デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
12款 其他 4. ローマ字ひろめ会
■綱文

第47巻 p.330-337(DK470078k) ページ画像

明治44年11月24日(1911年)


 - 第47巻 p.331 -ページ画像 

是ヨリ先栄一、当会維持会員トナル。是日、築地精養軒ニ於テ、当会秋期大会開催セラレ、栄一出席シテ阪谷芳郎等ト共ニ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK470078k-0001)
第47巻 p.331 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
四月九日 晴 軽暖
午前八時起床、半身浴ヲ為シテ後朝飧ヲ食ス、桜井義肇・後藤牧太氏来リテ、羅馬字会ノ事ヲ談ス、十八日ノ集会ニ出席ノ事ヲ依頼セラル○下略
  ○中略。
六月五日 曇 暑
午前六時半起床、風邪気稍快方ナルニヨリ、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後桜井義肇氏来訪、羅馬字会ノ事ヲ依頼セラル○下略
  ○中略。
八月二十八日 曇 暑
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後○中略 桜井義肇氏来リ、羅馬字会寄附金ノ事ヲ請求セラル○下略
  ○中略。
十一月十九日 雨 寒
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス○中略 桜井義肇氏来リ、羅馬字会出席ノ事ヲ請ハル○下略
  ○中略。
十一月二十四日 雨 軽寒
○上略午後五時半築地精養軒ニ抵リ、羅馬字会秋季会ニ出席ス、林伯・阪谷男其他六七十名ノ会員集会ス、食卓上一ノ演説ヲ為ス、夜十時散会帰宿ス○下略


竜門雑誌 第二八三号・第四四―四五頁明治四四年一二月 ○ローマ字めろめ会と青淵先生[ローマ字ひろめ会と青淵先生](DK470078k-0002)
第47巻 p.331-332 ページ画像

竜門雑誌  第二八三号・第四四―四五頁明治四四年一二月
○ローマ字めろめ会と青淵先生[ローマ字ひろめ会と青淵先生] 西園寺侯爵を会頭とし、林伯爵を副会頭とし、青淵先生にも会員に加はり尽力せらるゝローマ字ひろめ会の秋季大会は十一月二十四日夕築地精養軒にて開催されたるが、非常の盛会にて、一同晩餐を共にし、デザートコースに入るや、林副会頭の発声にて両陛下の万才を三唱し、引続き副会頭は一同に対して「日本の言語を漢字にて写すよりも世界共通的のローマ字を用ゐるの至便は今更云ふの要なけれど、唯近来、一向ローマ字論の反対さへも聞かぬ様になりしは甚だ力抜けのする事なり、何卒諸君の奮発を望む」との挨拶あり、次で幹事桜井義肇氏の会務報告あり、次で西園寺会頭より止むを得ず欠席すとの申し越しありしが、右に付特に左の如き書状を寄せたりとて、幹事は是を朗読したり。
 本日ローマ字ひろめ会の大会を開くに方り、一言申し述べたいと思ひます、我が大日本が国字として漢字仮名の外、ローマ字をも採り用ゐなければならぬ理由は、これを要するに三つとなります、第一は我が国の勢力を世界に発展せしめるためで、其れには我が大日本の言葉や文字を世界に推し拡めなければなりませぬ、今用ゐられて
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いる鎖国的の文字では、とても之れを完ふすることが出来ないのであります、第二は我が国民の普通教育を全くするためで、其れには児童をして文字を習ふために無用な脳力を費すことを力めて避けなければなりませぬ、ローマ字は今後の我国民には誰れも知らなければならぬ文明世界共通の音文字で、書にも習ふにもたやすくして、之を用ゐる時は他日普通教育の上に、今日不便として居るところの大半を除き得ることゝ信じます、第三は労力と時間との経済の為でローマ字を用ゐると、書信や印刷が容易くなり、日常の事務の上に於いて労力と時間の経済が今日とは非常に違つて来ます、我がローマ字ひろめ会は、この趣意を成し遂げるために力を尽して居りますローマ字のますます多く用ゐられることは自然の大勢でありますが我が会は尚つとめて一日もこの大勢の早く来る事を助け、諸君と共に益々励んで、我が大日本の発展の為めに尽したいと思ふのであります。
右了つて青淵先生・阪谷男爵、外両三氏の演説あり、最後に林副会頭は帝国教育会の樋口氏の提案に係る「小学校の教課にローマ字の綴方読方・書方を加ふる事を其筋に建議する事」の決議案の可否を一同に諮ひ、満場の賛成を得、猶ほ二三ローマ字普及実地運動法を協議し、九時過ぐる頃散会したりと云ふ。
  ○栄一演説筆記欠ク。


渋沢栄一書翰 増田明六宛(大正四年)一〇月三日(DK470078k-0003)
第47巻 p.332 ページ画像

渋沢栄一書翰  増田明六宛(大正四年)一〇月三日   (増田正純氏所蔵)
○上略
ローマ字会への寄附金、向軍治氏へ御支払可被下候、是ハ出立に際失念ニ付申添候
○中略
  十月三日                渋沢栄一
    増田明六様
         梧下


ローマ字ひろめ会略史 同会編 第一―一〇頁昭和五年一一月刊(DK470078k-0004)
第47巻 p.332-334 ページ画像

ローマ字ひろめ会略史 同会編  第一―一〇頁昭和五年一一月刊
○上略
 我がローマ字ひろめ会は、明治三十八年十月に其の組織を終つたとはゆうものゝ、此の月此の年を以て、其の成立の時とするのは、厳密な意味に於ては当らない、ローマ字ひろめ会は、明治三十年代に隆盛を極めた言文一致の運動に刺戟せられ、明治十八年に出来た「羅馬字会」の再生したもので、「羅馬字会」は又、慶応の初年前島密男爵の「漢字御廃止の議」、南部義籌翁の「修国語論」、西周氏の「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」などの刺戟や、影響を多分に受けて出来上つたものである。
 斯う記してくると、ローマ字ひろめ会の沿革史は、勢い日本に於けるローマ字の起源、及び其の発達の歴史に筆を進めねばならぬ。が之は到底此の小冊子の企て及ぶ所ではない。で、此等の叙述は総べて、「日本ローマ字史」の領分に任せ、玆には単に我がローマ字ひろめ会
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成立当時からの主要な出来事、並にその事業の大要を箇条書きに記して、ローマ字ひろめ会歴史のホンの輪廓と云つても、ローマ字ひろめ会は創立以来既に二十五年の長年月を経過して居る。此の間の事業や出来事は、可なりに多く、又可なりに複雑して居る。で、便宜上此の二十五年間を三期に分け、事務所所在地の名称を冠せて、次のように区分してみたい。
      第一期 東片町時代
 明治三十八年十月、ローマ字ひろめ会創立当時より、大正二年六月まで、事務所が東京本郷区東片町百十一、新公論社内にあつた間で主として創立初期の時代。
      第二期 丸の内時代
 大正二年の七月、幹事桜井義肇氏の職を辞し、向軍治氏代つて幹事となり、事務所を丸ノ内日比谷ビルデイング内に置き、可なり事業を行つた時代。
      第三期 西片町時代
 大正十二年九月一日、大震大火の為、丸ノ内の事務所焼失後、本郷区西片町十、後藤牧太氏邸に仮事務所を置き、復興と活動の準備とに全力を注いだ時代。
以上の区分に拠り、以下年月を追うて簡単に其の間に於ける事業並に出来事を記すことにしよう。
    一、東片町時代
        (明治三十八年十月から大正二年六月まで)
 明治三十八年十月、ローマ字ひろめ会創立以来、大正二年六月まで事務所が本郷東片町百十一新公論社内にあつた八ケ年間を指して名けたものである。創立当時だけに、今日私共にとり、興味と注意とを惹く事実が少くないように思う。
 明治三十八年十月十五日 かねてから言文一致、並に国字改良に熱心であつた向軍治氏は、神田一ツ橋学士会に於ける動物愛護会の席上で、同席の新公論社長桜井義肇氏に対し、同氏主幹の「新公論」誌上にローマ字欄を設け、ローマ字の運動を開始しては如何と勧められた。此の勧告を受けた桜井氏は、同志高島米峰、平井金三両氏と協議の末、此のため特に独立したローマ字雑誌発行の必要を認め故沢柳政太郎博士を始め、桜井錠二博士・上田万年博士・藤岡勝二博士・故神田乃武男爵・故後藤牧太教授、その他国語・国字に関する先覚者二十五名の賛成を得、毎月五拾銭乃至一円宛の会費を以て月刊雑誌"Romaji"――菊倍版型十二頁――を刊行した。かくしてローマ字ひろめ会は、始めて日本の国土に生れ出たのである。
  当時「ローマ字」雑誌発行の挙を賛して、毎月会費五十銭乃至一円宛の負担を承諾された二十五名の方々は、実に我がローマ字ひろめ会建設の親石ともゆうべき人々である。下に其の芳名を掲げて置く。×文博沢柳政太郎氏・×男爵前島密氏・×子爵渡辺国武氏・×男爵神田乃武氏・×男爵辻新次氏・理博桜井錠二氏・文博上田万年氏・文博高楠順次郎氏・文博白鳥庫吉氏・×農博松井直吉氏・×理博箕作佳吉氏・×文博南条文雄氏・文博新村出氏・文
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博藤岡勝二氏・×後藤牧太氏・巌谷季雄氏・向軍治氏・×平井金三氏・丸山通一氏・×大江孝之氏・渡部董之介氏・×樋口勘治郎氏・日下部重太郎氏・山県悌三郎氏・山県五十雄(×印十二名は既に故人となつた方々)
○中略
 明治四十四年四月十八日 西園寺公爵・林伯爵・阪谷男爵の発起で創立以来経済上種々援助を頂いた森村市左衛門翁えの感謝ををかね渋沢子爵・村井吉兵衛氏・古河男爵・大倉喜七郎男外十余名を招待し、京橋交詢社倶楽部で本会の発展に就ての相談の末、今後一層ローマ字運動を力強く行うと同時に、経済上の問題は当夜出席の方々に引受方を願うことになり、渋沢子爵・村井吉兵衛氏・小池国三氏神田鐳蔵氏などは五ケ年間に一千五百円宛、高田慎蔵氏・大橋新太郎氏・服部金太郎氏其他からも千円乃至五百円宛寄附の申出がありとり敢えずローマ字書籍出版・講演会・講習会及びローマ字辞書の編輯に着手することゝなつた。尚お当夜の来会者は二十名内外であつたが、晩餐会費は全部阪谷男爵がお引受け下さつた。



〔参考〕動物愛護 第二五号昭和一六年三月 動物愛護運動の回顧(二十四) 広井辰太郎(DK470078k-0005)
第47巻 p.334-335 ページ画像

動物愛護  第二五号昭和一六年三月
    動物愛護運動の回顧(二十四)
                      広井辰太郎
      ローマ字ひろめ会のこと
 其頃の三新進運動の一、ローマ字ひろめ会のことを略記する。明治三十八年十月十五日の夕一ツ橋学士会に於てローマ字ひろめ会が結成せられた。ひろめ会の創立から主として此運動の初期における主役は向軍治氏と、桜井義肇氏とであつた。医博桜根孝之進、高島米峰・阪谷芳郎・沢柳政太郎・後藤牧太・平井金三諸氏の名もこの運動に関聯してよく覚えてゐる。その外多数知名人士も無論あつたに相違はないが、文献等に関係なしに宙でゝも云へるのは、先づ以上八氏の名前位である。
 これより曩明治十八年には、已に羅馬字会といふものがあつたが、これは前島密男の「漢字廃止の議」、南部義籌氏の「修国語論」、西周氏の「洋字を以て国語を書するの論」等の影響を多分に受けたものと思はれる。而して明治三十八年十月十五日誕生のローマ字ひろめ会は明治十八年の羅馬字会の再生であつたと云はれ得やう。
 ローマ字ひろめ会は明治三十八年十月から大正二年六月頃までは、創立者の一人桜井義肇氏の自宅であり、新公論社でもあつた本郷東片町一一一番地に置かれてあつたが、大正二年七月桜井氏が幹事を辞して向氏がこれに代ると同時に、その事務所は丸の内日比谷ビルヂングに移転し、大正十二年九月一日の関東大震災のため再び本郷に舞戻り今日では京橋に事務所をおいて相変らず運動を続けてゐる。躍進を祷つてやまない。
 ローマ字ひろめ会の初代会頭は西園寺公で、林董伯がその副会頭であつた。私は当時麻布仙台坂の上に住んでゐられた林伯を訪問して、小一時間も話したことがあつたが、それは多分動物虐待防止会の件に
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就てゞあつたらう。会頭西園寺公が時折親しく羅馬字ひろめ会の総会等に臨まれたことは、本誌第十一号の「回願」中の、桜井義肇君に懇請されて、私が嫌がる青木律彦君(ドイツ普及福音教会牧師)を口説いて園公の前で詩吟をやらせたところ、青木入神の詩吟がいたく園公を悦ばせて、「牧師にしておくのは勿体ない人物」だと公を感歎せしめたと云ふ話でゞも判かるのである。
 私自身も創立当時からその会員の一人ではあつたが、たまらぬと云ふ程の熱心な会員ではなかつた事を、遅種乍ら玆に告白する次第である。ローマ字ひろめ会は依然同じ名号の下に、創立者向軍治氏の名前が名誉評議員として名残を留めてゐる以外、大体に於て法博林毅陸氏(会頭)以下の新しき陣容の下に運営せられてゐるが、こう云ふ時勢であり、天ノ時利アラズの憾みがあるのは免れ得難いことであろうと思ふ。夫れにしても、今日では厄介な婦人団体ですら統合帰一しやうとしてゐるのに、ヘボン式だの、標準式だの、将又日本式だのと、僅かばかりの綴方を楯に取つて対立抗争してゐるのは何事ぞ。加之、近年新進言語学者宮崎静二氏の国際ローマ字会が登場して、田中館愛橘博士等の所謂「日本式」を爆撃してゐる。宮崎君は良い意味においての狂信者に近い、ローマ字宗の熱血児であるが、その主張は「ひろめ会」のそれに近い。私はその成功の為に、ローマ字運動の戦線統一を切望する。但し私は日本式ローマ字と云ふ奴丈は真平御免を蒙りたいのである。



〔参考〕動物愛護 第二六号昭和一六年四月 ローマ字運動について(一) 向軍治(DK470078k-0006)
第47巻 p.335-337 ページ画像

動物愛護  第二六号昭和一六年四月
    ローマ字運動について(一)
                      向軍治
(一)我国で国語を写すにローマ字を用ひたのは切支丹の徒が始です其頃に出来たローマ字綴の平家物語が、倫敦の博物館に保存せられてゐたのですが、今回の戦争で今猶無事保存せられてゐるか否か、私は存じません。
(二)我国の国字改良運動の先駆者は、現今の郵便制度の創設者前島密男爵です。男爵は慶応二年に、時の政府に漢字御廃止の儀を上書せられてゐたのです。
(三)明治の御代になつてからのローマ字採用論の先駆者は土佐南部義籌氏で、明治二年に「修国語論」と題して建議せられ、同四年から同氏の努力で文部省内に実際運動が起り、字典も編纂せられたのですが、大正十二年の大地震に其時の書類は全部焼失したかと思ひます。明治八年に故森有礼子が米国から帰朝して、米国でホイトニ氏が反対したに拘らず「ローマ字採用なんか廻遠い、国語を英語に改める方が捷径だ」と云ふ説を立てられたので、過ぎたるは猶及ばざるが如く、ローマ字論が下火になりました。明治六年に福沢先生は漢字漸廃論を唱へられました。
(四)新日本の最も進歩的であつたのは明治十六年から明治二十二年迄です。明治十五年にローマ字採用論が起り(此処から明治三十八年迄の事は平凡社の大百科字典「ローマジ」の欄に出てゐます)
 - 第47巻 p.336 -ページ画像 
(五)右第一回のローマ字運動は明治二十五年に消滅しました。最後の幹事が松井直吉氏でした。
(六)右第一回のローマ字会設立に先だつて、ヘボン氏はローマ字綴日本語辞書を発行し其の第三版をローマ字会式に改められたのです。
(七)右第一回のローマ字運動の時、綴方の相違でローマ字運動が三派に分れ、田中館愛橘博士がローマ字会に反対して、今猶固執して居られる無学の標本とも謂ふべき綴方を主張しなさつたのです。今一つの一派は立消になりました。
(八)第一回のローマ字運動の成功しなかつた理由は幾つもありますが、其中で最も大なる者は、当時のローマ字論者が文章の改良の必要に気が付かなかつた事です。漢学の素要のない人等が「豈其れ然らんや」と云ふ調子の似而非文章をローマ字で綴つたのですから、読者には何の事か諒解の出来ない論文が盛んに発表せられたのです。
(九)当時私は独逸協会学校の学生で言文一致の必要を主張したのですが、学生の身分ですから、世間へは之を発表しませんでした。
(十)明治二十三年に文部大臣井上毅子が「漢文は読むに止めて、作文には用ひない事、其代に和文を用ひる事、但し源氏物語の様な古い国語の再興は不可、新井白石以後の和文を奨励すべし、従て国語を中学の学科の一にする」と発表しなさつた時、私は当時二十六才でした一夕同大臣を其の官邸に訪問し、五時間に亘つて言文一致一点張を説いたのですが、同大臣は私の主張を諒解し得ませんでした。是が今日我国の文章が支離滅裂になつた発端です。
(十一)言語は調子が何より大事です、子供に日頃家庭で話をする調子、文章を書く又は読むに漢文の調子、和文の調子、御負に手紙は候文の調子、当時は漢文口調の仮名交りの文と云ふ者もありました。
(十二)「閣下の御説の実行せられる様になると児童は語学責に逢つて、学問は智識を得るためでなくて、言語文章を学ぶため丈になつて学問の手段であるべき言語文章に脳力を浪費して本当の学問は出来なくなります、且つ話す言葉の調子、候文の調子、漢文の調子、和文の調子と云ふ事を並行させる事になると、結局国語破壊になります、是非御一考あつて、言文一致一点張に遊ばして、話す言葉も書く言葉も同一にして、智識を得るための手段たる言語文章に国民が苦められると云ふ弊害の生じない様にして下さい」と五時間を費して論じたのですが、子爵は非常に私を愛してゐてくれられたに拘はらず、此国家的大問題に関しては私の説を採用してくれず、遂に今日の如き言葉倒と云ふ国家が出来上がる事になつたのです。二十年前にジヤパン・アドヴアタイザ主筆が「日本人が現在の様な国語を造り上げた、今では其国語が彼等を現在の様な(下らない)人間にして了つた」と論じた事があります。実に千古不磨の言です。
(十三)明治三十三、四年に二高在職中に、読売新聞主筆中井錦城君(同郷人)と打合せて言文一致運動を起し、中井君等は東京で議会に迄も迫つて言文一致採用を歎願し、私は宮城県下で巡回演説を行ひ、仙台市に言文一致会を設け、其時言文一致並にローマ字運動を標榜したのですが外国人の外誰も賛成者がありませんので、運動は言文一致
 - 第47巻 p.337 -ページ画像 
丈に止め、読売新聞紙上で「ローマ字が嫌ひなら片仮名一点張にすべし」と主張し、三日間一面全頁片仮名のみの私の論文を同紙上に発表しました。四十年昔の事です、此節仮名を物新しげに騒ぐ時勢後れの人達の気が知れません。漢字よりは仮名がマシですが、改良する程なら、ローマに一足飛すべきです。今仮名に改めて、何年か後に復ローマ字採用の必要に眼が覚めるなんか随分愚策です。
(十四)明治三十七年二高辞職帰京、三十八年夏六月と思ひます、場所は神田学士会の建物の中で、動物愛護会が開かれた時、私が同じく言文一致論者であつた桜井義肇君に「ローマ字運動を起したい、君の新公論の一部をローマ字欄にして欲しい」と談じ込みましたら、桜井君が「承知した、新公論に借家するより別にローマ字会を組織する方が得策だ」との返事でした。従て「僕は学校の教師で社会運動に手を出す暇がない、万事君に任せるから是非此運動を起して欲しい」と頼んで其晩別れました。
(十五)桜井君が高島米峰君及平井金六君《(マヽ)》と三人で運動を開始してくれ、第一に承諾を得たのが沢柳政太郎氏。氏の義伯父林薫伯に副会頭になつて頂き、伯から西園寺公に会頭を頼まれたのです。
(十六)此時桜井君に「田中館博士にも賛同を願つて欲しい、但しローマ字運動が成功する迄は、綴方の事で内輪喧嘩の起らない様、其事を博士に懇談して貰ひたいと頼んだのです。桜井君がどう話をしてくれたか存じません。当時私は獅子身中の虫を抱込むのだとは夢にも思ひませんでした。
(十七)明治三十八年十月十五日に発会式が挙行されました。
(十八)三十八年に因んで三十八人が会費一円持寄と云ふ事であつたと思ひます。
(十九)併し其んな金では何の運動も出来ませんので、森村市左衛門氏が毎年金壱千円を五ケ年継続で出資してくれられました。今の森村男爵の父君がローマ字ひろめ会の産みの親です。
(二十)森村氏の外に維持会員を求めて御寄附を仰いだのです。渋沢子爵は其時毎年千円宛寄附する一人になつたのだと思ひます。只金銭上御補助を仰いだ丈で、其外子爵はローマ字運動には何等直接の関係はありませんでした。
(二十一)桜井君は大正二年に幹事を止めました。私が其後を引受けて大正十一年迄幹事を勤めました。
(二十二)東京の大抵の金持には私が談じ込んで、承諾を得れば、維持会員になつて頂きました。大阪でも同様富豪に泣付いたのです。
(二十三)大正十年に渡米した時、元東大の教師であつたチゾン氏が一週間待てば十万円は友人から出させてやる、是非一週間滞在しろと勧められたのですが、九十四歳の母親の世話をしてゐてくれた舎弟が死去したので、一刻も猶予ならず帰朝したのです。チゾン氏も最早故人になられて残念です。
(二十四)ひろめ会が設立せられると、会名はローマ字ひろめ会、綴方は第一回即ち明治十八年のローマ字会の綴方を其儘会の綴方として採用する事と云ふ事に衆儀一決しました。