デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
24款 財団法人大川育英会
■綱文

第46巻 p.108-113(DK460029k) ページ画像

大正14年2月18日(1925年)

是日、当会設立認可ヲ受ク。栄一顧問ニ就任シ、在任歿年ニ及ブ。


■資料

大川平三郎君伝 竹越与三郎編 第四五一―四五八頁昭和一一年九月刊(DK460029k-0001)
第46巻 p.108-110 ページ画像

大川平三郎君伝 竹越与三郎編 第四五一―四五八頁昭和一一年九月刊
    第二十八 公共に対する奉仕
○上略
 三芳野村は大川家墳墓の地である。功成り名遂げた大川君は此の故郷の青山を見るにつけて、父母を追憶する心持を拡げて、三芳野村の経済的更生のために、精神的物質的の努力を注いだのは右の如くであるが、大川君は更に此の心を拡げて、埼玉県全体に及ぼすべく、大正十三年埼玉県出身の学生の為めに、五十万円を投じて、大川育英会なるものを設置した。
 大川君は其の家道の衰退した時、熊谷附近の松山に居住したことのあるのは、第一章に記した通りであるが、松山から母君の生家である手計村に赴く途中、熊谷の町外の或茶店に休息したことがある。大川君は成功の後熊谷に赴いたとき、其の幼年時代に、母と共に熊谷を通過した旧時を回想すると共に、其の記念として、何事をか企てんと発意した。之が大川育英会の起つた動機であるが、此の事に就いては別に記するまでもなく、武州銀行の副頭取であり、大川育英会の常務理事である永田甚之助君が、大川育英会々報に登載したる下の記事を引用することが最も安全である。
  私が大川理事長より埼玉県下に何か社会事業を起したいと御相談を受けたのは、大正十年冬でありました。当時武州銀行が熊谷町にある熊谷銀行を合併することゝなり、私は大川社長に随行して熊谷にまゐりたる節、大川理事長より、自分は郷里埼玉県下に高等工業学校でも起して見たいと思ふが如何、他により良い計画は無いかとの御話でありました。
  此の時理事長の御話には、実は自分は幼少にして郷里を出で、渋沢氏の門に入り、事業家となり、九州に、名古屋地方に、或は北海道に、樺太に、朝鮮満洲に幾多の事業を起して、今日の位置を得たれども、常に東奔西走の多忙に紛れ、郷里を訪ねるの閑無く、今日迄経過し、今此の郷里の風物山川に接し、転た感慨に堪へぬものがあるとの御話で御座いました。其の後時々御話がありましたが、大震災でゴタゴタして居り、大震災の翌年大正十三年秋、帝国ホテルに、渋沢子爵の門下生を以て組織せらるゝ竜門社と言ふ会の総会がありました節、理事長より、自分は金五十万円を寄附して、郷里のために育英会を組織したいとの御話でありました。小生は誠に結構なる御企なりと御賛成をして、善は急げと早速文部省へ参り、学友の現文部次官粟屋氏、当時専門学務局長をして居られました同君に
 - 第46巻 p.109 -ページ画像 
御話して、全国有数の育英会の定款を見せて貰ひ、種々考案協議を重ねて出来ましたのが、現在の大川育英会で御座います。
 斯くて種々の手続を経て、大正十四年二月十八日に財団法人大川育英会が成立したが、其の組織は左の如くであつた。
   顧問      渋沢栄一
   埼玉県知事   斎藤守国
   理事長     大川平三郎
   常務理事    永田甚之助
   理事      田中栄八郎
   同       柴田愛蔵
   同       武藤忠義
 此の内永田常務理事は主として経済方面を監督し、武藤理事は給貸費生の教養に任じ、毎月一回永田・武藤・柴田三理事で理事会を開き諸般の打合をなし、重大なものは大川君の決裁を受けて執行する。此の他に県庁の高等官、地方の有志等十数人の評議員があるが、其の中から松本真平・田中四一郎の両君に監事を依頼してゐる。
 斯くて此の育英会は大正十四年より、其の事業を開始したが、已に三百四・五十人の学生を収容して、此の中卒業したるものは已に二百人に達してゐる。大川君の最初の考案は、学生に学費を給与する方針であつて、四・五年間之を実施したが、其結果兎角学生に依頼心のみが起り、勤勉努力の風を削ぐ恐があるので貸費制度に変更し、卒業して職業に就いたものは、其の収入の中から貸費月額五分の一以上宛学費を返却する事にした。併し成績特に優れ人格又之に伴ふものには特待生として次年度の学資償還を免ずる事になつて居る。此の数が毎年五・六人ある。そして当初の五十万円の財本は今やその剰余を加へて已に六十万円に増加してゐる。又毎年一・二回大会を催ほし懇話訓辞等を与へ、卒業の際には大川君の邸宅に招待して、社会に出てからの注意を与へたり、又年一回会報を発行して互の研究や消息を載せ、其の誘掖指導に力を尽くし、非常の熱心を以て大川君の理想たる忠君愛国・孝悌・忠恕・勤勉努力の精神を誘発する事に勉めて居る。之が為め埼玉県下の貧学生は勉学の道を得て、本来の機能を発揮するの方法を得るものが少なくない。そして従来は唯工業及び実務に従事する希望を有するものゝみを援助したが、今後はその中数名は工業実務以外の学生たらしめ、大川育英会出身者の団体の精神的翹首たらしめんとすることゝなつた。今や評議員中には埼玉県の学生に限られたる援助を拡充して日本全国の学生に及ぼさんとするの議論が起つて居る。
 右の育英会の力によりて学問を修め、其の所期の目的を達して学校を卒業し、一定の職業に就いたものが相集つて一の団体を組織したのを名づけて桜影会と言ふ。是は育英会の創立者である大川君の雅号が桜塘であるので、之に因みて桜の影に住むといふ意味を現はした訳である。桜影会は大川君を名誉会長とし、田中栄八郎君を顧問とし、永田甚之助・大川鉄雄・大川義雄・田幡鉄太郎君を特別会員とし、一百三十九人の会員によりて組織せらるゝものであるが、其の就職先は銀行・会社から諸官省、官私立の学校に及び、其の地域は台湾・支那に
 - 第46巻 p.110 -ページ画像 
及んでゐる。思ふに育英会が教育社会に於て鬱然たる大森林となりて一世を聳動する時が来るのは遠いことではあるまい。


大川育英会会報 第一号・第二二―二四頁昭和七年一二月 大川理事長と大川育英会 理事 武藤忠義(DK460029k-0002)
第46巻 p.110-111 ページ画像

大川育英会会報 第一号・第二二―二四頁昭和七年一二月
    大川理事長と大川育英会
                   理事 武藤忠義
○上略
 如上の趣旨を以て、大川理事長は育英会を設立せんとし(設立の経過は前文永田理事の記事に詳述せられたるを以て省略す)大正十三年十一月金五十万円を寄附し、之が定款・細則を練り翌大正十四年一月廿九日設立申請書を文部省に提出し、二月十八日設立許可の指令を受け、三月十八日登記終了と共に玆に正式に財団法人大川育英会の成立を見たるなり。当時故子爵渋沢栄一氏は大川氏の報告に接して大に賛意を表され、左の書を寄せて其美挙を奨賞せられたり。
 拝啓、昨日は態々御来訪被下候も、多数の来客に妨げられ充分の御談話もなし得ざりし事は頗る本意に悖り候、御留置の育英会寄附行為は篤と熟読候処、適当の調成にて何等心附としても無之候、又老生顧問の事も御同意いたし候、実に規模ある計画にして、父祖に対しても面目の事に御坐候、乍去古経に満招損謙受益と有之候間、時に御注意被成度候、而して此種の善事は多々益善と申候事をも御考慮有之度候、右は書類返付と共に一書申進候 不宣
○中略

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  設立当時ノ役員          現在役員 一、顧問   子爵    渋沢栄一     薨去(昭和六年十一月十一日)   埼玉県知事 斎藤守圀      埼玉県知事 福島繁三 二、理事    理事長  大川平三郎     同上    大川平三郎    常務理事 永田甚之助     同上    永田甚之助    理事   田中栄八郎     同上    田中栄八郎    同    柴田愛蔵      同上    柴田愛蔵    同    武藤忠義      同上    武藤忠義 三、評議員 官庁 内務部長 今宿次雄      同上    小林光政    学務課長 田島義士      学務部長  上原参良    地方課長 早川三郎      学務課長  大森通孝    農務課長 林信夫       地方課長  柴山博    学務課長 松原久八      農務課長  石原武二    県会議長 出井兵吉      商工課長  山内好秀  浦和高等校長 吉岡郷甫      県会議長  市村高彦                 浦和高等校長  茨木清次郎 理事長ノ推薦  大川平三郎           大川平三郎 スル評議員   田中栄八郎           田中栄八郎         永田甚之助           永田甚之助  以下p.111 ページ画像          柴田愛蔵            柴田愛蔵         武藤忠義            武藤忠義         田中四一郎     兼監事   田中四一郎         松本真平      兼監事   松本真平         斎藤善八            斎藤善八         原鉄五郎            原鉄五郎         発智庄平            発智庄平         綾部利右衛門         柿原定吉         松岡三五郎 




埼玉及埼玉人 第三巻第二号・第一五頁大正一四年二月 財団法人大川育英会寄附行為(DK460029k-0003)
第46巻 p.111-112 ページ画像

埼玉及埼玉人 第三巻第二号・第一五頁大正一四年二月
    財団法人大川育英会寄附行為
      第一章 総則
第一条 東京市本所区向島小梅町百十六番地大川平三郎ハ、金五十万円ヲ寄附シ、本寄附行為ニ依リ財団法人ヲ設立ス
第二条 前条ノ法人ハ財団法人大川育英会ト称ス
第三条 本会ハ寄附者ノ出身地タル埼玉県人及埼玉県縁故者子弟ノ人格学力共ニ優秀ニシテ、産業ヲ以テ身ヲ立テントスル者ニ学資研究費ヲ給与シ、且県下産業教育上必要ナル施設又ハ之ニ対スル補助ヲ与ヘ、以テ我国産業ノ進歩ニ貢献スルヲ以テ目的トス
第四条 本会ノ事務所ハ埼玉県浦和町二千二百七十二番地ノ一、株式会社武州銀行内ニ置ク
      第二章 資産
第五条 本会ノ資産ハ基本財産其他ノ資産ヨリ成ル
第六条 基本財産ハ之ヲ永遠ニ保管シ、如何ナル事情アリト雖モ費消スルコトヲ得ス
第七条 基本財産ノ管理及維持ノ方法ニ就キテハ、之ヲ現金又ハ有価証券ト為シ、確実ナル銀行ニ預入又ハ供託スヘシ
第八条 本会ノ事業経営上所要ノ経費ハ、基本財産ヨリ生スル収入其他ノ雑収入ヲ以テ之ニ充ツ
第九条 第一条ノ寄附金及ヒ歳計剰余金ハ之ヲ基本財産ニ編入ス
 但歳計剰余金ノ一部分ニ限リ、之ヲ翌年度ニ繰越スコトヲ得
第十条 本会ノ会計年度ハ毎年四月一日ニ始マリ、翌三月三十一日ニ終ル
      第三章 顧問及役員
第十一条 本会ニ顧問ヲ置キ重要事項ヲ諮議ス
 顧問ニハ渋沢栄一子爵及埼玉県知事ノ職ニ在ル者ヲ推戴ス
第十二条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク
  一、理事 五名
  一、監事 二名
  一、評議員 若干名
第十三条 理事ノ内一名ヲ理事長トシ、設立者及其家督ヲ相続シタル者之ニ当ル、他ノ四名ハ理事長之ヲ選任シ、内一名ヲ常務理事トス
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第十四条 理事長ハ本会ヲ代表シ一切ノ事務ヲ統理ス、常務理事ハ理事長ヲ補佐シ、理事長事故アル時ハ之カ代理ヲ為ス
   ○以下第三十三条マデ全部略ス。


埼玉及埼玉人 第三巻第二号・第三二―三三頁大正一四年二月 大川育英資金について 子爵渋沢栄一(DK460029k-0004)
第46巻 p.112-113 ページ画像

埼玉及埼玉人 第三巻第二号・第三二―三三頁大正一四年二月
    大川育英資金について
                   子爵 渋沢栄一
 大川君が我が埼玉県の育英事業の為めに、私財五十万円を提供された事は、県民として等しく感謝すべき近来稀に見る美挙である。私も文部省の認可があつて財団となつた暁きには顧問となる筈で、之に対して及ばずながら相当の尽力を惜しまぬ積りである。今県下唯一の郷土雑誌埼玉及埼玉人社で、之れを如何に使用したならば最も有効であるかといふ問題に、県下の多数の名士から意見を徴して、育英会当事者の参考に供せんとするのは誠に意義ある事である。
 総て物事は目的と手段とが相伴ふべきもので、如何に目的が社会的に有意義なものであつても、之を実現する手段に於いて欠くる所があつたならば、到底其の成績をあげる事は出来ない。大川君の育英資金も其の通りで、目的は誠に結構な事であるから、要は此れを実際に運用する理事者の撰考が其の成績を挙げる上に於いて、最も重大なる問題である。私は之等に関係する人に対して克く大川君の意の存する所を知り、然して立派な実績をあげられん事を心から切望して止まぬ。
 然らば同資金を如何なる方法で使用するかといふ問題であるが、之れは資金が不足の為めに充分に教育を受られない英才の為めに、資金を貸与する、或ひは研究しやうとする者に補助をして其の目的を達せしめる事等が、其の主なる使途であると思ふ。之に関して注意をせねばならぬのは、理事者諸君が余程の熟慮の上に実行しないと、却つて貴い資金を浪費して一向に其の効果を奏せぬ、といふ思はぬ結果を招く様な事が無いとも限らぬ。更に私は次ぎの様な方面にまでも使用する事が出来ればよいと考へて居る。参考までに申して見ると、抑々都会の教育機関の施設は先づ以て形式的には完美したといふも過言ではない。従つて教育を受けんが為めに農村の青年が都会に出て来るのは誠に結構な事であるが、教育をうけた後に其等の青年は或ひは商業に或ひは工業に従事して、再び農村に帰へらうとしない。
 是くして農村が日に月に衰微し、之れを如何に解決すべきかは実に我が国の前途に横たはる一暗影であるとさへ云はれて居るが、之れは勿論時勢の然らしむる所である事は、今更申す迄もない周知の事実であるが、更に教育の方針が農村をして此の危機に陥いれたる主なる原因を為して居るのではなからうかと考へられる。教育機関の完美もそれは都会地のみの事で、農村に至つては残念ながら之れが施設は甚だ遺憾に耐えない状態にある。即ち、農村には農に関して最も必要なる学識を、商工業地には商工業に関して最も必要なる学識をさづける様な教育方針の下に施設すべきであると考へる。
 然らば如何なる教育方針の下に如何なる施設を為すべきかといふ具体問題に及んでは、只単に重大問題であるが故に何んとかせねばなら
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ぬといふより外に、教育に付いては殆んど何等の素養のない私にはこう申しあげるより外はない、こうした方面を研究調査しやうとする有為の人に対して相当の補助を為す事は、一面大川氏の資金提供の趣旨に反するかの嫌らひがないとも限らぬが、農村振興が国家の重大問題となつて未だ未解決のまゝに残こされて居る今日、此の方面の事を充分研究さしてみるのも有意義な事と思ふ。即ち、要するに限られたる産業研究の範囲に於いて、出来るだけ拡く其使用活用の範囲を自由にされたい事である。


大川育英会会報 第一号・第一三〇頁昭和七年一二月 【本会ハ顧問故子爵渋沢栄一…】(DK460029k-0005)
第46巻 p.113 ページ画像

大川育英会会報 第一号・第一三〇頁昭和七年一二月
本会ハ顧問故子爵渋沢栄一閣下(昭和六年十一月十一日薨去)ノ薨去ヲ悼ミ、玆ニ謹ミテ哀悼ノ意ヲ表ス。