デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
2節 演芸
1款 帝国劇場
■綱文

第47巻 p.405-411(DK470104k) ページ画像

大正4年10月15日(1915年)

是日、当劇場正面玄関ニ於テ、栄一ノ胸像除幕式行ハル。栄一コレニ臨席シ、取締役会長大倉喜八
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郎ノ式辞ノ後、謝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK470104k-0001)
第47巻 p.406 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年          (渋沢子爵家所蔵)
十月十五日
○上略 午前十一時帝国劇場ニ抵リ、余ノ胸像除幕式ニ出席ス、大倉氏・福沢氏等ノ演説アリ、余モ一場ノ謝詞ヲ述フ○下略


(帝国劇場株式会社)第十八回報告書 大正四年下半期・第五頁 刊(DK470104k-0002)
第47巻 p.406 ページ画像

(帝国劇場株式会社)第十八回報告書
                大正四年下半期・第五頁 刊
 ○第一八回報告書
    第四 渋沢男爵胸像竣成
渋沢男爵ノ功労ヲ永ク紀念センカ為ニ、予テ帝国劇場本館正面玄関ニ建設中ナリシ同氏ノ胸像竣成セルニ付、十月十五日ヲ以テ除幕式ヲ挙行セリ


中外商業新報 第一○五九五号 大正四年一〇月一六日 ○帝劇の大玄関に渋沢男の胸像(DK470104k-0003)
第47巻 p.406 ページ画像

中外商業新報  第一○五九五号 大正四年一〇月一六日
    ○帝劇の大玄関に
      渋沢男の胸像
帝劇内に設置されたる渋沢男の胸像除幕式は、十五日午前十一時半より、同劇場大玄関に於て行はれたり、来会者約七十名、先づ取締役会長大倉翁は莞爾として起ち、極めて打ち寛げる口調にて「渋沢男の胸像を芝居小屋の玄関に建てると云ふのは少々理に落ちない事である、と人は言ふかも知れないが、言はゞ此世の中は恰も劇場の如きもので世相を圧窄して見せる、而も男爵の多大なる尽力に由て創設さるゝ事の出来た此の劇場に、今日の挙ある別に異とす可きではない、福々しい男爵の風貌を像に彫して、来る人毎に幽かしい感じを与へ、兼ねて其功労を当座と共に永く後世に残し度い、之れが余等関係者一同の志である」と述べて式辞に代ふれば、男爵は之に挨拶して曰く「私は今日の盛事に由て、私の事を後に遺され様とせらるゝ大倉会長始め一同の芳志に対し、衷心聊か愧ぢ入る次第である云々」と、次に男爵令息秀雄氏は進んで幕を除き、製作者新海竹太郎氏の式辞朗読、来賓総代福沢桃介氏の祝辞、親戚側としての穂積博士の謝辞ありて式を閉ぢ、一同階上大食堂に入り、置酒、杯を挙げ歓談に暫し時を過して、二時半めでたく散会せり
  ○右ト同文ノ記事「竜門雑誌」第三二九号(大正四年十月)ニアリ。


東京日日新聞 第一三九九二号 大正四年一〇月一七日 渋沢男を賓頭盧尊者 帝劇の寿像除幕式 御本人御機嫌斜ならず(DK470104k-0004)
第47巻 p.406-407 ページ画像

東京日日新聞  第一三九九二号 大正四年一〇月一七日
    渋沢男を賓頭盧尊者
      帝劇の寿像除幕式
      御本人御機嫌斜ならず
帝国劇場は一昨日午前十一時から、正面玄関に建てられた渋沢男の寿像除幕式が行はれた、来会者は本人の渋沢男を初め、大倉喜八郎・穂積陳重博士・福沢桃介・西野恵之助諸氏及び梅幸・幸四郎・宗十郎・宗之助・松助・律子・嘉久子等男女優等数十名、大倉翁の式辞、渋沢
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男の答辞の後、男の令息秀雄氏が寿像を蔽うた白布を引くと
 △純白な大理石 に刻まれた福徳円満な男の半身像が現はれた、此時福沢桃介氏来賓総代として寿像の前に立ち、口上茶番を述べて曰く「尾崎法相は嘗て明治維新以来の英雄豪傑に西郷・大久保・木戸等の諸公あれど、いづれも短所を有す、これ等の英雄を打つて一丸としたものが二人ある、それは福沢諭吉翁と渋沢男であるといつた、法相の言が当れるや否やは判らぬが、兎に角それ程偉大な
 △男の像を帝劇 正面玄関に飾得るのはこの上もない喜びで、失礼な申分だが、男爵の顔は福徳円満ではあるが決して美男子ではない、その美男子でない顔を帝劇の玄関に飾つてこそ、舞台が一入引立つて芝居は繁昌する、この意味から男の寿像を飾るのは帝劇の為めにいゝと思つてゐたら、この像は純白で御本人よりも美しい、こんな美しい笑顔を観客の第一印象とすると、舞台の役者が汚く見えて困る……」と高いところから渋沢男の
 △顔を見下して ニッコリする、男はゲラゲラ笑ひながら「怪しからんねえ、抗議を申込むよ」と盛んに御機嫌である、桃介氏言葉を続けて「……私は男爵の寿像を賓頭盧と同様に扱ひたい、即ち此像の頭を撫でゝ自分の頭を撫でると、男の如く悧巧になる、此像の口辺を撫でて自分の口辺を撫でると、男の如く福徳円満になれるとしたらば、六千万の同胞がワツシヨイワツシヨイと帝劇に押掛けて来て繁昌疑ひない、私は是非、男の寿像を帝劇の賓頭盧にしたい」と結んだので、大笑ひだつた


渋沢栄一 日記 大正八年(DK470104k-0005)
第47巻 p.407 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
一月二十八日 晴 寒
○上略 午前十一時田中屋ニ抵リ、帝劇ニテ催フセル新年宴会ニ出席ス、一場ノ祝詞ヲ述ヘテ、午後二時事務所ニ抵リ○下略


渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK470104k-0006)
第47巻 p.407 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年        (渋沢子爵家所蔵)
一月五日 晴 寒
○上略 午後一時宴○宮中新年宴会散シテ後兜町事務所ニ抵リ、服装ヲ更メ木挽町田中屋ニ抵ル、帝国劇場会社ノ新年宴会ニ出席ス、来会ノ大倉男、西野・田中・手塚氏等ト共ニ、俳優一同ニ対シテ一場ノ訓示演説ヲ為ス、午後三時再ヒ事務所ニ抵リ○下略


竜門雑誌 第三九六号・第七〇頁 大正一〇年五月 ○大倉男爵寿像除幕式(DK470104k-0007)
第47巻 p.407 ページ画像

竜門雑誌  第三九六号・第七〇頁 大正一〇年五月
○大倉男爵寿像除幕式 表正面の階段の上に青淵先生の寿像を安置しある帝国劇場にては、今般更に大倉男爵の寿像を其傍に建設する事となり、予て新海竹太郎氏に依頼して彫刻しつゝありし処、此程完成せるより、四月二十三日午前九時より右除幕式を挙行したるが、当日は大倉男爵一門を始め、青淵先生、藤山雷太・根津嘉一郎・益田太郎氏其他新聞記者・専属俳優及女優等参列し、山本専務の挨拶、青淵先生の感想談、大倉男爵の謝辞等ありて後、食堂に移り、一同和気靄々裡に散会せる由。

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帝劇二十年 円城寺清臣編 第七頁 昭和三六年二月刊(DK470104k-0008)
第47巻 p.408 ページ画像

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竜門雑誌 第四三四号・第六四―六八頁 大正一三年一一月 復興した帝国劇場 山本久三郎(DK470104k-0009)
第47巻 p.408-411 ページ画像

竜門雑誌  第四三四号・第六四―六八頁 大正一三年一一月
    復興した帝国劇場
                      山本久三郎
    1
 帝国劇場もいよいよ復興した、世人の期待に背かない積りで先づ梅蘭芳を迎へて、復興第一の開場を為した処があの盛況を示したのである、それを見ても、如何に市民が帝国劇場の復旧して新装成るを待つて居たかを知ることが出来る訳で、私は愉快に堪へない。
 思ひ起すと、帝劇は今から丁度十四年前に、九十八万円の工事費を以て出来上つた、それが昨年の霹災前には、時価三百万円だと評価せられて居た、あのまがつ火はこれを焼き尽したのであるから、一般に惜まれたことは当然であり、経営者としての私の胸中は、また同じ炎で焼かれる心地であつた、併し今日斯うして面目を一新した建物を見て居ると、費用は約百二十万円を費したが、却つて幸ではなかつたかと思はれる程で、震災前の不完全なまた不便な点を悉く改良した、これと云ふのも、基礎工事は勿論外廓とか間仕切が殆んど残つたからである。
    2
 で災前の設備に比較して改善した点を挙げるならば、先づ従前の客席は欧洲で昔行はれて居た貴族生活の様式を採つたもので、左右にボツクスを有して居る馬蹄形のバルコンの付いた旧い型のものであつたが、此度は有名なバイロイトのオペラハウスに見るやうな新様式のものとした、所謂扇の地紙形とかまたは殻状と云ふ型である、これは全然ボツクスを撤廃した平民的なものである。
 そして一階は前には木造の床であつたけれども、耐震耐火とする必
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要を感じて、新らしいものはコンクリートとし、一、二等の階段を廃し、巧妙なエレベーションをつけた、また二、三、四階も形状を地紙形として、一体に不便な処とか見憎い処を除去した、次に貴賓席は前と同じ場所に設置したが、中二階風に低く突き出した。
 客席の装飾は以前金色燦爛として眼を奪ふばかりであつた為に、舞台との調和が破られ勝であると同時に、観劇に際して余りに刺戟が強過ぎ、従つて観客の落ちつきを失はしめて居た憾があつたから、今度は渋い地味な、寧ろ瀟洒たる色に塗りかへた。併し之に対して廊下の方は出来るだけ明るいやうにと心掛け、そのやうな装飾を施した、次に大休憩室の絢爛目を奪ふ如きものを作つたが、これは前の食堂であつた個所で、実にゴージヤスなものである。
    3
 また二、三、四階へ上るには、それぞれの専用階段を設けたから、非常のことがあつた際は云ふまでもなく、平素に於ても頗る便利となつた、そして屋上の遊歩場へは各階から行かれるやうにした、食堂と売店は三、四階の外に、旧事務所建物内に集めて、別天地としたのである。
 寒暑に対する設備は殊に苦心をして、以前には冬季熱気を輸送する時、廔々異様の鋭い音響をたてゝ、客席の人々に不快を感じさせる場合があつたので、今度は絶対に之を防止する装置を為した、また夏季は従来単に屋上の小孔から送風するものと、電気扇だけであつたが、新らしく井戸水の中へ空気を潜らせ、それにアドゾールを応用し湿度の調制をして、冷却した空気を各階の客席へ放送すると云ふ清涼設備を為した、従つて斯くては劇場は一つの避寒場であり避暑場となつたと云へる訳である。
 掃除にも意を用ひ、各階各処にヴアキウム・クリーナーで真空鉄管を装置した、これは諸所に丁度水道栓のやうな口があり、それに吸収口を附けて置き、この口にホースを差し込むと直ちに塵埃は一定の場所に吸ひ集められると云ふ仕掛になつて居るもので、衛生上大変に有効なものであつて、換気機も新式のものを購入して据付けた。
    4
 電気は劇場専用の地下配給線を東京電灯と市の電気局とから引いた上、蓄電室も従前の通りに完備せられたから、停電の不自由は万々ない事を期し得られる。
 次にこれまでは客席を特等、一等、二等、三等、四等と階級的に区別して居たが、この等級はどうも感心せぬのに、帝劇で初めた為め他の劇場でも、我が国で呼び慣れて居る土間とか鶉とか桟敷とか云ふやうな呼称を廃して、帝劇式に特等、一、二、三、四等と改めた様子である、其処で今度は之を全廃して、単に一階、二階、三階、四階と云ふことにした、どうも此方が時代に適応して階級感念をも少くし、芸術は平等だと思はせられるやうで感じもよい。実際外国でもオーケストラ・ストールとか、ピツト・ストールとか、ドレツス・サークルと云ふ風である、斯くて客席がデモクラチツクになると同時に、切符も一様にした。
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 舞台や廻し、それから花道の設備は以前と同様であるが、オーケストラ・ウエルは半月状に改造した、また劇場として重要な照明は、その機具を独逸シーメンス会社と米国のクリイグル会社とに注文したもので、最新式のアツパラタスと、スヰツチ・ボードのデツキが舞台装置に応じて昇降出来るやうにした、従つて照明の実験室と楽屋は特別扮装室であるから、舞台と同様の照明の下に扮装出来る室をも設けたのである。
    5
 以上は新装の成つた、帝国劇場の大体であるが、之等は梅蘭芳を迎へて開場して見て非常に都合よく、新らしい改善した諸設備が予期の如き効果を齎したので、吾々当事者は満足して居るのである、併し漸次不都合な点は改造して行く考へで努力して居る。
 扨て又帝劇の方針は、今日までと更に変ることなく進むのであるが殊に対外的位地と国際的使命とは完全に遂行して行く積りで、常に苦心して居る、此点は震災に依つて一層明白になつた、即ちエルマン氏やヂムバリスト氏やハイフエツツ氏等諸楽聖を招聘した縁故から、彼等が卒先してデスクリプシヨンを催し、日本国民に対する深い同情を持つて義捐したことは欣快とする処である、又近くは、波蘭のパデレフスキーの後継者と嘱目せられつつある、ミユンツキ氏を招聘して、波蘭公使から感謝せられたなどは、日波親善上に寄与した点が多いと思ふ。
 故に今後海外芸術家の招聘は廔々行ふ積りで、現に復興第一に梅氏を迎へ、次で伊太利の大歌劇団の来朝をも待つて居り、また来春になればマツコーマツク氏を迎へることにしてある。
    6
 近頃オペラを復活せよとの説が可成多いのである、自分は内容形式とも、世界的の新興芸術はどうしても歌劇から起るものであらう、と私かに考へて居る、能楽にしても旧劇にしても、日本古来からの固有のものは一つの伝統芸術であるから、特殊のものとしての存在には充分な価値があるけれども、世界的たり得ることは出来ないのである。
 併しながら、帝国劇場として今オペラを復活させることには幾多の支障があり、実行困難の傾がある、それは云ふまでもなく結局経営難に陥る惧れがあるからである、何分帝国劇場は株式会社として一つの営利会社であるから、今の処では手の下しやうがないと云ふ有様である、嘗てはオペラ部を創設してその養成と成長とに尽して見たが、附帯の一事業としても不適当であることが明かになつた、故にオペラの発達は劇場外で相当の資金を提供する覚悟のあるパトロンがあり、篤志な人が専心之を経営するのでなくては、容易に発達を所期することは出来まい、自分はさうすることが本当であると思つて居る、従つて左様なものが成立した時、その供給を劇場が受けるとすれば、敢て差支ないのみでなく、大いに歓迎する。また他の方法としては官立の音楽学校あたりを解放して、従来の官僚的方針を放棄し、斯うした方面に力を尽すことも必要であらう。
 其処で自分は更に考へる、これを復活せしめるよりも外国の好い歌
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劇団を招聘することが、劇場としてもよく芸術的にも効果があると。
 尚ほ女優劇は今後大いにその特色を発揮させる積りである。
    7
 何分経済界が不況のドン底にあるから、劇場としては先づ難局に向つて居ると言へやう、故に現在、この復興の一時的活溌な事情に心を奪はれて、災前よりは観客が増加したなどゝ安心は出来ず、これを基準として劇場の殷賑とか、興行の繁昌を断ずることは、早計であると思ふ。


渋沢栄一 日記 大正一五年(DK470104k-0010)
第47巻 p.411 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
三月十七日 晴 寒
午前七時起床、入浴朝飧ヲ畢リ、山本久三郎氏来訪、帝国劇場経営ノ事ニ関シ頃日来大倉男爵ヨリ内話アリタル次第ヲ詳話シ、近日福沢・益田二氏ト内話シテ、将来ノ方法ヲ案出シテ説明セラレン事ヲ談ス
○下略
  ○中略。
三月三十日 晴 寒
○上略 西野恵之助氏来リ、帝劇重役ノ事ヲ談ス○下略
三月三十一日 晴 軽寒
○上略 丸ノ内事務所ニ抵リ、福沢桃助氏来《(福沢桃介)》リ、帝劇重役ノ事ニ付協議ス
○下略