デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.16

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.436-478(DK460120k) ページ画像

大正2年3月7日(1913年)

是年一月十日及ビ二月六日、栄一、上野精養軒ニ於ケル当協会例会ニ出席、次イデ是日ノ例会ニ出席シ、服部宇之吉ノ「儒教の特質」ト題スル講演ニ対シ感想ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正二年(DK460120k-0001)
第46巻 p.436-437 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年           (渋沢子爵家所蔵)
一月十日 晴 寒
○上略 午後四時上野精養軒ニ抵リ、帰一協会例会ニ出席ス、新渡戸博士
 - 第46巻 p.437 -ページ画像 
ノ米国ノ宗教ニ就テ観察セシ演説及床次竹二郎氏ノ都市ト田園ニ関スル演説アリ ○下略


帰一協会記事 一(DK460120k-0002)
第46巻 p.437 ページ画像

帰一協会記事 一            (竹園賢了氏所蔵)
    第五例会
大正二年一月十日(金)午后三時半より上野精養軒ニ開く、出席会員左ノ如シ
 井上哲次郎  △渋沢栄一
 新渡戸稲造   床次竹二郎
 大石正巳    八代六郎
 佐藤鉄太郎  △川島令次郎
 古谷久綱    内ケ崎作三郎
 海老名弾正  △釈宗演
 石橋甫     山田英太郎
 片山国嘉    塩沢昌貞
 矢野茂     浮田和民
 姉崎正治    村井知至
 加藤玄智    筧克彦
 荘田平五郎   ギユーリツク
 グリーン   △フイッシャー
 コーツ    △印食事ナシ
尚当日ノ研究題目並ニ主題者左ノ如シ
 米国ノ宗教的視察         新渡戸稲造氏
 都会ト地方トノ関係        床次竹二郎氏
(通知状ニ帝国ノ宗教ニ関スル観察トセシハ電話ニテ鎌倉ニ尋ネタルモノニテ、聞キ誤リシハ書記ノ失態ナリ)午後八時食事ヲ終ヘ、次テ井上氏ノ批評及意見ノ陳述、大石氏ノ宗教興振ノ策如何トノ質問演説アリ、次ニ新渡戸氏ハ井上氏ニ答ヘテ、井上氏ノ批評ハ余リ講演ノ範囲ヲ脱シタルモノ、即チ新渡戸氏ハ前後数回ニ亘ル渡米ノ際ノ感想ニシテ、米国宗教ノ事実ヲ論理的ニ述ヘシニアラサル事ヲ明カニセリ
尚床次氏モ井上氏ニ対シテ答弁アリシガ、結局両氏同意見。最後ニギユーリツク氏ハ新渡戸氏ノ講演ニ対シテ感謝ノ意ヲ表シ、更ニ一・二ノ要領ヲ述ヘラレタリ、本会批評ノ席上特ニ問題トナリシハ、自然ト宗教心ノ問題ナリキ
 本席ニテ姉崎氏ハ Buddhist Ethics and Morality ヲ出席会員ニ配布シ、筧氏ハ古神道大義ヲ希望者ニ贈レリ、本例会ハ創立以来多数ノ出席者アリテ非常ノ盛会ヲキハム、午後十時十五分散会ス


渋沢栄一 日記 大正二年(DK460120k-0003)
第46巻 p.437 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年        (渋沢子爵家所蔵)
二月六日 曇 寒
○上略 午後四時半上野精養軒ニ抵リ、帰一協会ノ例会ニ出席ス、夜飧後マテ服部卯之吉氏儒教《(服部宇之吉)》ニ関スル講演アリ、夜十一時帰宿ス


帰一協会記事 一(DK460120k-0004)
第46巻 p.437-438 ページ画像

帰一協会記事 一              (竹園賢了氏所蔵)
 - 第46巻 p.438 -ページ画像 
    第六例会
二月六日○大正二年(木曜日)午後四時半上野精養軒ニ開く、但し定日を変更して木曜日として在るハ、金曜日(七日)リービー博士の為ニ差支を生じたればなり
当日出席者左の如し
 井上哲次郎氏       服部宇之吉氏
 吉川重吉氏        佐藤鉄太郎氏
 八代六郎氏        塩沢昌貞氏
△内ケ崎作三郎氏      デー・シー・グリーン氏
 片山国嘉氏        古谷久綱氏
∨渋沢栄一氏        石橋甫氏
△中野武営氏        矢野恒太氏
 浮田和民氏        筧克彦氏
 姉崎正治氏        クレー・マッコーレー氏
 シドニー・ギューリック氏 ガレン・フヰッシャー氏
 江原素六氏        中島力造氏
 原田助氏         矢野茂氏
 服部金太郎氏       ハッパー・コーツ氏
尚研究題目並に主題者ハ左の如し
 儒教の特質            服部宇之吉氏
五時廿五分開講、七時に至り食事、八時より更ニ続いて講演あり、前後三時間にして、九時廿五分より出席会員の意見・質問あり
原田氏は現代支那に行はるゝものは如何なる性質の儒教なるかと問ひ筧氏は六天、一天、五帝等の関係を質し、コーツ氏は天を人格的に見る説は如何となし、姉崎氏ハ儒教とスコラ哲学とは併行せるにハあらさるかと述べ、渋沢男ハ儒教ニ祈祷の思想なしと云ひ、中島氏ハ祈る所なきは孔子の人格崇高なる所以なりとせり
尚次回も博士の続講を依頼して閉会せり、時に午後十時なり(今回より速記者を依頼せり)


帰一協会会報 第弐・第二二―六六頁大正二年七月 儒教の特質(第一回) 服部宇之吉(DK460120k-0005)
第46巻 p.438-457 ページ画像

帰一協会会報 第弐・第二二―六六頁大正二年七月
    儒教の特質(第一回)        服部宇之吉
 今夕儒教に就いて其特質を御話申上ぐるに当り、先づ話の眼目を提起して置かうと思ふ。其は原始儒教と孔子教とは種種の点に於て相異なるところがあるといふことが其一である、孔子先聖の道を集めて大成したと云はるゝが、孔子は単に先聖の説に体系を与へたに止まらずして、同時に種々改革を加へたのである、孔子立教の大旨は正に此処に存す、而して再び其要点を挙ぐれば、従来道と徳とを二と為したるに、孔子は道徳を一とし、一貫の道を立て、其本原を天に帰し、従来の思想に含まれたる宗教的の方面をば、主として倫理的に解釈し、倫理綱常に関する方面に於て、従来よりも広汎なる範囲に渉りて立説したることなどが、其主要なるものである。此より原始的儒教は何ういふものであつたか、孔子は之に如何なる改革を加へたか、順次に陳べて見やうと思ふ。
 - 第46巻 p.439 -ページ画像 
 儒といふ名は何時頃から始まつたか。春秋時代には儒といふ語は多く用ゐられて居ないやうであるが、戦国になると、儒といふ語は余程多く用ゐられて居る。論語には雍也篇に「女為君子儒、無為小人儒」とある外には儒といふ字は見えない。私は孔子は自ら儒を以て居つたものではないと考へる。礼記に儒行篇といふ一篇があつて、孔子が魯の哀公に対して、儒者には色々の種類があるといふことを、諄々として説いて居る。礼記は前漢に戦国以後の記を采つて編纂されたものであつて、其の中に孔子の語として載せてあるものが色々あるが、それを一概に孔子の語として信ずることは出来ない。十分に簡別取捨する所がなければ、直にそれを以て孔子の道を論ずることは出来ない。儒行篇も荀子儒効篇と対照して見ると、所謂孔子の説なるものが何うも孔子の語では無いと思ふ。或は孔子の語に本づいたものあるとは言へるとしても、後人の増益舗張せるところ多く、それを以て直に孔子の説と見ることが出来ないと考へる。中庸は、子思の作であると云ふ説と然らずと為す説とあるが、私は断然子思の作であると信ず。篇末に「仲尼祖述尭舜、憲章文武、上律天時、下襲水土」云々と口を極めて孔子の功徳を賞賛して居る。子思が中庸を作つた動機に就いても色々説があるが、要するに孔子の道を発揮したものである。然るに其の中に儒といふ字は一つも見えて居無い。孟子は自ら孔子に私淑するといつて、孔子の道を明かにすることに畢生の力を尽した。其の書中に儒といふ語が孟子の口より出て居るのは唯だ一ケ所あるのみである、即ち尽心下篇に「逃墨必帰於楊、逃楊必帰於儒」と云つて、墨・楊・儒と相対して用ゐてある。孟子の中に儒といふ語が更に一つ見えて居るのは縢文公上篇に「儒者之道、古之人若保赤子」云々といふ墨者夷之の語である。要するに孟子には他派に対して聖人の教を称したものである。同じく孔子の道を奉ずるところの荀子は頻りに儒といふことを言つて居る。儒効篇に、文武周公を大儒と称し、又儒者は人の国に益なしといふ論に対して、儒者は位を得ても或は之を得ないでも、何れにしても、国家に大功のあるもので、聖人の道を行つて天下の人民を安んずるといふて、盛んに儒者の効能を述べて居る。翻つて孔門以外の方面を見ると、墨子に非儒の一篇があつて、儒者を攻撃し孔子を誹つて居る。荘子亦儒・墨を並べ論じて居る。韓非子の顕学篇には、孔子死して儒分れて八となり、墨子死して墨分れて五となると言つて、矢張儒・墨相対して称して居る。韓非子は他の場合には常に文学の士といふて居る。例へば世の害を為すもの五ありとて、五蠹と称してあるものゝ外に、文学の士が加へてある。此の中には無論儒も含んで居る。以上の諸例を併せ考ふると、儒といふことは元と聖人の道を為むるものが自ら用ゐた名称ではなく、寧ろ他派の学者から聖人の徒を称したのである。それを聖人の徒が他派に対して自ら称するにも用ゐることになつたのであらうと思ふ。儒といふ語が余り良い意味の字でないことも、如上の考を助ける理由である。後人の解釈するには色々説もある、例へば後漢の大儒鄭玄の説には「儒之言優也柔也」とあり、又「儒者濡也」ともあり、許慎の説文にも「儒柔也」とある、濡とは先王の道徳を以て身を濡ほすといふことで美称である、優といひ柔と
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いふことを鄭玄は人を安んずるの義と説いて居る、亦美名である、而して優・柔といふことは支那民族が文雅を尚び、平和主義を執つた方から言へば、温厚文雅の性徳を聯想するものとしては美称といはねばならぬ。然るに荀子の書は、儒といふ字を愉と熟して用ゐて居ることが多い、此の場合愉は偸の仮借で、儒は懦と音義相通ず、偸懦とは労を厭い、難きを避け物を面倒臭がるといふことになる、即ち優といひ柔といふのは、剛健勇邁といふことゝ反対な意味を有つて居る。支那民族は平和主義・文化主義であるが、又一方道徳上には天行の剛健を理想として居る、此方面から言へば、偸懦を聯想する優又柔は決して美名ではない。兎に角此かる悪しき聯想を有する儒といふ字を、聖人の道を為むる者が自ら己を称するといふことは少し可怪しいことである。此れは寧ろ他派の人が聖人の道を為むる者を幾分嘲り誹る意味で温厚文雅ではあるが、柔弱で面倒なことには堪へ得ないといふことを以て、目して儒と称したのではなからうか。孔子が上に言ふやうな聯想を有する儒といふ文字を以て、己れに名附ける筈は決して有るまいと思ふ。孔子は文教を主とせらるゝのみならず、亦頗る武事にも長じて居られる。論語に、衛の霊公が孔子に戦のことを問ふたれば、孔子は軍旅の事はまだ之を学ばずと言つて衛を去つたとあるが、其の実孔子は射御に達して居られたことは論語に見え、又兵に通じて居られたことは史記に見ゆ、即ち孔子世家に、魯の大夫季康子が斉と戦つた時に、孔子の弟子冉有将として敵を破つて大功を奏した。そこで季康子冉有に、軍旅の事は之を性とするか、或は之を学んだのかと問ふた。冉有は孔子に学んだのであると答へたとある。冉有が偽りを言つたものでなく、史記が誤りを伝へたのでない以上、此れによつて孔子が武事に通じて居つたことは証せられる。衛の霊公の問に答へなかつたのは、別に意味があつたのであらう。又孔子が魯の定公を相けて斉の景公と夾谷に会せる時に、文事あるものは必ず武備ありといふて武備を整へて行かれ、遂に斉をして魯に加ふるを得ざらしめた、此れ等に依つて見れば、孔子は決して文事一方の人ではなく、文武兼備の人であつたことは明である。偸懦優柔にして事に堪へないといふやうな人ではなかつた。然れば、剛健勇邁といふことに反対で優柔にして事を憚るといふ聯想の有る儒を以て自ら処ることは無い筈である、孔子の主義及び人格の上から断じてさう思ふ。然らば儒の名は全く他派の人から名づけたものかと云ふに、周礼にも儒の字が見えて居る以上、旧来より有つた名とは見ねばならぬ。孔子は自ら儒を以て処らなかつた、然るに孔子の後になると他派の人は之を幾分嘲笑の意味に用ゐた、而して戦国時代には諸派並び存するにより、聖人の徒も他派に対して自ら称するに付此の名を用ゐるに至つた、そこで儒の意味の優也柔也といふことを、能く人を安んじ人を服せしむるといふことに解釈し、又先王の道を以て身を濡ほすといふことに解釈することになつたものと思ふ。以上専ら儒の字義から論じたのであるが、他の方面から見て、孔子が儒を以て自ら処らなかつた理由の更に大なるものを見出すことが出来る。其は周礼に見ゆるところの儒なるものゝ性質より言ふのである。周礼に就いては、周公の作であるといひ、或は劉歆の偽作であ
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るといひ、作者及び著作の年代に異説が多いが自分は大体に於て周家の古制を伝ふるものと信ずる。故に周礼を証として論ずるものである扨周礼に所謂儒は師と相対して、師・儒と二つになつて居る。師と儒とは何う違ふかといふと、師は賢を以て民を得、儒は道を以て民を得といつてある。即ち師には賢、儒には道といふので賢と道との別が即ち師と儒との違ふ所である。此処に孔子の教に関する重大なる点が存在して居ることを発見することが出来る。今師には賢、儒には道とあると申したが漢文には対文と互文との法がある、相対する二つの語がある時に、二者を相対して用ゐて相通ぜざるものとするのが対文で、二者対し言ふて互に相補足するものとするのが互文である、賢道二者は対文か互文か、互文ならば賢は道を含み道は賢を含むことになる。然るに此の二者は周礼其物に徴するも、孟・荀等の書に徴するも、明に対文であつて互文ではない、即ち賢道は各々自ら足るもので他を以て補足さるものでは無い、賢は又能と相対することは孟子等に賢を尊び能を使ふと言つてあるので分かる。道は又徳と相対することは孟・荀等の書に其の例が多い。即ち賢に対しては能といふものがあり、道に対しては徳といふものがあり、賢は即ち徳、能は即ち道と結び附くのである。そこで、師は徳に長じたる賢者で、儒は道に長じたる能者を意味するのである。道といひ徳といふは何ものであるか、周礼大司徒の職に郷の三物といふものがある、此れが即ち国民教育の科目である。大学教育は自づから別であるが、国民教育は分けて三大科目となつて居る。即ち六徳・六行・六芸の三である。郷大夫の職等には、六徳・六行は併せて一類として徳行と為し、六芸は別に自ら一類として道芸と称してある、即ち徳行と道芸とは相対したものとしてある。六芸とは漢代には易詩書礼楽春秋を称して居るが、周礼は礼楽射御書数を以て言つて居る、此の六者が即ち道芸又道である。或は道術とも言ふ。荘子には屡々道術の名を用ゐて居る、道芸と道術とは相通ずるものである。周家は上記の三大科目を以て国民を教育する、而して其の結果、或は道芸、或は徳、或は行、三者の一に長ずる者を三年に一回一郷(一万二千五百家の集合)の内から選抜して之を朝廷に薦める。朝廷の役人は更に之を調査して、其の中から最も優秀の者を選抜して大学に入学を許す。大学の業を終はると、各々其の長ずる所に随つて登用す。此れが最近まで行はれて居つた科挙の淵源である。郷より選抜する場合に、徳行に長ずるものと道芸に長ずるものと二大類に別けて、徳行に長ずるものを賢者とし、道芸に長ずるものを能者と称する此れ所謂賢・能の名の生ずる所以である。登用された賢者又は能者が年老いて仕を致して郷に退いた後に国民教育を掌るのが、即ち師又は儒である、道芸に長じたる能者は儒となり、徳行に長じたる賢者は師となる。此くて徳行は道芸と相対して各々其の義を為して居る、勿論此の二者に共通一致の点はある。其は徳行といふものも今日学校にて修身を授くるが如くに理論を重んじたのではなくして、実行を尚んだのである、師が自ら模範を示して実行を責めたのである。而して示すところの模範的行為及び之に学びて行ふべきことは礼を措いて他に求めることが出来ない、国民教育としては礼楽、特に礼を以て徳行を養
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ふたのである。故に礼楽は道芸に列して居るが、又徳行を養ふ所以の具であつた。即ち徳行と道芸とは二に分けられてありながら、自ら共通一致の点がある。然れど礼楽は之によつて徳行を養ふ方面と技術としての方面とがあるゆゑ、技術としての方面からは道芸で、此れによつて徳行を養ふ方面からは徳行の具になる訳である。其の事を少しく陳べて見れば、六徳の中に最も大切なものとして中・和の二がある。此れは周礼に明かに説いてあるやうに、礼を以て中を教へ楽を以て和を教へるのである。礼記・中庸にも此の事は明かに説いてある。六徳の中に又、仁、義といふものがある。此れは勿論仁義と結び附けられては居らない。仁義も亦礼楽を以て教へ養ふものであることは論語・中庸・孟子等に明かである。六徳の中に又知聖といふのがある。此れも礼楽、特に礼によつて養はれるのである。其は荀子に最も善く説いてある。即ち礼といふものは本と行事の大体の規則を定めたものである。人事は千差万別である、初めより人間社会の事情を一切予想して之を礼に規定することは不可能である。故に礼に明文の無いことは、礼の規定によりて類推して之に処することが必要であると、荀子は反復して説いて居る。此れは即ち礼楽を以て知を養ふことを説いたものである。礼を以て知の徳を養ふて段々発達すれば聖の位置に到るのである。さういふ訳で六徳即ち知仁聖中義和といふものは、皆礼楽、特に礼を以て養はれるものである。六行といふのは孝・友(親に孝、兄弟に友)、睦・婣(父の一族に睦しくし、母又は妻の族に親しむ)、任恤(人の為に力を致し、同郷若くは近隣の貧者を恤れむ)の六者で、此れ亦主として礼によつて養ふのである。斯く礼楽は六徳六行を養ふの具であつて、人事一切礼楽に帰着するといふ点から見れば、道芸と徳行とは一になる訳であるが、他の一方から見れば、礼楽は技術といふ方面にも属するのである。周礼は道芸と徳行とを二に分け、徳行に長ずるものが賢者又師、道芸に長ずるものが能者又儒となつて居る。即ち道徳は二、師儒も二であつた。孔子が自ら此の意味の儒を以て処られるといふことは無いと自分は思ふ。孔子は道と徳とを根本的に一にされ、師儒を一身に合された人である。孔子は仁を以て根本概念として道徳を一にされた。仁を周礼では徳に列してあるが、孔子は之を又道とされた。後人仁義礼智を分けて、仁智は徳、義礼は道なりなどいふが、此れ孔子立教の本旨を得ない説である。孔子は仁といふ根本概念によりて道徳を一に統べ、一身に師儒を合せたのである。既に道徳を一に統べ師儒を合せたる以上は、儒を以て自ら処ることを甘んずる理由が無い。此く見来ると、儒といふことは、孔子立教の大旨から見ても、孔子の人格主義から見ても、孔子が自ら己の道に名づくべきものでは無い、寧ろ他の学派の徒が孔子の道を為むるものに対して旧来有つた此の名を以て呼んだのを、孔子の徒も他の学派に対して自己を区別するに襲用し、遂に通行さるゝに至つたのであらう。故に自分は孔子の教には儒教の名を用ゐることを不可とし、孔子教と称するのである。本題に儒教としたのは主として原始儒教と孔子教とを比較討究せんとするが故に、暫く通行の名称を用ゐたのである。孔子が道徳を一にし師儒を合せたといふことは、孔子が原始儒教に加へられた改
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革の一である。
 次に礼楽特に礼の中から、祭・喪・葬のことを選び出して孔子以前の思想と孔子が如何に説かれて居るかをも陳べて見やうと思ふ。孔子は勿論礼楽を制定されなかつた。漢儒は孔子改制などいふことを説き現時の支那人亦之を金科玉条として居るが、それは全然漢儒の誤解である。孔子は唯々礼に関する新しい解釈を加へた。此処に亦孔子立教の大旨が存するのである。先づ祭は大別して天神の祭、地祇の祭、人鬼の祭の三となる、而して三者各又多くのものを含んで居る、此処には天・地・祖先の三だけを抜き出して陳べん。天は漢代に一種の解釈があり、後又魏の王粛はそれと異なる解釈を為して居る、而して晋以後或る時は漢儒の説が勝ち或る時は王粛の説が勢を得るといふやうに始終両説が争つて居つたが、明の嘉諸以後は王粛の説が全勝を占めた此く天の解釈が、勝敗優劣を争ふことの明かなるのは、解釈如何が直に国家の典礼に関するからである。支那では天を祭ることは古来天子の特権となつて居る。故に祭天は各代を通じて国家最大の典礼となつて居る。今日は共和政治になつた以上如何に之を取扱ふかは分らぬが清朝までは祭天は国家最大の典礼であつた。そこで天の解釈が違へば随つて国家の典礼の上に大なる差異がある訳である。故に二説の間に甚しい争ひがあつたのである。漢儒の説としては鄭玄の説が代表的地位に立つて居るから、此処には鄭説のみを陳べやう。鄭玄は天は六〇なり一にあらずとて有名なる六天説を唱へて居る、而して王粛は之に反対して天は一なりといふ一天説を主張した。今日我邦の漢学者にも六天説を信ずる人があるが、其の説は支那では最早勢力がなく、亦原始儒教にても孔子教にても取らざりしものであることを知らねばならぬ。扨六天とは何であるかといふと、鄭玄は所謂天の外に別に五の天があるとして居る。但その五天は之を天と云はずして帝と称するのである、即ち一天の外に五帝あり、合せて六天なりとする。又一天は周礼では昊天上帝と称してあるが、鄭玄は天皇大帝といつて居る。鄭玄は天を六とするより自ら天を祭ることは年に九回あるといつて居る。其の詳かなることは略して、暫く五帝に就いて鄭玄の説くところを見んに、鄭玄は五帝とは蒼・赤・黄・白・黒の五帝であるといつて居る而して各帝に又それぞれ特別な名称が附いて、蒼帝は霊威仰、炎帝は赤熛怒、黄帝は含枢紐、白帝は白招拒、黒帝は汁光紀といふ妙な名称が附いて居る、而して蒼・赤等の名は四方否五方の色によつて名づけたものであることは明かである、五方といふことは、やがて五時を聯想するもので、結局春・夏・中央・秋・冬五時各々主宰者がある、それを各々特別に帝として五帝となるのである。五帝が各々一時を主宰するとせば、天即ち昊天上帝又天皇大帝は通じて一年を主宰することとなる。此くて一年全体の主宰者たる天皇大帝と、各時の主宰者たる五帝を各別のものとして六天説が成つた。但鄭玄の説は経書の注に存じて居るだけて、委しいことは分らず、鄭玄以前の説亦亡びて居るが兎に角天を六と主張したのは漢学の特色である。王粛は総て鄭玄に反対する学者であるが、天に就いても亦天は六に非ず一なりと主張した王粛は五帝は認めたが、此れに就いて別に解釈を施した。更に鄭玄の
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説を見ると六天皆星になつて居る。即ち昊天上帝は北辰、五帝は太微宮中の五帝座星であるといふ。詳に漢儒の説を見ると、多少の異同はあるが、五帝を星と為すに於ては一致して居る。王粛は天を一とし五帝は天にあらずと為すゆゑ、自ら天・五帝を星と見る説を取つて居らぬ、王粛は五帝は五時に於ける五行の気なりと見て居る、此の説は直に原始儒教の説とは為すことを得ざるも、鄭説に比すれば甚だ原始儒教の思想に近いものである。自分は鄭説は漢儒一流の説と見て之を採らぬ、其故は六天説は原始儒教の思想ではない、孔子の天を言ふも亦天は六といふ思想はないと信ずるからである。
 今陳べた六天の外に、別に又六天がある。其は普通に天といふもの以外に、蒼天・昊天・旻天・上天・皇天といふ五つの名があるゆゑ、天と合せて六つとなるのである。此の五天の解釈に就いて、漢儒の間に二の説がある。今文尚書家は五天は四季によつて名附けたと見、古文尚書家は別に各々義を取るところがある、季節には関係せぬと見る而して鄭玄は両説を折衷しやうとして居る。今二家の説を述ぶれば、今文尚書家は蒼天とは春の天で、春は万物蒼々として生ずるより名づく、昊天は夏の天で、夏は日の光が非常に強いから昊天と名づく、旻天は秋の天で秋になると物皆凋み草木枯る、人見て之を愍れむより愍と通ずる文字を用ゐて旻天と称す、上天は冬の天で、冬は天の下に事無く天は湛然として上に居るだけであるから、上天といふ、此様に五天は四季の気候によつて名づくと説く。古文家は五天各々特別の意味ありと為す。即ち蒼天は天の遠くして知るべからず、下より望みて唯唯蒼々測り知るべからざるものがあるといふので此の名があるとする抑々蒼は黒白の分らないことに用ゐる字である、暮色蒼然・蒼莽等の蒼は此の義である。人は自分の身の上に何か事が起つて人力の如何ともすべからざる場合に、天何の意ぞ此の如き禍を下すやといつて天に訴へる時には天を呼ぶ。即ち天の遠くして其の色の知るべからざる様に、天意の測るべからざるものがあるといふ意味で蒼蒼天《(衍)》といふのである。昊天とは元気の広大を意味す、元気の広大といふ中に、万物を生ずる天の大徳即ち大作用を含んで居る。次に旻天とは、旻は憫なり憫とは天が民を憫むなり、此の憫れむといふのは先刻申したやうに秋になつて万物の凋落するのを人が愍むといふのとは全く意味が違ふて天の広大なる仁徳を意味す、万物を生ずるも亦仁であるが、それは昊天といふ方と密に相関するので、此処でいふ仁は慈悲同情のことである。孟子に舜が父母に喜ばれず、田に往いて旻天に父母に号泣せりとあるのは、即ち天の同情に愬へたのである、日夜に孝を尽しても父母其の心を諒とせず更に喜ばない、そこで自分の精神が父母に諒とせられるやうにと、天に愬へて憫みを乞ふたのである。斯ういふ風に天が民を憫むといふ方から旻天と称す。上天とは、天が上にあつて下を照臨し、民の行為を監察するといふ方からいふので、随つて天の明を畏れるといふことが含まれる。皇天とは、尊んで君と為して称するのである、此の場合には万物を生ずる徳、人物を保護する仁徳等を皆合せ含むのである。此く蒼天等五天の解釈に二説あるが、詩・書などの用法を調べて見ると、後説の方がよく当ると思ふ。尤も書経は政事上の
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事実に関するものであるから、景物・気候のことに渉るものは殆ど無い故に、前説の当否を徴するに不便であるが、詩経は景物・気候によつて感興を起しなどするものがあるから、詩経に見ゆる蒼天等が四季によつて名附けたものであるか、又は特別の意味によつて名附けたものであるかを証するに便である。そこで詩経では、蒼天が必ずしも春の景物に伴つて居らず、昊天・旻天等が夏又は秋と関係の無い所に用ゐてあるといふやうに、全体を通じて蒼天等の名が気候と結び附けられて居る証拠が甚だ少く、大多数の場合に特別の意味を以て名附けられたものと見るべきである。故に前記二説の中で、自分は後説を正しいものと考へる。要するに蒼天等五天は天の特別の徳・作用又は性質によつて名づけたものであつて、天の外に別に此の五天があるのでは無い。天の万物を包み懤ふことの広大なるより昊天といひ、其中に生成の作用・保護の徳を含むで居る、生成保護より自然に人物を憫むの徳、下を照臨するの徳を聯想して此に昊天・上天の名生ず。此れ等の思想よりすれば天と人との関係が極く密接になつて、天人相接近して来る、然るに天の徳・作用等が悉く人知を以て推し測ることが出来るものであると、天の天たる偉大なる所が無くなる、又人と接近するだけでは天の尊厳なるところが少くなる、人と相遠くして人知の測り得ない所があつてこそ、天の偉大尊厳の徳が有る、此に於て遠くして知るべからざる所があるとして蒼天、尊厳のものとして皇天といふ名が生ず。斯く見来ると、元気の広大を以て称する所の昊天を本として他のものを聯想して行くことになる。
 今儒教に於ける万物生成、天地開闢の説を述べん。宇宙の間は本と唯だ一元気あるのみ。其の気分れて陰陽の二気となり、陽気は天を成し陰気は地を成す、天の気は下り地の気は上るのを性とす、そこで二気相交はることが出来、二気相交はつて万物生ず。易の泰の卦に天地交はりて万物生ずといふのは此のことである。二気の相交はる有様は千態万状で同一でない、それに因つて生ずる所の物が又千種万類である、万物の生成には一定の次第がある、最初に水火と鉱物とが生ず、水は陰で地の気、火は陽で天の気の生ずるところと思はれるが、火の中に陰あり、水の中に陽あり、易では火を、水をで表はして居る然れば一方の気が甚だ弱いが矢張り二気の交はつて生じたものである鉱物も殆ど一気に純なるものと見るのである、殆どといふので全く一気といふのでは無い、即ち二気相交つて而して一方の気が非常に弱くして、殆んど他の一方の気だけが凝つたものゝやうに見えるといふのである、周礼では鉱物を天地の化と称して居る。尤も科学の進まぬ時代のことゆゑ、玉石も貝殻の類も同じく化と称してある。次には二気相交はるに一方の気が段々前よりも優勢になつて二気の合同といふことが明白になつて来るのである。二気の比較的の強弱優劣如何によつて動物植物の区別が生ずる。地の気が強い場合には植物となり、天の気が強い場合には動物となる。故に周礼には植物を地産、動物を天産と名づけて居る、易は前者を地に本づくといひ、後者を天に本づくといつてある。植物の根が下にあるのは、地の気に感ずることが多いからで、動物の首が上にあるのは、天の気に感ずることが多いので、各
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各其の本に親むのであるといつてある。動物と植物は何方が先に生じたかといふと、植物が先であつて植物あつて然る後に動物が生ず、それは動物は植物を食つて生きるので知れるといふて居る。而して最後に人が生ず、人は天地の中を受けて生れる、即ち天地二気の中正を得たものが人となるのである。此れは専ら二気の強弱如何によつて万物生成の次第と差別とを説いたのであるが、万物の起源と差別とは単に気の強弱だけでは説明し尽くせぬ、又気の厚薄・清濁といふことが大なる関係がある、気の薄濁なるものより漸く中厚清なるものに進みて終に最も厚清なるものに至つて人と為るといふのである。そこで人は天地二気の最も清く厚く且中なるものを受けて生れたものである、動植等の物と同日の比では無い。二気の合する情態に従つて物の情態が違ふ、植物の如きは運動の作用だに無い、動物即ち禽獣に至ると知覚運動の作用が顕はれる、而して人に至ると更に思慮の作用が顕はれる此様に気の厚清なるに従つて作用が精微になる、精微なるに従つて生れたまゝで生を遂げることが六ケ敷なり、生後他のものゝ保護指導に待つことが多くなる、動植の物が人の保護に待つことでも知られる。最も高尚なる人類も亦同じ事であるのみならず、生れた儘で直に完全なもので無く、天賦の性を発達せしめて始めて完全に其の生を遂げることが最も甚だしい。然らば何者が之を保護指導するか、天を措きて外に之を為すものは無い、然るに天は自ら其の事を為すもので無い、矢張り人をして其の事に当らしむるのである、人といふのは天が特別の人を生じて之に其の事を命ずるのである、即ち天は聖人を生じて民の君となし、且民の師となして、民を教へ且治めしめるといふのである。聖人は政治上教育上の権威を一身に兼ねたもので、政教一致の主義が此処に思はれ居る。但天が聖人を生ずとは、如何なることか。聖人も亦人ならんか、一般の人と同じく生れた初めは不完全な筈であるそれが君師となるのは、生後自己の努力によつて完全なものとなるのか、果して然らば人類の生じた初めに君師の無い時代があるといはねばならぬ、即ち人類が生を遂ぐべき道の立つまで其の道の無い時代が有つたことゝなる。此れ天の保護といふことと一致せぬことである。然らば聖人は天が特に生じたものとなすべきか、先秦の説は甚だ明瞭で無い、荀子の如きは聖人を論ずること特に多いが、聖人の生ずる所を説くは矢張り甚だ明で無いが、何れも天が特に生ずるものと見たことは疑ひ無い、聖人に生知安行といふことを言ふも此れが為めである漢に至ると此の点は最も明白になり且著しく進んだ思想が見はれて居る。即ち聖人は普通の人と違つて母があつて父が無いといふのは母が人道を以て父と交はつて懐妊したのでは無く、天に感じて孕むで生むだのであるといふことである。此は面白い説で帝王を真の天の子と為すものである、此れが十分に勢力を得ると万世一系の国体を支那にも見得たかも知れぬ。此く聖人は、其の母が天に感じて生むといふことは、即ち所謂感生帝の説で、感生帝とは前に言へる鄭玄等の六天説と関聯するものである、即ち天に五帝有り、聖人の母は其の中の何れか一帝に感ずる。其の何帝に感ずるかは戦国時代に鄒衍などが帝王相継ぐの次第を五行によつて推す説によつて定まるので、殷の始祖契の母
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簡狄は黒帝に感じ、周の始祖棄の母姜嫄は蒼帝に感じたといふやうに説く。而して其感ずるといふことに就いては、又色々説がある。十八史略などにも出て居る漢の高祖の母が大沢で昼寝をして竜と交つて懐妊したといふのも、天に感ずるの一である。簡狄が河に浴した時玄鳥が卵を落したるを見、之を拾つて呑むで懐妊したといふのも感生の一つである。又姜嫄が野に出て巨人の足跡を見て何心なく之を踏むと心が動いて懐妊したといふのも感生の一である。其の外天象の変化を見て感じたといふ事は多く言はれる。此様なことで婦人が天の五帝中の何れか一つに感ずる、其の子は即ち帝の子である、真の天の子である然し帝の子が直に天子となるとは限らない。黄帝尭舜漢高の如きは帝の子で天子の位に立つたが、契や棄は其の子孫に至つて始めて位を得た、而して棄の後たる文王昌の如きは帝の子では無いが生れる時に又聖瑞が有つたと言はれて居る。兎に角聖人は天が特に生ずるものであるといふ思想から感生の説も出で来たのである。此く天が特に聖人を生じて民を教へ民を治めて、民をして天賦の性を完全に発達し生を遂げしむるといふところに天の特別なる保護の意味を認むべきである。
 扨聖人は如何にして民を教へ治むるかといふに、種々の方法ありといへども、最も重なるものは礼である。礼は教の本始で又総要である礼は左伝に鄭の子産の語として挙げてある所では、天の経・地の義にして民の行といつてある。即ち天地自然の法則に順ひ、又人情の自然に順つたもので、一方から云へば自然法といふべきで、他の一方から見ると、人情の過ぎたるを抑え、及ばざるを揚げて、中を得せしむる人為法である。自然法といふことを云へば、天地自然も礼の体系である、況や人類社会をや、人為法といつても自然に本づき人情に順ふところに其の純人為にあらざることが分かる。聖人は主として礼を以て民を教へ治めて、其の性を全くし生を遂げしむるのである。此が天地自然の法則に本づくものである以上は道といふものは、畢竟天に本づいたものであるといふことになる。董仲舒が道の本源は天に出づと言ふのはそれである。それゆゑに道に遵へば生を遂ぐることが出来、之に倍けば遂げ得ないといふことは要するに天地の自然と人性とに遵ふと否とのことになるのである。礼法に遵ふと否といふ方から見れば、人事国法の制裁を聯想するが、天と人性に本づく道に遵ふと否といふ方から見れば賞罰を思ふのである。天の制裁と人の制裁、国法の賞罰とが一致すべき所以亦此に在る。天の制裁に就いて、学者或は天道是邪非邪と疑つて居る者もあり、或は人、天に克つと為す者もあるが皆一時の事によつて言ふたもので、人間の制裁は一時的のもので且過つたことがあるが、天道は始終的で且始終を要して見れば決して過つことが無い、人衆ければ天に克つといふのは一時的のことで長い間には人は到底天に勝つことは出来ない。老子も「天網恢々疎而不漏」と言つて居る、此れは決して老子一流の説ではない、儒教にも通ずるものである。此く天と人との関係より聖人・道・天の制裁といふことに移りて人と天との関係が再び甚だ密接になつて来る。要して之を言へば元気広大にして万物を生成するを以て言ふ昊天に生成の仁徳を認め、随つて人を保護し指導して性を全くし生を遂げしめんとするの仁を認
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め、その仁によりて同情を聯想して昊天と称し、保護指導により人間の行為を照鑑し、其の善悪に依つて禍福を下すところの上天の思想を生ずる。以上専ら天と人と相近きものとしての思想であるが、天は必ずしも人智の悉く測り知るを得るものでない、深遠にして人智を以て推すことの出来ない所もあるので、蒼天の思想が生ずる。此れ等を総べて天の権威を仰ぎ尊んで君として皇天の名を立てる。単に天といへば此れ等の思想を皆含むと同時に、又眼に見るところ穹蒼をも意味することとなるのである。
 天を又帝とも上帝とも称す、此の時は前言ふところの穹蒼は含まぬ帝は後世天子の称であるが本は天の称で、天子に言ふ場合は死した後に限つて居つた、後世皇と共に生前にも言ふやうになつたのである。帝といひ上帝といふことは、詩・書に多く出て居る。詩経の用例を見ると、帝又は上帝といふ時は、人格の観念が甚だ活躍して居る。詩人が天の人格を最も顕著に言ひ表はし、強烈なる観念を起さしめんとする場合には必ず帝又は上帝の語を用ゐて居るやうに思はれる。今二・三の例を挙げん。文王篇に、文王陟降在帝左右いひ、大明篇に上帝臨女無弐爾心と云ひ、皇矣篇に上帝耆之、憎其式廓、乃眷西顧、此維興宅といひ、帝謂文王、無然畔援、無然歆羨、誕先登岸といひ、帝謂文王、予懐明徳といひ、雲漢篇には民の旱に苦むを歎きて祖先を思ひ、遂に上帝に及び、閟宮篇には赫赫姜嫄、其徳不回、上帝是依といひ、玄鳥篇に古帝命武湯、正域彼四方といひ、長発篇に有娀方将、帝立子生商といへる等、皆人格観念の活躍たるものである。詩の大小雅等に屡々天又は昊天の語が見えて居る。鄭玄は多くの場合に王を天に譬へていへるものとして解し、直に天其の物とは見て居らぬが、帝又は上帝に至つては、一・二の場合を除くの外は、皆天を指すと解して居る詩に又母を天に比した例も有り、其の他夫を妻の天、父を子の天と為すは古来普通であるが、此れ等皆帝又は上帝とは言ふた例が無い。書経には天と帝又は上帝と互に言ふ例も有るが、以上の用例に徴して、天と帝とは自ら異なるところあることは明である、其の異なるところと云ふのは、天と言へば形体を以て言ふ方面が聯想され、人の上に在るものといふことになるゆゑ、子・妻・臣などの上に在る父母・夫・君を天と言ふことも出来る、然るに帝と称すれば人格の思想が著しくなるので天以外のものに用ゐることを為さぬのであると思ふ。是れ天に人格の観念があることを証すると同時に、此の観念を特に顕明ならしめんとする時に、帝又は上帝の語を用ゐるの証である、上帝と結び附けて言はれるものが皇天又は昊天に限るといふことも、亦天の尊厳と明威・保護等を以て言ふ時には人格の観念が著しいことも見るに足ると思ふ。
 前申陳べたやうなる意味に天を観て天を尊び崇めるのである。天は人物の天である。人物天の仁徳によりて生じ、天の保護によりて性を全くし生を遂ぐる以上、本とし君として之を尊崇することは一般に通ずる訳であるが、人が天工に代り天工を助くるが如く、人類中に亦天に代り天を助けて天の仁、天の保護を行ふ者がある、即ち王者である故に民は王者を奉じて天と為し、随つて天に事へるといふことは民に
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在りては王者の天意によりて定めたる礼法に遵ふて、自ら天道に遵ふを以て主とし、天を祭るといふことは民の事では無いといふことになる、是れ祭天が王者の特権となる所以である。王者は即ち天が特に生ずる聖人である、天が特に生ずるものである以上は、王者の位を得ることは先天に定まるので、王位は天命有り、求めて得べからずといふことになるが、易姓革命の事実は此の思想に種々の色を着けて居る。所謂天命説は書経皐陶謨に見えるのが最も古いもので、此れには未だ先天的に命を受けるといふことは見えて居らぬ。皐陶は聡明有徳にして民心之に帰すれば、天意亦之に帰して王たらしむといふやうに説いて居る、即ち位を得るといふことは後天に定まるものにして居る。然るに生民の初め王者無くんば誰か道徳礼法を制せん、道徳礼法無くんば誰か有徳と無徳とを区別せん、而して天命帰すところあるを得ざるべく、即ち王者有るを得ざるべし、然れば皐陶の説は竟に王者有る所以を明にするに足らず。是れ周に至りて大誓に王者は天之を作すと為して、先天説生じたる所以なり。王位先天に定まるといふことは、直に易姓革命を否定するものにあらず、且易姓革命は事実として行はれたり、又同時に王位を久しく子孫に伝へたる事実あり、故に皐陶の天命説は改造の必要有りて天命説大に発達せり、但此説は哲理的研究の必要より生じたるにあらず、政教実際の必要より生じたるものなれば王者は天の命ずると為すも、其の先天的決定に関する方面は周以後漢初に至る間に発達し、周初に至る間は、主として後天的決定の方面を発達せしめた。即ち周の思想では王位は天命によるも、天命は有徳に帰す、而してこの徳とは一個人の徳を言ふにあらず、必ず祖先に盛徳の人があつて其の功績が深く民心に入り、後世子孫又更に徳を積みて功徳の民心に入ること益々深からしめ、而して盛徳ある人が出づれば天命方めて此に帰すといふのである。但此の時必ず一方に当代王者が此れと反対に祖先の功徳を減殺し、遂に之を絶無ならしむることあるを必要とする。此くて民心が当代王者の方を去りて有徳者の方に向ふところで、天命亦彼を去りて此に帰することになる。此くして帰したる天命は容易に去らぬ、王位は長く子孫に在ることを得、仮令子孫に多少不徳の者があつても、祖先の余沢が残つて居る間は天命も帰して居る。子孫の悪徳が段々重つて、祖先の余沢が全く尽きるに及んで、初めて天命が去る。然れば一方にては王者の位を嗣ぐべき者の教育に甚だ重きを置く訳である、古に在つて王太子の教育を重んずること周の如くなるは外国には例が少い、故に実際上に王位を千万年に伝へんとの期待が周書に見えて居る訳である。而して天命一家に帰したる後盛徳によつて天位を得たる王者在天の霊は常に子孫の行為を監督し、不都合があれば、決して之を見逃がさずして警告を与へる、即ち天変地異人災などが警告する所以である。抑も王者を監視することは天の事であるが、天は其の事を王者在天の霊に委任して行はしむ、人の霊は天に帰した上は至公無私のものである。況や有徳なる王者の霊は聡明正直にして壱、天と其の徳を一にするを以て、己の子孫なるの故を以て曲庇するやうな私心は無い、故に天は監視の事を之に委任す、此れ亦王者其の祖の在天の霊を天に配して祭る理由である。子孫が警告
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を聴かずして屡々不都合を敢てすれば、祖先の功徳も此に尽き、天命之を去るに至る。天命説は周に至る間に此く発達した。漢に至る間に更に前に陳べたる感生説が生じて、天命は先天に或る人又は或る家に帰すといふことになつた、而して周までの間、易姓革命有りと雖も皆古の黄帝の後たる人が相代つたので、決して他系の者が王となつたので無いとしてある、漢高祖も左伝によれば尭の後となるので、亦黄帝の裔である。故に王位は常に黄帝の系に存して居つたので、感生説も亦黄帝の系と密に相関して居る。然るに後世王者が其の系を求むること難きより、遂に感生説を抛棄するの已むを得ざるに至つた。今日の支那人は自ら漢人皆黄帝の子孫なりといふが、其れは決して持すべからざる説である。
 次に地に関しては簡略に陳べん。漢儒は地を二つに見て、崑崙を中心とする地球全体と漢人の生息する赤県神州を分けて、各別に之を祭ると説いてあるが、此れは古の思想では無い。古のは人物を載せる穀物を生じて人を養ふ地との二つを祭つただけである。前者は地と称し後者は社といつてある。地を祭るのは天子の特権で、諸侯と雖も僅に其の国の所在の方を祭つただけで、地として祭らぬ、社は天により人民まで皆祭つた。天を皇天と称するに対し地を后土と称するが、地に就いては人格の観念は認められぬ。地の事は今夕は此れだけで止めん
 次に祖先を祭ることを陳べん。抑も人は何によつて成り立つて居るか、人も亦天地の二気が合して生じたものである、地の気は形を成し天の気は気を成す。気は言ひ難きものであるが、孟子は体之充といひ又気息などとも熟す、手に執るべからず眼に見るべからずと雖も、呼吸などに於ては耳に聞くことは出来る、蹶く時にハツと思ひ、怒る時にクワツとするやうなものも気であるが、此れは自ら感ずるだけで聞くことも出ぬ、春暖の時体がノビノビしたやうに感じ、他人の前にて体が固くなるやうに感ずるのも気の屈伸である、此く気は運行屈伸するものである。形体は運動し又知覚の作用を為す、此れは気が有つてるのではあるが、此れ等の作用自身即ち気では無い、此れは形体自身に其の原力がある、之を魄といふ。人には又思慮の作用がある、此れは気に其の原力がある、之を魂又は神といふ。故に又形魄・魂気・神気の語がある。兎に角人気と形とが合して成つたもので、作用の方から言へば魂魄が合して人を為して居る。気形離れ魂魄判かれると即ち死である。併し死は滅尽を意味するのではない、天地二気は不滅のものであるから、気形魂魄離判する時、形魄は地に帰し、魂気は天に帰す、而して猶ほ永久に存在す。但二者の間に多少相異の点がある、魂気は天に帰して其の儘永久に存在するも、形体は全部永久に存するのでは無い、皮肉は化して骨のみ存す、骨は地気の精であつて、必ずしも化さないものである。但必ずしも化さぬのである、如何なる場合にも化さぬといふのではない。所謂塚中の枯骨は骨の形は有つて其の実は化したものである、即ち骨の中の精気が散り失せて死灰となつたものである。精気さへ存じて居れば、骨も永久の生命を保つ訳になる。風水説は骨をして墓中にあつて枯れしめざる方法を講ずるものである此れは可なり古い説であるが、後世のは複雑なる理論や方法があつて
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原始的のものとは大に変じて居る。要するに魂魄は天地に帰して永久の生命を保つものである。人の初めて生れた時は、気形二者は具はつて居るが、魂魄の作用は未だ見はれて居ない、魂の作用は勿論、未だ手足も動かず、目は物を見ず、耳は物を聞かぬ位であるから、魄の作用すら現れて居ない。生後物を取つて養ふに至つて、漸く魄の作用が現はれて手足の運動耳目の見聞といふことが生ずる。魄の作用が現れて来ると同時に魂の作用が漸く現はれる。物を取つて養ふこと愈々多くして、魂魄の作用が愈々強くなり、遂に魂の作用が其の強きを致すことになると、聡明正直にして壱となり、天と其の徳を一にす。神明と感通することも天と感通することも此に於て出来る。人物皆二気より成るとすれば、動物・植物にも魂魄は有る筈であるが、同じく二気之を成すと言ふも、気の厚薄・清濁・中偏の差がある故に、植物には魄の作用だに現はれず、動物には魂の作用が現はれぬ、人の初生と生後と作用の現はるゝに次第があるやうなものである。然し人・物根本に性に於て異なるもので無い、故に人・物互に相変化することを信じて居る、腐草化して蛍となるは植物が動物に化するので、田鼠が鳩になり雀が蛤になるなどは動物間の変化で、鯀殛せられて黄熊となり、黄石公が石になるのは、人が動物又は鉱物に化したのである。人・物の相互変化を信ずることは、古今支那民族に著しい事柄である。人に在つて物の養ひにより魂魄の作用が愈々強くなるといふことに就いては、古の社会組織と相関する事項が存して居る。即ち位と徳とを一致させるのが古の組織で、徳有る者は位を得、位の高下は徳の多少・高下と相伴ふ、故に位の低い人は物を取つて養ふこと少く位高きに随つて物を取つて養ふこと多くなる。そこで位の高き人は魂が強く所謂聡明正直にして壱といふの状態に達す、此かる人は死後に其の魂天に帰すると頗る威霊ありて、所謂神となる。然るに位卑く又は位無き平民は魂が強くないゆゑ、死後天に帰しても、威霊が無いといふことになる。此の道理より推すと、生れた許りで死んだもの又は夭死したものは、身分の高下に拘はらず、魂の作用が発達して居らぬゆゑ、死後何等の力も無い筈である、而して古来其の通りに信ぜられて居る、殤死者の葬を略にするも此れが為めである。又人に殺されるとか、其の他無理に死んだものの魂は、死後の情態が天寿を全ふした者とは違ふ、即ち天寿を全ふした人の魂は、位・徳の高い人のは威霊があり、常人のは何にも威力がない。然るに横死した人の魂は生前の位の高下に拘はらずして人の害を為す、その例は古来甚だ多い、最も著しきものを言へば関羽である、関羽は人格・学徳共に孔子の儔では無い、然るに孔子は何も霊を顕はしたことが無く、関羽は歴代霊を顕はしたと信ぜられて居る、其は孔子も関羽も共に志を得なかつたが、孔子は天寿を全くし、関羽は中道にて凶手に斃れたからである、左伝には鄭の子産の言に、其の理由が明白に載せてある。関羽の霊は其の生前忠義に厚かつた故で常に善い方に働いて居るが、所謂死霊は害を為す方が多い何れにしても、魂魄天地に帰した後、人を離れて自ら存するといふ訳では無い、必ず人に依りて存するのである。依ると憑るとは大に違ふ憑るといふのは俗にいふ乗り移ることで、依るといふのは依頼する、
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依りて安んずといふのである。乗り移るといふのは、一は人又は獣などに死霊が入つて、この人又は獣が死者と同じものに変つて仕舞ふ、二は他人の夢に姿を現はし、或は其の夢に思想を言ひ表はし、又は他人をして己の思想だけを言はしむるのである、前者に在りては他の人又は物は死者になつて仕舞ひ、後者にあつては一時的に他人の思想が死者に支配されるのである。而して言語・思想は魂に属し、動作は魄に属することより考へると、人に憑るといふ二つの場合に、前者は魄の憑る場合で、後者は魂の憑る場合であることは明である、左伝に徴すれば、此の推断は当を得たものであることが知れる。人に依るといふのは此れと異にして、死者の魂魄が人特に自己の子孫に依頼して、其の処に安んずるといふことである、即ち子孫有りて歳時祭を行ひ物を薦むるので、祖先の魂魄は飢ゑずして其の処に安んず。若し祭る者無ければ其の処に安んぜずして、其の力の有る限り人の害を為す、そこで他人でも之を祭る者があれば之に依りて安んじ、復た害を為さぬ何れにしても、魂魄は其の処に安んぜざる時は人の害を為すのである此に於て、其の死を得ざりし人、子孫其の他祭る者無き人の魂魄は、生前の位・徳の高下・大小に拘はらず畏るべきものとなるのである。
 前述の意味よりすれば祖先を祭るといふことは、子孫最大の義務である。但前文は専ら利害・禍福の方面より説いたが、祖先の祭祀は本に報ずるの義を主とすることは言ふまでも無い、前文は祖先及び祖先以外の魂魄を祭る所以の一面の理由となるもので、全体の理由では無い、祭は凡て報本を主とすることより言へば、前文述べしところは副的理由である、祖先の祭祀に就いては特に然りである。祖先の祭祀が魂魄即ち鬼の祟を畏る為めで無く、報本が本務であることは此に再び繰り返へして言ふ。然し祟を畏るゝの念が絶無とは言はれない、特に後代の支那人には其の方が強いと思ふ。但原始儒教は報本を主としてある。扨祖先を祭るには三代各々礼を異にして居るが、周は先づ音楽を以て魂魄を招き致す、音楽は陽に属するもので、魂魄は天地・陰陽に分れ居るを以て、音楽だけで二者を招くのは不適当であるとも思はれるが、音楽は天地に満つるを以て、天に在る魂、地に在る魄を招ぐに足ると為すのである。次に行ふ礼は天子以下士に至るまで異同がある、要して之を言へば、地に在る魄と天に在る魂とを合せ招くのである、礼記に祭は之を陰陽に求むといふのはそれである。但魂魄を合せ招くといふても、祖先の魂魄が相合して世に在りし姿を再び現はすと為す訳ではない。但魂魄が来り至ると為すのである。祭には必ず尸を立てる、尸とは神の象なりといひて神の代理である、而して祭るところの神の孫に当る人を以てするのを礼としてある。祭の始めには尸は来らぬが、正祭に入りて尸来る、即ち始めは尸無くして祭主が直接に祖先の神に事へ、神来り至る頃に尸始めて外より入り来るのである。而して主人は尸に色々の物を捧げて其の飽食を求め、尸は終に祖先に代りて主人に福嘏を授ける。然し尸に祖先が乗り移るといふ考は毫も無い。
 天を祭ると地を祭ると祖先を祭るとを問はず、祭は何の為に為すかといふに、礼記等に三の意味があるといふてある。即ち一は祈、一は
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報、一は由辟である。由辟は用つて弭むといふ意味で、祭を以て現在又は将来の災禍を止め避けるといふのである。報は本に報じ恩に酬ゆることである。祈は福を求めることである。祖先は我々の本、天も亦我々の本、地も亦吾人の本である。本に報ゆる為めに即ち報の意味で何等求むる所無くして祭るのが、此の三者の祭の本義である。礼記郊特牲篇は天地の祭に就いて特に此の義を明にして居る。儀礼に於て祖先の常時の祭を見るに、主人初めに祭の詞を述べるが何等要求するところがない、而して祭の終りに近づきて尸が祖先の神に代はつて主人に福を与へる。その儀を言へば、始め主人が尸に供へた黍稷がある、佐食といつて尸の飲食の世話を為す人が、黍を取りて手に丸めて小さな団子を拵へ、之を尸に渡す、尸は之を祝といふ執事の人を経て主人に与へ、同時に福を与へる詞を祝をして述べさせる。主人始めより福を求めざるに、神の方より之を与へるのである。主人は報謝の心を以て祭るのであるが、その誠が神に感通して、神の方より幸福を与へるといふことになる。斯ういふやうに報といふことが、祭の最も重なる意味・動機である。然し絶対に他の動機が無いとは言へぬ。種々の場合に幸福を求め又は災禍を免れんとして祭ることがある、此の場合に願ひ求むるところを得ば、必ず又報の祭がある。例へば社を祭るのは春に於てするは、祈と由辟との意味で、秋に於てするは報の意味になる。又常時祖先を祭るは報の意味で、然かも此れは祖先の祭祀の主なるものであるが、例へば主人が病んで死なんとするといふ場合に、祖先の霊を祭つて保護を請ひ、天子にては国の大難に当りて祖先に告祭するなどは、由辟である。祭は報を主とすとは言ふものゝ、他の二者を否定することは出来ぬ、但何れが主になるかといふことが、祭に関する重要の点である。
 次に喪に関して陳べん。先に申した魂魄不死の観念は、喪葬の礼と大に関係がある。古は人死すると先づ復を行ふた。此れは死者の復活を希望して魂を招くのである、其の儀は、士に在つては死者の衣服を持つて屋根に登り、北の方に向ひ名を呼びて、某反へれといふことを三度。然る後に、衣服を屋根から投げ下ろすと、下に居る人がそれを受けて死者に着せる。魂が衣服に附いて返へると考へるのである。それでも生き返らなければ、愈々死んだものとして取扱ふ、其れまでは生くべきものとして居る。天子諸侯にありては、廟・寝・庫門などでも復を行ふ。つまり平生其の人が事有つて出入をして居つた所にて魂を呼ぶのである。又旅行の途中で死ぬと車の上でやる。旅館で死ぬと旅館でやる。戦場で死ぬと戦場でやる。といふやうに、何処でも復を行ふた。墨子に儒家は井戸や便所、鼠の穴まで探つて魂を求めるといつて誹つて居るが、其の頃俗間にはさういふ習慣もあつたものと見える。魂を呼びて猶ほ生き返へらねば、士は三日、大夫は五日、諸侯は七日といふやうに一定の期日に、襲・浴・斂などの事を行ふ。三日、五日、七日といふやうに日数を置くのは、一方には準備の為めもあるが、一方には魂の返つて来るのを待つ意味もある。愈々返つて来ないところで死したものとして取扱ふ。葬の時に色々の物を送る。平生用ゐて居つた物を殆ど皆送る。それを大別すると、実用的の品物と実用
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的でない品物とになる、非実用的といふのは、又は形質は実用品と同じで而かも用に立たぬ物である、例へば琴に絃はあるが弾いて見て曲を成さぬ、瓦製の盞などは酒を入れることは出来るが、ジュツと酒を吸ふて実用にならぬといふやうなものである。実用的のものといへば祭器及び生人が日常の用に供した物とある。勿論品物の数と類とは身分によつて違ふ。然し何れも皆墓穴の中に埋めて仕舞ふ。此れはつまり死といふことを、此の世を辞して彼の世に遷ると見たので、荀子は明に葬は移遷の道であると説いて居る。彼の世の生活は何んなものであるか計るべからざるものである。故に此の世の人の生活と、彼の世の神の生活とに要する物を二通り送れば、何方かが用に立つと為すのである。後世は大抵の物は墓地又は途中で焼いて影だけを送るが、古は形の儘に埋めた。葬の時に又食物を埋めることがある。それは黍・稷・麦の三種を一つの器に入れてやる。勿論生者の食物とは異なつて三種を一緒にして、水に湛えたまゝで炊かないのである。此れも死んだ人は何を食ふか分らない、且生きて居る人と同じではないといふ考から、さうするのである。又入棺の前に死者の口に米を含ませることがある。士ならば貝、大夫以上は玉を歯の間に含ませ(之を含と云ふ)次に穀物を口に含ませる(之を飯といふ)。玉は生きた気があるものとして、その生気で人を養ふといふ訳である。穀物を含ませるのも死者猶ほ生くとするからである。喪葬を通じて、死者は猶ほ生活を続けて居るといふやうに考へたことが明に見える。埋葬を終つて家に帰ると、虞の祭といふものを行ふ。徳川時代に儒祭を行つた人々は矢張り虞祭をやつた。虞とは人死して形は墓に送つたが、魂は墓には入らぬ、魂だけは復た家に返るものである。故にそれを迎へて帰り、魂を安んずる為めに祭をするのが虞である。此かる訳であるから、祖先を祭るといふのも、祖先の魂魄を天地より招き致して祭るといふことに重きを置いたもので、祭の礼が皆さういふ風になつて居る。魂魄不死といふことは葬祭を通ずる根本信仰であつた。
 以上述ぶるところは孔子以前の儒教の思想である、然るに孔子が此れ等の点に関して大なる改革を加へて居る。先づ小さい方で葬のことから申せば、孔子は古礼に全然新しい解釈を加へて、倫理的に説明して居られる。其は、礼記檀弓に、仲憲が曾子に、夏人は葬に明器即ち鬼器を用ゐて民に死者知ること無きを示し、殷人は祭器即ち人器を用ゐて民に死者知ること有るを示し、周人は二器を併せ用ゐて民に死者知る有るか知る無きか疑似の間にあるを示した、と問へるに、曾子は之を非として、夫古之人、胡死其親乎と云つて居る。孔子は更に明白に説明し居られる、即ち葬に二器を併せ用ゐるは仁知の至りである、親死せり、孝子の情よりすれば今まで息があり、手足も動き、眼も我を見た、現に目前に親の体がある、如何にしても永久に我を棄てゝ去つたとは思はれぬ、矢張り安らかに眠つて居るので、今にも復た覚めて物をいふのであらうと思はれ、死んで仕舞つたものとは諦められない。此れ孝子の仁である。それを死したるなりと為すは不仁である。然らば猶ほ生きて居ると為すべきか、現に息も絶え果てゝ身体は漸く冷くなつて来る、知よりすれば生きて居るとは云へない。それを生き
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て居ると為すのは不知である。つまり子の情から云へば、親を死んだものと思はれず、然りとて理性から見れば、生きて居るとは言はれない。情に厚いものは何時までも生きて居るとして葬るに忍びざるものであらう、此れは仁に厚いが、知に欠けて居る、或は死者は知る無きなりとサツサツと葬るものもあらう、此れは知は明であるが、仁に乏しい。そこで不仁ならず、又不知ならず、人情と理性、即ち仁知両面の要求を満足させるやうにするのが、葬に二種の器を併せ用ゐる所以であると云ふのが、孔子の説である。之を推し拡めて言へば、喪葬全体が仁知即ち情理兼尽の道である。孔子の此の説によれば、魂魄の不死、彼の世の生活などいふ信仰に基を措かずして、人子たるものゝ人情の要求と人類理性の要求とを兼ね尽くすことを以て、全く倫理的に説明するのである、即ち仁之至、義之尽といふことが喪葬の原則である。死後時を以て父祖を祭ることも亦同じ理で説明される。論語に、祭は在すが如しといつて居る。即ち在すが如しといふのは、魂魄が必ず降り来るといふ信仰を以て言ふので無い、誠敬を致して祭れば祖先の神来つて享けるが如き感じがするといふのである。礼記の祭義篇に祭の前に斎戒することを説いてある、孔子の語では無いが、最もよく孔子の意を明かにして居る。即ち祭の前に十日の物忌みをする。之を七日と三日とに分け、前七日を散斎といひ、後三日を致斎といふ、斎といふと酒を飲まず肉を食はず婦人に接せずといふだけとするのは誤りで、実は自分の精神を祭に集注せしめるのが目的である。そこで散斎七日間、漸く家事などを取扱はぬやうにして精神を統一する準備を為し、次に致斎三日間は全然他事を廃し、一室に間居し、親が生きて居つた時に平生何の部屋に居つた、毎日何事を為したといふことを熱心に思ふ。それより漸く進みて親が何を好みて食ふたといふやうなことを思ひ、更に進みて親が平生何の話をして何ういふ風に笑つたといふことを思ひ、次第に親の精神情態を思ひ、遂に平生何ういふ考を以て居つたといふことを考へる。外より内、疏より精に入りて専心に親の事を思ふ。此く自分の精神を親に集注せしめると、遂に親の容貌が髣髴として眼前に現はれるやうになる。此の心持になつてから祭に取り掛る、さうすると在ますが如しといふことになる。然れば祭は何も親の魂魄が下つて来て饗けるといふのではない。唯だ親が眼の前に見えるやうな心持になつて居るまでゝある。祭の日に酒食を供へ、又尸が酒を飲み物を食つて居る時に、丁度親も飲食して満足して居る、親の声も聞えるやうに思はれる。即ち親が祭を享けて居るやうに感ずる親が快く祭を享けて居ると思へば、孝子もそれで安心して神在ますが如くに感ずる。孔子は祭といふものを此く観て居る。親の魂魄を招き降す儀は従来有るものを改めはせぬが、魂魄が下つて来るといふ信仰を本とせず、孝子の親に対する情を尽くすといふことを以て祭の義と為したものである。此れ亦旧来のものに新しい倫理的解釈を下した一つである。
 天に関する孔子の思想は、大体に於て前申したところと変つたことは無いやうであるが、但天命に関しては、前申した天命とは異なる説を持して居られる、即ち政治的革命の関係に於て言ふにあらずして、
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倫理的の意義を以て深遠高大なる自信の本と為して居られる。中庸に天命之謂性とあり、爾来此の方面の思想が大に進んで来たのは、全く孔子が天命に新義を与へられたことに因るのである。原始儒教の天命は徳有る人に天命が帰して、天下に王たるに至るといふことであつたが、孔子は自己実現の極、天徳を予に生じ、生民を開導して其の性を全くせしめ、天下の為めに太平を致すの任務を吾に命ずと自信するを知天命といはれる。論語に、孔子自ら五十而知天命といはれたのはそれである。孔子は宋の公族孔父嘉の後である、宋は徴子の血統で微子は殷の後である、即ち孔子は古の王者の後聖人の裔である。而して孔父嘉の父に正考父といふ人があり、孔子七世の祖であるが、此の人も聖人と称せられた人であり、正考父の曾祖弗父何は宋の襄公の子で、国を弟厲公に譲つて臣籍に降つた高徳の人である。此く孔子は遠く古代に遡れば契・湯王等の聖人を祖とし、近く数世の処にても多くの聖人を祖とするを以て、王たるべき資格は此にあると云へる。加之当時孔子の将来に大なる望を属し、異常の発達を為すべく期待した人が有つた、それは魯の大夫孟僖子といふ人である、此の人が孔子の年十七の時に礼の講習を行ひ、魯国の礼を善くする者皆与かつた、孔子も之に列した、而して僖子は衆人の中に就て、此の十七歳の少年の異常の人物たることを看破した、但其の事は自己の脳中に秘して置いて、爾来孔子の事に深く注意したものと見え、後年死せんとするに臨み、嗣子孟懿子に遺言して、孔丘は聖人の後にて、近くは正考父といふ聖人も其の祖先に在る、正考父聖にして位を得ずして終はつた、聖人の後必ず達する者有りと聞く、孔丘それ達せん、吾死せば汝之を師とせよと言つた。そこで懿子と其の弟南宮敬叔は孔子に事へた。此様な訳であるから、孔子は王たるべき資格が此処にも有る。然るに孔子は天命吾に帰せり、以て天下に王たるべしと考へられたことは無い。然らば孔子の所謂知天命は何であるか、古人は窮達の命あることを悟つたのであるといふ。自分は此の説明には大なる疑を懐くのである。孔子が道を天下に行はうとして熱心に尽力したけれども、竟に行はるべき望がなかつた、そこで窮達は命なりと悟りを開いたと云ふならば分かるが、此かる事は孔子の履歴と合はぬ。孔子は五十以前何を為して居つたか、仕へたこともあるが、季民の吏となりて牛羊を掌どつたり会計を掌どつたりしただけで、治人の職には居らなかつた。魯以外の国に行つたこともあるが、自己の研究修養の為めで、道を行はんが為めでは無かつた。孔子が治人の職に任じ又道を行はんとして天下を行ぐつたことは五十以後のことである。将に道を行はんとする初めに当りて窮達は命なりと悟つたといふことは、可笑しいことでは無いか。且孔子が天下を周遊し各種の危難に遇ふた時、窮厄に在りて従容自若、人を尤めず天を怨みざりしは、天の使命身に在り、人それ吾を如何せんといふ大確信より然りしことは、論語等に明証がある。此れ知天命の一語は必ず深き意味が有ると信ずる所以である。天生徳於予といひ、文王既没、文不在玆乎といへる語と相照らして、知天命は窮達の命を知るといふやうなことでは無いと思ふ。孔子十五にして学に志したといふことが既に異常の事であり、其の卓越せる天資と異常の好学とを
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以て、三十五年の修養を積みて得たるところの結果にして、且其の一生の大活動の始まるべき時期に於て知つたところのことが、窮達有命といふ位のことであつたらうか。此れ等の理由より自分は、知天命は孔子自修の結果道徳其の身に具はることの自信を得、因て天豈に徒爾にして予に徳を生せんや、必ず道を明にして生民を導き天下の為めに太平を致さしめんとするなり、此れ天の予に命ずるところなり、との確信を得たるに外ならぬと思ふ。此れ孔子が五十の後乃ち時君を助けて周室を再興し道を天下に行はんとした所以である。天命身に在るが故を以て天下に王たるべしと為したのでは無い。此く天命説を新しい方面から解釈したところに、孔子の道徳・人格の根本が存する。此の高尚なる信念は宗教的であるといふことを憚らぬ、此の信念は他語を以て言へば、人を以て天と一致することは天人合一の理想である。此の理想は無論孔子の始めて立てられたものでは無いが、之を闡明し之を以て道の根本とも極致とも為したることは、孔子に負ふところ最も大である。而して孔子の人格の偉大高遠なる根本は、実に此の信念に在り、千載の下吾人に深き感化を与ふるは、亦此の信念の然らしむるところである。
 孔子は仁を以て一貫の道となされた。其の仁といふのは、天の物を生成保護する徳で、仁は天の道であり、又天の徳である、人は天の生じたもので、天の道は人に賦して人性を成して居る、故に天の道・天の徳たる仁は又人の道・人の徳である。人を以て天に合し得る本は此処にある。宋の学者は愛を以て仁を説くところの古の説は、仁の作用を説くもので仁の義を明にするもので無いとて、色々と高遠なる説き方を考へ、或は誠とか至公無私とか説いて居るが、仁の愛たることは仁の根本で、決して作用に渉るとして斥くべきでは無い。天を人格視したか否かに就いては、論語には極めて明瞭なものが少く、又非人格的に見られた方の語もある、然し天命といひ、天生徳といひ、天之未喪斯文といひ、天の仁を本とする方面といひ、人格的の観念は含まれるとは言へる、但繰り返へして明明白白に人格視したとばかりは言へぬといふことを述べて置きます。
 私の観る所によると、孔子が其の以前の儒教に大なる変革を与へたことの重なる点の二、三は上述の如くである。従来の礼に多くの宗教的分子を含み居たるを孔子は之に倫理的解釈を与へた。孔子立教の大旨此にあると信ずる。而して天命の自信に於て凡てに高遠なる宗教的信念の根拠を与へたと思ふ。今夕は此れにて終はることに致します。


渋沢栄一 日記 大正二年(DK460120k-0006)
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渋沢栄一 日記 大正二年          (渋沢子爵家所蔵)
三月六日 晴 寒
○上略 三時事務所ニ抵リ、庶務ヲ処理ス、三時成瀬・姉崎二氏来リ帰一協会ノ事ヲ談ス、成瀬氏欧米旅行中ノ経過ヲ談ス ○下略
三月七日 曇 寒
○上略 午後四時半上野精養軒ニ抵リ、帰一協会例会ニ出席ス、服部卯之吉氏儒教《(服部宇之吉)》ニ関スル講演アリ、事理明晣ニシテ順序頗ル当ヲ得タルヲ覚フ、畢テ単評ヲ試ム、夜飧後成瀬仁蔵氏米国視察談及帰一協会勧誘ニ
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関スル談話アリ、夜十一時散会、帰宿ス


帰一協会記事 一(DK460120k-0007)
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帰一協会記事 一              (竹園賢了氏所蔵)
    第七例会
三月七日○大正二年(金曜日)午後四時第七例会を上野精養軒に開く、出席者如左
             渋沢栄一氏
 井上哲次郎氏      石橋甫氏
 服部宇之吉氏      床次竹二郎氏
 片山国嘉氏       筧克彦氏
 加藤玄智氏       川島令次郎氏
 中島力造氏       中野武営氏
 成瀬仁蔵氏       村井知至氏
 内ケ崎作三郎氏     八代六郎氏
 矢野恒太氏       クレー・マッコーレー氏
 ガレン・フヰッシャー氏 古谷久綱氏
 姉崎正治氏       シドニー・ギューリック氏
尚研究題目並ニ主題者は左の如し
 儒教の特質            服部宇之吉氏
                 (筆記速記者野村寅次氏)
前回の続講にして、今回ハ特ニ儒教の倫理的方面を説かれたり。(七時廿分) 食事(八時卅五分)
食後井上氏は天を多少人格的に認むるとの意見に対し、服部氏も天は多少人格的なる所あれども(詩経)但し帝といふ程に明かならざる旨を答へらる
次に渋沢男は講演に付ての所感を述べ、中島力造氏ハ井上・服部両氏に質問せられ、次て両氏の簡単なる答弁あり、又次ニギユーリック氏の意見あり
右終つて幹事成瀬仁蔵氏の欧米視察談より米国帰一協会の設立に関する尽力、其の形勢並ニ英独仏に於ける運動の一班を説き、大ニ会員の感興を惹けり
最後に渋沢男ハ欧米との聯絡は将来之を継続し発展せしむるの必要あるを説き、其の方法に至つては幹事評議員に於て相議すべきを述べ閉会せり、時に午後十時三十分なり


帰一協会会報 第弐・第六六―八九頁大正二年七月 儒教の特質(第二回)(DK460120k-0008)
第46巻 p.458-468 ページ画像

帰一協会会報 第弐・第六六―八九頁大正二年七月
    儒教の特質(第二回)
 今夕は前回に続いて主として儒教に於ける倫理説を述べて御批判を仰がんと欲す、此れも亦原始的儒教と孔子の教とに大なる差違があるゆえ、主として其の点を申述べやうと思ふ、倫理説の全体を述べることは到底時間が許さぬ。
 前回浮田博士より天を理と為す所以を次回に説くやう御希望がありましたから、先づ此の点を純ら支那思想の方面より御話しませう。理といふ字は原来先秦の書には多くは見えて居らぬ、戦国以後に多く用ゐられる、而して此の用法を見ると、義と関係し又結び附いて用ゐら
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れる、又心や性と関係が密である、現に孟子は屡々理義といふて居る易には窮理尽性、以至於命とある。易の此の語は孟子に尽心者知性矣知性則知天也といへると全く同義である、即ち易の窮理は孟子の尽心で、後人が言ふ如く天地万物・一草一木の理を窮むるのでは無い。孟子の尽心といふのは孟子自身が他の篇にて説ける如く、耳目は思ふといふ作用を為さぬ、故に物を見又聞けば直ぐと其れに引かれて物を逐ふて外に馳す、然るに心は思の作用を為す、人が物を見又聞き之に引かれんとする時に、一時之を差止めて其の可否を考へる、其は理義といふものによつて判断するのである。一一此の如くして行くのが尽心で又窮理である。理義によりて判断するといふのは自己以外に在る理義といふ至高律とすれば、此の事は全く他律説となるも、理義は人心に固有するものとすれば自律説である、而して理義は人心に存して外にも在るとするのであるから、自律他律一致の説である。孟子は尽心によつて知性に至ると為し、易は窮理によつて尽性に至ると為す、知性と尽性とは一である、人性の完全なる実現発達といふことに外ならぬ。抑々性に就いては異説多く、其の著しきものを云へば、孟子は性善と云ひ、荀子は性悪といひ、漢儒は性善情悪といひ、宋に至ると本然・気質二の性ありといふ。其の云ふ所相異なるが、孟・荀以前の古にも性に関して二つの見方がある。即ち一は孟子の性善説の本を為すもので、一は荀子性悪説の本を為すものである。詩経に弥性といひ、書経に節性といふのは即ちそれである。孟子の性善は弥性の系統に属し、荀子の性悪は節性の方に属するものである。昔から性に関しては此く二つの見方があつたのが、孟・荀二子に至りて顕著なる説となり全く相反するものになつた。併し孟子の性善、荀子の性悪は、表面上は正反対であるが、性の対象は全く違つて居る。古の所謂弥性と節性とも亦対象を異にしたものである。而して孟子は荀子の性と為す方面の性たることは認めながら、性を論ずる時に之を除いて言ふ、荀子も亦然り。詳に言へば、荀子が悪といふ性は、飲食、男女の慾を指すのである。人は生れながらにして慾がある。慾の儘にすれば人に譲らず人と争ふに至るものである、此れ所謂性悪である、慾其の物を直に悪といふよりは、慾の結果が悪となるといふのである。荀子は人の性悪なるが故に、聖人礼を制定して、人の性を矯め善に帰せしむといつて居る。然らば礼を制定する聖人は独り性悪ならざるか、即ち聖人は人にあらざるか、聖人人にあらずとせば如何にして礼を以て人の性を矯めることを為し得るかといふ問題が生ず。荀子は屡々聖人の性も人の性も同じであると言つて居る。然らば性悪なる聖人は如何にして人性を矯むべき礼を制定し得るか、といふ問題が起る。荀子は天特に聖人を生ずと考へて居るが、如何に特に生じたところで、人である以上は性悪たることは免れ得ない。此くて荀子は道即ち礼の起源根本を求むるに至りて、遂に人には仁義法正を知るべきの力と之を能くすべきの質とがある、と云ふことを許すに至つた。此の仁義法正を知るの力、仁義法正を能くすべきの質といふのは、性なるか性にあらざるか。荀子は性とは生れながらにして得たもので、後天的のものではない。天の為さしむるものである、経験・習練によつて得たものではないと説
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いて居る。仁義法正を知り又能くするの力が総ての人にあるとすればそは明に、後天的に経験・習練で得たものでなく、先天的に天に得たものでなければならぬ、即ち性でなければならぬ。此くて性悪と絶叫するにかゝはらず、孟子が性善と称するものを認むることになる。孟子口を開けば性善と称すと言はれて、これと異なる説は極力排斥して居るが、荀子が悪と称する性をも認めて居る。口の味を好み、鼻の臭を好み、四肢の安逸を求むるは皆性であるといつて居る、然し孟子は口味を好むといへども、求めて得ざるあり、四肢が安逸を求むといへども亦意の儘に安逸を得ざる場合がある。求むるところを得ると得ざるとは命である、故に君子は其の性であるの故を以つて、之を求むることを為さぬ、君子は之を性と謂はぬといつて居る。更に性善の方面に就いては、子は親に事ふるに愛を以てするが、舜の瞽腴に於けるが如く親が之を諒としないことがある、義の君臣に於ける、礼の賓主に於ける、智の賢者に於ける、聖人の天道に於ける皆必ず行はるべき理有りて行はれざることがある、是れ亦命である。然し仁義礼智は人の性である、故に命行はれざる場合ありとも、これを行ふべく己の最善を尽して努力せねばならぬ、行はれざるは命なりといつて抛つて置くべからざるものである。故に此の場合君子は命と謂はぬと言つて居る然れば孟子は、仁義礼智を性と認むる許りでなく、荀子の所謂飲食、男女の慾をも性と認めたが、但それは性といはぬと言ふので、荀子も知らず識らず孟子の言ふ方面の性たることを許して居る。結局二子は同一の対象を認めながら、其の性として取り挙げて論ずる時には、相異なる一面だけを以て説を立てて居るのである。荀子性悪と言ふも性慾を絶対に禁絶すべしとはせぬ、礼を以て矯めるといふのは、畢竟或る範囲・程度を越えざらしむるといふので、孟子も善と称する性は大性慾は小、大を立つれば小之に従ふと為すので、実際に至つては二子の説相一致す、但荀子は礼を其の所謂性に本づかずと為すので、性外の礼、習慣の力を過大に視るのである。兎に角孟子の善と称する方面を完全に養長発達せしむるによつて、人性は完全に実現されると云ふのが、其の知性説で、易の尽性説も此に外ならぬ。而して易は終に至於命と云ひ、孟子は知天といふが、此れ亦同じ意義である。即ち前回に申した如く、個性を完全に発達実現し其の極致に達した所で、自ら天に合一するといふことである。此くて窮理又は尽心より尽性又は知性に至り、遂に命又は知天に至る。此の見方は理といふものを心の範囲に於て見るもので、未だ性までは進んで居ない。況や天を理となすをや。然るに漸く進んで性を理となすに進む、これを一々申すと長くなるが、一の最も著しきものを申せば、韓退之の門人季翺の復性説である。それは性を理と為す方に進んで居る。李翺の復性書は、韓退之が厚性に今の性をいふものは仏・老を雑へて之をいふと言つて居る通り仏・老の影響が著しく見えて居る。復性説の大要をいへば、水は一体澄んだものである、それが渾るのは砂が雑じるからである。火は本来明かなるものである、それが暗くなるのは煙が蔽ふからである、砂を取り煙を去れば、水は本の如く清く、火は本の如く明かになる。水と火の本来の清と明とは砂を去り煙を去るによりて現はれる。人の性
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本と善である。情が起つて性が善なること出来なくなる。情は妄邪にして性の善を蔽ふものである。情を去つて仕舞へば性の本来の善が明かになるといふので、明白なる性善情悪説で、然かも性本と完全なる善、情原来妄邪なりと為すもので、其の性善も孟子の説とは大に径庭が有る。扨情を去るといへば簡単であるが、そこに李翺の説の六かしい所がある。情は思慮によつて生ず、思慮によつて好悪の念が起るからである。然らば思慮を去つて無念無想に至れば情亦去るか。李翺は云ふ、思はず慮らずと云ふのは静であるが、此の時心に思はず慮らざるを知るは動なり、静といへども未だ動を離れず、動静して息まざるは情なり。思はず慮らざらんと勉めて無念無想に達せんとするは是れ情を以て情を去らんとするもので、乃ち大情である。情情互に相止めんとすれば、情終に止むの時あるべからず。真に情を去て性に復へらんとするには、心は本来思慮無しと悟つて、動静皆離れ、寂然不動にして然る後に中庸に所謂至誠の域に入る。至誠は聖人の性なり、即ち性を充たし性を尽くして本然の至善に復へつたものであるといふのである。此の説を観ると仏・老特に仏説の影響の大なることは直ぐに分かる。湛然として静かにして、然かもその光天地を照らして万物逃るところなしといふ性は理にあらずして何ぞ。此く性は理となる、性既に理となれば天は理なりと為すことは論理上容易のことである。天を理とすることは此やうの径路を経て成つたものと思ふ。
 性の説異なるによつて、性の実現といふことも自づから異なつて来る訳である。中庸には性の実現はつまり知仁勇の三徳即ち知情意の調和円満なる発達訓練によると説いてある。中庸に至誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なりといふことがあるが、至誠は聖人の性を言ふたもので、之を誠にするは賢人の性を説いたものである。聖人の性は且らく措き、一般人の性は之を誠にすることによつて全ふすることが出来るのである。之を誠にするには何うするかといふに、明かなるより誠にするのである。他の語で言へば、善を択んで固く執るのである。善を択んで固く執るといふのは、善悪の区別を明かにして、善を好み悪を憎むの情を養ひ、善を行ひ、悪を去るの意志を養成することで、即ち知情意の三者を統一せしめて、円満なる発達を期するのである。中庸では知仁勇は天下の達徳なりと説くのはそれである。孔子の人格はあきらかに知仁勇の円満調和せる発達を遂げられたもので、中庸は最も善く孔子の道を説いたものである。孟子は四端拡充によつて性を完全に発達実現せしむることを説いて居る。立言異にして義は中庸と一に帰す。此の四端の拡充といふことを、宋儒は内に完全なる仁義礼智の性があつて、其の端が一寸見えたのが四端である。恰も明なる鏡を塵が蔽ふて居る間から一寸鏡の本来の光が見え、又は明月の光が雲の間からちらりと出るのが端である、と説いて居る。自分は孟子の一般の思想から観て、所謂端とはさういふものではないと思ふ。孟子は譬を挙げて、四端の拡充といふことは、火の漸く燃え掛け水の漸く湧き出したやうなものを、段々天を焦がし海に達する程の大きな火大きな水にするのである、と説いて居る。小さきものを養ふて大きくするのを拡充とすることは、孟子の自ら明言するところである。然る
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に宋の学者は性を理と説く、性が理である以上は人性本と完全なものと見なければならぬ。此れ四端を説くに、自ら孟子の義と異なるに至る所以である。自分は宋儒の説は自ら一説で、孔孟の義では無いと信ずる、孔子は、中庸・孟子に言ふが如く、天より賦せられて而して猶ほ微小なるものを拡充発達せしめて、完全なる実現を為すことを本旨とするものである。
 次に孔子の倫理説中五倫のことに就いて述べん。五倫は或は五品、或は五教、或は又五典・五常など色々なる名がある。後世五倫といへば、仁義礼智信のことを思ふが、五倫を五常といふことは古にある。五品といふことは人倫関係の目で、五教は其の道を言ふといふやうに自ら差別はある。扨此の倫常の五といふものの内容に就いて、孔子以前と孔子以後と著しき差が見える。左伝に、魯の太史克といふ人が、古、舜が尭の政を摂し五教を布かしめた功を説いて、父母兄弟子を五品とし、父義母慈兄友弟恭子孝を五教といつて居る。此れによると、五教といひ五品といふものが、全く家族間に於ける人倫関係だけに止まつて、家族以外のものは一も含んで居ない。尭舜の時に民に教へたものはそれであつたらうが、夏殷を経、周に至つて段々社会が発達した後に、猶ほ僅かに父母兄弟子といふやうな倫常の教だけで満足することが出来たであらうか。それを私は疑ふのである。段々論語などを調べて居ると、夫婦に就いては、論語には孔子の説は殆ど無いが、他の方面には多く言つてある。儀礼喪服は孔子の筆が入つて居るといふが、此れには夫婦のことは厳重に規定してある、中庸には君子の道は端を夫婦に造す云々とある。此れに就いては、君子の道は夫婦は即ち匹夫匹婦で、此の如き凡庸の人間と雖も行ふことが出来る様なる容易なることから始めて、竟に聖人でも行ふことを難んずるものに達すと説くものもあり、君子の道は夫婦の道を始めとすと説くものもある。更に荀子礼記を見ると、礼記郊特牲篇に人倫のことを叙して、男女別有つて而して後に父子親しむ、父子親しみて而して後に義生ず、義生じて而して後に万物安し、別無く義無きは禽獣の道なりとある。男女別ありといふことは二つの意味があるが、此処でいふのは一男一女相配して夫婦となることを謂ふので、彼の男女七歳にして席を同ふせずなどとて男女内外を区別する方のことを謂ふのでは無い。古は夫婦の道立たざる時は所謂男女無別で、儀礼、荘子は此の時代は人母を知つて父を知らぬといふ。母を知つて父を知らなければ父子の親が無い訳である。然れば男女別有り、夫婦の道立ちて始めて父子の親といふものが生じたといふことは有理のことである。父子の親が生じて兄弟・君臣・朋友も極つたといふのである。荀子は、君臣・父子・夫婦三者は始まれば終り、終はれば始まるといつて居る。荀子の意は一方から見れば、人倫の道は君臣を本として発達した、君臣あつて、然る後に父子・夫婦が出来る、然るに他の方から見れば、夫婦が有つて父子生じ、父子生じて然る後に君臣生ず、といふことになる、故に三者は始まれば終り、終はれば始まる、互に終始をなすことになるといふのである。此く孔子以後に夫婦のことが非常に重く説かれる。然し祖先を祭る礼を見ると、夫婦揃つて居なければ祭ることが出来ない。夫婦は
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殆ど同じく重大なる任務を有して居る。祖先を祭る時に尸を立てる。尸に対して主人が酒を献ずるのを初献といひ、婦が献ずるのを亜献といひ、賓の献ずるのを三献といふ、此の三献あつて方めて礼を成すのである、三献其の一を欠くも礼が完全しない。又宗法即ち家族制度に於ても主婦が無ければ一族の統一を完全に行ふことが出来ぬ。然れば夫婦を五倫中に加ふべき理由は多くある。君臣の事は論語の中に多く説いてある。孟子が引いた秦誓には、天下民を生じ、之れが君を作し之れが師を作す云云とあり、周代には君臣といふことは甚だ多く説かれてある。荀子は前述べた如く君臣を人倫の本とすることさへ説いて居る。礼に於ける喪服の制度を見ても、君臣の関係は父子と同じに為してある。斯やうな訳で、周にあつては、父母兄弟子といふことだけで五品・五教を説いたのでは、到底満足が出来ないやうに進んで居ると思ふ。然るに、それを明白に父子・君臣・夫婦・長幼・朋友を五教と説いて居るのは孟子であるが、孟子の前に溯つて見ると、中庸に、君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友を天下の五達道といつて居る。但中庸と孟子とは、父子・君臣の順序が顛倒して居る差異がある。荀子は非十二子篇に、子思・孟子が五行を説いて、それが仲尼・子弓の説であると言つて居る、と譏りてある。多くは五行は漢儒の所謂五常と解釈するが、自分は此れは五教のことと解説する、子思や孟子の五教を説くや、之を孔子の説とは言つて居ないが、荀子が之を孔子・子弓の説と言つて居るといふ処に面白いところがある、即ち世間では之を孔子の説と見て居つたのである、然るに孔子は五つ並べて言はれたことが無いので、荀子はそれを思・孟二子の発明と見たのである。子思に至りて五達道を説き、後人之を孔子の説と見るといふところに於て、中庸・孟子の説は孔子旨に本づきて説き出したもので、少くも孔子を中心として其の前後に五教説に著しき差異があるといふことは、孔子教の一大特色であると言はねばならぬ。此れ五倫の教に於ても孔子を奉じて権威と為すべきところである。孔子教の五倫は凡て仁義が根本であることは言ふまでもない。人間相互の間を結ぶには仁を以てするので、君臣たると父子たると夫婦・兄弟・朋友たるとを問はず、一切の人倫は仁を根本として成立し得る。但人が相対の位置で結合するに就いては、其の間を節制するものが義である。父子に親を云ひ、君臣に義を云ふ類は各々其の主とするものを以て言ふに過ぎぬ。
 次に五倫中君臣のことに就て孔子の考を特に述べん。論語に、孔子斉の景公政を問へるに対へて、君君・臣臣・父父・子子といはれ、景公此の語を聞いて大に感じ、君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾得而食諸と言つた。此の孔子の語は如何に読むべきか、君君たり臣々たりといふやうに読みて、君臣・父子各々其の道を尽くすべきものと説かれたとすべきか、又は、君君たれば臣臣たりといふやうにコンヂシヨナルに読むべきか。昔からコンヂシヨナルに読む説はある現代の支那人は、殊更然かく読まんとす。成る程、人君に向つて言ふたのであるから、然く読みて差支ないやうであるが、左伝に、夫夫婦婦といふ語があり、夫は夫らしく妻は妻らしく、よく似合つた夫婦といふことである、此れは如何にしても夫夫たれば婦婦たりとは読むべ
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からざるのである、此かる例より推すと、当時の語法文法には君君臣臣云云といへば、君君たり臣臣たりといふやうに解せらるることは極まつて居たのである。孔子の語は正面的であるから、コンヂシヨナルに読みても或は可なりとしても、景公の反面的の語は、其の読み方では大なる不都合を生ず、即ち君不君臣不臣を君君たらざれば臣臣たらずと読むは暫く措き、父父たらざれば子子たらずと読むことは、支那の孝道と相反したことである。漢武帝の戻太子が帝の心を失ひ罪を得た後で上書して太子の為めに論じた書が漢書に出て居り、それには父不父則子不子と則の字をすら加へてあるが、此れは武帝にも過失有りとせんが為めに然かせるものにて、支那の孝道では父は父たらずとも子は子たらざるべからずと為すのである。然れば景公の語の中、父子に関するものをコンヂシヨナルに見ることが出来ぬ以上、君臣に関するものも亦然かく読むべからざるもので、随つて孔子の語もコンヂシヨナルに読むべからざることは明である。而して孔子の此の語は、君臣と父子とを同種のものと為したもので、決して後世の支那人が父子は天倫にして合離の義無く、君臣は義を以て合し義を以て離ると見るのと同じからざるのである。論語に又子路の語に注意すべきものがある。子路が孔子に従ひ天下を周ぐる時、或る日途中で後れた。篠を荷へる老人に出遭つたので、孔子の行衛を聞いた。此処に子路と老人との間に問答があつた後、老人は兎も角家へ泊れといふので、従つて行くと色々歓待した。而して其の子二人をして子路に面会せしめて長幼を序した。翌日子路が孔子に追附いて此の話をすると、孔子はそれは隠者であるとて、子路をして引返して老人を訪はしめた。子路其の家に至れば老人は不在であつた。そこで子路は二人の子に語を残して去つた、其の語を自分は、孔子の意を承けて子路が言つたものと思ふ。孔子の意見が最も明かに其の中に現はれて居る。其の語は、不仕無義長幼之節不可廃也、君臣之義、如之何其廃之、欲絜其身而乱大倫、君子之仕也、行其義也、道之不行、已知之矣といふのである。老人が前夜二子を見えしめて長幼を序したるにより、長幼の序の廃すべからざるを知りて君臣の大倫を知らず、隠居して独り其の身を善くすることを責めたのである、不仕無義と君子之仕也、行其義也、とは同じ意味で、決して二意は無い、而して末に道之不行、已知之矣と結んだのは道が行はるれば出で仕へ、然らざれば隠れる、といふことの誤なることを説破したものである。然るに後代の支那の学者は、君子の仕ふるは己の道を行ふ為めである。此れが行其義の意味である、故に道行はれずば君臣の関係を絶つ、道行はるれば合すと見る、そうすると子路の語の冒頭に不仕無義といふことと撞着する。朱子の論語集註にも此の撞着がある、故に論語或問に、朱子の門人が朱子に先生の説では不仕無義と君子之仕也、行其義也とは撞着すと質問せるに、朱子は唯々自ら是れ一意と極めて曖昧に逃げて居る。荘子は始め儒者の道を学んだ人であるが、人間世篇に孔子の語として、子の父母を愛すると臣の君に事ふるとは天下の二大戒にして、天地の間に逃がるを得ず、と言つて居る。実によく孔子の旨を得た語である。後儒は義といふことを原来離れて別々なるものを合せて一とする原則と見る傾が多い、故に
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君臣は義を以て合し、義を以て離るといふことが言はれる。栄の学者は大義名分を論ずるに力を用ゐて居るが、君臣の義に於いては猶ほ孔子の旨を誤るものがある。蓋し支那民族の思想には、孔子の説かれた君臣の義が十分徹底しなかつたのである。此の点に於て我が邦の君臣の道は、真に孔子の説と一致することを見る。一統の世よりも君臣の関係が合離を以て多く説かるべき封建の世に於ける君臣の道には、反つて後代よりも親切忠厚なるものがある。礼によつて見ると臣は君の為めに至重の喪に服し、君は臣の喪に親ら臨みて哭し屍を撫す。士大夫は已むを得ずして国を去る場合には、祭器は決して国外に持ち去らぬ、此れは祭器は君より得たる田禄によつて作つた故であると説くのが普通であるが、自分は之に従はぬ。一方に臣が其の祖先の廟を残して行くので、君の方では歳時に人をして之を掃除させることと照らして考ふると、他日又再び還るといふ意味を以て祭器を遺して置くのである。又士大夫国を去ること三世、国家は其の位爵禄を保留して置く三世にして還らざる時に、始めて禄を削り爵を去るのである。然れば国を去つた人も、三世の間は他国に在つても決して其の国に仕へない客分として用ゐられることは許してあるが、真の出仕は為さぬ。三世経つても尚ほ本国に還へらぬ時に、初めて新国に仕へる。其の他喪服の関係に於ても、士大夫国を去つた後に、旧君の喪に服することになつて居る。然ればこそ国を去るにしても君臣の縁の絶たないやうに、表面から見れば去るべき理由が無いほどに見える時に去る。此れ古への人の進退が後人の様に義に照らして明瞭で無いことがあり、それが反へつて忠厚の意なる所以である。後の人のやうに、合せ物は離れ物といふ風で、事によりて直に君を捨てるやうな冷酷な軽薄なことは無かつたのである。封建時代の君臣関係と統一時代の君臣関係とは趣が違ふ訳で、一統郡県の世となりては、君臣の関係は更に重く厚く説かねばならぬのに、啻に君臣の関係を君民の関係と同じとまでに見る説が発達せざりしのみならず、孔子の説かれた君臣関係の本義すら明にし得ざりし者が多かつたことは、支那国性の然らしむるところならん孔子は人倫の根本を仁に置きたるに、後世は義といふことを八釜敷言ひ、随つて出処進退に関する態度が著しく自利的に傾いて来た、例へば一片忠厚の心より言へば、成敗利鈍を眼中に置かずして君の為めに尽くすが、後世の義より言ふと、事成るべからずと見て力を致すは自己の立ち場を誤ると考へる、此は義を君国に対する方より見ずに、自己に対する方より見るのであるが、此の見方は後世に多い。そこで自己を主張することになりて、仁とは背馳するに至る。此れ亦君臣の義を解釈するに影響し、仁を本とし義を以て節するのとは趣を異にするに至る。
 人倫に就いては、現時支那に於て非常に極端な説がある。原来革命派は、革命は三重なるべし、即ち国家革命・社会革命・家庭革命を仕遂げて革命の業始めて全し、と為す徒がある。孫文などは民族・民主民生所謂三民主義で、少し主張が違ふ。そこで三革命論者より言へば政治革命は民主共和国にあつたので已に実現された、今よりは社会革命と家庭革命とを行ふべしと論じて居る。政治革命で君臣の一倫は不
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用に帰した、家庭革命は、他の四倫に革命の鋒を向ける、即ち父子など言つて尊卑の分を立て服従の義務を一方に負はすのは不公平である陰陽尊卑唱和などいふ思想で差等の地位に立てたる夫婦の道も廃すべし、随つて兄弟の倫も廃すべし、人倫は朋友の一にて足る、朋友以外の倫は皆廃すべしといふのである。勿論革命主義者にも五倫悉く必要とする論もあるが、極端なる徒は一倫説を主張して居る。支那人は理を推して義の尽くに至る風があるから、極端説が或は勢力を得ぬとも限らない。実に驚くべき極端な話で、五倫が遂に一倫になつて仕舞ふといふことは、啻に孔子の教義に背くのみならず、世界人道の上から許すべからざることである。此様な極端なる倫理思想を成立させることは、吾人の許さざるところである、諸君も無論御同感と信ず。支那を誘導するの考を有する人は此処に注意を要す。
 猶ほ倫理の事及び儒教と社会事業との関係に就いて色々陳べ度事もあるが、時間の都合上暫く此れにて終りを告げます。

    井上博士の批評に対して       服部宇之吉
 唯今の井上博士の御説に対して、一寸簡単に御答したいと思ふ。私も孔子の天に関する思想は井上博士の御説と大体同じで、孔子が天の人格を認めなかつたといふのではない。人格を認めてはあるが、詩経に帝といふほどに人格の観念が著しくないと考へるのである。詩経などで帝と称するものに比すれば、幾らか自然といふ方の観念も加はつて居るので、人格観念が弱くなると思ふ。次に孔子の説と俗間の信仰とを区別すべしといふことは、前回に自分が陳べた要旨は其処にあつたので、其の意味は大分申した積りである。又漢儒の説を多く陳べたことに対する御批評に就いては、自分は漢儒の説は孔子の考と大分違ふと思ふ。漢儒の説は漢儒だけの考で、採るに足らぬものであると思ふ、然し漢学者には今猶ほ之を採るものがあるので、特に申したのである。倫理の方では、私はまだ申上げたいことが沢山ありますが、余り長くなるから略した。又天を理と為すことに就いては、仏教の関係からも論ずべきは勿論であるけれども、私は主として、支那思想から系統を考へて見た訳で、仏教の方との関係は、李翺の説を述べる時に仏者を雑へるといふことでヒントを与へて止めた訳である。又儒教の事に就いて、例へば儒教は古くより各種の社会事業を実行して居る、日本の学者は従来多くはそれを言はない、或は一概に仏教の影響と考へる人もあるが、儒教其れ自身に其の本が有るのである。さういふ訳で、仏教との関係より見ずに、支那思想の系統からも説かるゝものがあるので、天を理と為すことも、専ら支那思想の系統から説いたのである。

中島博士の質問に対して           服部宇之吉
 唯今の中島博士の御問に対しては、前回其の意味を十分申上げた積りである。儒教は礼といふものを、一方からは自然法とも見る、独り人間社会のみならず、宇宙が礼の組織とも見るほどであると申しましたのはそれである、簡単ではあつたが、意味は十分含んで居た積りで
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ある。

    服部博士の所説に対する感想     渋沢栄一
 私は所感を述べて見たいと思ふ。服部先生が前後二回に亘つて、儒教といふもの即ち孔子の教に就て段々委しくお述べになつた。私も耳新らしく拝聴して喜ばしく思ふ。種々お説きになつた中に、漢・唐・宋と代を経て、儒教が追々に緻密になつたと説かれたやうであるが、それは如何にも進歩といふて宜しからう。併し其の進歩の中に悪くすると真理を晦ましたと思ふ――服部先生の述べられたやうに、雲が月を晦ました形が有りはしないかと思ふ。孔子の教が宋儒に至つて其議論が頗る密になつて、却つて其の為めに本旨が晦まされたやうである甚しきは老仏虚無の説と混同して空理に趨り過ぎた、其の影響として日本に渡つて来た後には世俗日常の事務即ち算盤を取つて勘定する者抔には、行はれ得ざるが如くに感じられたのは、決して孔子の本旨ではなくて、後の門番なり取次なりが誤解して、阻碍するやうに為つたのであると思ふ。服部君の前後二回の御講演に見ても、それが明瞭に知り得たやうに思はれて、自分の考が確かまつたのである。
 最終に御述になつた、近頃支那では五倫が四倫滅して後の一倫が残つて居るといふやうな御説であつたが、私はさういふことになつたら天も暗くなるだらうと恐れるのである。若し此れから先き、其の一倫も愈々無用なものになるといふやうになつたならば、五倫・五常は全く亡滅して、世の中は暗黒になつて仕舞ふに相違なからうと思ふ。斯かる迷想が独り支那人のみならず、追々に我が帝国にも感染して来るやうな虞が無いとも言はれまいと思ふ。私共が此の如き協会を起し、新しい意見と古い意見とを此に交換して、帰一する所を求めたいと企てたのは、右等の邪説を闢いて而して人心を正道に帰せしめたい考からである。唯今の五倫が一倫になつたといふやうなお話は、孔孟に対する楊・墨以上の類と見做して宜からうと思ふ。私は帰一協会がよくこそ斯かる時代に成立して、斯く諸君が打寄つて、我が信ずる所の論旨を相討論批評して講究するといふことは、楊・墨を闢くといふ孟子の説にも優るといふて宜からうと思ふ。何うか此れから先きも、尚ほ協会の事業を益々進歩拡張して、是非混濁の人心を覚醒させたい。服部先生の御説に付て平素の愚見を益々強くしたから、一言喜を述べて陳謝致します。

    シドニー・ギューリック氏の意見
 私は服部博士の御講話を聴きまして、儒教のことが是までよりも一層委しく解つて来たやうな心持が致します。そして儒教の中には、私ども基督教を奉ずる者が賛成し得る点が多くあると共に、又儒教を奉ずる人が基督教の中に賛成し得る点を多く見出さるゝであらうと感ずるのであります。然かし私に取つて未だ充分明かになつて居ない一つの点は、儒教の中に、天若くは天帝に対する崇拝の念があるか、又実際その崇拝が行はれて居るか、此念がありこの実行があるとすれば、其の程度、其の性質は如何なるものであるかといふ事であります。基
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督教に於いて、神則ち天父に対して崇拝の念も又崇拝の実行も盛んであつて、之が神と人間との関係を密接ならしめ、従つて之が道徳上の原動力となつて居るわけであります。儒教が立派な倫理思想を有するに拘はらず振はないのは何故であらうか。基督教などの側からよくいふ所の事は、儒教には人心を活かす力に乏しい、何となく生命が抜けて居る、といふ事でありますが、之は果して本当であらうか。支那に於いては五倫が四倫となつた、これから先き段々減じて終には一倫となるであらうと聞きますが、何故に倫理上から見て立派な此教が其様に衰退するのであるか、我々の研究を要する問題であると存じます。基督教にも衰退と興隆との時代があつたから、儒教もこれから先き復興するかも知れない。故に妄りに批判することは出来ないが、私は目下のところ唯々東洋の教を聴けば聴くほど、東西両洋の聖人賢人又は智者の思想の中には、珍らしく符合して居る点があるといふ感じを表はして置きたいのであります。
        *
 以上前後二回に亘る服部氏の講演は、非常なる興味と、熱心とを以て傾聴せられたり、右に掲げたる批評・意見の外、諸氏の質問・意見等の概要を記すれば、即ち原田助氏の現今支那に行はる儒教は、孔子の改革を加へたるものあるや、との問に答へて、服部氏曰く、儒教に宗教的分子混化せられ、現在の支那に於ては、儒・仏・道三教併立の有様にして、倫理的方面は儒教、宇宙論には道教、形而上学には仏教の思想行はれつゝありと。又筧氏の、六天一天・五帝・大極等は如何に関係するや、と云ふに対しては、大極は一気にして、五天とは一の天の属性なり、天地と対し又地をすてゝ天と云はざれば、不可解なり而して五天等と云ふは対立せざる天に名つくるものにして、要するに之を大極と言ふ事を得べしとなし、又コーツ氏の、天を人格的に見るは不可なるや、との問に対して、或る場合には人格的に考へられたるも、亦然らざる場合もありて、明白ならずとなせり。
 尚ほ姉崎氏は、儒教はストア哲学と併行せるものゝ如く、ストア哲学のヌースと儒教の天とは同様なるにはあらざるか、と述べ、渋沢男は、儒教には祈祷の考なき事を説き、次で中島氏は、天に向つて求むる所なきは、孔子の人格の偉大にして、崇高なる所以なりとし、天に向つて求めざりしが故に、天を非人格的に見たる証明とは為し難きを述べ、最後に服部氏は、孔子の精神は要するに、人事を竭して天命を俟つと云ふの外に出でさることを説けり。


帰一協会会報 第弐・第九一―一一一頁大正二年七月 欧米旅行報告 成瀬仁蔵(DK460120k-0009)
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帰一協会会報 第弐・第九一―一一一頁大正二年七月
    欧米旅行報告
                      成瀬仁蔵
 私は昨年帰一協会を代表して欧米に出掛け、如何なる方針を以て此の帰一協会を各国に紹介したかといふことを一寸申上げます。
 私は一体教育の視察の為めに出掛けたのであるが、其の重なる目的に加へて、別に此の帰一協会の趣意を紹介し、且つ西洋諸国の人々は此の運動に就いて如何なる態度を執るか、その思想界は何う傾いて居
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るか、其の真相を充分見て来るやうにといふ諸君の御注意があつたから、私も今度彼地を廻る間に、聊かその為めに微力を尽くしたのである。出立する前に、十分諸君と御打合せをすることは出来なかつたけれども、前からの方針に依つて、帰一協会の主義・趣意等から如何なる程度に於て着手すべきか、諸君のお考は大体私も了解して居つた積りである。それで、其の範囲を超えないやうに注意をした。彼の地に在る間は時々是非諸君と御相談したい事もあつたけれども、遠方で及ばないことであり、又さうして居つては時機を失ふこともあり、私だけの考で、その時々に適宜の処置をしたのであつたが、帰つて見て諸君が私の取つた方法、私の彼の地に於ける行動を能く了解して下されたことは、私の大に喜ばしく感ずる所である。帰一協会員としての外に、私個人としての意見も同時に発表したのであるが、其の私個人の考と、帰一協会を代表して申した言葉とは明かに区別を立てゝ、これが混同しないやうに注意して置いた。又帰一協会の成り立や実力に就いて、余り彼地の人に買被らせないやうに、或は基督教に関係ある会ででもあるかの如き誤解を来さない様に、総て事を明瞭に叙して、それで、反対なら反対で宜しい、其の反対の意見を聞かう。一は研究の目的で行つたのであるから、其の辺の事に就いては十分に注意をして公平な態度を以て此方の意見を提出したのである。併し何分にも非常に時日が無かつたので、誤解はせしめないまでも、少くとも真相が徹底しない虞れが沢山有つた。私は夜は汽車にて、昼は自動車にて駆け廻るといふやうな訳で、特に英国では、クリスマス前後の休暇で人が居らぬから、格別に忙がしかつた。例へばサー・オリヴァー・ロッヂ博士に行つたのは夜九時過ぎであつて、突然逢つて其の話を出した。奥さんは食事の用意をしたからといふことであつたが、それも断つて駆け出した。それからリード大学の総長サドラール博士を訪ねた時などは、丁度クリスマスの朝であつて、八時前に行つて面会を求めた処が、博士は其の朝も会に出掛けるといふやうな訳で、非常に忙しいと見えて、先生は貴君は英国のクリスマスの習慣を知らないかと言はれた。イヤ十分知つては居るが、私はもつと重大なことを提出するのであるから許して呉れと言ふと、兎に角食事を共にしやうといふことであつたが、私は時間が三分より無いから、此れだけのことを聞いて貰いたいといつて、帰一協会の趣意を掻い摘んで話すと、分つたといふので、それでは之に対する貴君の意見を手紙に書いてくれといつて、飛んで帰つたといふやうな遣り方もしたのである。併し一方には又、数回会見を重て始めて署名した人々も少くない。それから紐育で愈々アメリカ帰一協会を設立するといふ最後の会のあつた時なども、マサチュセッツやシカゴ近辺の、所謂中部地方の人達をも、其の準備委員に加へなければならぬ筈であつたが、其処等へ相談する暇がなかつたので、色々と考へた末に、エリオット博士やバトラ博士其の他十余名の人だけを集めて会を結ぶといふやうな、さういふ断行もやつた。総てさういふ訳で、帰一協会の精神を徹底させることの出来なかつた虞れもあり、独断で極めたこともあつたりしたので、彼地の人々にも其の後手紙を以て弁解しなければならぬことも沢山有る。総てこれらの
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事は、時日が無かつた為めに余儀なくさうなつたのである。其の辺のことは事情御諒察を願ひたい次第である。
 もう一つ、私が彼地へ行つて、余り帰一協会のことのみを主張したやうに感ずる人もあらうが、実は私が今度の視察は、根本問題の視察であつて、即ち教育と宗教の動機問題に関するものであり、又帰一協会の趣意は、私は以前から教育の根本主義としてゐるところと全然同一である、枝葉問題に就いては議論もあるかも知れぬが、根本に就いては一である。それで今度の動機は勿論私個人の意志に存する。けれども自分の信ずるところでは私の意志は社会の意志である、広く云へば宇宙共通の意志から来てゐる。而して今後の日本の道徳を本当に進めやうとするには、今までのやうに知識を与へるのみではいかぬ、どうしても人格を進めるだけの根本的動力を盛んに振興せしめなければならぬ。此れは我が国家教育上又自分の修養上欠くべからざるものと信ずる。この主義は仮令一人の賛成者がなくとも私は主張して見たいと思ふ。それで今度でも、私の友人が亜米利加にあるから、それ等の人々に対して、必ず此の問題を提出する積りであつた。仮令帰一協会の使命が無くても、十分主張する積りであつた。それであるから、先づ其の人達が之れに就いて何ういふ意見を有つて居るか、その意見を交換して見て、賛成ならば、何ういふ主義を以て賛成するか、賛成する以上は其の成り立に就いて何れだけ貢献するのであるか、それを十分確めたいと思つたから、出立する時に一の帳面を求めて、加盟する人に其の理由と署名を、此の帳面に記して貰ふことにした。口で言つただけでは後に消えて仕舞つて分らなくなるから、斯ういふことにした。
 それで、私の廻つた順序をかい摘んでお話をすると、先づ一番最初に布哇に寄り、それから米本土へ渡つて、私の以前から知つて居るスタンフォード大学に行つて、ジョルダン博士を訪ねる前に、旧知のスカッダー博士にも逢つて賛成を得たが、此時は帳面を忘れて行つたので、博士の署名を得ることが出来なかつた。其の次に州立大学を訪ねたが、丁度夏休みの頃で総長が居らぬから、東洋部の部長をして居る人に逢つて話をした。其の人も其の計画に同情を表して、将来同盟して此の目的の為めに尽くさうといふことを約束した。此の時始めて帳面に其の人の意見を記し、且つ署名も得た。それからローサンゼルス辺を廻つてから、シカゴを中心として地方に出掛けた。此の前にスカッダー博士に逢つた時に、此の席に居らるゝギュリッキ博士の書簡、即ち博士が昨年帰一協会設立の当時贈られた手紙を見せて、帰一協会に対するアメリカ側の反響に就いて氏の意見を徴した。然るにスカッダー博士は、私は大賛成であるが、然し亜米利加全体の真意は未だ不明であるから、此の手紙を公にすることは問題である、恐らく面倒な問題を惹き起すかも知れぬといふことであつた。そこで私も、ギュリッキ氏に迷惑を掛けては不可ぬと思つたから、手紙を公にすることを差控へた。而してシカゴ大学へ行つて、第一にジャドソン総長に面会を求めて、先づ総長から始めた。総長は大変賛成だけれども、自分が卒先して発起人になるとか、他に紹介して賛成を求めるとかいふこと
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に就いては、速答は六かしい。一つ考へさして呉れといふことであつた。それから其処に神学の教授をして居るフォスター博士、此の人は自由思想を発表した為めに問題になつて、シカゴの牧師社会が大学に迫つて之を追出す運動をした、さういふことの有つた人で、其の人へも話をすると、期せずして相一致する処が有つて、早速評議員の一人になることの承諾を得た。このフォスター氏と話をして、もうアメリカ全体が余程自由思想に傾いて居ることが分つたので、私は今後其の積りで遠慮なく話をすることに極めた。それからジャドソン総長を再び訪問すると、今度は十分決心して、署名もし、又発起人の紹介状も書いて呉れた。其の外この部長などが皆同盟した。其の中で、特にボルトン博士は、先年軽井沢で逢つて、斯ういふ問題に就いて深く意見を交換した人であるが、此の人からも、アメリカの大勢が非常に変つたことを聞いた。十五年前には斯ういふ話をしても、迚も駄目であつたが、今では時機が丁度宜いといふことであつた。まだ其の外実業家学者にも逢ふたけれども、其の頃シカゴは非常な暑さで、私も宿屋に居溜らず、涼しい領事館へ逃げて行つた位で、余り人が居ない。そこで居るだけの人々に交渉して、若し雑誌などを出すことになれば、大学の出版部でしても宜いといふので、其処の部長が態々計画まで立てて見て呉れた。まづさういふ勢であつた。私は亜米利加に於ける帰一協会の中心は、シカゴかボストンか紐育か、此の三ケ所の中であらうと思ふ。其の次ぎにウヰスコンシン大学に行つて、第一に、先年私が東京でさういふ問題を話し合つたことのあるロッス教授を訪ふた。処がロッス氏は非常に喜んで、早速承諾して云はれたには、君が斯ういふ考を二年前に持つて来たならば、迚も亜米利加では成立が六かしかつた。然し今日は其の時機であるのみならず、寧ろ急務である。自分は出来るだけ心配をするといふことであつた。然らば君は創立幹事の一人となつて、此の成立に働く考が無いかと言つたら、喜んで働きたいと云うて、他の人々にも相談された。其の大学にはライシュといふ有力な哲学の教授が居る。此の人も熱心に賛同され、尚ほ総長のバンハイス氏も、斯う云ふ事は年来の主張である、特に之が斯ういふ運動に依つて現はれるといふことは、最も重大な事であるから、私の力の及ぶ丈けは尽くさう、といふことであつた。それから、斯ういふことを共に話したならば宜からうといふ人々を、晩餐に招集して呉れられた。其処で色々の相談をしたが、結局男子部長・女子部長を初め、皆皆賛成することになつた。それから次にはオハヨー州の方へ廻つて、州立の大学及び其処の、亜米利加全体の宗教家中に於いて元老ともいふべきグラッデンといふ名高い神学博士、又私のアンドヴァノに於ける同窓パトン博士、其の他知名の人々を訪ねた。其処でも州立大学総長初め皆な賛成であつた。特にパトン、グラッデンの両博士は、有力な学者・宗教家等を招いてくれて、そこで帰一協会の話をした。斯ういふ席上にギユリツキ博士の手紙を公にしたなら、総ての傾向が分るだらうと思つたから、其処で始めて此の手紙を一同に提出した。亜米利加の伝道師や基督教徒は、之れに対して何ういふやうに批評するかと思つて、其の手紙を読んだ。処が誰れもそれに異論が無い。のみな
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らず日本の此の重要なる運動の幹事中に、我々の友人の加はつて居ることは、非常な光栄とするといふことであつた。グラシデン博士などは意見を書いて署名した。其の次に行つたのはオハヨーのクリーヴランド、ウェスタンリザーヴ大学で、其処の総長ツウィングといふ人は世界の大学を研究して多くの著書もある有力な学者である。此の人は将来筆を以て貢献することの出来る人である。矢張り此の人も評議員の一人として、特に英文雑誌などの出来る時に、其の為めに尽すといふことを約束した。其次に行つた処はオベリン大学。ここでも滞留してゐる時間がなかつたので、総長キング博士が、着いた翌晩、私の丁度逢ひたい人々、神学・哲学の教授、其他斯ういふ方に興味を有つて居る人々を呼んで呉れられた。其の席で一遍に相談が纏まるやうになつて、キング総長も評議員として尽力する事を約束した。此処は最も宗教的の処である。後ちに此処の神学部長のボスウォーヅ教授の署名及び賛成の理由を見たニュー・ヨークのゼローム・グリーン氏は驚嘆して、氏の先祖は亜米利加ボードの創立者であつた事、並に其の先祖の言うた事蹟を引いて、往古のアメリカン・ミッションの精神を説明した。今日神学者やら宣教師等の帰一協会の主義主張に賛同し、心から協同する事の出来るやうになつた事は、実に注意すべきであるといつて、一層同情を表された。其の外、コーネル大学の名誉総長ホワイト博士を始め、今の代理総長クレーン博士、まだ其の外の教授も前の大学と同様な有様であつて、此の地ではこの代理総長、文学科長ハル博士及グリフス博士は評議員たることを快諾せられた。クラーク大学マウント・ホリヨーク大学・スミス大学・アンマハスト大学・ダートマス大学・ウェルスレー大学、其他の大学・団体等をも歴訪したが、何れも同様の状況で、非常に歓迎された。一体、前から日限をきいて約束して置いたので、紐育市は一寸、手を着けかけた儘にして、ボストンに行つたのであつたが、同市でも亦私の先生であつた人々も、殊に尤も保守的人物と思つた人々までも、非常に喜んで呉れた。特にボストンでは、学者の外実業家も相談に這入つて呉れた。斯ういふ忙しいと方面の異つた人が、皆評議員になつて、創立のことに骨折つてくれるといふことは、実に意外であつた。最初ボストンに行つた際には初め学校で話したけれども、此処の気運が果して賛成か反対か分らぬそこで先づ帰一協会の趣意を明かに説明して、別にもう一つ私の意見書を一同に見せることにした、さうして、私がエリオット博士を尋ねた時は、丁度避暑地より帰て混雑を極め、妻君は病気であつた、さういふ忙しい時に拘はらず、坐り込んで私の原稿を見て貰つたが、エリオット博士は親切に一々訂正して、テニヲハまでも直してくれて、且つ其の意見書に同意し、深き同情を表してくれられた。
 さういふ様なことで、先づ亜米利加の大勢が分つたが、之を永久の生命と力とにするには、一の結合体でも作らないと、折角の機運が後戻りする虞がある。それを作るに就いては創立指導者が必要である。即ち真に之を終生の業として尽瘁する人が必要である。私は斯う考へたので、先づエリオット博士に向つて、之を引受ける人は君を措いて外にないと思ふ、と言うて意向を尋ねた処が、喜んでやりたいが、年
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を取つて居るから外に適当な人を考へる様にとの事であつたから、然らば君は評議員として尽して貰ひたいといふと、喜んで承諾して、意見を帖面に書いてくれられた。而してボストン市の人士は、帰一協会の為め会合を催ほして呉れた。其の時エリオット博士も出席して、熱心なる賛成演説をされた。此の会合は実業家・学者等も大部出て来たこれらの人々は総て根本となるべき人であるから、私は非常に嬉しかつた。斯ふいふ亜米利加の熱情ある人が、不思議にも大部ボストンに居つたといふことは、何よりの幸と思つた。而してエリオット博士の骨折で、其処でも評議員が出来た。それから、紐育市に戻つて、大学其の他の学者、私の友達の実業家等に話をして、此処でも大に同情を表された。次はコロンビヤである。コロンビヤでは、デュエー、ギデイングス等の有力なる教授も、評議員たることを承諾せられた。そこで私は総長バトラー氏を訪ねて、貴国に於て此運動が此れまでに運んだのを、このまゝにして欧羅巴に廻ると、後が案じられるから、其の前に出来るなら、団体の成立を希望する。実は貴君の本を読んで見ると、私の年来の意見と符合する処が多い。今云つた様に、何かこの主義を発達さす形式が出来ないと本当に遺憾であるから、此の際是非君が立つて、その組織の中心になつてくれぬかといふことを言つた。それなら一日考へさせてくれといふ。処が翌日になつて手紙が来た。その手紙の旨意は、其れは大切のことと思ふが、此れはインターナショナル・コンシリエーションと云ふものと、目的・趣意が殆ど同一であるから、此れと共同して力を併せるといふことは何うであらう。此の方は合衆国だけでも七万の会員があり、仏蘭西でも男爵デストーネルド・コンスタンなどが大変骨を折つて居る云々といふのであつたが、私は折り返して左の返事を出した。
 拝復。陳者過日小生より提議致し置き候問題に対し、周到なる御考慮下され候御趣、忝けなく存候。且又帰一協会をして、仏国に於けるインターナシヨナル・コンシリエーションと聯結したる一運動たらしめては如何、との御親切なる御意見に対しても、慥かに諒知仕り候。
 さりながら小生は、若し帰一協会の目的を充分に実現せんが為めには、別にこれが独立の組織を要すと云ふ確信を抱き居り候。先づ第一に、該協会は単に平和運動のそれより以上に、更に多分なる精神的運動の性質を含み居り候。即ち所謂平和運動は主として、世界各国間に於ける政治的・経済的方面に参与致し居り候様愚考仕り候。之れに反して、帰一協会はもともと日本国民が西洋文明と接触するに至りてよりこのかた、漸く其の傾向著しく極端なる物質主義に対する調和策として、設立せられたるものに御座候。此の運動が目的とする其の第一は、今日まで日本に紹介せられたる数多き宗教教義の渾沌界に、一つの普遍的なる倫理的根柢を見出さんとするに有之候。此の要求が忽て其れ等宗教と宗教との相互理解を進めんとする計画の必要と相成り候。而して吾等は遂に、この運動は世界各人種の理想、各国民の確信の更に完全なる理解に依つて始めて大に進捗せらるべし、といふに想到いたし候。故に帰一協会運動は、各国民
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の道徳力を強大ならしむる事に最も重きを措き候。斯の如き運動は特に日本国民の進歩発達の上に重要なることに候は勿論、或は貴国に於ける商業主義に対する近時の攻撃非難に鑑み候ても、貴国民の為めにも、有力なる感化を有すべしと存じ候。之を要するに、帰一協会と所謂平和運動との区別は、唯だ一言を以て之をすれば、前者は主として其の物質的方面に参与候事に御座候。故に帰一協会は、必ずや、凡ての宗教的アスピレーションと各国民の特質との広く相理解さるゝ事を要し候。それなくしては決して、其の目的を達すること能はずと信じ候。斯く世界的にして又抱括的なる人生観・宗教観を打ち立てんが為めには、吾人に必要なる参考材料を広く世界に蒐集すべき筈のものに候。而して斯くの如き目的の為めには、帰一協会運動は須らく同一目的を抱いて、あらゆる国民に依りて、あらゆる国々に奨励せらるゝを可とすべきに候。これ即ち小生が該会の組織を、貴国に於ける識者の前に敢て提議する所以に御座候。然るに小生も早や来る十一月の末には、貴国を去らざるべからざる事情に相成り居り候に就き、出来得可んば、速かに何等かの形式に此の運動を組織せんことを希望するものに候。就いては小生は、貴下とエリオット博士とが、其の組織の首唱者として適任ならんと信じ候といふは実は、斯くの如き首唱者なくしては、折角、この運動に賛同と同情とを表せられたる人々も、実際其の運動の設立に対する希望を実現する力の集中点なきに苦しまるゝ事と推察仕り候云々。
 今日亜米利加に於ける此の運動の着手に就いて、最も大切なる問題は、其の首唱者を見出す事に御座候。而して小生は此の問題を、ここに再び、貴下に呈し、貴下の御熟考を煩はし度く候。猶ほ至急此の件について談合する機を与へられんことを併せて希望致候。謹言
 さうして、其の手紙の届く頃に行つてみて、手紙を見たかと聞いてみると、君の意味は能く分つた。米国にも帰一協会の組織せらるゝ事を望むとの事であつた。そこで前に諸君に一寸御報告申上た様に、エリオット博士・バトラー総長、其の他の有力なる人々に由て米国帰一協会が組織せらるるに至つたのである。愈々ハーヴァード大学・コロンビヤ大学の中心人物を基と致して、ニューヨークに本部が成立することに運んだから、今度は気にかゝつて居たエール大学へ駆けつけて総長ハッドレー博士を訪ねた。同博士は、其の目的・趣意、其の事業は賛成であるし、又自分も出来るだけは尽したいが、実際に此の運動に参加することは、愈々これが成立つて、結果が現はれる時になつてからにしやうといふことであつた。日本の事情に精通して居るラッド博士は、早速賛成して評議員の一人にもなつてくれたのである。このエール大学を後廻しにしたのは、自分にも不本意であつたのであるが何分時の足らない為めに止むを得なかつたのである。或は之が為めにエールの諸氏に対して敬意を欠いだやうに当るかもしれぬが、併し後で段々分つてくれるであらうと思つて、独断ながらさういふ処置をした。それから人に就ては余程注意して撰択した積りであるけれども、それにも勿論批評はあることであらうと思ふ。
 それから極く簡単に申あげますが、次は欧羅巴の方である。実は欧
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羅巴、特に英国は、保守的の国であるから、亜米利加の如くに運ぶことは六つかしからう、と私は考へて居た。珍田大使も、欧羅巴は事情が違ふから、亜米利加程に感じがないかも知れぬと言つて居られた。ところが英国に往つてみると、その表面、又其の実行の態度は如何にも着実であるけれども、その精神界は決して、停滞しては居らぬ。殊に学者社会は概して旧来の信仰に満足せず、新らしい根柢、新らしい輿論を要望して居るやうである。私の滞在の時日は僅々一ケ月と三日であつたから、到底十分な研究は出来なかつたけれども、私の訪問面接した各大学、其の他主な学校の教授達の意見は、大抵吾れ吾れの考へと一致して、世界人類の精神は結局一に帰すべき筈のものである、新らしい信仰・道徳・教育は、その結局の一致点から出発しなければならぬといふ点に於て、殆ど異論はなかつたのである。
 で、私の訪問した学校は、ロンドン、ケンブリッヂ、オックスフォード、エデンボロー、グラスゴー、リード、バーミンガム、カーデフ等の各大学、及びイートン、ハーロー等の諸学校で、直接に面会し、又は書面で意見を交換した人は教授・宗教家・記者・実業家等を合せて四十余名に達して居る。其の中左の十六名の人々は、英国帰一協会創立の暁には、その評議員たることを承諾せられたのである。その人名は
 シドニー・ボール氏(オックスフォード、セント・ジョンス・カレッヂ)
 ブラウン博士(エデンバラー大学)
 カーペンター博士(オックスフォード、マンチェスター・カレッヂ)
 クラーク博士(エデンバラー大学)
 ヘンリー・ダイヤー博士(グラスゴー市)
 ガーヴィ博士(ロンドン、ハンプステイト・ニュー・カレッヂ)
 ミス・ヒューズ(カーデフ大学評議員)
 ジャクス博士(オックスフォード、マンチェスター・カレッヂ教授及びヒッバート・ジョーナル主筆)
 オリバー・ロッヂ博士(バーミンガム大学長)
 マッケンヂー博士(カーデフ大学)
 モールトン博士(マンチェスター大学)
 ミューアヘッド博士(バーミンガム大学)
 バートン博士(マンチェスター大学)
 サドラー博士(リード大学)
 ゼームス・シーズ氏(エデンバラ市、実業家)
 シャンド氏(ロンドン市、実業家)
 孰れも英国第一流の学者・教育家・実業家であつて、彼の国の社会に重きをなしてゐる人々である。その中で、ロッヂ、マッケンヂー、ミュアーヘッド、カーペンター諸博士は、我国の学界にも名を知られてゐる人々である。が、マッケンヂー博士は殊に最も熱心にこの事に賛成をされて、種々斡旋の労を取つてくれた。而して幹事となつて、我が国及び米国の帰一協会との交渉には専ら、同博士が当られる筈である。ロッヂ博士も亦非常に熱心に賛同されて、英国にも是非この団
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体を組織して、東西相呼応して人類精神の統一的発展に貢献したいと話された。で、将来愈々協会の組織される場合には、ロッヂ博士を中心として、他の十五名が之を輔けて、斡旋されるやうな運びになるであらうと思ふ。
 次に仏蘭西に入つて、先づパリー大学のベルグソン博士に会つた。やはり熱心に賛同されて、その成功を望む旨を書いてくれた。同大学総長リアール氏、及びその他の諸教授達も、ベルグソンと同意であるといつて、賛同の意見を発表されたのである。次に米国のバトラー博士の提議された彼の男爵デストーネル・ド・コンスタン氏を訪ふた。氏は既に述べた通り、熱心なるインターナショナル・コンシリエーションの会長で、種々社会救済事業にも尽力して居り、現に、上院議員をやつてゐるのであるが、之も熱心に賛成をしてくれた。それから、嘗て日本の海軍に招聘されて長く日本に居て、今は巴里博士会院の一員で、日仏協会長の任に当つて居るベルタン氏、アンリ四世学院教授ガルニエ氏、女子高等師範学校長ベルゴン嬢等にも面接して、皆同様賛成を得たのである。御承知の通り、仏蘭西では、宗教と教育とを分離した結果、教育は、既成の宗教宗派以外に精神的根抵を求めなければならない事情になつてゐる。この点に就いて、リアール氏などは大に研究されてゐたので、この帰一協会の主旨には、早速同意を表し、教育問題に関する自分の著述を私にくれたのである。又女子高等師範学校のベルゴン嬢なども、同様の意見を持つて居られて、種々精しい話もあつた。一般にさういふ具合であつて、殊に、かゝる運動が日本から起されたといふことに、深い同情と興味とをもつて、歓迎してくれたのであるから、時間が無い為めに、十分熟議してゐることが出来なかつたけれども、将来何等かの形式に依つて、相提携してこの事業をやるやうになる望みは十分あるのである。
 其の次には独逸である。此の国は申すまでもなく、世界に名を馳せてゐる碩学の多数居る国であるが、大抵有名な人には会ふことが出来た。先づ彼のエーナ大学のオイケン博士は、もはや、老境に入つてゐるにも拘らず、その学者的意気の盛なること驚くべきものであるが、帰一協会の主旨には全然賛成を表し、種々有益なる注意をも与へてくれたのである。同大学のヘッケル博士は、今は八十有余の高齢に達しもはや教鞭を振ふの労には堪へられないのであるが、なほ助手を督して、孜々研究を続けて居られる。老年のために、私は快く面会を承諾せられ、種々懇切な待遇を与へられた。而して私が帰一協会の主旨を述べたに対し、鉛筆をもつて、図形をこしらへながら、学説ではオイケン博士と、正に相反する両極に立つてゐることを語り、而もこの帰一協会の旨意に就ては、オイケン博士と全然同意見であると言はれた同教授ライン博士、宗教学者として知られて居るベルリン大学ハルナック博士、ライプチヒ大学のヴント博士、エネルギー学者のオストワルド博士、史学の大家ランプレヒト博士、其の外の学者・教育家・宗教家だちにも会つて、一々賛同されたのである。概して言へば、独逸では、各大学・各学者が皆自家にオーソリチーを持つてゐるので、彼等相互に、又従つて外国と容易に協同一致して或る運動を起すといふ
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やうな気運にはならない。彼の平和運動なども、独逸ではあまり受け容れられてゐないのである。併し、この帰一協会の主旨は、全世界的終局的の根本の問題で、物質の交換でなく、寧ろ人格の交換である点は、余程彼等の賛同を強め得た点であつたやうである。又医学・哲学其の他の学芸に就いては、何等東洋から得るところはないが、儒教等の研究に於ては、日本の学者の助力に待たなければならないところが多々あると考へてゐるやうであつた。さういふやうなところから端緒が開けて、将来この独逸の学者・教育家等と協同運動を為すやうになる望みは、十分あると感じて居たのである。殊に、エーナ大学に於ては、米国に於けるエリオット博士、英国に於けるロッヂ博士に委嘱した様なことを、オイケン教授にも依頼することが出来るであらうといふことを思うた。少壮神学者として名声を出して来たヷイネル博士などは、吾々にこの運動団体の組織を始めよといふ意味かと問うた位でこゝで此のヷイネル博士を幹事に頼めば、オイケンや、ヘッケル其の他の先輩も居るのであるから、一つの組織が成り立たないとも限るまいと考へられたのであるが、独逸学界の事情は前にも云うた通りで、他にも幾多の重要な大学があるのに、未だ事情に通じて居ない私が軽卒に、さういふ処置をするもどうかと思うてさし控へたのである。兎に角、右のやうなわけであるから、尚ほ十分研究して、骨を折つたならば、独逸にも一つのまとまつた団体が出来て、日本とも亦他の各国とも協同一致の運動をするやうな気運になつてくるであらうと、私には思はれたのである。
 其の他ブラッセルの万国中央協会の創始者オトレー氏の如き、ローマの世界理想市計画者アンデルセン氏の如きは、重要なる賛同者で、将来はこの人々を中心として、その各地に此の運動を起すことが出来る積りである。又魯西亜にも希望は有つたのであるが、最早や予定の時が来た為めに、不本意ながら、それだけにして帰つたのである。
 大体まづ右に述べたやうな有様であつて、甚だ有望であるが、何分十分に研究し、熟議をして居る暇がなくて、匆々に帰つて来たわけであるから、気が付かなかつたことは勿論、気の付いたところでも脱漏が多かつたのである。それで続いて誰かまたこちらから人が往つて、この運びをつける必要があることと思ふ。(完)


帰一協会会報 第弐・第一一三―一一五頁大正二年七月 米国帰一協会の設立(DK460120k-0010)
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