デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.498-509(DK460129k) ページ画像

大正3年3月21日(1914年)

是日栄一、上野精養軒ニ於ケル当協会例会ニ出席シ、「道徳と経済との関係如何」「道徳は果して進歩せしや」「教育の効果如何」等ノ質問ヲ研究課題トシテ提出シ、其提案理由ヲ説明ス。


■資料

帰一協会記事 一(DK460129k-0001)
第46巻 p.498-499 ページ画像

帰一協会記事 一                (竹園賢了氏所蔵)
    三月例会
二十一日○大正三年三月 午後五時上野精養軒に於て開会。五時半先づ渋沢男爵の講演あり、男爵は寧ろ質問を提出せんとて左の三条を述べらる。
 一、経済と道徳とは一致するや
 二、道徳現象のみは何故に是進歩遅れたるや
 三、教育は果して何程迄人の性格を改善し得るや
次いで鎌田栄吉氏の講演あり、西洋諸国の漫遊中に於ける見聞を基礎として諸宗教は終に一に帰すべき者ならん乎と論ぜらる。
午後七時食堂を開きて会食す。卓上服部幹事より二・三の報告あり、且新入会員ペツドレー氏及井上雅二氏の紹介ありき。猶会食前、当夜
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の来賓たる米国インデアナ大学万国公法教授たるハーシー博士・英国友会派遣員ブラウン氏及び日本友会教師ボールス氏の紹介もありき。渋沢男爵は会を代表して来賓に対する謝辞を述べらる。其要は、英国及び米国よりの賓客を有する事は会の性質上よりして国際的なる我会の最光栄とする所也といふにありき。宮岡氏通訳せらる。
会食終るや別室に移りて先づ両来賓の挨拶ありき。
ハーシー博士先づ曰く
 余はカーン氏基金に依つて来れる一研究者にして何等諸氏の前に講演すべき者を有せず、日本が西洋を解せるに比して西洋は殆ど日本を解せず、米国に於ても既に帰一協会起れるが故に、此迄に於て吾人は諸君と提携せん事を望む
ブラウン氏曰く
 先刻渋沢氏及鎌田氏は種々興味深き講演を試みられたるが如し、渋沢氏の経済と道徳との関係問題については、英国に於ても大に論議せらるゝ問題也、余は英国フレンド協会に属す、此派の特徴は絶対に戦争を否認するに在り。余は此派の用務を帯びて濠州に赴き更に日本に来れり
斯くて右ブラウン氏・渋沢男爵・ボールス氏・菊池男爵其他諸氏の間に種々交談あり、更に井上博士・中島博士等の渋沢男及鎌田氏の講演に対する批評あり、談論大に花咲きたれども十時を過ぎたるが故に遺憾ながら散会せり。当日の来会者左の如し。
 浮田和民氏   吉川男爵
 井上雅二氏   渋沢男爵
 菊池男爵    服部宇之吉氏
 塩沢昌貞氏   馬場恒吾氏
 一戸兵衛氏   中島力造氏
 井上哲次郎氏  筧克彦氏
 頭本元貞氏   宮岡恒次郎氏
 石橋甫氏    五島清太郎氏
 山内繁雄氏   成瀬仁蔵氏
 五代竜作氏   鎌田栄吉氏
 ペツドレー氏  コーツ氏
 矢野茂氏    信夫淳平氏
外に来賓
 ハーシー博士(Dr. Hershay)
 ブラウン氏 (Mr. Brown)
 ボールス氏 (Mr. Bowles)
猶当日の評議員会に於て
  井上雅二氏を会員とする事に可決
猶左の両氏の入会申込ありたり
  郷隆三郎氏(渋沢・森村両氏紹介)
  成田勝郎氏(石橋・塩沢両氏紹介)
   ○ブラウンニ就イテハ本資料第三十五巻所収「大日本平和協会」大正三年四月十八日ノ条参照。
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帰一協会会報 第六号・第一―二三頁大正四年一一月 経済・道徳及び教育に関する疑問 渋沢栄一(DK460129k-0002)
第46巻 p.500-509 ページ画像

帰一協会会報 第六号・第一―二三頁大正四年一一月
    経済・道徳及び教育に関する疑問
                      渋沢栄一
 斯かる博学なる諸先生の会合に於て講演といふやうなことは、私には甚だ為し難いのであるけれども、本会を開いて以来、毎会成るべく出席致しまして、諸君の高説を伺ひますと、自身にも、段々啓発する所があるやうに思ひます。併しながら、本会の目的たる帰一といふことは追々は這入つて行くであらうと思ひますけれども、希望する所の大きいだけに、何処まで行つて真に帰一を見るのであるか、果して帰一することが出来るのであるか、又どうして帰一するか、私自身にも能く分らないのであるが、恐らく諸君にも、結果は此に至るであらうといふことは、今日御判断を為し能はざることであらうと思ふ。但し各自の想像中には、種々の方面から帰一を求め、所謂、分け登る麓の路は多けれど、同じ高嶺の月を見るらむといふことだけは、諸君が各方面から、色々お考へになつて居るであらうと思ふのであります。私は特に専門の学問を修めたとか、或は学説を研究したとかいふことが御座いませぬから、意見といふ程のものを申上げる知識も御座いませぬ。併しながら、此に二つ三つ、私の心の中で安心をし兼ねることがあります。それ等に就いて、此に問題を提出致しまして、諸君の御説明を求め、所謂一に帰せしめたいと思ふのであります。但し、帰一を図るといふことは、単に私の提出する問題ばかりでなく、まだまだ大きな題案のあることは、申すまでも無いのでありますけれども、併し大なる帰一を求めるには小なるものゝ講究を必要とするであらうと思ふ。故に私が此に提出する問題は、私自身の一の意見として、諸君の高評を伺ひたいといふに過ぎませぬから、甚だ浅薄且つ杜撰なことを申上げるのであります。其辺は御諒恕を願ひます。唯だ私は浅学ではありますが、凡そ意見を提出致しますには、前以て種々取調べも致し度と、先月以来考案を立てゝ見たのでありますけれども、日々雑務多忙にして書物を読んで居る暇も無く、又深く研究すべき材料を貯へても居りませぬから、言はゞ平日思ふて居ることに就いて、申上げるに過ぎないのであります。何卒諸君の御宥恕を願ひます。私の玆に提出する問題は
 第一仁義道徳といふものと生産殖利といふものとは全然一致すべきものなる乎。
 第二道徳といふものは他の科学の進化する如く世の文明に伴ふて進化すべき乎。
 第三教育修養は其本質までも変化し得るものなる乎。斯ういふ三つの意見であります。此三点を諸君に十分に御論究して戴きたいのであります。先づ第一より愚見を陳べて見やうと思ひますが、元来私は僅に孔子の教即ち論語の一端を読んで、それに依つて居るだけしか申上げられませぬ、和漢洋を通じた深い学問は勿論致したことが御座いませぬので、甚だ此の如き学問の淵藪たる諸大家の会合の場所に於て、学説といふやうなことを申上げるのは、困難でありますけれども、仮
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令学ぶことは浅薄であつても、多少自得する所が無いではありませぬ私の信ずる所によると、孔子の教といふものが、後世に至りて孔子の意志に反して、段々に生産殖利に離れて仕舞つて、仁義道徳といふことの講究には生産殖利に離れねばならぬといふ様に堅苦しく信じて居りますけれども、さうではなくて、両者相俟つて進むべき教であるやうに私は解釈します。併し支那でも漢唐宋以下の学問の有様が、余り孔子の教旨を尊重した為めか、其解釈高尚に失し、殊に宋末の学者の仁義道徳を説くことは、頗る高遠に趨り虚無に陥り、即ち日常のものには当て嵌まらない位であります。随つて日本に伝はつて来た孔子教も其の影響を受けて利得のことは余り説きませぬ。もし利得のことを考へれば、仁義道徳に大害があると一般に信じられて居つたのが、一般の風でありました。旧幕時代に流行した「売り家と唐様で書く三代目」といふ川柳は即ち其の意味を穿つたものであると思ふ。都会の立派な大店などで、主人も番頭も丁稚子供に至るまで漢学を修めること即ち四角な文字を読むといふことをひどく厳禁したのも、漢学は必ず生産殖利に害を与へると盲信したからである。斯ういふ教旨が世間を風靡して士分以上の教にこそ仁義道徳を説いたけれども、商工業者の学ぶ所は、仁義道徳などゝいはずに、唯だ一身の利益を図り、人を統御するとか、国家を治むるとかいふことは、我々の本分ではないといふ考を固執して居つたのが、維新以前に於ける一般の風潮でありました。曾て物徂徠の語と聞いて居りますが、道とは士大夫のものにして農工商賈の関係すべきに非ずといふことが、何かの書にありました。従前の教は総てさういふ風であつて、農工商の中でも、特に商業は、別して仁義道徳に縁の遠いものと思はれ、孔子の教などは、其の間に介在すべきものではないといふのが、其仲間の風習でありました。故に今日は教育方法がすつかり変つても、一般の有様が其の風習を持続して居るやうに見受けられる。一寸立派な豪商連が寄合ひましても、相共に近頃は儲からぬとか利益が薄いといふやうな、自己の慾許りを申すやうな状態であります。是れは其豪商等が、我々には商売以外のことは分らぬと、自分を卑下する気味もあります。けれども、国家は何に拠りて生存するかと問はゞ、必ず一般に富みの力に頼らなければなりませぬと答へるに相違ない。其の富殖の事業に従事する人が、仮令自己の為めに働くとは云へ、其の結果国家に貢献する所あるは、他の官吏・学者・軍人等と少しも違ふ所はありませぬ。然るに商工業者は、他人の前に恥づるが如き有様を以て、儲けが少くて困るとか、斯うすれば利得が減ずるとかいふやうなこと許り申す風習が、今日も猶ほ伝はつて居るのは、如何に西洋の教育が進んでも、因襲の久しき中中改まらないものと見えます。蓋し斯の如きことは、古い時から、西洋にもあつたやうに聞いて居ります。さうして見れば、日本許りではなく、宇内諸国でも、文明の進まぬ世の中にはさういふ有様は免れないのかと思はれる。是等の点に就いて先づ諸君の教を請ひたいと思ふのであります。
 此れは私が翻訳書に見たのでありますが、西洋でも昔は商売を罪悪の如くに見た人もある。希臘のアリストートルの言葉に、総ての商業
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は罪悪の源泉なり、といつて居ります。昔時も利を図るといふことが罪悪を意味して居る為めに、学者がさういふ見解を下したものと思ふのであります。蓋し利を図るといふことは、他の各種の事業と全く同じことであつて、軍人が戦争に出て兵を指揮するのでも、学者が書物を研究して人に之を理解せしめるのでも、商売人が有無を相通じて、其の間に相当の利益を収めるのでも、何の違ふ所が無いやうに思はれる。けれども、利を図るといふことに就いては、兎角目的の為めに手段を択ばないといふ弊害が、他に比較して著しく多いのが、海の東西を問はず、時の古今を論せず、殆んど一轍であります。故に道理から言へば、官吏も軍人も学者も、商売と何の択ぶ所がないのであるけれども、唯だ其の弊害が商売の方に甚しい為めに、之を矯める目的よりして、成るたけ仁義道徳を論ずる時は利得といふものに離れるやうな風になつて、終に其処に大溝渠を生ずることになつたのではないかと思ふ。仏教とか耶蘇教とかいふものに就いて、印度・欧羅巴の実例は私には分らないが、孔子教に就いて、能く審思熟考して見ると、孔夫子の意志は決してさうではないやうである。例へば、論語・大学等の経書の中にも屡々仁義と殖利の事を説いてある、殊に仁といふ字に向つて孔夫子の解釈を下したのは、多く生産殖利に関した方面であります。多分論語雍也篇であつたと思ふが、博く民に施して能く衆を済ふことを仁と謂ふべきかといふ子貢の問に対して、孔子は何ぞ仁を事とせん、必ずや聖乎、尭舜もそれ猶ほ病むといふ答をして、仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す、能く近く譬を取る、仁の方と謂ふべきなりと更に仁の字の講釈をしたのは、生産殖利を悪い意味に解釈したのではなくして、仁の字を治国済民の基として説かれたのであります。如何となれば、博く民に施して能く衆を済ふには、生産殖利に非ずして出来得べき筈がない。唯だ孔子の教は富と貴きは人の欲する所なるも、其の道を以てせずして之を得るは、処らざるなりといつて、深く不義の富貴を誡めて居られるのである。蓋し富といふものに対しては、矢張り誰も望むが如くに、同じく求めて宜い、唯だ其の道を以てせずして求めるのが悪い、と誡められたのであります。斯様に孔夫子が正当の富貴を認許せられた例は、まだ幾らもありますが、一・二私の記憶して居る所だけを挙げたのである。故に私の見る所では、孔夫子の教は、仁義道徳と生産殖利とは、必ず一致するものと教えられて居ると思ふ。それが後世に至りて、相容れざるものゝやうに説かれ、我邦に伝来しても全く差別するやうになつたといふことは、其の原因が余程久しいものと思ふ。然れば吾々は如何にして之を矯正し得るか、此の点に付て余程考へなければならぬと思ふ。
 とは言ふものゝ、富を進める場合に、必ず罪悪を伴はないとは云はれない。文明の世の中になつたといつても、或場合には、富と罪悪とが並行するといふことは、時々耳に入るやうであります。然らば富を為すには、仁義道徳のみでは出来ぬものといふならば、孔夫子の教旨が根本から間違つて居る訳になります。蓋し富を為すに罪悪の伴ふのは、人生の弱点であつて、アリストートルの言の如く、商業は罪悪の
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源泉なりといふも、或る時代には、寧ろ当然の理と思ふたかも知れぬ併し、私の見る所では、それは真正なる教旨の普及せざる為めであつて、仁義道徳が完全なる富を為すの本であるといふ真理の広く世間に徹底しない結果であると思はれる。故に私の思ふのが、果してさうであるか、或は真理と思ふ方が寧ろ間違ひであつて、私自身が、仁義道徳といふことを充分に自覚しないのであらうか、諸君の御承知の通り私は明治六年に官途を去つてから、四十年間、専心一意富を為す方に従事して居ります。其の間、常に此事を思つて、仁義道徳と生産殖利との関係に就いて、深く考慮を費して居るのであります。果してそれが一致するものであるか、此の際に於て、十分諸君の高説を伺つて見たいので、今日此にこの問題を提出したのであります。
 斯る場合に、自分の経歴をお話するのは、問題外でありますけれども、私が農民より浪人の境涯を送つて、それから一時一ツ橋と幕府とに仕へ、後ち偶然欧羅巴に遊びて、彼地で初めて商工業の力の強い有様を、仮令言語は通じなくとも、目に触れたのであるから、其眼に映じて心を刺戟した事が非常に強かつた。其際に幕府は倒れて仕舞つたから、最早官途の念を絶つて最初の身分に甘んずることに決心し、それに就ては、富を増進するといふことが、欧羅巴の例を見ても大切であるから、国家の為めに此事に従事して見たならば宜からうといふ観念を起した。これが当時の境遇上、私をして政府以外に立ちて実業界に力を尽させた訳であります。其の時に当りてどうかして、幼時から多少経学を修めて居つたゆへ、仁義道徳といふものが人の最も大切なものであるから、此道に違はずして世の中に立ちたい。併し生産事業に一身を投ずる以上は、専心経書を講究する暇もない。心の標準をどうしたら宜からうか。一知半解の論語であるけれども、先づ此の書に頼つたなら、過失少く立て通せるだらうと思つたから、爾来暇があれば論語を読んで、処事接物、総て論語に基くことを期して居つたのであります。自分の力が弱い為めに、所期の十分一も実行は出来ないのでありますけれども、覚悟だけは常に此処にあつたのである。但私の経営した生産殖利に付ては、他の大なる富を為した人々に較べると、甚だ微々たるものであるけれども、実業上百般の事物に対しては、他人が多く私を信用して呉れて、貴下が責任者となつて呉れるなら安心だといつて呉れるのであります。果して然らば、微力ながら自分の富は微々たりとも、国家の為めに力を尽すといふことが、相当に出来得たかと思ふと、頗る此の境遇に満足して、是れで足れりと思ふて安心して、仁義道徳と生産殖利とが全く一致して居るものと確信して居ります。さらば、自分の懇親にする一般が、皆其の通りであるかといふと、どうもさうまでには言へない点があるかと思はれる。果して事実さうであるならば是は何ぞ教育とか一般の風潮とかに欠点があるのではなからうか、但し、斯く思ふ己れが間違つて居るのであらうかといふ疑が生ずるのであります。故に仁義道徳と生産殖利とに就て、全く一致するのが真理であつて、其の真理に踏み迷ふのは、斯る処に過誤があるのであるとか、又はさうでないとか、諸君の教に依つて、十分明かにしたいのであります。此れが自分の仁義道徳と生産殖利とに関
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する愚見であります。決して断定的に私の意見を申上げるのではなくして、疑があるから、それを解いて頂きたいといふのが、私の本意であります。どうか諸君の御批評のみならず、それは斯うしたら宜からうとか、それは斯うならなくてはならぬとか、詳しい御意見を請ふのであります。
 第二に申上げたいのは、道徳の進化といふ問題であります。一体、私の考へる処では、総じて事物は進めば進む程、良くなるのが普通の理であらうと思ふ。殊に科学的の事柄は、別して左様に見受けられます。果して総ての事物が、形而上又は形而下に拘はらず、改良進化するものであらうか。私は曾て丘浅次郎博士の進化論を読んだことがあります。百般生物の進化が斯様に系統的に進んで行くといふことを、了解し易く書いてありました。私は十分それを研究する知識を有つて居ないが、併し世の事物が、年と共に順々に進んで行くことは相違ないことゝ思ふ。果して然らば、形而上の道徳といふものも、左様に進んで往きて、社会が改良するに随て良くなるものであらうか、或は又其中に特例を生ずることもあらうか。極く卑近な例を挙ぐれば、支那の通俗教育に二十四孝といふて、二十四人の孝行者の伝記がある。其中には、王祥が氷の上に在りて鯉魚を捕ふとか、孟宗が雪中に筍を掘るとか、郭巨が親を養ふ為に其子を生埋にせむとしたるが如きは、今日文明の進歩した世の中でも、それが果して適当だといはれようか。孝行の道は外に幾らもあるといふことになりはしまいかと思ふ。さうすると、道徳といふものも、世が進み文明が向上するに随つて、更に良い方に進化しさうなものであるが、どうも道徳の進化は、他の生物の進化と同様に行かないのは、どういふものであるか。但しは果して同様に進化して居るのか、これも私が大に疑を置て居る点であります殊に前に申上げた生産殖利の事柄が、漸々に仁義道徳に一致するものとすれば、格別疑ふべきにあらざるも、個人個人の間に於ては、富の増す程猶ほ道徳との衝突を生ずることは珍しくない。況んや国際上に於ては、仁義道徳と生産殖利とは全く反対にして、常に国際上の生産には道徳を無視して居るやうに見受けられる。自国の利益の為めには他国を害するを意とせぬといふ有様は、如何に文明が進んでも、一向改まらないやうに思ふ。尤も近頃は、これに対する改良方法が追々に講究せられつゝあるけれども、安全の道がまだ講ぜられないやうに思はれる。個人個人の間でも、道徳がまだ十分進化したとはいはれないやうに思ふが、併しそれは、前に申した仁義道徳と生産殖利とが一致するやうになれば、終には如上の所まで進化するといひ得るかも知れぬ。去りながら前にも陳べた国際関係にあつては、何分真の道徳を認められない。我が利を図るといふことは、他の不利益を図ると同じ働きをするやうに思はれる。此れは世の文明が進めば進む程、進化するとはいはれない様に思はれる。尤も近来平和会議などがあつて、現に平和協会も各国に成立つて居ります。果して会の目的通りに行つたならば国際上の道徳も他と同じく進化するといひ得るけれども、果して近き将来に此理想が事実に表現せられようとは、私の眼から見ると、甚だ疑はしいやうに思はれる。而して個人の間に行はれる所の道徳も
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二千五百年前に孔孟の説いた道徳よりは、世の進歩と共に進化したとはどうも見受けられない。或は寧ろ退化したやうに思はれる点もある現在商業道徳、即ち商売上の徳義でも、維新以来四十余年の歳月を経ても、甚だ進んだとはいはれないやうである。これは如何なる訳であるか、他の科学的事物が駸々として進んで往くに拘はらず、此の点のみは聊も進化せず、寧ろ退却したと言ひたい位であるとすると、是は何の理由であるか。私は之を解釈しかねて居るのであります。
 全体、道徳といふものは、人の性情に属するもので、他の科学のやうに、研鑽窮理がつんで、それによつて明かになるものとは違ふのであるといひ得るや。果して然らば、洵に已むを得ないけれども、総ての事物が進む程、道理も明かになるものとするならば、道徳の進化も少しは其形跡があるべきものではなからうか。但しは他の事物と同じく論じ得られない性質のものであるか。此の点に就いても、諸君の御高説を伺ひたいと思ふのであります。
 更にもう一つ申上げたいのは第三の問題である。是は私だけが思ふので果して自身能く此の疑問を明瞭に説明し得るか、其の説明さへ十分に行くまいと懸念しますけれども、常に疑問として居るのは、教育修養といふものが、人の性情本質に対して、どれ程の効果を及ぼすものであるか、といふ問題であります。勿論教育は人の性情を陶冶し、修養は遷善改過の方法であつて、最も大切なことであるのは申す迄もないが、併し、真実の本質に向つてまで変化を与へることが出来るか例へて言はゞ、出生が良く保育が満足ならば、其児の体格が健全に成長することは当然であらうけれども、併しながら、生れ附いた低い背が高くなるとか、円い顔が長くなるとか、いふことは出来得ないものであらう。つまり身体は、鍛へ方によつて天稟以上に増大するや否の点であります。詰り教育と修養とによりては、本質を変化することは出来ぬものであるか、或は教へ方、養ひ方に依つて、大に良くなるやうにも思はれるし、又如何に教育・修養に丹精しても本質は変ぜぬものか、此の点に就いて、私は甚だ疑があるのであります。素より教育修養によつて良くなることは明かであるが、どれ程の効果を現はすものであるか、其の程度が明瞭に知れぬのであります。若し果して直し得られないといふならば、成るべくその人の性情に応ずる適当の教育法を与へなければならぬと思ふ。前にも言ふた、背の低い本質の身体に対して、六尺以上の教育を施すといふことは、鍛錬により身体が本質以上に増大し得られないとするならば、適当せぬ方法といはねばならぬ。故に甚だ愚問のやうであるけれども、人の本質・性情は、教育修養によつて、どの程までに変化を来すものであるか、之を明確に論断することは、至難であらうけれども、併し、相当なる道理を講究したならば斯ういふものであるといふことは、大体に於て説明し得られようと思ふから、私が現今の科学を学んだことのない身ながらも、此に平素の疑問を提出した訳であります。
 申上げる問題が、甚だ浅薄で且つ説明も十分お分かりにならなかつたと思ひますが、此の点は御宥恕を願ひます。仮令大なる疑問に属する事柄でも、種々の学説によつて、それには斯ういふ理がある、此の
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点は斯く断案するといふまでに言ひ明かす道はあらうと思ふ。私の浅学と雖も、充分の時間を得て考慮を尽したならば、何か更に懸案を附け加へられるかも知れないけれども、前に申上げました通り、先月から多忙中の小閑を偸んで、僅に問題だけを提出しましたので、充分に講究して材料を整へることの出来なかつたのは甚だ遺感であります。第一の問題たる仁義道徳と生産殖利との一致に就ては、曾て山鹿素行の聖教要録を読んで見ると、朱子の論語に対する註解とは、殆んど絶対的に反対して居る。但しこれも屡々読んだのでないから、其の章句を記憶しては居らぬが、今日私の思ふ所が、二百年前に言ひ得られて居る。私は山鹿素行を軍学者と許り思つて居つて、此の如く聖人の道を伝へる人とは思はなかつたが、意外にも素行の説が、却つて聖人の真意を伝へて居るのであります。当時の素行の行動を追想すると、完全なる儒教のみでなく、あゝいふ主義を以て事を行つた如くに見へて仁義道徳に背馳し、孔子教学者の排撃すべき人であるかのやうに思はれたが、其の著述を読んで見ると、却つて此の人によつて、孔孟の真理が導かれる心持ちが致します。此の聖教要録の外にも、多数の著述があるやうでありますから、時があつたら、私は読んで見たいと思つて居ります。私は聖教要録を一当り読んだまでゞ、まだ十分に理解はしませぬが、福本日南の書いた元禄快挙録、あれは小供にも分かる良い読み本であるが、それを見ると聖教要録のことに就いて、素行が幕府の嫌疑を受け、町奉行北条安房守の屋敷に呼び出されて、赤穂にお預けになつたと書いてある。其のことに就いて、先刻申述べました所の、子貢が孔子に問ふて、博く民に施して能く衆を救ふを仁と謂ふべきか、との問答が孔子の真髄である。朱子はそれを知らないで、文字の上にのみ仁を解いて居るから、仁が丸で死んで仕舞つたと素行が説いたので、これを異端として、元禄時代の日本の朱子学者は終に素行を排擠したのであると、福本日南は書いて居ります。併し、素行が赤穂に預けられたのは、それ許りでもなからうが、何でも町奉行所に呼び出されても、能くも調べないで直に赤穂藩に預けられたから、家に帰ることも出来なかつたやうである。而して素行は其の頃の学者としては寧ろ経学者ではなく、軍学者として諸侯から聘せられた為めに、中々立派な門戸を張つて居り平日の暮らしも頗る盛んなもので、其の頃では珍しい羅紗襟の雨合羽を三百人前も常に揃へて居つた。以て其の生活の壮大であつたことも証拠立てられると快挙録に書いてあります。此の聖教要録にある処の仁義道徳の解釈は、私は甚だ其の意を得たやうに思ふ。僅に其の位のことではあるけれども、自分の質疑を致しまする参考として、甚だ浅薄ながら申上げて御清聴を汚しました。
    右に関する諸氏の批評
 井上哲次郎氏=私は一寸儒教のことに就いて、申上げて見たいと思ふ。渋沢男爵のお述べになつた通りに、元来孔子の教は、経済と道徳といふものを調和するやうに説いたのである。そこが即ち儒教の健全なる所である。主として道徳を教えて居るけれども、実業のやうな方面にも、決して合はない教ではない、さういふ長所を有つて居る。殊に二千四百余年前に於て立てた道徳の教が、さういふ風になつて居る
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ことは、実に儒教の価値ある一つの点であると思ふ。尤も後の儒者は経済と道徳とを引き離した。殊に宋儒などは一方に偏した道徳を説いた。而して仁義道徳は余り言はないで、主として理気・心性といふ方を説いて、一種支那風の心理的倫理学を説いたのであります。けれども、宋儒も全然経済を度外視したのではない。朱子の「社会法」などは、闇斎派に於て特に重んぜられた一種の経済である。陸亀山・王陽明の如きも、必ずしも経済を斥けては居らぬ。陽明は「財は民の心なり」と云つて居る位である。日本でも熊沢蕃山のやうな陽明学者は、経済に関して色々説いて居ります。但し、蕃山は功利主義を主張しないけれども、結果は利用厚生となつて現はれて居るのであります。それから山鹿素行は古学派であるが矢張り経済を説いたのであります。素行は、宋儒の学――あれは儒教の正系統ではない、原始儒教の真面目を伝へたものではないとして、溌剌たる原始儒教に立ち返つて、自分が直に孔子を継続しようと考へて、儒教を説いたのであります。日本の古学は、宋儒の学を採らないで、原始儒教に立ち返つたのであります。孔子は矢張り功利的の所がある。功利主義の名を附けては弊があるけれども、結果は利用厚生で矢張り社会を救済しようと努力したのであります。経済の方面は其の教の中に大にある。素行は其の方面を伝へたのであります。素行の書いたものは沢山あるが、功利主義を説いたものは余りない。功利主義を明かに説いたのは謫居童問であります。それから徂徠は荀子の系統であります。荀子は余程功利的の傾向がある。其荀子の系統に属する徂徠は明かに功利主義であります。徂徠は経済の方面にも注意して居つて色々のことを説いて居ります。それから徂徠の学派には「経済録」を著はした太宰春台があります。春台が経済の方面に注意したのは全く徂徠の学風から来たのであります。さう云ふ風に後の儒教でも道徳を説くと同時に、経済にも可なり注意したのは明かなる歴史上の事実であります。唯々仁斎は経済を軽蔑した。堀河派の並河天民が経済を説いたのは、寧ろ仁斎の欠点を補ふたことになるのであります。朱子学派にあつては、野中兼山、これは経済を実際にやつた人であります。それから貝原益軒の如きは、朱子学派であるけれども、余程丁寧親切に経済を説いて居ります。これは家道訓を著はして、専ら経済を説いたものであります。其の外に、写本で伝はつて居るもので経済を説いたものもあつて、中々経済に心を用ひた学者であります。折衷派で経済を講じたものもあります。それは細井平洲だの三浦梅園といふやうな人である。平洲は鷹山公に聘せられて、米沢の藩政に与つて経済上勲功がある。著述は色々あるが嚶鳴館遺草中に収めてある。梅園は「価原」を著はして、経済に関する一家の見解を述べて居る。それから二宮尊徳のものは、つい此の間孫の二宮尊親といふ人が「二宮尊徳遺稿」と題して出版しました。これまでは、二宮尊徳の書いたものは出版されなかつたといつて宜い位である。福住の書いたものとか、斎藤高行の書いたものとか、富田高慶の書いたものとか、さういふものが出版になつて居た許りであります。処が尊徳の書いたものは「報徳全書」といふのであるが、それが二千五百冊からある、巻数は殆ど壱万巻に近い、実に大部のものであ
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ります。其の中に経済のことが大分あります。尊徳の経済説は畢竟儒教に基くのである、殊に礼記の王制篇に淵源して居ります。渋沢男爵の問題とせられた道徳と経済とを打つて一丸となすことを実行して見せたのは二宮尊徳であります。併し全体は消極的である。立派には説いてあるけれども矢張り昔流の経済思想が基礎になつて居るから今日は採られない。今日の経済は積極的に説かなければならぬ。それには何にも二宮の経済説を土台にしなければならぬことはない。別に新しく説いて差支ないが、併しながら其の頃、二宮の出た頃の日本在来の経済説は、余程能く二宮によつて実行されたといつて差支ない。
 さういふ訳であるから、儒教の側では中々経済を説いたものであつて、概して歴史上の事実と認めて宜いと思ふ。朱子学者と雖も、決して経済を軽蔑した訳ではない。けれども、塩沢博士の細かく論じられたやうに、経済と道徳とは一致して居ると思ふ。学者によつては、此の両者は無関係で一致が出来ないと説く人もあり、又或時は関係あり或時は無関係であると説く人もあります。けれども段々道徳と経済とは一致して行く傾向があると思ふ。経済学の方から塩沢博士は説かれたが、倫理学の方からも考へて見るべきである。倫理学で功利主義を基礎として説くのは、無論道徳と経済との間に不調和を認めない。経済と離れて倫理を説くのは、理想派の倫理学である。カントの倫理学は、経済思想と懸け離れて居る。総て理想派の倫理学は、経済との調和を説いて居らぬ。併し理想派の倫理学説と功利主義とを調和して説いて来る倫理学者は、段々多いやうに思ふ。社会的に政治的に経済を度外視しては、倫理学は決して完全なることが出来ないといふことを倫理学者は次第に看破して、さういふ態度を取つて来たものと思ふ。経済学の方からも、経済と道徳とを次第に接触せしめて来るやうに、倫理学の方からも、道徳と経済とを互に接近せしめて来るやうになつたのは、確に近時の傾向であると思ふ。
 学術上からはさうであるが、実際の行ひの上に於ても、二つのものが調和して行くと思ふ。孔子は此の点をどう見たかといふと、若し万一両立しない時には、道徳を取つて経済を捨てるといふ考であつた。平生に於ては、二つを調和して行くけれども、どちらが重いかといふと、経済よりは道徳を重しとしたのであります。是等の考は、儒教に於てはなかなか大事な点であります。
 中島力造氏=今晩は面白いお話を伺ひましたが、それは平生私の研究して居ることであつて、私の研究によつて得たる結果を、時間があつたならば披露したいと思ふのであるが、本夕は余り遅いので、次の集会の時に時間があれば、其の際お話したいと思ふ。兎も角、非常に面白く拝聴致しました。
 唯だ一点だけ、一寸述べて置きたいと思ふ。それは、実業が段々進むが、道徳の方は一向進歩せぬやうに見える。これはどういふものかといふ問題を御提出になつたが、これには種々原因があつて、中々込み入つて居るので、簡単に解釈が出来ぬのである。成程或方面より見ると、実業は進歩したが道徳は退化したやうに見えるのであります。併しそれに就いて、私は斯ういふ風に考へる。即ち実業の方法が変つ
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て来た、産業といつても、手でしたことを機械でするやうになり、商売をするに就いても、一個人の資金のみに依らず、合資会社の如き方法でやる。総てさういふ風に、生産の仕方が変つて来て居るのであります。処がそれを実行する人々は、個人的に実業を営んで居つた習慣を棄てぬ、新しい遣り方にはまだ熟練して来ぬ。思想は出来て居るけれども、新式の実業に対する習慣が養成されて居ない。それで、動もすると古風の習慣を続けて、新式の実業に従事する傾きがあるから、為めに其の間に衝突が起るやうなことになる。さういふことが多いと思ふ。随つて道徳が退歩したやうに、或点から考へると見られるのである。
 私は全体として考へて見ると、決して実業道徳は退歩したとは思はぬ。新式の実業に道徳上の習慣が順応せぬ為めに、又順応が欠けて居る為めに、道徳が退化して来たやうに見えるので、今後此の点に注意して、産業の方法が変つて来たゞけに、それに準ずる道徳実行の方法を改めて行くならば、必ず道徳も進んで来たと思はるゝ様になると思ふ。詰る所、今日倫理の研究上重もなる問題が四つある。政治と道徳との関係、これが一つ、経済と道徳との関係、これが二、家族と道徳との関係、これが三、国際道徳の問題、これが四で、其の内で最も難門であるのは、経済と道徳との問題であります。何時か此れに就いて本会に報告をしたいと思ふ。(大正三年三月例会)