デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
10款 大日本文明協会・財団法人文明協会
■綱文

第47巻 p.259-260(DK470060k) ページ画像

大正8年7月13日(1919年)

是日、東京高等商業学校講堂ニ於テ、当協会主催学術講演会挙行セラル。栄一出席シテ労資問題ニツキテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK470060k-0001)
第47巻 p.259 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年          (渋沢子爵家所蔵)
六月十九日 晴 暑
午前六時起床、入浴朝飧ヲ畢リ、後○中略市島・浮田氏等来リテ、文明協会ノ事ニ付依頼アリ○下略


財団法人文明協会三十年誌 同協会編 第七〇―七二頁昭和一三年六月刊(DK470060k-0002)
第47巻 p.259 ページ画像

財団法人文明協会三十年誌 同協会編  第七〇―七二頁昭和一三年六月刊
○ 第二期 文明的運動の拡張(大正五年―大正十年)
    二、大学拡張事業
      各種講演
 大学拡張事業は、大正四年十月本会事業拡張の一綱目として選ばれたもので、其方法として選ばれた第一は各種の講演事業であつた。大正天皇御即位の大典記念事業としては最も有意義の事柄であつたと思ふ。而して四年十月廿四日神田青年会館に於て第一回を催してより以来、東京を始め・大阪・神戸・横浜の各地に於て、種々の名称の下に挙行した。本期間開会数三十六回と、外に福島県下、秋田県下十四ケ所に巡廻講演を試みた。
      一、諸講演会
○中略
八年七月十三日学術講演会
   戦前戦後の貨幣制度 法学博士 山崎覚次郎
    資本と労働の協調   男爵 渋沢栄一
      此時初めて協調会設立の意図を発表せらる   東京
民家教化《(衆カ)》と演劇 文学博士 坪内雄蔵
    時局雑感       侯爵 大隈重信
○下略


東京朝日新聞 第一一八七八号大正八年七月一四日 労働問題を解決する為に余生を捧げんとする渋沢男の決心 仲裁機関を設けて貧富の懸隔を調和せん 無意味に隠遁する時代ではないと昨日文明協会で(DK470060k-0003)
第47巻 p.259-260 ページ画像

東京朝日新聞  第一一八七八号大正八年七月一四日
  労働問題を解決する為に
 - 第47巻 p.260 -ページ画像 
    余生を捧げんとする
    渋沢男の決心
      仲裁機関を設けて貧富の懸隔を調和せん
      無意味に隠遁する時代ではないと昨日文明協会で
資本と労働との軋轢、貧富の懸隔より生ずる社会的欠陥に対して適当なる解決の道程に急ぐべく最近資本主も労働者側も著るしく覚醒し来たつたのであるが、昨日東京高等商業学校に於ける大日本文明協会講演会の席上、渋沢男爵は
 八十に 垂んとする老躯を提げて此の問題の解決に努力せんとの決心を語つた、曰く「私は数年以前既に実業界を隠退して現に一個の閑人たるに過ぎない、事業家でもなければ政治家でもない、学者でもない、然しながら戦後の今日、研究すべき諸問題の中資本と労働との問題は一体如何にして円満なる解決を求められるか
 資本家 には資本家としての立場があり、労働者には労働者としての言分がある、其適当なる調和の帰着点を見出すに苦しまざるを得ない、私は此両者の代表者をして其意見を求め、其相容れざる点を匡して成可く円滑に其方法組織を講ずる仲裁機関を設けたい、此程渡来した加奈陀の銀行業者エドモンド・オーカー氏と
 会見し た際、談この事に及び、私は斯くの如き機関の設置を申述べた所、氏はそれはよい、加奈陀には官設の労働局といつた風なものはあると言はれた、私共の考へる其組織に就いては此処に明言する時でない、又今日の有様を見ると貧富の懸隔は甚だしくなつて居る、更に以後の
 時勢は 愈此の懸隔は甚だしくなり、社会の健全なる中流階級が此の世から掃蕩されは為まいかと思ふ、私は此貧富の懸隔を調和し緩和したい、私は世を隠遁した閑人であるけれ共、斯くの如き時代に遭遇して見れば、今後の生涯幾年たり共、無意味に終始する事は如何にも謂はれないことだと思つたので、及ばずながら此二つの解決に尽力したいと思ふのである」
  ○栄一講演筆記ハ本資料第三十一巻所収「労資協調及ビ融和事業」中「労働問題ニ対スル栄一ノ意見」ニ収ム。