デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
29款 其他 13. 大里郡教育会
■綱文

第46巻 p.193-203(DK460051k) ページ画像

明治43年11月6日(1910年)

是日、埼玉県熊谷町熊谷中学校ニ於テ、当会並ニ大里郡農会及ビ大里郡参事会聯合総会開催セラル。栄一出席シテ講演ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK460051k-0001)
第46巻 p.193 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月六日 晴 寒
○上略 此日ハ熊谷町ヨリ大里郡教育会ノ大会アルニヨリ出席ヲ請求シ来リタレハ、午前八時二十二分王子発ノ汽車ニテ出張ス、十時熊谷ニ着ス、地方人多数停車場ニ来リ迎フ、竹井澹如氏ノ家ニ抵リテ午飧ス、午後一時中学校ニ抵リ、維新以後教育ノ変遷ニ付テ一場ノ講演ヲ為ス来衆六・七百名、校内立錐ノ地ナキニ至ル、演説畢テ此地ノ有志ノ手ニテ設ケアル会堂ニ抵リ、地方人ノ歓迎会ヲ受ク、一場ノ謝詞ヲ述、午後四時五十七分発ノ汽車ニテ帰京ス○下略


竜門雑誌 第二七〇号・第八一頁 明治四三年一一月 埼玉県聯合会御出張(DK460051k-0002)
第46巻 p.193 ページ画像

竜門雑誌 第二七〇号・第八一頁 明治四三年一一月
○埼玉県聯合会御出張 埼玉県大里郡農会・同郡教育会・同郡参事会聯合会の懇請により、青淵先生には十一月六日熊谷中学校に於て開会せる同会に臨み、一場の演説を為されしが、深く同郡民の注意を喚びたるよし
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竜門雑誌 第二七二号・第二九―四一頁 明治四四年一月 ○熊谷町熊谷教育・農友・青年聯合総会に於て 青淵先生(DK460051k-0003)
第46巻 p.194-202 ページ画像

竜門雑誌 第二七二号・第二九―四一頁 明治四四年一月
    ○熊谷町熊谷教育・農友・青年聯合総会に於て
                      青淵先生
 本篇は青淵先生が武州熊谷町教育・農友・青年聯合総会の懇請に応じ、客歳十一月六日同会に出張して演説せられたるものなり(本誌編者識)
唯今郡長島崎君から御紹介を戴いた私が渋沢で御座いまする、斯く御多数集合の中に一言の愚見を申上げる事を深く喜びますのであります予ねて今日の御会合を教育会の御方から承りまして、是非参上致すやうにと言ふ御案内を頂戴致しましたから、喜んで罷り出る事を御請致しましたのであります、併し御覧の通り老人でも御座いまして、時としては病の妨げなどがあり勝ちで御座いますから、果して約が履めるかと言ふことを、深く気遣ひ居りまして御座います、ところが幸に健全で且つ今日は頗る好天美日を得、左なきだに故郷に参り、斯く多数の殊に御若い方々に御目にかゝることは老人の最も喜ぶ所であるが、尚其上に加へ斯様な極く好い天気に遭遇したのは、私も仕合でありまするが、臨場諸君に取りては最も愉快の一日と御喜び申上ぐるのであります、郡長から御披露が御座いました通り、私は此所より四里ばかり西に当つて居る八基村の出生でございまして、最も近い故郷で御座います、のみならず、近頃本県即ち埼玉から東京に御出掛けなさる学生の御人々は学友会と申す青年の御人々の会合の会頭を嘱託されましたり、又一方には埼玉学生誘掖会といふものを設立して、其誘掖会の同じく会頭に推されて居りまする、右等の関係から、本県出身の青年の御人々とは、殆んど月に二回若くは三回位は必ず御会合を致すと言ふやうな親しい関係を有して居るのであります、夫故に此教育会、若くは青年会、農友会等、皆私には極く縁故深い御会合で御座いますので、即ち前に申上げます通り喜んで参上致すと御請致した次第であります、斯く前置きを申すと、何にか玆に大層宜い御土産があつて貴方がたをびつくりさせるとか、又は大に裨益させるやうな御話が出来るやうに見えますが、どうも余り私は教育上には充分な智識若くは実験も御座いませぬから、申上げる事はありふれた事、凡庸の一場の談に過ぎませぬから、其辺はどうぞ御諒恕を請ひます。
実は私は経済上に関係ある方でありますが、是とても余り充分なる能力を有ちませぬ、けれども殆んど五十年近く経済上には関係致して居りますから、其の御話をしやうと思ふて居りました、ところが此所に出で同行の矢作博士の演題を見ましたところ、此所に掲げられてある通り最近経済思想の変遷と言ふのであつて、私が少し先を越され、博士に我領分を奪はれてしまつた、其所で又私が重ねて経済談をすると言ふと、何にやら天麩羅の後にビーフステツキを差上げるやうなことになつて、重ね重ね油濃き料理を出すやうな嫌ひがありますので、矢作先生に先を越されて閉口しましたが、暫く彼の演劇に於ける女形が立役をやり、立役が女形をすると同様、一種変つた芸道を御覧に入れやうと言ふ訳で、私は反対に玆に教育談を申上げて見やうと言ふこと
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になつた、蓋し矢作博士の向ふを張り、二人の間に同士撃すると云ふことではないので、私の即ち女形が立役をするやうな流義違ひの御話が多少御座興になつたならば、成程彼はどう云ふ役でも勤まる人間だと言ふことに御覧下さつて宜からうと思ひます。
教育の事は現在の有様に付て、或は希望とし若くは注意的の事を申上げて見やうと思ひますと、少し前の方から御話しせねばならぬ理窟になる、而して斯る談話は私は屡々致しましたから、或は雑誌又は新聞等に於て散見されたこともあらうと思ひます、古い御話で御座います御聞きなさらぬ方には始めてになりましやうが、中には又陳腐なことを言ふと御笑ひもありましようけれども、併し彼の南無阿弥陀仏と言ふことは、千年も前に言つたことであるが何時でも尊い、年限が経つたから南無阿弥陀仏が卑しくなつて誰れも尊ばなくなつたと言ふことはないから、度々聞いても、若し其事柄が道理であれば矢張尊重せねばならぬ、私の御話は其やうな価値は無いのでありませうが、度々聞いたから詰らぬと言ふことは言へない、論語の文句でも、南無阿弥陀仏でも、アーメンでも皆な永く伝つて、何時でも人が尊重せらるゝのである、度々聞いて疎ぜらるゝと言ふは蓋し其事柄が悪るいので、其言葉には係はらぬと斯う見なければならぬと思ふのであります。
そこで此教育の有様が殆んど数度回転して、今は三段ばかりの時期に成つて居ると思ふ、是から先き教育家も教育に就く人も、少しく心を変へなければならぬと言ふことにまで論及して見たいと思ふのであります、元来教育が国家の隆盛に頗る重要なる関係であることは、是は私は申すまでもなく世の中おしなべて論ずることで、我が帝国が今日斯くまで国威を宣揚し、国運を発展したに付ては、種々なる幸運に際会したでもありませう、又第一には 陛下の御稜威に属することでありませうけれども、而かも其実際を其所まで進めて参つたと言ふことは、実に教育の進歩に帰せざるを得ぬのであります、若し果して維新以後教育の制度を、唯単に東洋主義にのみ止めて、西洋の智識と言ふことを大に備へて進んで行くやうにせなんだならば、今の人文が此の如く進むことは出来ない、兵力の進んで来たのも、外交の伸張も、吾吾実業側の発達も、各々其人があつて出来ることゝは言ふものゝ、其人がそれを行ふ材料は何に拠つたかと言ふと、教育の力に依つたのである、教育の力は如何なる働きを為したかと言ふと、智慧が進んで仕事が上手になつたと言ふのである、同じ経験でも無教育の経験と教育ある経験とは其経験が頗る違ふ、故に教育が今日の国家を進めたことは論を待たぬのである、併し私か此教育界の有様を見渡しますると、四十年ばかりの間に殆んど三段の変化をして居るやうであります。
第一、其始め即ち明治十二・三年頃までの教育は唯単に人を治める教育より外無つたと言つて宜いのである、然るに世の中は治者も多少必要であるけれども、多数は被治者である、此所に御出での諸君も多くは被治者の中にあるべく、私も亦治めらるべき方の人で、治める方の人ではないのである、ところが明治の始め教育は如何なる方面に力を注入されたか、どう進んだと言ふたら、唯人を治めると云ふ位地に立つ、即ち官吏になると言ふことの教育が、先づ第一の務めであつた、
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それは一般の人情も、亦此教育の根本をなすべき支配権を有つ人も、共にそう言ふ方に傾いて行つたのである、支配権を有つ人の学問、即ち其以前の教育は所謂武門武士であつて、総じて漢学教育でありました、此漢学教育は仁義道徳とか、礼義廉恥とか申す精神を磨く教には頗る富んで居りましたけれども、世界に交るとか、事業を進めるとか申すやうな物質的智識に関する教育は頗る乏しかつたのである。其仁義道徳礼義廉恥と言ふやうな漢学的教育は、普通人民にも学ぶことが出来ぬと言ふことはなかつた、けれども多くは修めなんだのである、其頃は若し此熊谷地方で考へても、殆んど此漢学的教育を受けられたものは、指を屈するに困る程しかなかつたので、他は皆な彼の所謂寺小屋修学で済んでしまつたのである、斯く申す私も幼年の時聊か漢籍を読むことを好みましたが、生れが百姓で二十四歳の時家を去りましたので、其以前即ち二十二・三歳頃までの私の生活は多く農業に従事して居りましたから、農間に僅かに漢籍を修めた位である、それで唯単に武士許りが修めるのを漢学教育と唱へ、普通人民の教育と申すと先づ名頭・国尽し・商売往来・実語教・庭訓往来、其他算術として塵劫記、其位のものであつた、それで教育は満足で手紙も書ける、人の名も分る、日本だけは国の名も分つて居る、又商売人として扱ふ道具の名一通りは分る、其位の簡単なる教育は大抵寺小屋で二ケ年位の修学で大略終つたのである。
それ以上の教育即ち武家教育になると、第一に仁義忠孝の道を講じ、且つ支那流の所謂修身斉家治国平天下と言ふことである、身修まれば家斉へ、家斉へば国治まるでなければならぬ、国治まれば天下を平かにしなければならぬと言ふて、数字を数へる如くに一から十、十から百に進むと言ふ処から見ても、余り懸隔し過ぎた階級であつて、殆んど一から百に飛ぶやうなものである、一身修りて一家斉ふ、是迄は寔に順当で結構であるが、此修身斉家から一足飛びに国を治めると言ふことであるが、なかなか修身斉家から直ぐ国を治めることに飛べるものでない、其間には村もあり郡もあり県もある、ところが漢学の方では国を治め天下を平にすると言ふやうに飛んで教を立つて居らるゝが身が修つて必ず天下平かに、といふことは学問の順序を得ぬ様に思ひます、私もそう言ふ教育から、終に故郷に居て百姓が出来ないやうになり、家を駈け出したといふ間違も生じたのである、私は親を誹るやうな言葉になるか知らぬが、親が漢学を好んで私の幼少の時より教授して呉れた為めに、漢学に誤られて、終に今日の身体になつたと同様此修身斉家治国平天下の教育階段は余り大刻みにして、悪るくすると人をして弊害に陥らせる恐れがあるのである。
ところが、明治維新はどう言ふ種類の人で成つたかと推究して見ると一は外国と言ふ関係から、列強の圧迫が終に我国をして開国せざるを得ぬ事になり、又開国と同時に種々外国の長所を採らなければならぬやうに、時代の潮流が進んだのではあるけれども、其間に立つて、国の為めに骨を折つた人はどう言ふ方々であるかと言ふと、今申した修身斉家治国平天下の教育に育てられた人々が皆尽力したのである、此人々は大抵其時分まで、第一に国が大切と言ふところから、多くは攘
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夷鎖港を論し、又尊皇討幕と言ふことを頻りに唱へて居た、是等の志士が終に維新の大業を成したのである、勿論 陛下の御盛徳が玆に致されたのではありませうけれども、併し徳川家の衰亡と共に封建の制度が郡県の王政に復古したのは、今申す人々の力に頼る事多きは誰が見ても明らかである、そこで此外国と交際を結んで並び馳せて行かうと言ふには其人々が自身のみで承知しては居られぬ、時の政治に携はる人々は申すに及ばす国民をもどうぞ外国のやうな有様に智識を拡張させたいと言ふ考から、即ち外国に行はるゝ教育を盛にしたいと言ふ念慮を起して参つたのである、前に申す通り幕府時代の一般教育は庭訓往来などが最上であつたからして、そこへ持つて行つて外国の教育即ち科学的学問を施すは幹部の勢力即ち政府の命令で所謂注入教育で智識を注入したのである、当時今の大学を組織したのも政治上から来た命令教育である、多数の人民が己の智識を進めたいと言つて企つた教育でなくて政府の必要から組織したる教育である、又其教育の方法は如何なる主義であつたかと言ふと単に政府の官吏を造ると言ふ目的が先づ根本の必要として施された、然るに此際の一般思潮も風靡して官吏たるを望むと言ふ人気であつた、是れも其筈である、何ぜなれば今申す通り封建制度が郡県になつて昔からの御大名も何んでもなくなり、今まで詰らぬものであつた書生が一躍顕職を得ることになり、隣の誰が県知事様即ち昔の大名のやうな者になつたといふ様に、何所の馬の骨―馬の骨は少し悪るかつたが、兎に角才能さへあれば誰にでもなれると言ふ訳である、是を以て一般の人気はそれ御覧なさい、彼の人は政治教育を受けたから県知事様になつて昔吾々が見たところの殿様より偉いと言ふ観念が生ずるから、誰も学ぶと言ふからには皆な政治界に赴く様になる、学ぶ人は勿論学ばせる者も官吏にしたいと言ふ念を以て教育の制度を施して進て参つたから国家は殆と挙て官吏になり切ると言ふ風であつた、其間或は経済を説き商工業を論じた人もありましたけれども、そう言ふことは総て為政者の支配を受けるものであつた、商工業家でも自分の使ふ傭員だけは支配が出来るけれども是は寔に小部分である、多数は為政者の制度に従はなければならぬ、商売人としては商法の支配を受けるとか、又人民として民法の支配を受けなければならぬやうに、多くの場合皆な他人から治めらるゝ位地である故に其方面に力を向けた人は甚だ乏しかつたのであります、それであるから若し明治五・六年若くは十年頃の姿で此経済思想が充分起らず、実業的観念が盛んにならないで政事的感念のみに日本が進んで行つたなら、外国と戦争する許りでなく内国同士でも無暗に紛争すると言ふ人気にならぬとも言えなかつた、抑々是は政治思想が極端に走つた時勢の罪である、故に明治の始め頃の有様で、国論が唯政治にのみ赴いて、実業の発展には誰も心を用ゐなかつたならば、其方の希望が益々強くなりて、国は段々疲弊し、人は益々険悪となるに相違ない既に政治が険悪であつて、人間が又険悪であつたならば、其施設も亦甚だ険悪となり、なかなか他国と許りでなく、内輪同士でも相争ふと言ふことになつたかも知れぬのである、ところが宜い按排にそれではならぬといふ処に気が付て、明治十四・五年頃から実業思想と言ふも
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のが段々進んで参つた、そこで大に政治熱が薄らいで実業熱が進んだ同時に実業家も追々歩を進めて行つたのである、私は此間を永く経過して来たので、其実際を能く知つて居るが、それに就て一つの面白い話がある、今東京に東京瓦斯会社と云ふ大きな会社がある、諸君も大抵其名を聞て知つて居られるでせうが、瓦斯を供給する会社である、其瓦斯会社が明治十三年頃には瓦斯局と言つて、東京府で有つて居たのである、其時私に此瓦斯局の支配をして呉れろと云ふことで、瓦斯のことは存じませぬけれども、一の民業的仕事であるから、大体の管理を引受けて、瓦斯局長と言ふ名を以て、為めに俸給などを受けては居なかつたが、時々工場へ出勤して大体の世話をして居たのです、当時瓦斯の製造は外国人を雇つて技術の方をやらせて居つたが、何時までも外国人を置いてやらせると言ふ事は残念だといふて、既に帝国大学と云ふものが出来て居つて、其処で技術家も出来ると言ふのであるが、瓦斯製造は如何なる技術に属するかを御恥しいが私は知らなかつたので、之を大学の教授に聞いたところが、それは応用化学に属すると言はれた、ところが応用化学などゝ言ふことは、今日では大抵皆さんが知つて居られますが、私はそれを知らなかつた、今そんな事を言ふと嘘らしいが、明治十二・三年頃には、応用化学とはどんな意味でどんなことをするのか殆んと説明さへ充分でなかつたのである、今日諸君がそういふ事を御聞きになると、そんな馬鹿気たことはなからうと仰しやるでせう、それは少しく時代が違ふと、さう言ふことは幾らもあるものです、私は維新前に欧羅巴航海の船中で、白昼に燕尾服を着て出掛て大に笑はれ、顔が火のやうになつて、海にでも飛込みたかつた位のことがありました、今日は左程野暮のことは致しませぬが、同一人間でもそれ位に世の中が違ふと所作も違ふのであるから、即ち応用化学に付てもそれ位であつたのです、其応用化学の学士を一人頼みたいと言ふことを大学の教師に申込んだ、然るに某が其科を卒業したからと言ふので、之を外国人の手につけて修行させやうと思ふて略略約束をし、本人も承諾して愈々職に就かせやうとすると、本人の言ふは、此瓦斯局は今にどうなるだらうと聞くから、確かに結局は東京府が有つて居るものではなからう、是は民業に移して会社組織にしたら可いと思ふ、私はそれを希望する、結局は会社として民業になるだらう、勿論民業でなければならぬと話をすると、イヤそうなれば私は御免を蒙りたい、私の学問を修めたのは官吏にならうと思つたので、民業に就くのでは甚だ面白くないと言ふ、本人もさう言ふし、又其朋友も民業就職には反対であつて、殆ど学士仲間の意志が皆同様であつたのである、終に折角の約束を断はると言ふに就て私は実に驚いた、政治学者――政治の学問して居る人が、民業に就くのは嫌やだと言ふのなら少しは聞えて居るが、其修めて居る学科は応用化学である、其学科を修めて居る学生の希望が官吏になりたい、然らざれば教員になりたい、其教員も政府から命ぜらるゝ教員になりたい、此の如き有様で、其当時大学の入学生の望は皆官吏より外ないと言ふのであつて、実に明治十三年頃迄はさう言ふ風潮であつた、私は之を聞いて真に驚歎して、左程まで間違つて居るか、是は寔に由々しき大事であると思
 - 第46巻 p.199 -ページ画像 
ひまして、今は総長といふが、其時の大学総理をして居られた加藤弘之君に早速会見して、種々愚見を述べた、今の学生の有様では甚だ憂ふべきことであると言ふて、切に教育の方針に付て意見を詳細陳したそして段々総理や応用化学の教授などが説得して呉れて、漸く本人も納得し、瓦斯局の技術家になりましたけれども、其頃の大学生の意嚮は皆さう言ふやうな有様であつたといふ立派なる証拠があるのです、即ち学問と言ふものは唯官吏になる必要から修めるのであつて、又学問させる人も官吏にする稽古と思ふて居つた、学校といふものは唯政府の支配するものだ、政府が造るものだ、国家の権力を握るものが学校の制度を定めるものだと言ふことであつた、先づ日本の学問の始りはさう言ふ姿であつて、当時一般学ぶ人も学ばせる人も政治家でなければならぬ、学問したものは如何に幸福を得、如何に富を得、参議になられた、何省の卿にもなられた、何にも不思議はない、広く学問をしたゞけである、斯う言ふ観念で、恰も韓退之が勧学文に「一為前率一為公与将」と云ふてある如くに社会一般の人が思ふた、是が明治十四・五年頃までの教育の風潮であつたと申して宜しい。
ところが、此国家は左様に理窟若くは腕力ばかりで永久に富と強さを支へ得るものではない、蓋し其原素がなければならぬ、其原素はなんであるかと言ふと実業の発達である、即ち富の増殖である、欧米諸国の有様を見ても、其表面から見れば軍艦が多いとか、機械が巧妙であるとか、発明の種類が多いとか言ふて、其点から見ればそれだけであるけれども、其軍艦の多いのが何から生れるか、其鉄砲の立派に出来るのは何によるかと言ふと、国の富―即ち商工業の実質の発達であると言ふ所へ、当時の識者もそろそろ目を着けて来た、そこで、これまで政治にのみ傾いて居た日本の人心が一転して、事業の発達富の増進といふものが無ければ、万国と競争して肩を列べることは出来ないと言ふことに、幸にも政事家・実業家共皆心付いた、私も当時政事家以外に在りて、其のことに心付いた一人であります、爾来実業の為めに己れ自身の富はなしませぬが、多少貢献致した積りであります、是に於て教育上にも大に必要を唱へたのでありまして、其一例を申すと、今東京に在る高等商業学校です、此の学校は明治七年に森有礼と言ふ人が英吉利からホイツニーと言ふ教師を雇ふて自身で組立つたのであつて、東京府から少々の補助はあつたが、詰り私設の実業教育を授けた学校です、ところが明治九年に森氏が支那の公使になるに付て、其学校の維持が出来ない、どうぞ東京府で引受けて貰ひたいと言ふことであつた、それで明治七年から東京府が其学校へ金を出すことに付て私は府庁に職は取りませぬけれども、前申す瓦斯局の世話などをして居る関係から、此の補助金を出す事に大に力を添へ、又森氏が支那へ行く時に、此学校を東京府に取つて欲しいと言ふことに付ても頗る心配をし、終に此学校を府立の学校にした、ところが明治十五年であつたと思ふが、東京府会の人々が斯んな学校は東京府には要らない、府の費用で維持して行く必要はないから廃めてしもふと言ひ出した、恰も大学生が民業に就くのは嫌やだと言ふのと同じ筆法であつて、世の中の風潮がさう言ふやうな有様であつた、そこで私は将来実業を大に
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盛にしなければならぬと深く希望して居るのに、僅かに一の実業学校が東京にあつたばかりで、大学の如き大なる資本を入れ国家が力を尽して政治教育は授けるけれども、実業教育としては、実に微々たるものが、唯一つ存して居るのみである、是すら東京府は不要であると言ふは何事である、一年に一万か一万二・三千円の経費であるのに、其金さへ惜いから廃めると言ふは、世間は左まで解らぬものかと真に涙を流したのである、自分等は斯くの如くに丹精して、実業の進歩を図る為めには、どうしても実業教育が無ければならぬと言ふて、此学校を設け、それが東京府の経営に属して、数年の経験を経て追々進んで来て居るのに、どうして東京府会はさう言ふ乱暴なことを言ふか、実に残念のことであると、終に私共は同志申合せて各自幾分の資金を醵出し、他の人からも出金を頼み、又政府へも民間ばかりではとても永続は出来難いといふ話をして、漸く二箇年ほど年々に一万円づゝの金を出して貰ひ、それで兎も角も維持して参り、十八年になつて始めて文部省に属することになり、それから追々進んで、今日は千数百人の学生を入るゝほどの大規模の学校になりましたが、其学校の起りは今申す通りであつて、其間の経過と言ふものも中々の苦難でありました即ち其頃の実業を軽んずると同じく、実業教育をも社会からして殆んど無くもがなと言ふやうな待遇を受けて居つたと言ふ事は、今日から遡つて二十四・五年しか経たないのであります、併し幸に善事は追々に力が進んで行くものと見えまして、高等商業学校は次第に実業学校として拡張し、生徒も増し、従つて教育の度合も進んで参るのみならず、且それが東京ばかりでなく、大阪にも出来、其他山口・神戸等にも高学商業学校が出来、又普通の商業学校に至りては、殆んど数へられぬ程多くなつてきた、又一方には商業学校ばかりでなく、工業学校、実業学校等の設立を見ることになり、種々なる実業上の教育を授けると言ふことになつて、爾後二十年ばかりの間に頗る進んで参つた、是は前に申した政治教育と実業教育との変遷である、其有様が恰も同じやうに移つて行く、明治の初から十七・八年頃迄は頻りに政治教育に熱した人々が、政治に進むと言ふにはさうまで容るべき門戸はないから、学ぶ人はどんどん学んで行くが這入るべき位地が無いやうになつたので、勢ひ何れにか活動しなければならぬ、其際に尚此制度を継続したから、明治十四・五年から十七・八年頃が最も政党熱が烈しかつたと記憶して居る、それは時勢の潮流でもあるが、其時学んだ学生が政治の遷り変りの為め政治熱をして向上せしめた、と言ふは事実であつたと見て宜からうと思ふのである。
それは先づ政治に属する時のことであるが、爾来又実業教育が年を逐ふて進んで来て、前にも言ふ通り、全国に於ける其数は記憶しませぬけれども、数限りなき実業に関する学校が出来た、是故に教ゆる人も学ぶ人も、恰も政治に競争した如き有様に、実業教育に勉める、是は其教育をさせる父兄の考が少しく迷謬の中にあると言ふことを誠に喝破せざるを得ぬのであります、何ぜなれば、教育と言ふものは一体其人自身の才能に適当する事を選むべきものである、政治家になりたいものは政治教育、百姓になりたいものは農業教育、商売人になりたい
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と言ふものは商業教育、工業家になりたいものは工業教育と言ふ様に各自身がなりたいと思ふものに付て我位地、我才能、我資力、我境遇と言ふものを充分に考量して行かなければならぬ、唯何処までも無暗に高等に進むのは甚だ危険と思ふ、寧ろ或程度に止めて、さうして実際に就くのが、常識ある人の世に処する思案である、何事も我資力と我才能とを弁へて、我分相応でなければならぬのである、若し教育が己の境遇、己の分量を超えれば、其教育は寧ろ其身を害するものである、然るに前に申すやうな政治教育がまるで其分量を超えて、其弊や終に世を挙げて政治熱に罹るが如き愚を演ずるに至るのである、それと同じく、今日の実業教育を授くる人も学ぶ人も、兎角銀行会社へ這入るものばかり造ると言ふやうな気風を教育上に誘致して、実業の学問をするのは、学んだら会社に這入れるだらう、学んだら銀行に這入れるだらうと、恰も政治の学問に於ける如く、学んだから誰れそれが大臣になり参議になつたと言ふと同じく、学校から出て誰が銀行の支店長になつたとか、或は頭取になつたからと言ふやうに、第二の風潮をなし、何うかして大きな富とは行かずとも小さな富でも取りたいといふ主義目的に依つて学に就くと言ふ風習が甚だ多くなつたのである然るに恰も明治二十二・三年頃より官吏の任用が減ずると、政治の学問を学んだ人が溢れてそれが政治熱に狂奔したと同じやうに、世の中の銀行会社とてもさう限りなく出来るものでないから、学んだとて皆それを使用する事は出来ぬ、是は要するに、学問のさせ方も悪るければ仕方も能くない、蓋し学問の真正の効用はさう言ふものではない、各々能く其分限を守り、己の位地と才能を顧み、場合に依つては銀行の役員となり、会社の社員となるものも悪るいと言ふことではありませぬが、併し果して学問をすると言ふことが、会社の事務員、銀行の役員になる為めのみだと言ふは大なる誤りである、要するに、学問は国民として己の地位を進め己の事業を為す上に於て必要である、と言ふ観念を以て修めなればならぬのである、是が第二の迷謬と言はなければならぬやうに思ふのであります、此処に御集りの諸君の多くは青年であつて、今学を修めつゝあると御見受けするが、決して此諸君が皆此迷謬中に在るとは申しませぬが、併し世の中の大勢は其やうに相成つて居るからして、明治二十二・三年頃に政治に狂奔した有様とは教育の範囲は違うけれども、相似た有様に走つて居ると言ふことを理解したならば、成るだけ学問は己れ自身の為めだ、他に仕へると言ふが学問の趣意でないと言ふことを、学ぶ人も学ばせる人も能く熟慮するやうにありたいと深く希望するのであります。
私は昨年亜米利加に旅行致しまして、彼の地に於て種々なる学校を参観し、教育の有様に付ても、言葉が通じませぬから極く真髄を知り得ることは出来なかつたやうでありますが、皮相的には大概の観察を致した積であります、それで、亜米利加の学問の仕方は、弊害から論ずると、国が富んで居る代り万事大袈裟過ぎて、それ程金をかけなくても出来る事柄でも費用を余計にして物事を豊富にする、それであるからして、或はかけた費用ほどは実際の効力が無いではないかと言ふ嫌ひがある、一例を申すと「ヒラデルヒヤ」のジラード・コレージと言
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ふ学校は、ジラードと言ふ人が自分の財産を棄児教育の為めに擲つて設立したもので、それが又地方を限つてあるから、収容する人数に比して資金が非常に多いやうになつて居る、従つて今日は益々其資金が多くなつたので、棄児に対する教育の方法が貴族的になり、ヒラデルヒヤへ行つて見ると、棄児の方が寧ろ金持の子女よりも優待されたる教育を受けて居る感が起るのである、是等は亜米利加の教育に付て、不権衡なる点にして寧ろ弊害と言はなければならぬ、けれども亦一方亜米利加の教育の仕方は頗る感心することがある、それは事業をする為めの教育であつて、教育の為めの事業でない、どうも日本では法律と言ひ教育と言ひ、法律が人を自由にするのみならず、学問も亦事業を自由にする、教育の方が主で事業の方が従である、即ち学問の方から事業を支配すると言ふ弊害がある、蓋それは学理と実際の密着が比較的未だ大に足らぬと申さなければならぬやうであります、前に申す通り政治上に傾くとか、又銀行会社の役員とか事務員たるを希望すると言ふことに付て、学に就く人も教へる人も深く注意を払ひ、此時勢の弊害に向つて努めて之を救治すると言ふことに心掛けなければならぬと思ふのである、学問と実際と言ふ方に付ては、縦ひ政治の学問でも、実業の学問でも、何方らに於ても同様其仕事をするのが学問の必要を起すのである、然るに学問と言ふものを先にして、学問から仕事を起す、即ち主は彼にあつて客が是にあると言ふやうな有様は、未だ学問を真正に利用し能はぬものと言はなければならぬのである、此点に於ては、大に亜米利加の方が日本の教育の仕方より優つて居ると申さなければならぬやうに感ずるのであります、要するに、亜米利加は今申すやうに、政治上から教育を支配すると言ふことは殆んど無い、学校は多く民間の寄附金等によつて成立つて居る、それが又一般から見て最も優良である、大学校などに付ても国立とか州立とか言ふ大学よりも、有志者・金持等の寄附金に依つて成立つた学校の方が、総ての点に於て完備して居り、材料も豊富に、教員も優秀で、制度も従て厳格である、故に、亜米利加に於ける学校の模範たるは、国家の学校にあらずして寄附金より成立つたる私学校にある、是は日本と完く反対であります、従つて学問を利用する有様が実際と全く密着して居る是は大に我の彼に学ばなければならぬ点であると思ふのである、日米の学問の有様に付ては一場の御話に尽くし得ませぬから、唯今は其大体に付て申上ぐるに止め置きまする。
私は維新以後の教育が政治に強く傾いた際に実業の方に力を入れたのであるが、此教育に付ては政治も実業も、其実を去つたところの教育に付て学問し来つたものであつて、未だ真正なる学問とは言ひ得ぬところがあると思ふのである、是に就ては青年諸君は別して注意して、将来大に之を完全にし、学問は全く己れの為めであると言ふところの域に進めたいと思ふのであります、此会合の教育会であり、又農友会青年会であるので、多少学問に因んだことを申上げて見たいと思ひました、殊更前申述べる通り、矢作先生から経済談がありますから、私は流義違ひの教育――然かも私の柄にない事を演説致した次第であります、大に諸君の清聴を煩はしました。(拍手)
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〔参考〕渋沢栄一 日記 明治四五年(DK460051k-0004)
第46巻 p.203 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年 (渋沢子爵家所蔵)
二月十三日 雨 寒
○上略 午飧後大隈伯ヲ早稲田ニ訪問シテ、来ル四月上旬大里教育会大会出席ノ事ヲ依頼ス○下略
   ○右四月上旬ノ大会ニ就イテハ未詳。