デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
10款 大日本文明協会・財団法人文明協会
■綱文

第47巻 p.265-267(DK470065k) ページ画像

大正13年5月4日(1924年)

是日栄一、大隈信常邸ニ於テ開カレタル、当協会評議員会ニ出席シ、日米問題ニ関スル談話ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一三年(DK470065k-0001)
第47巻 p.265 ページ画像

集会日時通知表  大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
五月四日 午後二時 文明協会々長ヨリ御案内


財団法人文明協会三十年誌 同協会編 第一四一―一四二頁昭和一三年六月刊(DK470065k-0002)
第47巻 p.265 ページ画像

財団法人文明協会三十年誌 同協会編  第一四一―一四二頁昭和一三年六月刊
 ○第三期 社会的進出
    本会事業の復興
○上略
      日米問題研究会
 五月四日○大正一三年に定時評議員会を青山の会長邸で開催した、折柄ら米国に於ける日本移民問題が喧かつた、其時丁度渋沢子爵が出席して居られたので、詳に其情勢を聴取した。此の対米問題に付いては故会長は非常に関心を持たれて、国民的外交としてのあらゆる手段を常に試られて居つたに鑑み、本会も此の時に当り先侯の意志を多少なりとも継承したいとの考で、日米問題研究会を開催すべしとの動議が出て日を改めて斯界の権威者を招集して実現することを決議した。
 其後米国に於ける日本移民排斥運動は愈々猛烈を極め、我が国朝野は挙て之れに対する運動に熱中し、米国の正義に訴えたが遂に聞かれず、日本移民排斥法案が通過された。
 之に於て本会は、七月十一日に開いた時局研究会を特に日米問題に関する会合として、外務省の佐分利氏と牧師額賀氏を招いて講演を聞いた。続いて、七月廿日丸ノ内工業倶楽部に渋沢栄一子・阪谷芳郎男・日置益氏・鎌田栄吉氏・佐分利貞男氏・乾精末氏・宇都宮鼎氏・山田三良氏・植原悦二郎氏・姉崎正治氏・添田寿一氏・山科礼二氏・志賀重昂氏・佐野善作氏・押川方義氏・中村進午氏・吉田清風氏を招き、会長大隈侯・市島理事長・浮田編輯長、杉山重義・森脇美樹の両理事参加、午後四時より渋沢子を座長に推して移民法通過後の対米策に付き意見の交換を行ひ、夜十時迄でに及んだ。尤も、此の会合は公開的のものではなかつたが、外務省方面よりも相当注意を惹かれたのであつた。
 而して十月の文明大観を日米問題号として百数十名士の意見を蒐録した。同時に日米国際記要なる一冊子を刊行して、日米交渉の発端より今日迄での経過を闡明にして、朝野の参考に供した。


文明大観 大日本文明協会編 第二冊・第一一二―一一四頁大正一三年六月刊(DK470065k-0003)
第47巻 p.265-267 ページ画像

文明大観 大日本文明協会編  第二冊・第一一二―一一四頁大正一三年六月刊
    評議員会に於て渋沢男語る
 - 第47巻 p.266 -ページ画像 
当日○大正一三年五月四日渋沢男が語られた所は大要左の如くであつた。
 「本会に対しては、特に私が一同を代表して述べる丈けの知識を持たぬのでありますが、永い間私達を初め大きに啓発して頂いた点に対して、何か話す位のことは出来ると思はるゝのです。今自分が玆に立ちますと、一入故侯在世の当時が偲ばるゝ様な感を覚ます。至つて不勉強な私、切角協会から種々有益な書物が出るにも係らず、多くは読み得ないのでありますが、多分前年一月に出た筈の百才不老、あれは私達老人には至つて有興なもので、精読と云ふのではないのですが、面白く読みました。多分ラプソン・スミス氏の著でありましたが、兎に角年寄には金科玉条の文字です。勿論よく読めば何人も知つて居る様な説ではありますが、知つて仲々実行し得ない所を巧みに実際に就いて述べてある。スミス氏の提案は、六十才より九十才に至る時代を如何に有用にすべきかと云ふ人物経済から見られたので、吾々老年者には至つて力強い味方です。或る立派な医者の説として、六十才以後は酔生夢死のような生活である、これには寧ろクロロフオルムを飲ませて殺すべしと真面目に説いたとありますが、之に対して、老人が完全に働いたならば別に斯る必要はないではないか、或は時に多年の実経験によつて世を益するかも知れないと云ふのです。老人共も安心の訳合ひです。
 「そこで、如何にして保健を保ち身心共に立派に活動し得ららるゝかとの養生説が出て来るのですが、著者は六十から九十までを大凡三段に分けてあります。これを一言で云へば、第一は活動の必要です、然し此の間には亦養生がなければならない。そこで活動に次ぐ摂生、次に満足とありましたが、これは色々の意味にも解せませうが、私は平和と解しました、心の平和、外部に対しての平和、随つて活動と平和と摂生と云ふ三段に関して深く述べられたのです。
 「日本にも姨捨山のようなものもありますが、既往の経験は老人によつて知るを得ますので、これを六十才にして殺して了つては新知識は新人の方々で自由に出来ませうが、古きを知るには不都合です、つまり下世話な短い例で申しますと、ある有用な機械もこれを使過しては不可いが、と云つてこれを寝かせて置いては切角の器に錆を生ずると云ふので、錆びさせず、使過ごさずと云ふにあります。誠に結構な本でした。故侯が居られましたなら、何か面白い不老の説を聞き老人が世に処する妙常は尠くすべきであるとか、不老論には更に又斯くの如きものあると申さるゝでありませうが、これにつけても老侯が偲ばれます。亦『世の終り』と云ふ本もありますが、これはまだ読みませんが、何だか老人には不気味な名前のようにも思はれます。
 「次に日米問題に対して何かとの仰せですが、此の席上で斯る問題を申上げるのは如何かとも思はれますが、一言故侯の霊前に告げたいのでございます。昨今日米問題の形勢は甚だ雲行きが面白くなく、かうなる前に何とかせねばならぬと思つて、及ばすながら出来る丈けのことは骨折つて見たのであるが力及ばず誠に残念なことであります。一体日米の国交は久しい前から種々の経緯があつたので、明治四十年頃には米国に於て邦人学童問題が起り、職業別問題が生じ、日本人排
 - 第47巻 p.267 -ページ画像 
斥の声が熾烈となりましたので、一九〇六年には時の小村外相は日米間に紳士協約を結び、国民相互の外交、日邦人の移民問題を一時的に解決し、一方日米両国の商業会議所の主催で観光団を組織して、両国民がお互の国情を研究する事ともなり、日米問題に就いて懇談もしたのでありましたが、大正二年にはまた加州土地法案が制定されて邦人の借地権は之れに限定されたのでした。
 丁度私が大正四年二度目に日米関係視察のため米国へ参りました時これは日曜学校と博覧会のために出掛けましたので、当時は故侯の内閣時代でした。例の二十一ケ条問題で東部の人気は至つて険悪でありましたので、ヷアンダーリツプ氏なりエリオツト氏になり会つてよく事情を話したりいたしました。話変つてサンフランシスコ方面では博覧会も欧洲大戦のため無援なる有様であつたに反し、日本の出品がありましたゝめ頗る好感を受けて、私達も幸に立派に待遇されました。
 ボストンではハバートのエリオツト氏に会見し、平和論者でもあり世界的大政治家でもありますので世界戦に対する意見を尋ねました。すると如何にもぼんやりした答ではありましたが、先づ独乙の横暴を防ぐには経済的に行く外はないので、日本に帰られたならば大隈侯にも薦めて頂きたいとの事でしたから、米国に対しては貴方から薦めて頂けませうかと反問しますと、之に対しては別して確答は得ませんでしたが、帰つたらそのことは侯には申しますとのことで別れました。帰つて此のことを話しますと、老侯も同じ意見でありまして、偉人の意見は何れも同じものであると感じた訳でございます。大正四年には斯ることもあつたと云ふ丈けのことでございます。
 例の親日の巨頭であるアレキサンダ氏の如きも、従来色々と努力して呉れられたのですが、仲々此の問題は円満に参りません。其後両国の関係は大分悪化しまして、一九二〇年頃にはインシユレル・レフレンダムが採用され、その翌年の大正十年には人も知る華府会議が開かれまして、軍備制限や太平洋問題が論議されましたが、肝腎の加州移民問題は論及を見ませんでした。私は及ばずながら日本の国交を改善する機関として、アレキサンダー氏と談合の上、両国に高等委員の設置を計つても見ましたが、それも成立を見ず、両国の関係は益々悪化して、米国下院では先月の十二日にヂヨンソン案のあの様な排日的移民案が通過し、まさかと思つた上院も亦同案に類似の移民案を多数で通過いたしました。現状斯くの如くで将来は何うなるかは知るを得ませんが、米国大統領クーリヂ氏が日本の意志を知つて、正義人道のため、世界の平和のため排日案を認承しないで貰ひたいと切望するのであります。」云云