デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
2節 演芸
2款 帝国劇場付属技芸学校
■綱文

第47巻 p.419-423(DK470110k) ページ画像

大正2年3月18日(1913年)

是日、帝国劇場二階大食堂ニ於テ、当校第一回卒業生森律子ノ渡欧送別会開カレ、栄一出席シテ送別ノ辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK470110k-0001)
第47巻 p.419 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年         (渋沢子爵家所蔵)
一月七日 晴 寒
午前八時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ○中略 森肇氏及律子来訪シ、律子海外行ノ企望ヲ内話セラル○下略


中外商業新報 第九六五九号大正二年三月一九日 色彩を添へたる律子の送別会(DK470110k-0002)
第47巻 p.419-420 ページ画像

中外商業新報  第九六五九号大正二年三月一九日
    ○色彩を添へたる
      律子の送別会
愈々廿二日出発洋行の途に就くべき森律子の為め、花井卓蔵・跡見花蹊・佐々木信綱等各方面の名士数十名が発起して、十八日正午、帝国劇場二階大食堂にて送別の盛宴開かる、刻に及ぶや、雪白の大鳥毛はさめる鍔広の帽子の下に包み兼ねたる喜色と例の愛嬌を漂はせる顔、特に綺羅びやかに仕立卸しの洋服軽き律子は、童顔の渋沢老男と手を携へたるを先頭にして、一同
△盛花美しき席に就く、見渡したる顔触れは渋沢男の他に、益田・浅野・田中・西野・手塚等の劇場重役の面々を始めに、花井卓蔵・望月小太郎・清崟太郎・伊東知也等の代議士あり、佐々木信綱・服部嘉香等の歌人、江見水蔭・松居松葉・山崎紫紅・佐藤紅緑・田口掬汀・山岸荷葉・阪井久良岐等の文人あり、勿論座付俳優は梅幸・幸四郎・松助・宗十郎・宗之助・蟹十郎等挙つて顔を並べ、お仲間の村田かく子・田中勝代・小林延子・松本あい子等の顔も見え、又珍らしく河合武雄
 - 第47巻 p.420 -ページ画像 
も在り、彼是百五十人の内に、殊に目立ちて岩谷松平氏の緋装束光彩を添え
△同郷の縁に繋がる内藤鳴雪翁も亦異彩たるを失はず、先づ花井博士開会の辞を終るや、渋沢男例の調子にて諄々其行を壮にし、次で律子は一層愛嬌満面の身を起して「女優になると云ふ第一の希望を遂げ、洋行すると云ふ第二の念もかなふやうになつて嬉しう厶いますが、まだも一つ大きな望が厶います、それは西洋へ参りました甲斐に、何をかな、皆様の御志に酬ゆるだけの物を得て帰りたいと云ふ事ですが、之は中々困難なことで……」と云つた様な挨拶あり、岩谷先生律子の為めに万歳をとの発案ありしも、諒闇中とて「それでは何卒御心の内で」と略して、鳴雪翁は疎髯を動かせて、送別の一句を高唱して曰く「君もお国大和桜と匂ひ来よ」と、お国はお国歌舞伎のお国なる事云ふ迄もなく、正に
△錦上花を添へたるものなるべし、更に梅幸の短冊と云ふは、紅の霞に梅と桜の散されたるに「海山を遠くへだてゝ行く君はにしき重ねてかへりますらむ」と柔しき筆の跡を匂はせたり、かくて和気靄々の裡に盃を挙げ、時代の寵児たる美女を中心に時を移し、二時散会


中外商業新報 第九六六三号大正二年三月二三日 ○「さよなら」律子さん 花やかな新橋駅(DK470110k-0003)
第47巻 p.420-421 ページ画像

中外商業新報  第九六六三号大正二年三月二三日
    ○「さよなら」律子さん
      花やかな新橋駅
洋行すると云ふ噂が立つと、問題は問題を生んで大分評判になつた森律子が、例の紫紺に白で広く襟を取つた洋服に肥つた体を、ベールの中に愛嬌たつぷりの丸い顔を包んで、新橋停車場の婦人待合室の電灯に照らされたのは廿二日午後二時四十分、彼是三時前だつた、連れ添ふてつゝましやかな母堂がゐる、見る間に狭い待合室は華やかな
△女優の姿一杯になる、浪子・覚子・早苗・信子・蔦子・小春・蝶子・浜子などの顔が寄つたり放れたりしてゐる、花束が彼所此所の袖の蔭に見えたり匿れたりしてゐる、宗十郎の曇つたやうな顔が見えるが、それよりも其入口から食堂への階段かけて、女優と聞ては捨てゝ置かぬ男や女が山のやうに道をふさげた、此群衆の鵜の目鷹の目の裡に応接暇ない律子は忙しげに語るらく「神戸迄母と一所に参りまして、明日は大阪へ一泊致します、明後日の晩九時に神戸を発ちまして、京城で父に一寸逢ひます、父は長春迄送てくれる筈で厶います、左様長春を立つのは廿七日と云日取です、夫で倫敦へは四月十日に着きますが一月ばかり其所に居たいと思ひます、五月には小山内さんも倫敦へ御出でになるさうですから、お目にかゝれませう、帰りますのは八月か九月、えゝ極僅かの旅行で厶います、西伯利亜鉄道でドンとやられたらそれぎりです」とたわいない事を云つて笑ふ、プラツトホームに繰出すと、此処は又
△一杯の人で、時雨女史や松葉氏や久良岐氏や花月の女将や西野氏や手塚氏やも居る、遅れて益田太郎氏が飛込んで来さま、帽子を振て、「フエヤーウエル」を叫んだ、此処でも周囲は見物の山で、列車の窓窓又悉く人の頭である、席は中央の寝台車、例の真赤な岩谷豚翁がヘ
 - 第47巻 p.421 -ページ画像 
コンだ山高帽を振て万歳を叫んだ時に、一斉の「御機嫌よろしう」で汽車が動く、三時五十分、益田氏が「忘れてはいけませんよ」と云つたので一寸耳立てたが「買物を頼んで置いたのさ、金だけ遣はれて忘れられちやつまらぬからな」で事実は明瞭、何でもなかつた



〔参考〕東京朝日新聞 第一五八八三号昭和五年七月二二日 世界人の横顔 (10) 渋沢老子爵の言葉に深く涙ぐむ女心 森律子氏語る(DK470110k-0004)
第47巻 p.421-423 ページ画像

東京朝日新聞  第一五八八三号昭和五年七月二二日
    世界人の横顔 (10)
      渋沢老子爵の言葉に深く涙ぐむ女心
                     森律子氏語る
ほら、帝劇が震災で焼ける前、あの大玄関の真正面に飾られてゐた二つの大理石の胸像を御存じでせう。一つは渋沢栄一子、一つは大倉喜八郎男――あたし達、あれにあだ名をつけたんですよ。渋沢さんのは大黒さん。大倉さんのは恵比寿さん。だつて、どちらも、にこやかでおだやかで、強い線の中にも親しさと福々しさとがうかゞはれてゐたぢやありませんか。西園寺さんからのお勧めで、渋沢さんが帝劇を創立されたのは、明治四十一年でございました。そして、あたしはその時始めて出来た女優養成所にはいり、帝劇の初舞台を踏んで、それからずつとこの方、家付娘のやうに帝劇と一緒に育てられて参りました
      女優生活二十年
 たどつて来た路を振り返つてみると、舞台の上の苦労も悩みもうれしさも、みんな夢のやうですわね。女優養成所が開かれる時、社長の渋沢さんは『私は皆さんの親とも保証人ともならう、私は皆さんの取りあげ爺さんですから……』といはれましたが、渋沢さんこそは帝劇女優の生みの親で、それだけあたし達には老子爵の印象が深いわけでございます
渋沢さんといふと、『子曰く……』の論語を思ひだすでせう。あたし達も飛鳥山のお邸で、あの有名な論語のお講義を何度となく承りましたわ。グランドフアザース・クロツクと申しませうか、背よりも高い古風な分銅時計の前で、じゆんじゆんと説かれるお言葉をかみ分けてゐると、やんちやな若い娘達でも、いつの間にかしんみり引込まれてしまひました。でもこの数年間はちつとも論語のお話をなさいません。卒業したのでせうつて? いゝえ
      卒業のお免状は
まだ頂戴してゐませんのよ。いつものお話は体験談が多いやうでしたが
 『社会のために働くんですよ』
と励まされてゐるやうで、眼に見えない老子爵の感化力が、あたし達の胸にひしひしと迫るやうに感ぜられました
 ですから宅へ帰つて来ますと、何だかおまゐりから帰つたやうな気持がするのですよ。叱られたことなどは一度だつてありません。怒ることを忘れてしまつたやうな大きな方ですもの。けど、そのくせ叱られる以上に恐いと思ふこともございます
華やかな衣装、まばゆい脚光、舞台に立つ時のあたし達はほんとうに真剣です。そんな時、何とはなしに、劇場のどこかで『渋沢さんが見
 - 第47巻 p.422 -ページ画像 
守つていらつしやる!』といふやうな気がして、ハツと身も心も一層引緊るやうに覚えたこともありました。――声なきに聴き形なきを見る――老子爵の、声にも聴かれない、形にも見えない、人となりの力が知らず知らず
      あたし達の芸道
精進への励ましともなるのでございます
 渋沢さんが帝劇を去られてから、もう久しいことになりますが、御様子は二十年前と、ちつともお変りになりません。髪も、耳も、眼も――けど、これは四、五日前お伺ひした時気がついたのですが、ちらと見た歯だけは入れ歯ぢやないかとにらみました。しかし、なかなか健たん家ですのね。お弁当の御飯など『固いの、柔いの』とも仰しやらずに平げられます。九十二の高齢とはとても見えませんわ。俳優に年なしなどいひますが、渋沢さんこそ年なしですね。そして渋沢さんは時代と共に生きる人です。いつも時代と共に進んでゆく『老いざる巨人』です。常々『私は社会の公僕ぢや』といつて居られますが、さういふ方面のことは絶えず心にかけていらつしやるやうで、この間も『私のいふ国民外交も結局は婦人の力にまたねばならぬ。あんた方もしつかりやつて下さい』としみじみいつて居られました。十年ほど前
      渋沢さんが帝劇
を去られる時、村田嘉久子・初瀬浪子・河村菊江・藤間房子の皆さんと『ほかの会社はとにかく、帝劇だけは……』とお願ひすると、渋沢さんは『社長はやめても皆さんの心配はする』といはれましたが、帝劇の経営が松竹に移つた時などには『その後はどうぢや、みんな元気ですか、身体を丈夫に一生懸命勉強するやうに伝へて下さいよ』といつて、陰ではあたし達の身の上を他の方に頼まれたり、引合せをして下すつたり、そのいつも変りない温情には、弱い女心につい涙ぐんでしまひます
 昭和三年の秋、帝劇で子爵の米寿の祝賀会が開かれましたが、その晩、平山晋吉さん作の『あやかり三番』がございました。子爵を当込まれた『翁』は幸四郎さんで、夫人を当込まれた『嫗』はあたしが演じました。幸四郎さんは変装術がとても巧いので、頰ぺたの肉の落ちさうなところなど、そりや、渋沢さんそつくりのふん装振りでございました。ところが、あたしその時、ほんとうに困つてしまひましたの、渋沢さんの奥さんはお年は七十位でせうが、おぐしが真黒で知らぬうちは染めていらつしやるのだらうと思ふ位でした。『嫗』を振られたあたしは、始めは黒いかつらで出ようと思ひましたが、黒いかつらぢやあたしの『嫗』は幸四郎さんの『翁』の娘のやうに見えるんでせう。それで白髪のかつらも作りましたが、出演の日の朝まで
      黒と白のかつら
 を二つ並べて『さあ、どちらにしようか』と迷ひました。迷ひ抜いた揚句、とうとう白髪のかつらで舞台に立ちましたが、この『あやかり三番』を御覧になつて、渋沢さん御夫妻も大変お喜びのやうで
 - 第47巻 p.423 -ページ画像 
した。
渋沢さんに接してゐると、私心を無視した人といふ感じがします。私心がないから偉大で、執着がないから強いのだらうと思ひます。『赤心は天に通ずるものぢや』とよくおつしやいますが、渋沢さんの富も名誉も求めずして得た赤心の結晶といふ気がします。それで富も名誉も結局は『追へば去り、追はねば来る』ものぢやないかといふことがあたしの人生観の一つとなつて居りますの。さあ、これで老子爵の横顔が浮び上りますか知ら――