デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
8款 財団法人理化学研究所
■綱文

第47巻 p.136-138(DK470018k) ページ画像

大正6年8月23日(1917年)

是月十九日、当研究所所長菊池大麓逝去ス。是日栄一、青山斎場ニ於ケル告別式ニ臨ミ、理事総代トシテ弔辞ヲ呈ス。


■資料

集会日時通知表 大正六年(DK470018k-0001)
第47巻 p.136-137 ページ画像

集会日時通知表  大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
 - 第47巻 p.137 -ページ画像 
八月廿三日 木 午前九時 故菊池男爵葬場ヘ御出向(青山斎場)


竜門雑誌 第三五二号・第八七―八九頁大正六年九月 ○男爵菊池大麓氏薨去(DK470018k-0002)
第47巻 p.137-138 ページ画像

竜門雑誌  第三五二号・第八七―八九頁大正六年九月
○男爵菊池大麓氏薨去 八月十九日枢密顧問官帝国学士院長理学博士男爵菊池大麓氏相州茅ケ崎の別荘に於て溘焉薨去せらる。青淵先生故男爵の死を悼まれ、五十年前の思出を語らるゝ処、言々無量、左の一文は八月廿一日発行の読売新聞所掲訂正に係る。
 枢密顧問官菊池男爵の薨去の急報に接して、渋沢男は二十日午前九時竹早町の故男爵邸を弔問して、親族・遺族・親友等の人々を慰めながら、感慨に堪へざるが如く老眼に涙を滲ませつゝ語らる
 「私が学界に功労深い故男爵を弔ふ事は、世人に比して一層深厚なる因縁を有してゐる、私は戦後の経営の最も重要なる理化学研究所の副総裁として最近故男爵との往復を重ねてゐたので、卒然其薨去を聞くのは全く夢のやうな気がする、私は男爵より実に十九歳の兄で、失礼かは知らぬが故男爵は私より見れば子供のやうな思ひがあつたで、私は先んじて逝かれたことは全く儚ない感じが胸に迫つて来るのを覚える。追想すれば五十年前の昔、当時幕府の勘定方として水戸家の儲君民部公子に随行し、慶応三年正月仏国に渡航したが幸か不幸か私共が彼地に滞在中偶々維新の変革に遭遇して幕府は倒れ玆に新政府の樹立を見るに至つた。然るに当時幕府より英仏に留学せしめたる△外山捨八(正一)△林桃三郎(董)△福沢英之助△杉徳三郎△安井真八郎△岩佐源二△市川盛三郎△箕作奎吾△成瀰錠五郎△中村敬輔(正直)△レベンド・ウヰリアム・ロイド△川路太郎(寛堂)△伊東昌之助(岡保義)△箕作大六(菊池大麓)其他二十余名の在外留学生は、学資の出途を失つて異境に困窮し居るより、在仏国の留学生は何れも民部公子の予金中より旅費を支給して帰朝せしむるに決し、一方在英国の留学生の事情如何を照会したるに、彼等は窮乏の結果、英国政府に対し帰国旅費の貸与を求めたるに、該政府は彼等を帆走船に乗せ喜望峰を迂回して日本に送還すべき旨返答があつたので、私達は之れ実に人間を荷物同様に扱ふもので日本を侮蔑するものである、故に幕府の末路とは言ひながら、斯る始末に終つたならば、倒るべき幕府の最後に一汚点を貽すものであるから、何卒通常人の取扱ひを受け飛脚船にて帰朝させて欲しい、万一旅費の工面が付かなければ、これ亦、民部公子の私費を割いても飛脚船に便乗せしめなければならぬと一決し、私は急遽ロンドンに赴き、英国政府と交渉の結果、前願を取消し遂に汽船に便乗することとなつたので、一同も喜んで仏国の飛脚船に搭乗するため巴里に三日間滞在した、其時に留学生中の取締である川路太郎(聖謨の孫)中村敬輔(後敬字)を普通の旅館に宿泊せしめて、他は何れも寝台のない下宿屋に合宿せしむるに至つた為め、林董氏等の憤怒甚だしく、私の処へ押掛けて来て種々談判を試みたので、私は今日の時勢を説いて、幕府既に倒れ、士人は多く本国に於て一身を犠牲として其難局に当つてゐるので、それに国家の前途に大志を抱いてゐる先覚者から此のやうでは甚だ寒心に堪へないものがあると、私も血気
 - 第47巻 p.138 -ページ画像 
の至りに激論した、が然し一同も了解し無事なることを得た、当時故男爵は実に十四歳の少年であつたが、意気自ら今日あるを知り得た」云々
尚ほ葬儀の当日青山斎場に於て、青淵先生理化学研究所を代表し、同研究所々長としての故菊池男爵を弔はる。弔詞左の如し。
 従二位勲一等男爵菊池大麓君溘然トシテ薨去セラル、悲哉、君ハ学徳共ニ高ク夙ニ一世ノ師表タリ、財団法人理化学研究所ノ設立有ルヤ、撰ハレテ所長ノ重任ニ膺リ、爾来日猶浅シト雖モ其根本ノ経画ヲ確立シ事業已ニ緒ニ就キ、今後君ノ経営ニ期待スルモノ頗ル多ク且ツ斯業ノ実行ニ於テ一日モ緩フスヘカラサルノ秋ニ当リ、遽ニ幽明ヲ異ニシ、復タ口講手画ヲ聴クヲ得ス、邦家ノ為メニ深ク惜ミ、痛恨哀悼禁スル能ハス、此ニ虔テ本所ヲ代表シ、恭シク弔意ヲ申フ
  大正六年八月廿三日
          財団法人理化学研究所
               理事総代 男爵 渋沢栄一