デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
29款 其他 17. 佐波教育会
■綱文

第46巻 p.210-216(DK460055k) ページ画像

明治44年10月15日(1911年)

是日、群馬県伊勢崎町伊勢崎尋常高等小学校ニ於テ、当会主催講演会開催セラル。栄一出席シテ講演ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK460055k-0001)
第46巻 p.210 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
十月十五日 雨 冷
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、七時堀川氏来リ、伊勢崎行ニ付案内ノ為メ昨日ヨリ出張セルナリ、細野次郎氏モ来訪セラレ、直ニ家ヲ出テ王子停車場ニ抵リ、七時四十分発ノ汽車ニテ伊勢崎ニ抵リ、久喜駅ニテ東武鉄道線ニ乗替ヘ、各駅ヲ経テ十一時過伊勢崎ニ達ス、停車場ニ地方有志者多数来リ迎フ、白水楼ニ抵リ休憩ス、午飧後地方人士ノ来訪ニ接シ、午後二時同地学校ノ講堂ニ於テ実業教育ニ関スル一場ノ講話ヲ為ス、来会者六百人許リナリ○下略


竜門雑誌 第二八一号・第四七―四八頁 明治四四年一〇月 ○青淵先生の伊勢崎行(DK460055k-0002)
第46巻 p.210 ページ画像

竜門雑誌 第二八一号・第四七―四八頁 明治四四年一〇月
○青淵先生の伊勢崎行 青淵先生には、群馬県下の佐波教育会の懇請を容れ、十月十五日午前七時五十四分王子発の汽車に乗じ、群馬県下伊勢崎町に赴かれ、伊勢崎尋常高等小学校内に開かれたる、同会に臨み一場の講演を試み、尚同地商業を視察して、翌十六日帰京せられたり。


竜門雑誌 第二八二号・第五七頁 明治四四年一一月 ○佐波教育講演会(DK460055k-0003)
第46巻 p.210 ページ画像

竜門雑誌 第二八二号・第五七頁 明治四四年一一月
○佐波教育講演会 群馬県下佐波教育会にては、十月十五日午後一時より伊勢崎尋常高等小学校女子部講堂に於て、講演会を開催せられたるが、青淵先生には、細野次郎氏の懇請に依り臨席の上「実業教育」に就て一場の演説を為し、細野氏又「教育の最要点」と題して雄弁を振はれたるが、聴衆は満堂に立錐の地を余さず、頗る盛会を極め、終つて午後六時より共栄館に於て盛宴を開きて、青淵先生を款待せられたり。


竜門雑誌 第二八二号・第二二―三〇頁 明治四四年一一月 ○実業教育の今昔 青淵先生(DK460055k-0004)
第46巻 p.210-216 ページ画像

竜門雑誌 第二八二号・第二二―三〇頁 明治四四年一一月
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    ○実業教育の今昔
                      青淵先生
 本篇は群馬県伊勢崎に於て開催せる佐波教育会の招待に応じ、青淵先生が雑報記載の如く、十月十五日同会講演会に臨みて演説せられたるものなりとて、連日上毛新報紙上に掲載せるもなり。(編者識)
会長並に臨場の諸君、当町及び組合十一ケ町村の教育会総会の招待を受け、此席上に於て私に愚見を述べよとの事に、進んで玆に愚見を陳述致します、私の身上に就ては只今細野君(代議士)から述べられたが、親類関係からでもあらうが、褒め言葉が多かつたやうに思ふ、洵に申訳がない、私は始めて伊勢崎町に来たのではない、余程古い以前には度々来た事がある、君等の親父の未だ生れぬ時代であつた。
△当時の伊勢崎 は千戸の戸数もない町であつた、今日の繁昌した有様に較らべると、昔の事を考へても一向に様子が解らない程である、私の郷里は当町から三里ソコソコの処である、埼玉県大里郡血洗島で利根川の側にある、農業の暇に藍を売りに来た、此処は織物の盛んな土地で、紺屋へ藍を売りに来たのであるが、今ま悉く当時の事が記憶にはないとしても、其当時の伊勢崎町は今日の如き繁昌な町ではなかつたと思ふ、兎に角昔とは変つては居るが、今日参つても殆ど故郷と同じ感がある、足利から向ふは東武鉄道で経過した事もあるが、その以外は始めてゞある、併し、木崎といひ、世良田と云ひ、又境と云ひ何れも記憶に存する処である、アノ森、アノ川の目に触るゝ毎に、古き記憶を喚起し、所謂故郷忘じ難しで、頗る興味を覚へたのである、而して五十年の間に段々進んで来た伊勢崎へ来て、而かも此の立派な学校の講堂で諸君に会し、愚見を陳述するといふ事は、アノ山を見るよりも、アノ森を見るよりも、一層深い興味を覚ゆるのである、玆で私が申し上げ度いことは演題にある如く
△実業教育に就て 即ち実業上のお話しであります、細野君は前席に教育は自分の短所である、他の方面の話をするよりも苦痛である、と言はれたが、其の話された処も教育談よりは歴史談であつた、蓋し短所の内にも多大の長所が認められた、教育専門にのみ亘らぬ話は却つて面白く、私は深く喜んで拝聴致しました、然らば教育家かといふに教育家ではない、寧ろ教育には縁の遠い方である、自分の歴史を述べて見ると、百姓が浪人に変り、京阪へ走つてゴロ付き、後に一橋の家来となつて二・三年、それも三ピン武士であつた、夫れから欧羅巴に参つて、足掛二年ソコソコで帰つて来た、維新の当時には日本へ帰つて来た、而かも今日のやうに、或る一事に就て十分の括をつけて仕事をして居たのでないから、海外の様子も一向に解つて居らぬ、一月に行つて翌年の十月に帰つた、勿論学問などは出来なかつた、明治政府の官辺に出るなどゝは予期した訳ではなかつたが、明治の役人として仕ふる事となり、明治六年まで役人生活をなし、同年五月に官を辞して実業界へ尽力して見やうといふ意志であつた、而して恰度今日まで三十八年実業界に身を投じて居る、故に私の商売は実業家である、実業が生命である、併し物は妙なもので、同じ仕事を永くやつて居ると永い時間も短く感ずる、日の経ち方が早い、種々の事に関係すると、
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朝から晩までの時間が永いと思はれる、明治六年官を辞して実業界に投じた今日までの歳月は、随分永いものである、此の三十八年間の私の経営は什ういふ風であつたか、又た如何なる事をしたかといふと――恁ふ云ふと、細野君の褒め言葉に乗つて法螺を吹くやうに当るが、決して法螺ではない、実に三十八年前の日本の実業界は、実に程度の低いものであつた。
三十八年前の日本の実業界の程度の低い事は、実に恁ふであつた、其当時大蔵省に出入する東京の主なる商売人、若くは其の支配人・番頭の人々が役人に面会する際の如き、人格の卑しい、智識の乏しい、而かも自から卑下する感念の強い事は、実に甚だしいものであつた、役人と云ふと、殆んど別の階級の人で、下級商人の企て及ばぬ処であると考へて居た、頭を下げて、決して頭を上げて役人に会ふなどいふ事はなかつたものだ、お左様、御尤ともで、役人の言ふ事は何が何んでも通つて了ふ、之れ三百年来の習慣が尚存続されて居たからである、明治も五・六年となつては、外人と対等の附合をするやうになつて来た、然るに、今日の如く実業界が卑屈では、迚ても日本の国は富国になる事は出来ぬ、国を富ますは事業に依るの外はない、農商工を十分に発達して、事業が拡大されて来れば、自然に国が富むで来るのである、国の政治が如何に立派でも、而して役人や軍人が如何に整つて居ても富国とは言はれぬ、農商工の発達、これ真の富国である、根の堅くない木は大きくなれやうはない、幹の太くない木が十分に繁茂する筈なし。
△実業は国の基 である、人民一般の事業が繁栄すればよいのである外国の有様は僅々一・二年の間で、学問的にはこれを見る事は出来なかつた、実業の発達して居るといふ事丈は略ぼ解つた、何れの国を見るも、実業が国の基をなして居る、それに引換へ、日本の如く役人に対して唯々諾々、お左様、御尤に限るといふ風潮では、行末が思ひ遣れる、之れ私が実業家たらんとする念を起したのである、鳥渡私の身上話になるが、暫く懐旧談を以て教育談に代たいと思ふ、――自分が家を出る時は、自から国士を以て任じ、政治上に多少の変化を起さうとしたのであるが、欧羅巴から帰つて見ると、政治上に処せんとした変化を来したのだ、殊に自分が政治上に十分の学識も門地もある訳でない、然らば家を出た当時の感念に依つて国に尽すとするならば、何にか他に目的を変へねばならぬ、玆に商工業の改良を必要であると感じ、微力ながらも事業を起して見度いと考へた、事業を起すは国を富ます所以である、事業に当る人々の智識を向上せしめる、総ての商工業者の地位を進めるといふ事を終生の希望と定めたのである、之れ三十八年間引続き実業界に苦心する所以である、而かも微力故未だに成就せず、又満足せぬが、官を辞して明治六年
△第一銀行設立 当時に較べて見ると、東京のみならず都会も亦田舎も――殊に実業界の面目を改めたと思ふ、富も増したと思ふ、従事する人の位置も大いに変つたと信ずるのである、唯だ役人の命令に服従すれば可いといふ商売人の感念は、何の方面にも見えぬやうになつた蓋し之れ世の進運である、聖代の賜である、些か其間に従事して、其
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の増進に与つて力ありとすると、私も甚だ嬉しく感ずるのである、私は玆で実業教育に就て什ふいふ考へを持つて居るか、といふ事を申述べて見度いと思ふのである。
抑も教育は実業のみに必要ではなく、一般普通教育は最も尊重しなければならぬ、小学校・中学校、凡て教授の方法を欧羅巴の制度に則つて、稍や完備に近い現状である、実業教育なども一様に進歩したものではないが、都会にも田舎にも相当の機関が備はるやうになつた、政治と実業とが拡大さるゝに連れて、商人の位置も改まつて来たのは喜ぶべき次第であるが、其の昔に返つて見ると、教育といふ事も色々の変遷を遂げて来たものだ、今日でこそ実業教育に重きを置くやうになつたが、明治以前には実業教育などいふものはなかつた、商人が頭許り下げて居るのには、教育の必要はなかつた、迚も其処に気付く人がなかつたのだ、西洋の見本に依つて組立てた教授法で、教へる事は教へ、教はる事は教はつたが、皆それが政治教育であつた、元来以前には商工業者の教育といふことはなく、名頭・国尽・商売往来・塵劫記などいふもので最うお仕舞ひである、学校でも私塾でも、之れを遣れば終りになつて了ふ、漢籍などは無事に家を治むるには駄目だとされてあつた、「売家と唐様で書く三代目」の川柳は、之れを最も適切に言ひ現はしたものだ、今の三越、昔の越後屋、今は潰れた大丸或は白木などの番頭や小僧には、必ず漢籍が禁じてあつた、大学とか孟子とかは悪事でもさするものとして厳禁されたのだ、都会の大商店に於てすら既に然り、田舎の有様は之れを察するに難からずである、私などは、父が六つ七つの頃論語を読み始めたのが、漢籍に入つた端緒である、幸ひ近所に師匠があつて、その人に就て学んだ、朝飯を食つては行き、夕刻に帰るといふ風であつた、それも十歳になると、最う八釜敷い漢籍を読んではならぬといふ、漢籍許り読んで居ては什麼ものになるかも知れぬ、……事実漢籍を読むよりは、家業に勉励せん事を普通農業家では強ゆるのであつた、代々村の豪家などは別であるが、多くは恁麼風で、学問的の教育は何の方面にあつたかといふと武士の方面にあつた、そして最要点は漢籍であつて、多くは其の地位を増す。
△心を磨く知徳 にあらず、徳育が主で四書五経、少し進んで歴史であるとか、文学とか、智育の方面であつた、之れ三百年来教育の大体である、教育の淵叢は素より江戸で聖堂に入る、幕府唯一の学校に入れる者は、旗本の子弟とか、諸藩から選択した書生で、先づ二百人位のものであつた、学者の私塾も相当にはあつたが、生徒の数は至つて少ない、私も漢籍の好きな為め江戸へ出て私塾に居たが、その塾生は六・七人であつた、恁麼始末で、教育の範囲の狭い事は解つて居た、併し此教育が幕府を倒した、教育が幕府を倒したといふと、鳥渡不思議の様に考へられるが、抑も教育の目的は身を修め国を治め天下を平かにすると云ふにあり、幕府の悪政に対し改革心を起させたのは、取りも直さず教育の力である、今細野君の言れた如く、家康・松平伊豆守といふ様な賢将明君あり、斯様な人を揃つて三百年の泰平を致したのであるが、遂に教育の力で治めたものも、亦教育の力で破らるゝに至つたのである。
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封建は力也と云つて居る、自からの力で樹つのである、其処へ外の関係が生じて来ると差支が出来る、新井白石すら之れには弱つたといふ大君の名で外国の使節に応対した事すらある、嘉永六年ペルリの外交談判から、学問に胚胎した種々の議論が起つた、大義名分・尊王、外に対し攘夷、又た王政復古・討幕など段々に議論が進んで来た、尤もこは一朝一夕に決したのではないが、追々とかゝる思想が涵養されて慶応四年遂に政権の返上となつたのである、聡明なる慶喜公は早くも其事を看破されて、自己を捨てゝ国の平和を考へられ、国民を塗炭の苦より免れしめた、慶喜公は忠義の人であるけれども、徳川三百年の覇業を崩したのは、漢学に教授された人々の力が発動して革命が出来たのだ、で維新匆々の栄達は皆漢学生である、元老の山県・松方・井上といふ人は寧ろ後輩で、今は亡き先輩の人々は、多少とも漢学性を帯びて居た、木戸・大久保・後藤などいふ人皆爾りであつた、果して夫等の人々は参議になり、大臣になり、天下衆目の注ぐ処となり、功名も利益も共に収めるやうになつた、それと同時に、最う少し進歩せねばならぬ世の中になつて来た、而して第二の教育は漢学のみではなく、海外の学問が加はつた、されど未だ実業教育といふ事はなく、凡て政治教育であつた、明治の始めに学制を立てゝ、政府は大いに力を入れ、先づ六部に分類して学制を定めたが、凡て之れ海外の有様を移した丈で、素より学問の精神は役人になる意念であつた、度々話しする処でありますが、這麼話がある。
△三十年前の学生気質 明治十三年、今の瓦斯会社が未だ東京府の瓦斯局として経営されて居つた時代であるが、帝国大学卒業の学士を雇ふと思つて、其等の周旋をして見た、学士は其事業に就て、将来は何んになるを問ふ故、私は民業になると答へた、民業になるものとすれば、一時雇はれやうと思つたが厭になつたと断つて来た、之れ役人崇拝の世の中で、役人になれゝば可いが、民間の事業では厭やだといふ意味である、其の時分の人気は実にソウであつたのだ、現に同社の専務取締役である高松工学博士などの先生で、その弟子中随分後輩の方であつた、凡ての学生が役人にしかならぬと考へて学び、又教へるにも役人になるべく教へる、何時も親ばかり出来て子が出来ぬといふ有様だ、畢竟教へ方が悪い、学問の風が悪い、商工業者の位置が何時までも低くゝては不可ぬと、声をからして絶叫しても駄目であつた、当時の大学総長は加藤弘之君であつたが、私は屡々総長の処へ行つて、此事業に就て叱言を言つたものだ、遂に叱言が利いて――私が自負するやふであるが、実業教育といふ事が多少注目されるやうになつた、序に大学の講座を持つて呉れといふ事で、二年程講師になつた事もある、学問に縁の遠い私ではあるが、事実は事実である、穂積八束などは私の弟子である、都築馨六・鶴原定吉などいふ立派な弟子を持つて居る、如何に外面から実業教育の必要を説き、商工業者の位置の卑しからぬ故を教へても、到底実業界を尊重せぬ故、先づ学生を惹起すやうに仕度といふので、私が銀行法の講座を受持つに至つたのであるが恐らく私程当時銀行を調べた者はなかつた、国立銀行条例は私が作つたのである、銀行条例の講演を二年許りやつて居たが、時間は一週に
 - 第46巻 p.215 -ページ画像 
一日乃至二日位、交る交る講演した、蓋し其の意念は、学問と実業とを接近させたいと暫し其の職を執るに至つたのである、一般社会教育の忽にすべきでない事を説いた、明治初年より十年までの教育は凡て政治教育であつた、併し世の進歩は強い、十二年の頃も前に述べるやうであつたが、十八年になると、東京市では資本を集めて会社を組織するといふ事が始まつた、而してその瓦斯会社は二十七万三千円の資本金であつたが、今では三千五百万円の大会社になつて居る、之れ瓦斯の需要が増加したのと、東京市民の膨脹した結果である、凡ての事業が瓦斯事業の進歩した標準で幾百倍の進歩したかといふに、明治以後の事業として、瓦斯事業の如きは特例とすべきであるが、併し各種の事業が非常に進歩すると同時に、実業教育も亦進んで来た、今から考へて見ると東京に高等商業学校がある、之れ実業教育といふもの抑もの始であると申して可からうと思はれる、此の商業学校の元の起りを尋ねると明治七年に森有礼といふ人が、政治教育の盛んである頃、亜米利加式に依つて商業上に於て教育する事を考へ、東京府から金を出して貰ひ、詰り補助を受けて商法講習所を起した、処が九年になつて森氏が継続が出来ずとなし、東京府立に変更され数年を経過した、遂に十六年、東京府会は唯一の実業教育の機関になつて居るものを、府の力に依つて経営する必要はない、廃校したが可いとて、府会の排斥する所となつた、それでは考が丸で違ふと説いたが、多数が排斥の議論で、衆寡敵せず、遂に廃止となつて了つたのである、拠なく今度は官立にしたいと心配して、大いに骨を折つた、銀行仲間などで基金を作り、作つてさうして政府で継続して呉れと迫つた、遂に文部省で二年間経営して、十九年に文部省の管轄に属するやうになつたのであるが、現在の生徒数は千二・三百人に対し、年々十数万円の経費で維持するまでに至つたのである、之れ抑も実業教育の始めで、其後二十三年頃になると、実業専門学校が官立にも私立にも出来て、実業教育が大いに進歩するやうになつたが、その元は一商業学校である、それが追々拡張されて、工業の方面にも夫々教育機関が備はるやうになつた、現在商工に関する官立校四あり、其普通の実業学校に至つては何十何百となく全国に出来るやうになつた、教育の進むと同時に、学校に就て学ぶ人も亦変化して行く、政治教育に就て学ぶ者は皆な、之れが国務大臣になろうとか、或は又立派な役人たることを期待する、併し多数の人が僅かなものを選ぶのである故、恰かも富籖のやうなもので、時には失意者も出来る、広く政治と云つても限りがある、民権拡張と共に、新聞紙とか、著述とか、法律を学ぶ者には代言人といふ職もあるが、政治教育の結果は多数役人を希望する傾向であるから、追追と口が塞つて来る、針路が尽きて来る、又実業教育が追々に発達して、一般の人気が実業教育に向つて来ると、会社銀行も必要に応じて追々に増加して来る、実に明治廿四・五年以後近頃までは、頻々其の方面に要需もあれば供給もある、教育の変遷に連れて、教育される人も亦変り行く、実業教育の発達と実業教育の進むに従つて、政治に向つた人が実業へ変つて来る、仍で世に立たうとする人は、銀行会社に行かうとすることは、矢張り役人の希望が多くて役人の口が塞つたと
 - 第46巻 p.216 -ページ画像 
同様、実業界にても此の結果を現して来た、二代の差支が起つて来たといふのが現在の有様である、地方には余り感じないか知れぬけれども、京阪には就職難を唱ふるものが多くなつた、之れ前の理由に基くのである、元来今の教育は教へる人も良くないが、学ぶ人の考へも面白くない、政治教育にした処が、自分の地位を進めるといふ事は考へず、只だ職に就く事を主とする故に行閊へて了ふ、実業教育亦然りで会社へ這入り度いといふ精神で学問を修めたり、工場へ行くといふ考へを第一に置いて勉強したりして、吾も吾もと会社や工場へ走つて行く、恁うなれば忽ち需給の権衡を失して、学問も何等の効なく、例の高等遊民などが出来るやうになるのである、教へる方でも注意したいが教はる方の子弟も、恁うといふ方針を立てゝ、適度の教育を受くる事をしない結果である。
教育の精神は何んになるといふ事のみを目的にせずして、一身を先づ修むるにある、普通の人が銀行や会社へ行く事許り学んで、身を修める道を学ばなかつたならば、人格の低い者になつて了ふ、人格を進めるには、学問の力や職に就くといふ事のみを目的とせずに、身を修るにある、啻に職に就く為めの学問であるとすると、夫れは間違である実業の進歩及び人の多いのは宜しい、けれども需給の関係を失するやうになり行く事は、教育界に於て褒めた事ではない、この憂ひは当席に御出での方々には少ないであらうが、今の教育殊に実業教育に就ては、就職難を嘆ずる人が極めて多いのである、実業教育の変化が斯く斯くで、目下の弊害が此処にあるといふ実業教育談として無用の弁であるまいと思ふ、政治教育から実業教育の進歩の歩合と、教育を施して職に就く人が過剰になつた為めに、一の弊害が起つて来た事を、切に警告する次第であります。
元来教育は、細野君の言はれた如く、智育あり、徳育あり、体育あることを忘れてはならぬ、事業を成すには地位を進める、地位を進めるには物を知る事が必要になつて来る、智育は物を知らぬ者に教育を施して会得せしむるものである、三年の間にトウトウ之れ丈になつたといふは教育の力である、之れ知が増した故である、師に就て学ぶといふは之れが為めである、蓋し地位を進めるは教育に依る、但し知恵を進めるといふ許りでは不可ぬ、徳育の必要といふ事があるが徳育の功はなかなか強い、而して堅い、多数に対する教育は殊に徳育に重を置のである、然るに今日の教育は決して徳育に重きを置いて居ない様であるが、之れ直ちに直さんとして直し得られない処であると思ふ、漢学に依つた昔の教育は師匠の数が少ない、従つて秀いた者が師匠になるといふ風であつた、学才・人格・知識が師になる資格を持つて居た言はゞ大勢の中から撰つて師匠になるといふ風であれば、その弟子に対しても、学問の技術以外に人格風化感化薫陶といふ様な徳育も十分に出来たのである。