デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.625-629(DK460154k) ページ画像

大正5年7月13日(1916年)

是ヨリ先、インド詩人ラビンドラナート・タゴール来日ス。是日栄一、当協会ノ幹事トシテ其宿舎原富太郎邸ヲ訪ヒ、宗教問題・思想問題ニ就キ会談ス。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK460154k-0001)
第46巻 p.625 ページ画像

集会日時通知表 大正五年         (渋沢子爵家所蔵)
七月十三日 木 午後四時 横浜市ニタゴール氏ヲ御訪問(原富太郎氏邸)
             (成瀬・浮田両氏同伴)


実業之世界 第一三巻・第一六号大正五年八月 タゴール翁と談る 男爵 渋沢栄一(DK460154k-0002)
第46巻 p.625-629 ページ画像

実業之世界 第一三巻・第一六号大正五年八月
    タゴール翁と談る
                    男爵 渋沢栄一
      ▽タゴールと会見の径路
 印度の詩聖タゴール翁来朝に付、歓迎会開催の企てがあつて、私共の帰一協会も之に加はる運びとなり、不肖ながら私も同協会員たる故を以て、姉崎・成瀬・浮田の諸氏と共に発起人中に名を列したのであるが、六月十三日上野寛永寺に於て催されたる同会には、折柄欧洲の平和克服問題に関する公開状の使命を帯びて来朝した米人モルトン・プリンス氏を、同日飛鳥山の拙邸に招待すべき順序になつたので、遺憾ながら出席するを得なかつたのである。
 序を以てプリンス氏の使命に就て一言して置くが、独逸今回の所置は、白耳義の中立を破り、その土地財産を掠奪し、甚だしきは婦女を辱しむるなど、列国民の遵守すべき人道を蹂躙し、塞爾比に対する所置の如き、又頗る横暴を極はむるものあるにより、独逸にして将来国際上の情誼を尊重すべき保障を与ふるまでは、決して平和の克復を急ぐべからずとの趣旨より、米国の有力者五十余名之に連署して公開状を世界に発することとなり、プリンス氏は其身心理療法学者で相当の学歴もある人だといふが、この公開状の趣旨を日本に弘演する為め、態々来朝したのである。
 タゴール翁も来朝早々のうちは、各所に担ぎ廻はされ、時間に余裕なき模様なりしも、昨今稍々閑なるを得たる為めか、七月二日には女子大学参観のため来校するとの事ゆゑ、同日私も同校に赴き、親しく談話を交換せんものと思つてたのであるが、又当日は折悪しく荒川に赴き、一泊の予定になつて居つたので、漸く繰合せて午後六時頃同校に駈けつけはしたものゝ、直ぐ食堂が開かれ、終るや講演となり、八時には帰られてしまつたので、当夜は僅に握手して当坐の挨拶を述べ
 - 第46巻 p.626 -ページ画像 
たのみに過ぎなかつたのである
      ▽原富太郎氏別荘にて会見
 然るに、帰一協会員中には、タゴール翁は婆羅門仏教の信徒ゆゑ是非一度翁を招待し、一席の談話を試みたしとの意見を懐くものあり、飛鳥山の拙邸にて会見せんかなどの議あるうち、目下翁が其別邸に起臥中なる横浜の原富太郎氏より、成瀬仁蔵氏まで通知あり、七月十三日の午後帰一協会の幹部と会見を遂げたく、本牧の原氏別邸は高荘にして海に臨み、晴天の日は海上の眺めも亦一トしほなるのみならず、印度料理の接待をも致したければ、同邸まで来り会談せずやとの翁の招ぎに与つたのである。依て、成瀬・姉崎の両氏と私とが之に応じて参ることになつたのであるが、姉崎氏は当日上田敏博士の葬儀執行に妨げられて参会し得られず、代りに浮田和民氏が加はり、私とタゴール翁との間に通訳の労を取られたのである。
 タゴール翁の目下起臥する本牧の原富太郎氏別邸は、鬱蒼たる樹林にも富み、海に臨んだ懸崖の上にあるので、私も参邸して言ひ難き愉快を感じたのであるが、食事の際は二名の印度人と原富太郎氏と、横浜サムライ商会の主人で、平素翁の為に通訳の労を取り相当の学殖もあるといふ野村洋三氏も加はり、主客八人となりしも、食事前は翁と私共の一行三人との外は誰も席に居なかつたのである。充分に意見を交換し得られたのであるが、如何せん私は英語を解せず、通訳にのみ依るので、翁が談る言外の意を充分に感会するを得ず、又私が通ぜんとする言外の意をも翁に通ずる能はず、談話が動々もすれば御互に断片的に陥る弊を生じ、満足に情意を流露し合ふことの能きなかつたのは、私の甚だ遺憾とする処である。
      ▽翁は維摩居士の風貌
 タゴール翁は詩人であるとの事で、風采も頗る閑佳、人品も一見したのみで高尚なるものと想像し得られるが、単に風雅な人であるといふ丈けに止まらず、何処かに又凜として毅然たる処もある。談話なんかでも、時に感情の昂まつたやうな調子を示しもするが、さればとて決して激し決つてしまはず、勿論、附和雷同する如き様子は微塵も無い。私は釈迦在世の頃の人であると伝へらるゝ維摩居士《ゆゐま》とは如何なる人であつたか能く知らぬが、タゴール翁の風貌は維摩居士に似て居るところがあるやうに思はれた。私は下村観山画伯の筆になつた維摩居士の図を一幅所蔵して居るが、その図は私が今回面り接したタゴール翁の風貌そのままのものである。
 翁が処々に於て試みられた講演によつても窺ひ得らるゝやうに、翁は富を呪ひ権勢を呪ふ人である。翁は之によつて自ら満足を覚へ得られるだらうが、かの如き議論は、私が年少気鋭で田舎から初めて江戸へ出て来た頃ならば、感服し得られた論旨であるにしても、智慮の複雑になつた今日では、感服し得られぬ議論である。
 何ごとも事物は消極的に否定したのみでは駄目なものである。タゴール翁は富と権勢とを否定するのみで、然らば、物質文明を如何に迎え、之に対し如何なる所置に出づべきかとの一段になれば、自分にも不明であるかの如く見受けられた。富が増進せねば国は強くなるもの
 - 第46巻 p.627 -ページ画像 
で無い、国が強くならなければ、文明は進歩せず、個人の利益幸福も増進せぬものである。印度の現在の如き国情に於ては、或はタゴール翁の如く、富と権勢とを呪つた丈けで済まされもし得られやうが、日本などで、若し爾んな事で済ましたら、大変なことになつてしまふ。今日となつては如何に物質文明に弊が伴ふからとて、明治初年頃の如きラムプ亡国論なぞを唱へ得らるべきものでない。富にも権勢にも勿論弊がある。仮令弊があつても、単に之を呪ふのみに満足せず、その弊を去つて、之を人類の福利増進に善用する法を稽へねばならぬものである。この辺のことに対しては、タゴール翁にも、確乎たる意見の無いものらしく私には見受けられたのである。又、翁の安心立命が果して何れの辺にあるものやら、之も私は今回の会見によつて窺ひ知るを得なかつたのである。勿論、通訳を介しての談話故、突つ込んで話し得られぬ加減にも因るだらうが、兎に角私には、若《しか》く感ぜられたのである。
      ▽人道は一、形式は複雑
 私は先づ第一に、帰一協会の趣旨に就てタゴール翁に談り、翁の宗教に関する意見を求めたのである。今日の宗教は実にいろいろで、仏教あり耶蘇教あり回々教あり儒教あり、各宗教には又それぞれ特有の伝説的奇蹟と密教的形式とが附き纏ふて分立して居るが、人の履むべき道を教ゆるに至つては共に一である。人の履むべき道は一あつて二あるべき筈のもので無い。然るに、現在の各宗教を観れば、人道は幾つもあるかの如くに思はれぬでも無く、甚だしきに至つては、単に形式の差が宗旨の差たる如き奇観を呈し、人をして適帰する処を知るに苦ましむるの観がある。依て伝説的奇蹟と密教的形式とより各宗教をして脱却せしめ、之を根本の一に帰し、統一的宗教の弘演により人をして迷ふ処無く、其適帰する処を知らしめるやうにしたいといふのが是れ帰一協会の理想で、現在の事業としては、各宗教に通ずる一致点を研究し、人の履むべき道の如何なるものなるやを明かに知り得たいといふのが趣意である――之に対する貴見如何と、私は翁に訊ねたのである。
 翁は之を聞くや――如何にも人道は二つあるべき筈のものでない。随つて、将来の各宗教は漸次伝説的奇跡及び密教的形式より脱却し、互に相接近し来るものに相違ないが、世界各国それぞれ風土習俗を異にするを以て、信教の形式も亦随つて異らざるを得ざるべく、強ひて之を一形式の宗教に還元してしまう必要は無いではないか――と謂つたやうな意見を述べられ、帰一協会の趣旨には、半分賛成するが半分は賛成能きぬといふ意味であつたらしく想はれたのである。
      ▽信仰と学校教育
 次に私は――天地には人力以上の威力即ち「霊」とも名づけらるべきものがあつて、人の履むべき道と斯の霊と相感応し、一たび其の道を踏み外せば、霊の罰を受くるものであるとの観念が、是れ軈て人の信念となり、宗教的信仰となるものである。この威霊を称して、儒は天、耶は神、仏は仏陀《ほとけ》と呼ぶのであるが、物質文明の風靡は、霊に対する信仰を破壊し、日本の学校教育は、僅に神道の神の崇敬すべきを
 - 第46巻 p.628 -ページ画像 
説くのみで、神の道の如何なるものなるやを教へず、若し学校で宗教的に霊を説かんとするものあれば、却て之を制止する如き傾向あるを以て、帰一協会の或る者は、当初宗教を学課のうちに入れて教育したいとの意見であつたが、之には反対もあつたので、学校教師をして霊と人道とは互に感応するものなりとの信念により、子弟教育の任に当らしめる事にしたいといふのが、帰一協会現在の希望である、――之に対する貴意如何、と翁に訊ねて試《み》たのである。
 翁は之に対して、至極同意する旨を答え、物質文明の進歩が駸々として、霊の威力を否定するの弊害恐るべきを説き、為に人心を危ふするものあるを歎かれたのである。
      ▽欧人の横暴を憤る
 次に私は国際道徳の事に談を進め、個人道徳に於てほ、自己の利益をのみ謀らず、時には身を殺して仁を為すを至徳となすまでに、一般人類の道徳観念は進歩して居るが、国際道徳は殆ど個人道徳と相容れず、他国の幸福を犠牲にするも自国の利益を謀りさへすれば、それで足れりとし、併《しか》も之を敢てして毫も恥づる色なく、その結果遂に欧洲文明国の間にすら今回の如き大戦乱を見るに至れるは、誠に痛恨の惨事なる旨を述へ、如何かして個人道徳を国際間に迄延長する工夫無きものにや、と翁に訊ねて試たのである。
 翁は之を聞くや、かの東印度商会の経営を通じ、印度が漸次英国の領土となるに至れることなどを胸に思ひ浮かべたものか、一言も印度の事例には及ばなかつたが、百年前阿片を支那に売り込んで支那民族を蒙弱にし、林則徐が其の弊を知つて道光十九年、厳に阿片の輸入を禁止し、英商の輸入せる二万二百八十二函を焼き棄つるや、舟山島を占領して遂に阿片戦争を惹起し、香港を割譲するまでに至らしめたものは何処の国人であるか――などゝ談話も自から激した調子になつて慷慨淋漓の趣を呈し、斯んなことを今回の欧洲戦争によつて初めて御理解《おわかり》になつたのか。文明人と称する欧洲人に国際道徳を重んずる精神の無い事は、タゴール遠うの昔から承知して居つた――と言はぬばかりに、翁は談られたのである。
      ▽進歩は義を行ふにあり
 原富太郎氏が、一夜斯の種の談話を試みた際にも、タゴール翁は頗る激した模様であつたさうだが、同行の英人が座にある際には、翁も決して斯る慷慨悲憤の口吻を漏らさぬとのことである。如上の談話の外、支那の詩と印度の詩との異同なぞに就て訊して試たが、通訳では充分に意が通じかね、御互に理解が乏しいので、遂に不得要領に終つてしまつたのである。要するに私の観るところによれば、タゴール翁は「自分では不義不正を為さぬ」といふ立場に立て、社会万般の事物を観察して居らるるかの如くに思はれる。
 然し、人は消極的に不義を為さぬといふ丈では駄目な者である。積極的に進んで義《たゞ》しきを為さねばならぬ者である。不義を為し得ぬ人の半面には、必ず義しきをも為し得ぬといふ条件の伴ふものだ。之に反し、義しきを為す人の半面には、又不義をも為し得るといふ条件が伴ふものである。人の人たる価値は、不義を為し得ぬ処にあるのでは無
 - 第46巻 p.629 -ページ画像 
い。義しきを為すと共に不義をも為し得《うる》が、不義を為さずして義しきをのみ行ふ処にあるのである。不義を為し得ぬ丈けで、義しきを行ひ得ぬ人ばかりでは、世之中に進歩が無くなつてしまうものである。進歩は義しきをも不義をも為し得る人が不義を為さず、義しきをのみ行つてゆくところにある。世界の人が皆なタゴール翁の如くになつてしまひ、自分は不義を為さぬからとて、富や権勢を呪つてばかり暮らすやうになられては困る事だと私は思ふのである。斯うなつてしまへば世界に進歩が無くなり、何時まで経つても人類の利益幸福は永遠に増進せぬものである。(青柳生憶記)
   ○青柳生ハ青柳有美。
   ○本資料第三十八巻所収「外賓接待」中「インド詩人タゴール招待」参照。