デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.497-505(DK470126k) ページ画像

明治42年6月8日(1909年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、第四回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。


■資料

(八十島親徳)日録 明治四二年(DK470126k-0001)
第47巻 p.497 ページ画像

(八十島親徳)日録  明治四二年      (八十島親義氏所蔵)
六月八日 晴
○上略 今日ハ慶喜公兜町ヘ来臨ノ上昔話アリ、御伝記編纂用ノ為也、予ハ夕帰宅


昔夢会筆記 渋沢栄一編 上巻・第四六―五八頁大正四年四月刊(DK470126k-0002)
第47巻 p.497-502 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  上巻・第四六―五八頁大正四年四月刊
  第四
      明治四十二年六月八日兜町事務所に於て

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      興山公      男爵   渋沢栄一  文学博士 三島毅君         渋沢篤二       豊崎信君    法学博士 阪谷芳郎               男爵       猪飼正為君   文学博士 三上参次               文学博士 萩野由之                    江間政発                    小林庄次郎                    渡辺轍                    高田利吉 



    御名と御別号との事
 御名は初は昭致と仰せられ候、右は何と訓じ候や。又御字・御別号等の出所をも伺ひたく候。
昭致は「あきむね」と訓ず、未だ七郎麻呂と称して水戸に在りし時、烈公より賜はりしなり。同時に字を子邦、号を興山と下されたり。興山の号は今に用ゐる所なり。又別に経綸堂とも号す。一堂の号は静岡にて謹慎御免の後、勝安芳に撰ばしめたるものながら、字の書きにくさに多くは用ゐず。
 「烈公は公を何と呼ばせられ候や」と伺へるに、「水戸に在りし時は七郎、一橋に入りて後は刑部と呼ばせられたり」と仰せらる。
    一橋家御相続の事
 一橋家御相続の事情について、御聞及びの儀も候はゞ伺ひたく候。烈公の御自記によるに、一橋昌丸疾危篤に陥られし時、老中阿部伊勢守○正弘。水戸の附家老中山備後守○信守。を招きて、「七郎麻呂殿に一橋の家を相続せしむべしとの台命なり、但極秘の事なれば、唯何となく水戸より上せまゐらすべし」と達したり。中山乃ち此由烈公に申し上げたるに、烈公は「上様○家慶公。とても未だ御出生あらせられざる御年齢
 - 第47巻 p.498 -ページ画像 
と申すにあらず、殊に西丸○家祥公、後に家定と改む。には未だ御壮年にましませば今後かずかずの御出生もあらせらるべし、一橋は清水の如く明け置かれたる方宜しからずや。但一橋相続の事は極秘の御内意とあれば、彼是申し出つべきにあらず。又仰せとある上は、出府の事否み奉るべきにあらざれど、七郎は内々水戸の扣の積りにてあるなれば、他の子供にては如何あらんか、阿部に尋ぬべし」との事なり。中山因りて此旨を伊勢守に通じたるに、こは深き思召のあることにて、七郎麻呂殿に限れる由なりければ、遂に水戸より上せて一橋には入れられたるなりとぞ。此深き思召とは如何なる意味なりけん知るべからざれども、是よりして世の人々は、慎徳公が予を西丸に入れ給はん思召ありしなど推し測りて、彼是いひはやすに至れるなり。
    尾水と連合御建白の事
 安政五年六月、亜米利加条約調印の時、公には殊の外御憤激にて、烈公へ申し上げられ、尾張中納言徳川慶恕、後に慶勝と改む。とも牒し合はせて、共々御建白あらせらるべき思召なりし由、昨夢紀事に相見え候、さやうに候や。
是は少しく事実に違へり。此時幕府より、宿継奉書を以て調印済の趣奏上したる旨達せられしかば、予は「如何なる事情あるかは知られざれども、それにては朝廷を蔑にするに当りて不敬なれば、何人か上京して、其已むを得ざる所以を奏上せざるべからず」と考へたれば、或朝平岡円四郎を安島弥次郎○信立、後に帯刀と称す。の許に遣はし、「某よりも其旨を言上すべければ、尾州とも御相談の上にて同様言上ありては如何」と、口上にて烈公へ申し上げしめたるまでなり。而して其夕なりしか水野筑後守を招きて、田安へも此意を通じたりしと覚ゆ。
    安政の断獄の事
大獄の罪案は、井伊掃部頭が間部下総守○詮勝。と議りて自ら裁断したるなり。板倉周防守は評議の席にて掃部頭に向ひ、「御養君も開国も貴説の如く行はれしことなれば、此上は断獄も大抵になし給はんこそよけれ」といひしに、掃部頭は色を変じて座を起ちたるが、周防守は其翌日御役御免となりたり。
 三島氏曰く、旧主周防守は、御養君問題については何等の周旋もせざりしかど、自ら一橋公推戴に同意なる由を語れることあり。御役御免となりしは掃部守と議合はずして自ら引退したるなり。又吟味を大抵にすべしといへる時は、掃部頭はいつも顔色を変じたりと聞けり。
下総守とてもかの罪案を固執したるにはあらず、之を固執したる者は唯掃部頭一人のみ。蓋し高松○松平讚岐守頼胤。の入説によれるものならんが、いふまでもなく高松の背後には、かの所謂水戸の奸党ありて操縦したるものと知らる。而して奸党の意は、此度の例を以て天狗党をも厳科に処せんとするにありしなり。
    島津久光の幕政改革意見書の事
 文久二年八月十九日、島津三郎久光、後に大隈守と称す。の一橋の邸に候したる時幕政改革に係る二十三箇条の意見書を呈出したる由、諸書に相見え候、事実に候や。
 - 第47巻 p.499 -ページ画像 
更に記憶せず、唯其第二十三箇条なる、「四五の大藩交代にて京都を警衛すべし」とある一箇条のみは記憶に存するが如くなれども、全体より推すに恐らくは誤なるべし。其頃松平春岳と両人にて伝奏屋敷に至り、大原左衛門督○重徳に会ひたるに、大原よりも此箇条に似たるものを自筆にて認め見せられたることありしが、固より出来ざる相談のみなりき。
 按ずるに、後に島津久光履歴書を閲するに、亦此箇条を明記せり。此履歴書は維新の後に成れるものなれども、久光自ら朱批せられたるものなりといふ。
    後見職辞退を思ひ止まり給ひし事
 文久二年十月、再度の勅使将に東下せられんとし、幕議攘夷の勅諚遵奉に決するや、二十二日公は後見職の辞表を出させられしも、松平春岳等が連日の勧告により、二十六日より再び御出仕あらせられし由、委しく続再夢紀事に見え申候、本書の如くに候や。
春岳が周旋の次第、本書に記する所の如くなりしや否やは記憶せざるも、此時春岳は、「某とても攘夷は成功の見込立たざれば、御辞職の方国家の為なりと思召さるゝならばそれまでなれども、唯己が一身さへよくばそれにてよしとの思召ならば大不忠なり、断じて御辞職は思ひ止まらせらるべし」との趣意にて、懇々と説き立てたりと覚え居れり。加之板倉・永井、さては岡部駿河守○長常。なども亦口を揃へて責め立てたれば、予も已むことを得ずして再び出仕したるなり。
    大久保忠寛外転の事
 文久二年十一月五日、御側御用御取次大久保越中守の講武所奉行に外転せしは、続再夢紀事によれば、越中守は多数有司と合はずといふによりて、専ら公の取計らはせられしものゝ如く、松平春岳はいたく不平なりしやに見え申候、如何に候や。
本書の記事は大に真相を誤り居れり。抑徳川家の初世には、老中が将軍の旨を候せんとするには、老中一々御居間に伺候せしものなるが、世の下ると共に、儀礼は次第に鄭重となれるに加へて、事は益繁くのみ成り行き、日に幾度となく御前を願ふことありて、将軍も老中も其煩に堪へざるに至りしかば、此に始めて御側御用御取次なるものは設けられたり。即ち老中は御取次を御用部屋に招き、旨を含めて将軍に伺はしめ、御取次は又御用部屋に来りて将軍の意を伝ふるものにして至極便利とはなれり。これ併しながら、多少老中の権威を殺ぐの意をも含めるなりといへり。されば此職に当る者は、最も公平質直ならざるべからざるに、越中守は器量こそありたれ、資性偏固にして、事を執るに当り、己が意に合ふと合はざるとによりて頗る手心を用ゐ、政務を阻碍すること尠からず。予は板倉周防守と共に直接将軍家に伺ひて其事実を確めたれば、周防守と議して外転せしめたるなり。下よりの議論に余儀なくせられたるにはあらず。蓋し越中守も、外転の事情は定めて自覚し居たるなるべし。春岳は越中守ほどの者はなしと思ひ込み居たれば、此議に反対して中々むつかしかりき。
是より先、越中守は京都町奉行の時も、井伊・間部の意を承けて相応の働をなしたりと聞けり。
 - 第47巻 p.500 -ページ画像 
    井伊直弼等処罰の事
 続再夢紀事によれば、井伊掃部頭・間部下総守・以下の処罰は、文久二年十一月二十日の閣議に提出せられて、即日決行せられ居り候何か朝廷に対する事情にてもこれある儀に候や。
是亦板倉周防守等と議して決行したるなり、朝廷より出でたる議にはあらず。是より先、幕府にては烈公の墓前へ御代拝を立てらるべしとの議ありたれば、予は書を上りて、「三家の責罰は事頗る重大なり、たとひ御免になりたればとて、何の廉もなきに直に御代拝を立てらるるは、余りに恐れ入りたる次第なれば、此儀は御見合に願ひたし」といひたれども、将軍家の思召なればとて、遂に新見伊勢守○正興。を遣はされたり。これ実に将軍家自ら過を謝し給ふの意なりき。さて斯くなる上は井伊等を処罰せざれば当を得ずとの議あり、井伊はもと幕府の内意を承けて其横死を秘したるなり、而も既に何事も済みたる上の事なれば、今改めて処罰するにも及ぶまじきことながら、「老中をも監督すべき溜詰の家柄にありながら、自ら死を秘して上を欺きたるは不都合なれば、不法は不法として罰せざるべからず」とて、遂に十万石減知の沙汰は出でたるなり。此時も大久保越中守はいたく此議に反対したり。これ忽ち其身に累を及ぼすことなればなるべし。
因にいふ、何故当時幕府より井伊に内諭して死を秘せしめしかといふに、井伊より水戸に対して復讐を図ることあらば、ゆゝしき大事に及ぶべしとて、老中等が之を抑へん為に、井伊の機嫌を取りたるに外ならず。又井伊の家督相続についての意味をも含めるならんと察せらるるなり。
    加因備三藩と長藩との関係の事
 蛤門の変の時、京都にありし加州藩の世子松平筑前守前田慶寧。が、戦端開くと見るや、直に大津に引き上げたるは、深く長藩と約する所ありしが故にて、長藩は今度若し鳳輦を移し奉るが如きことありとも、之を奉ずるの地なければ、加州が近江に領地あるを幸ひ、筑前守に託して守護せしめんとせしものなる由、防長回天史に見え申候斯かる事情は当時より御承知あらせられ候や。
加州が長州と気脈を通じ居れることは夙に承知し居たれども、斯かる密約ありしことは聞かざりき。而してひとり加州のみならず、因州・備前○松平(池田)備前守茂政。とても、予が兄弟ながら、長州と結託せし態度は油断すべからざるが故に、会津の者を召して戒心せしめたる程なりしが其処置に至りては遂に何等の成算もなかりしなり。
    初度の長藩追討に照徳公の上洛を促し給ひし事
蛤門の変後両三日にして、薩州の小松帯刀予に見えて曰く、「長州は今非常に混乱し居るべければ、将軍家には此際急に御上洛ありて、兵を進め給ふべし」と勧めたり。予も固より同じ考なれば、直に永井主水正を東下せしめて、将軍家の御上洛を勧めまゐらせ、会津よりも使者を立てゝ、急速の御進発を促せり。偶老中阿部豊後守関東より上京せしかば、予は「将軍家にして此際直に御進発あらば、事立ろに落著すべければ、足下は是より直に引き返して、御上洛を促し奉るべし」といひしに、豊後守も同意して即日下坂したるが、斯かる大事を己一
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人にて成し遂げんことは、覚束なしとて、在坂の若年寄稲葉兵部少輔○正己。を伴ひ、海路江戸に帰りたりと聞けり。然るに如何なる事情ありけん、関東にては容易に御上洛を決行すべくも見えざりしかば、帯刀はもどかしくや思ひけん、再び予に見えて、「此上は公自ら在京の手兵を率ゐてなりとも御進発あらせらるべし、弊藩は奮つて先鋒を承らん」とまで申し出でたり。予は「如何にも好機会ながら、斯かる大事を、一人にて処決すべきにあらざれば、将軍家の御上洛を待つの外なし」とて、此事遂に行はれざりき。
    征長総督更迭の事
 元治元年初度の長藩追討に、一旦総督を紀伊中納言徳川茂承。に命じながら幾もなくして尾張前大納言徳川慶勝。に変更せられたるは、如何なる事情により候や。
そは如何なる事情なりしか知らず。されど尾州が躊躇逡巡、頗る御請を難り、数十日の後に至りて漸く御請したるは、其間に薩州の西郷吉之助が何か周旋せしものならんと想像せらるゝ節あり。さて尾州が総督として長州に向ひ、長州は降伏せしも、未だ其実を表せざるに、吉之助は其間に斡旋して、急に軍を還さしめたり。思ふに此頃長州には激派漸く意を得んとする状ありしを以てならん。後に板倉伊賀守に聞くに、吉之助は一刻も早く兵を引き上ぐべきを説けりといふ。如何にしても尾州と西郷との間には、長州処置につきての内約ありしならんと思はるゝなり。
    小笠原長行の勅勘赦免の事
 元治元年八月、小笠原図書長行の勅勘を赦されしは、幕府の奏請により候や。
幕府の奏請によれるなり。時は蛤門事変の後にて、長州荷担の攘夷論者は既に朝廷に跡を絶ち、図書の宥免に対して故障を唱ふる者なかりしかば、唯幕府より一通りの申立にて、事故なく宥免し、諸大夫に叙せられたり。
    阿部正外本庄宗秀上京の事
 慶応元年二月、老中阿部豊後守・松平伯耆守本庄宗秀。の上京せしは、専ら公の御帰府を促さん為なりしやに見え申候、如何の模様に候ひしや。
蛤門の変以来、予等は頻に将軍家の御上洛を促せども、関東にては如何に誤解せしものか、「将軍家の御上洛にはそれぞれ故格旧例もありて、非常の入費を要し、寔に容易ならざることなるに、在京の有司は是等の事情には少しも頓著せず、唯朝廷の意をのみ迎合して、ひたすら御上洛を促すは不都合なり」との趣意よりして、予を在京せしむるを不可となし、関東に呼び戻すべしとありて、阿部豊後守・松平伯耆守の二人上京せるなり。さて豊後守先づ予が旅館に来り、後に又伯耆守来れり。斯く別々に来りし所以は、一人先づ予を説きて失敗せば、他の一人代りて別様の説を持ち出すべき計画なりしならん。予は是より先、関東の事情を熟知せるを以て、其何の為に上京せしかは既に承知し居たれども、両人は一たび京都の形勢を目睹するに及びて、事の行はるべからざるをや悟りけん、遂に何事をもいひ出でずして空しく
 - 第47巻 p.502 -ページ画像 
江戸に帰りたり。
 按ずるに、こは公が御記憶の誤にて、伯耆守先づ参邸し、尋で豊後守参邸したるなり。
  ○本資料中ノ割註ハ総テ原註ナリ。以下同ジ。


竜門雑誌 第二五四号・第六一頁明治四二年七月 ○旧主徳川慶喜公の詳伝(DK470126k-0003)
第47巻 p.502 ページ画像

竜門雑誌  第二五四号・第六一頁明治四二年七月
    ○旧主徳川慶喜公の詳伝
 国民新聞は「渋沢男の大著述」と題し、六月十二日の紙上に左の如き記事を掲載せり。
渋沢男は元一ツ橋家に仕へ徳川慶喜公の用ふる処となりて以来今日まで約五十余年間、公と密接の関係を持続し来りたるが、男は、一は旧主慶喜公に対する謝恩の為め、一は公の幕末に於ける公明正大なる心事と、克く順逆の大勢を観て王政復古に尽されたる功績の甚だ大なることを世人に紹介せんとて、去る二十七年以来私費数万円を投じて公の詳伝を起草中の由なるが、之につき十日兜町の事務所に男を訪て其意見を尋ねたるに、男は斯ることを世に公にするは慶喜公の喜ばざる処なれば深く秘し置きたるも、事玆に至れる以上は事実を語るべし、最初此の事を思ひ附くと同時に、旧幕臣でもあり旁々に筆が立つ処より故福地源一郎氏に依托して著手せしも編述半にも至らずして福地氏は故人となり、且つ氏の編纂方に少し意見の違ふ所ありたれば、其方針を全々一変して、再び之を新に編述することとなしたり、夫れと同時に、之れまで三上博士を編輯顧問に、萩野博士を編輯主任に、小林文学士を執筆担任者に、その下に二名の文学士を招聘し、又紀料蒐集方を江間政発氏に托して此処の二階で編輯せしが、何分自分は今日迄多忙な為め十分なる意見を述べ又は原稿を通読して注意を与ふる暇なきが為め、荏苒今日に至れる次第なるが、今後は比較的暇を得て専心之に従事せんと思へり、冊数は二十になるか三十になるか未定なれど大半以上に進捗したれば、明年中には脱稿し江湖に批評を乞ふことも出来んか。



〔参考〕昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一八六―一九三頁大正四年四月刊(DK470126k-0004)
第47巻 p.502-505 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  下巻・第一八六―一九三頁大正四年四月刊
  第二十六
      昔夢会以前巣鴨・小日向公爵邸に於て

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      興山公      江間政発       新村猛雄君 



    烈公の御教養の事
烈公諸公子の御教養に心を用ゐ給ふこと極めて厚かりければ、公が近侍の女中等も烈公の意を承けて、寝相の悪しきは斯くして改め給ひてんとて、御枕の両側に剃刀を立て置き、「一たび頭を落し給はゞ、忽に傷きて痛きめ見給ふべし、心して慎み給へ。尚武士たる者は、たとひ片寝するにも左を下にはすまじきものなり、若し敵に右の利腕を取られなば、如何にせんすべもなかるべし、ゆめゆめ忘れ給ふな」など夜毎の如く懇に教へ戒めまゐらせしかば、公は幼心にも、片寝の事は
 - 第47巻 p.503 -ページ画像 
実にさる理もありぬべしと会得して、かりそめには聴き給はず、常々心し給ひけるが、遂には習ひ性となりて、年老ひ給ひての後も、右を下ならでは、寝ぬるも安らかならず覚えさせ給ふとかや。
 藤田健曰く、烈公が諸公子の御教導は極めて厳格にして、夜中にも折々諸公子の寝室へ入らせられ、「昼間は何の書を読みしぞ、如何なる遊戯をなせしぞ、寝相は如何に、寝ねての上の行儀も、しかと心得しむべきものぞ」など仰せられて、枕の片よりて正しからぬをば、自ら直させ給ひしことも屡なりきとぞ。
    御幼時の課業と御気質との事
水戸諸公子御幼時の課業は、毎朝起き出で給ふと、直に四書・五経の中半巻を復読せらるゝ定にて、近侍の者其間に髪を結ひ奉りながら、背後より検しまゐらするなり。復読了りて朝餉したゝめ給ひ、四つ時まで習字あり、それより弘道館に上りて、教官の素読口授を受けさせられ、館中文武の諸局に臨みて、諸生等が修業のさまをみそなはし、正午に至りて帰らせ給ひ、午後も亦習字・復読等に就かせられ、少しの余暇もあらせられず、唯晡時に至りて暫しの遊戯を許され給ふのみなり。さて御兄五郎君後の池田慶徳君。のとかく温順にして、高尚なる事をのみ好ませらるゝに似ず、公と八郎後の松平直候君。九郎後の池田茂政君。の両公子とは気象勝れさせ給ふものから、かりそめの遊戯にも、軍よ火事よと勇ましき事をのみ好まれけるをもて、自ら手荒き御振舞ども多く、いつも厳誡は公に下るの風なりき。烈公の御生母外山氏は、実は烏丸家の息女にて、名を補子《マス》といひ、瑛想院と称せらる、水戸城中の翠の間といへるに在しけるが、諸公子には実の祖母君に当れるをもて、毎月朔日十五日・二十八日の三箇日には、打ち連れて翠の間に至りて祝賀し給ふ例なりしが、尼君は公が日頃悪戯の数々をば逐一に知ろし召しければ、一日まのあたり厳しく訓誡せられしに、公は恐懼して過を謝し給ふかと思ひの外、つと立ち上りて、「此坊主め」と罵りつゝ、いたく尼君の頭を打ち叩かれたり。こは容易ならぬ無礼なりとて、又もや厳しく誡めまゐらせ、剰へ大きやかなる炙を点じて懲らしめまゐらせしが、烈公早くも之を聞こし召しければ、尚も一室の中に閉ぢ籠め、固く謹慎を命じ給ひぬ。されども尼君は人となり殊の外雄々しくましましければ、一際公の快活なるを愛で給ひ、其後も何くれとなく親しく教訓し奉られけるとぞ。
    追鳥狩御参加の事
弘化元年三月二十二日、烈公恒例によりて千坡の原に追鳥狩を行はせらる、是ぞ当時名に立てる甲胄の実地調諌《(練)》なる。公も御兄五郎君と共に従軍を許され給ふ。二公子同庚の生れにて、今年甫めて八歳の御幼年なれば、未だ甲胄は召さゞれども、始めて陣羽織を著、太刀を佩き馬に跨がりて、未明に追手の橋上に出でさせられ、床几に倚りて待たせ給ふ。やがて先陣より順次に城門を繰り出し、列伍粛々として進行するさまを御覧じけるが、中軍なる旗本勢の過ぐるを見るや、再び馬に打ち跨がり、烈公の御後に引き添ひて、静々と打たせ給ふ。長途の行軍ながら、公は聊も倦み給ふ気色なく、終日の調練に、勇ましき軍勢の駈引を余念なく見廻り給ひ、事果てゝ後また中軍に列なり、夕刻
 - 第47巻 p.504 -ページ画像 
に至りて帰城し給ひしが、さすがに一日の馳駆に疲をや覚え給ひけん物の具脱ぎ捨つる間もなく、其儘打ち倒れて早くも寝入り給へるを、烈公は笑ましげに御覧じて、躬らかき抱きて奥に入らせられ、尚も助け励ましつゝ、夜食を相伴せしめ給へりとぞ。日時は松宇日記によれり。
    始めての御登城の事
弘化四年九月朔日一橋家御相続の後、公は尚暫く小石川邸に在せしが十月朔日始めて大城に登りて慎徳公に見え給ひ、同じき五日再び御登城ありて、大奥にてまた慎徳公に見え給ふ。凡殿中の坐作進退は格席に応じそれぞれ規格ありて、頗る厳粛なるをもて、予め習礼といふことあり。されば表にては御側御用御取次本郷丹後守、大奥にては上臈姉小路橋本勝子、後に薙髪して勝光院と称す。専ら補導し奉り、諸礼滞りなく済ませられたり。奥御登城の時、今日こそは親しく接見し給ふことゝて、慎徳公は子供珍しく思し召し、殊更優しくものせられ、「水戸にては書物は何何を読まれしや、城下の風物は如何に、今年の作毛は豊なりや」など何くれとなく懇なる仰せ言ありしに、公は謹みて一々に答へ申し給ひやがて御前を退くと其まゝ、一橋の邸へ徙らせられしとぞ。日時は一橋相続日記によれり。
    五十三間の観菊の事
毎年十月、本丸なる五十三間馬場の名。にて観菊の御催ありて、此日は盆栽・小鳥・小間物を始めとし、くさぐさの物ども処せきまで陳列し、望に任せて陪観の者へ下さるゝ例なりけり。公は一橋家御相続の後、弘化四年十月十一日、始めて田安卿と共に陪観し給ひしが、平素綿服に麻の肩衣を著け、桟留縞の袴を穿ちて、質素竪実を旨とせる水戸の家風に育ちたる公が目には、如何にも珍しく、幼心にいづれ得まほしくは思し召せども、さすがに慎みて色にも出し給はねば、近侍の者ども、くさぐさの物ども指し示して、「是は如何に、彼は如何に」など問ひまゐらすれども、公は「唯見事に候、珍しく候」と答へ給ふのみなりしが、いつしか其品々には一橋様と記せる紙札を結びつけられて皆下され物となり、其夥しさは誠に驚くばかりなりき。さて又泉水に金魚の数多群れ居たるを、慎徳公御覧じて、公に命じて思ひのまゝにすくひ捕らしめ給ふ。斯かることは公の最も得意とし給ふ所なれば、御免といひつゝ袴の股立高々と括り上げ、すくひ網手にして池の辺に臨まれしに、如何なるはづみなりけん足踏みすべらして、ざんぶと水中に陥り給ふ。慎徳公は怪我やしつらんと気遣はせられしが、公が満身水に濡れながら自若として在すをみそなはし、却ていたく興じ給ひて、益寵遇し給へりとなん。日時は一橋家日記によれり。
    慎徳公の寵遇の事
慎徳公一日亀有筋に放鷹し給ひし時、公田安卿と共に駕に陪せられしが、慎徳公は公の未だ鷹の事に慣れ給はぬを御覧じ、近く寄り来て、「拳は斯くせよ、肱は斯くあれ」など、親しく御手を添へて羽合せしめ給ひ、又一橋邸臨御の時などは別けて打ち解け給ひ、謡曲の催あるに当りては、公に謡はせて躬ら舞ひ、躬ら謡ひて公に舞はしめらるゝことも屡にて、常に例外なる寵遇を蒙らせ給ふ。其間に於ける一種の温情は、さながら父子相対するが如きものあらせられしとかや。
 - 第47巻 p.505 -ページ画像 
    御鹿狩御随従の事
嘉永二年三月十八日、慎徳公旧典を復興して下総小金原に狩し給ふ。公田安卿と同じく随従の命を拝せられ、尾紀両世子と共に、前夜夜半に大城を発し、松戸駅にて暫く休息し給ひ、やがて狩場へ著かせらる此日慎徳公手づから鹿を刺し留め給ひしが、公は田安卿と二騎相前後して柵の周囲を乗り巡り、親しく警衛し奉らる。事果てゝ帰館し給ひしは、其夜の四つ時頃なりしとぞ。日時は一橋家日記によれり。
    安政の地震の事
安政二年十月二日の夜亥の刻ばかりに、江戸に大震ありて、市民の家屋・倉庫はいふも更なり、神社・仏寺・諸侯の邸宅より、大城の殿閣に至るまで、夥しく破損して、死傷亦幾万なるを知るべからず。此時公は既に寝室に入りて、将に眠に就かんとし給ひしに、俄に天地震動して、壁壊れ障倒れ、あはや大厦も覆らんず有様なれば、急ぎ屋外に出で給はんとするに、軒傾きて戸を開くこと能はねば、力を極めて押しはづし、戸と共に庭上に転び落ち、走りて築山に避け給ふに、忽ち築山崩壊して、大なる石灯籠の、響をなして倒るゝなど、其危きこといふべからず。さて庭続きより奥に廻りて、太夫人たちの安否を伺ひ給ふに、太夫人たちも、はや庭上に下り立ち居給ひしかば、其恙なきを祝しつゝ、いざとて馬場なる小亭に誘ひまゐらせ置き、自らは独り厩に馳せつけ、馬丁どもを励まして、乗馬に鞍を置かしむると其儘、鞭を加へて大城に登り、将軍家の御機嫌を伺はせ給ふに、従ふ者纔に数人に過ぎざりしとなん。急遽のさま想ふべきなり。日時は武江年表によれり。
    蛤門の変の事
蛤門の変に、長州派の堂上等頻に和議を主張し、遂に主上を要し奉りて有栖川宮邸へ遷幸なしまゐらせんとせし時、公遮つて之を止めさせられしことにつき、始終公の御供して見聞したりといふ小松帯刀の直話なりとて、某の巨細に筆記せしもの、島津家文書の中に見えたれば一日公に謁し、其筆記を呈覧して実否を伺ひまゐらせしに、御熟覧の後、「如何にも当時急遽の際、帯刀には屡何かと申し付けたることありき、此書帯刀の直話たるべきは勿論、事実に於ても相違なし、良きもの手に入りたり」と仰せられたり。