             青淵渋沢栄一識時年八十二
 右は大正十年翁八十二歳の春であるが、斯かる高齢に達しても翁が進徳の努力は些かも衰へぬのみか、一日寿あらば一日用力の概之を先生に見得るのである。翁九十齢の元旦に於ける左の詩は之を証して余りある。
 義利何時能両全。毎逢佳節独悽然。回頭愧我少成事。花発水流九十年。
 功遂げ名成る九十齢の翁が勇猛に精進せる熱誠の気魄は、実に論語に孔子が自ら評せる「発憤忘食楽以忘憂。不知老之将至云爾。」に譲らぬと思ふ。
 余は当時翁の詩に和した。詩は拙なれども、此を以て本題の結びとする。
 浩々形神君独全。一団和気玉温然。併将道徳兼経済。満鬢春風九十年。
    子爵渋沢青淵先生を憶ふ       浜隆一郎
○上略 さて先生が初めて中洲先生を御知りになつたのは、もと石洲岩国
 - 第45巻 p.640 -ページ画像 
の藩士で、我が国最初の大審院長であつた玉乃世履氏の御紹介によるとのことであります。尤も先生は中洲先生の文名は予てから承知して居られましたので、其の後先生は先夫人を喪はれました際にも、其の碑文を中洲先生に御依頼になつたのであります。ところが其の文章がまた如何にも人情を尽した結構な文章なので、文章といふものはこうも善く書けるものかと、つくづく感服したと先生は申されました。然し中洲・青淵の両先生が、真の御交際をなされた所以のものは、実に深い根柢があるのでありまして、即ち両先生が道義に対する御見解が相一致した点に在るのであります。由来中洲先生は道徳経済合一論を述べて申されますことに、人間は衣食住を離れて道徳はなく、道徳を離れて衣食住はない。若し衣食住を離れて道徳を説くならば、それは空理空論である。また道徳を離れて営む衣食住は是れ罪悪である。是に於いてか衣食住即ち経済と道徳とは合一すべきものにして分離すべからざるものであるとて、之を書経の尭典、舜典、大禹謨、禹貢、洪範、詩経の豳風七月篇、易の文言伝、繋辞伝、周礼、礼記、大学、中庸、論語、孟子等の各経書を引用して其の然ることを御証明になつて居りますが、青淵先生は痛く此の説を御傾倒になりまして、嘗て申されるには中洲先生は学理の上より之を御説明になり、不肖渋沢は実際と申しては誠に烏滸がましいが、兎に角経済側から幾分なりとも道徳に適合せしめたいと心掛けて居る。然るに古来の学者が道徳と経済とを全く別箇のものとして扱つて来た事は大なる誤で、元来尭舜禹湯文武の如き、真に王道の行はれた時代は、即ち道徳と経済とが相一致して居つた時代である。然るに周末春秋の時代に至り、道徳と経済とが相分離した為めに、孔子孟子が起つて道徳を論じて経済のこれに背馳することを非難したのである。然るに宋朝の学者も道徳と経済は離れたものゝ如く考へ、彼の程朱の如き大学者と雖も猶且つこゝに心付かなかつたやうであつた。又た宋学を承けた日本の儒学者も同様で、殊更徳川幕府の儒教の元祖たる林家なども、全然両者を区別したやうである。取り分け林家が山鹿の学問を異端視して之を圧迫したなどは其の余弊の甚しいものである。然るに中洲先生は始めて此の道徳と経済との合一論を唱へられ、嘗て不肖が七十の賀に論語算盤説を書いて贈つて戴いたことなどは、要するに道徳経済合一の精神を発揮されたものであると述べられまして、両先生心契の如何をも窺ふに足るのであります。而して先生が二松学舎の為め最後まで御尽力の労を惜まれなかつたことも、畢竟中洲先生との御関係によるものであります。○下略

渋沢栄一伝記資料 第四十五巻 終