デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
29款 其他 28. 渡米小学校長団送別会
■綱文

第46巻 p.235-238(DK460066k) ページ画像

大正6年9月15日(1917年)

是ヨリ先、実業之日本社、其創立二十周年記念事
 - 第46巻 p.236 -ページ画像 
業トシテ、全国小学校長中十名ヲ選抜シテ渡米視察セシメントス。是日栄一、渡米小学校長団送別会ヲ東京銀行集会所ニ開キ、一行ニ対シ挨拶ト希望ヲ述ブ。次イデ十七日、築地精養軒ニ実業之日本社主催送別会開催セラレ、栄一出席シテ送別ノ辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三五三号・第一二三頁 大正六年一〇月 ○渡米小学校長団送別会(DK460066k-0001)
第46巻 p.236 ページ画像

竜門雑誌 第三五三号・第一二三頁 大正六年一〇月
○渡米小学校長団送別会 青淵先生には、今回実業之日本社が創立二十周年記念事業として、全国の小学校長中十名を選抜して渡米視察せしむる趣旨を嘉せられ、九月十五日午後六時東京銀行集会所に於て、団長佐々木吉三郎氏以下十一名を主賓とし実業之日本社長増田氏並に同社理事三名及び阪谷男爵、中野武営・添田寿一・堀越善重郎・姉崎正治氏等を陪賓とせる送別の宴を親ら催され、席上、青淵先生の一行に対する懇篤なる挨拶並に企望演説あり、佐々木団長これに対して鄭重なる答辞を陳べ、次に添田・堀越氏等の一行に対する視察上の希望等ありて、其散会したるは十時なりきと云ふ。因に右渡米の諸氏は、同十九日横浜出帆の春洋丸にて長途航海の途に上れる由。


実業之日本 第二〇巻・第二〇号 大正六年一〇月一日 我社二十周年記念事業たる渡米小学校長団の発程(DK460066k-0002)
第46巻 p.236-237 ページ画像

実業之日本 第二〇巻・第二〇号 大正六年一〇月一日
  我社二十周年記念事業たる
  渡米小学校長団の発程
                        記者
○上略
    渋沢男爵の渡米小学校長送別会
○中略
 七時食堂を開く、歓談笑語の間、珈琲の配られた頃、渋沢男は起つて、此送別会を開いた事情より、相客として自分の友人で、教育及び米国の事情に精通せらるゝ方々の御出席を乞ひ、食後米国の事情を懇談したい希望であると述べられ
 教育といふことは単に文字を教へ学問を授けるといふだけでなく、感化薫陶といふことがなければならぬと思ふ。此点に於て日本の教育は露骨にいへば未だ不完全の点がありはせぬかと思はれる。諸君が米国の学制を御視察になるに付ても、この感化薫陶が如何に行はれてゐるか、学校が之を如何に授けてゐるか、若し学校が授けないとすれば家庭で行つてゐるか、或は社会が教へてゐるか、之れらがありとすれば如何にそれが行はれてゐるか、或は又米国の社会がそれなしに行ける様になつてゐるか、此等の点に対しては蓋し御注意になることかと思ふ。
と云ひ、談は更に小学教育より大学教育に説き及ぼし米国大学に対する視察をも促し、一転して
 諸君は米国の文化を見られるに付て余り其旺盛に眩惑されてはいかぬ。例へば紫檀の机を壮麗なる室内に据ゑ、硯も筆も墨も最上等のを選み、設備に最善を尽したとても、之を用ふる人が立派でなければ何
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の用を為さぬ、寧ろ設備は不完全なりとも、立派な人が之を用いたならば偉大なる効果がある。それと同じく米国の文化の盛大を見ても、直にそれに捉らへられてはいかぬ。稍もすれば米国文化の盛大に眩惑され、帰つて一も米国、二も米国といふものもあるが、諸君は外観の美を見ると同時に、必ず其精神を見ることを忘れてはならぬ。
旨を諄々として説き、更に一転して西部地方の排日問題に付ては国民の一員としても是非注意を払はれたい。これは国民的に解決せねばならぬことを告げ、一行の為に杯を挙げて健康を祝された。
○下略


集会日時通知表 大正六年(DK460066k-0003)
第46巻 p.237 ページ画像

集会日時通知表 大正六年         (渋沢子爵家所蔵)
九月十七日 月 午后五時 実業ノ日本社主催遣米小学校長送別会(築地精養軒)


実業之日本 第二〇巻・第二〇号 大正六年一〇月一日 我社二十周年記念事業たる渡米小学校長の発程(DK460066k-0004)
第46巻 p.237-238 ページ画像

実業之日本 第二〇巻・第二〇号 大正六年一〇月一日
  我社二十周年記念事業たる
    渡米小学校長の発程
                          記者
○上略
    我社の渡米小学校長団送別会
      ○精養軒の送別
 我社は一行の行を壮にし、併せて此計画に尽力せられた人々の好意を感謝する趣意を以て、十七日午後五時より築地精養軒の階上で、送別の小宴を開いた。
 定刻より小学校長・来賓を始め新聞記者等続々として来会せられた
来会者の主なるものは、
 一行十二名         立教大学長    元田作之進
 男爵   渋沢栄一     帝国ホテル支配人 林愛作
 文学博士 沢柳政太郎    法学博士農学博士 新渡戸稲造
 理学博士 山崎直方     普通学務局長   赤司鷹一郎
 医学士  樫田十次郎    督学官      生駒万治
 東洋汽船会社員 弘岡幸作  文部属      渋谷徳三郎
 新聞通信社員十余名
及び我社員二十余名。
 午後六時半より食堂を開く。歓談笑語、渡米後のことなど語り合ひたる後、食を終り、社長は起つて大要前号に掲げたるが如き送別の辞を述べ、併せて今回の計画に対する各方面の同情と好意を謝した。
      ○渋沢男の演説
 渋沢男爵は、我社計画の美挙たることを激賞し、左の如き送別の辞を述べられた。
 実業之日本社の企てに依つて米国にお出でになる全国小学校長の方方が、此の旅行に依つて如何なる視察をもたらしてお帰りになるか、自分は注目して拝見したいと思ふ。社長の只今お述べになつた如く、今回お出でになる方は十人ではあるが、殆んど全国の小学教育者を代
 - 第46巻 p.238 -ページ画像 
表せられたものであり、然も視察の場処は総ての方面に於て相違の多い米国である。小学教育に智識の乏しい者から考へても最も重要なことである。
 私は自分の智識として何等述ぶべき程のものをもたないが、要するに彼の長をとり短を捨て、これに囚はれるといふことを避けねばならぬ。私は三度欧米に参つた。初めて行つたのが慶応三年、こゝにお出での諸君のまだ生れない前である。ABCも知らない、尊王攘夷で莫大小の襯衣すらつけない時代の事であるから、あちらの事情に就ては全然何も知らなかつた。いよいよ洋行することになつてから調べたけれども、書いたものも視察して来た人もない。漠然と出かけたやうな次第であつた。
 況んやその時の私は伴方で、荷物の世話、金の出納などの雑務をやつたのであるから、学問があつても充分の視察をすることは出来なかつたのである。併乍霊犀一片の通ずるありで、少し観て来たことがある。即ち当時日本商工業の有様は個人個人の経営であつたが、彼のは合同で、それには会社といふものがある。商工業を隆盛ならしむるには成程あの方法が宜いと漠然感じた。
 今一つは役人と商人との関係である。その頃の日本は階級制度で、町人は士に向つて一言も言へぬ、智者たると否とを問はず士はどこまでも上に立ち、町人はどこまでも頭があがらない。海外では余程趣が違つて居る。すべて智あるもの、能あるものが先頭に立つて人も怪まず、我も疑はない、然して国富み兵強し、成程日本もこれでなくてはいかんといふ一つの感じを起した。今より五十年の昔を回顧するに真に今昔の感に堪へないが、当時の私の感想は学問のある人が調べに行つてもまた同じやうに感じたに相違ないといふことが、今日明にこれを知ることが出来るのである。詳しく調べるといふことも宜いが、或場合には霊妙なる精神の働きに依つて、その真相を直観し、洞察することがある。之れに反して余りに緻密に調べて居ると、時としてはそれに囚はれて真相を誤ることがないとも限らない。
 米国の事物は我国とは比較にならない、比較にはならないが総てが結構といふ訳ではない。諸君は予定の視察を遂げて帰朝されてもどうか亜米利加かぶれがして我輩は日本人ではない、米国人であると言つたやうになつて威張られることは御免を蒙りたい、美なる点を視察して願ひたい、想ふに数月の後には諸君の視察の結果が或方面に現はれ此の企ての効果が大なる収獲をもたらすべきを信ずるものである。
○下略