デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.577-598(DK470131k) ページ画像

明治43年5月7日(1910年)

是日、飛鳥山邸ニ於テ、第九回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK470131k-0001)
第47巻 p.577 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年         (渋沢子爵家所蔵)
五月七日 晴 暖
○上略 二時王子ニ帰宅シ、此日王子宅ニ開キタル昔夢会ニ出席ス、徳川公爵以下編輯所ノ諸員来会ス、種々ノ談話アリテ後四時過ヨリ会ヲ閉シ、庭園ヲ散歩シ牡丹ヲ観、又分園ノ巨松ヲ一覧シ、六時頃ヨリ晩飧ノ宴ヲ開キ、囲碁・落語等ノ余興アリ、夜十時過散会ス


昔夢会筆記 渋沢栄一編 中巻・第六四―一〇五頁大正四年四月刊(DK470131k-0002)
第47巻 p.577-594 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  中巻・第六四―一〇五頁大正四年四月刊
  第九
      明治四十三年五月七日飛鳥山邸に於て

図表を画像で表示--

       興山公      男爵   渋沢栄一   文学博士 三島毅君         渋沢篤二        豊崎信君    法学博士 阪谷芳郎        猪飼正為君   男爵                文学博士 萩野由之                     江間政発                     渡辺轍                     井野辺茂雄                     藤井甚太郎                     高田利吉 



○井野辺 文久二年に、幕府で朝廷の御沙汰を奉じまして大赦を行ひました、其時の最初の御評議……、即ち文久二年七月十日でございま
 - 第47巻 p.578 -ページ画像 
すが、春岳侯が朝廷の御沙汰を奉じて速に大赦を行はなければならぬといふことを、専ら主張になりました、然るに御前は、あの時は自分始め春岳以下尽く罪があるのである、殊に桜田事件の水戸の浪士の如き、不届千万であるから赦すことは出来ない、天下の大法は私情に依つて曲げることは出来ないから、御沙汰ではあるけれども、遵奉することは出来ないといふ御議論で、評議も遂に纏まりませぬでございました、其後再三春岳侯が御用部屋で、朝廷の御沙汰を奉じなければならぬといふことを主張になり、七月十三日にも亦其御議論がございました、其時には春岳侯の議論が極めて激烈で、老中なども余程困つたやうでありますが、とうとう其説を容れまして、大赦の勅旨を奉ずることになりました、御前にも春岳侯の説に従はれて、大赦を行ふといふことに御賛成になりましたので、始めて御評議が纏まつたのであります、それで十五日に将軍家の御裁可を仰ぎまして、其事は確定致しましたが、最初御前が大赦の勅諚を奉ずることに御反対なされましたのは、其事柄が御身の上に御関係があり、又御実家の水戸家の方にも御関係のあることでありますから、かれこれ御斟酌なされまして御反対なされたのでございますけれども、それでは私情に拘泥するものであるから、今は春岳の説に従ふことにしやうと仰せられたと申すことが、再夢紀事に見えて居ります、実際さやうの御都合でありましたものでございませうか、
○公 成程大赦といふことがあり、なかなか議論がむづかしくつてね一体むづかしい訳は、桜田事件にしろ、東禅寺にしろ、坂下にしろ、其やつた者を赦してしまふといふことになると、したことが善いことになる、つまり桜田のことも善く、東禅寺のことも善く、坂下のことも善し、皆それへ斬込んで殺さうとした者は善いと斯ういふことになる、又朝廷で仰しやる時には、一体井伊が悪い、それから攘夷をやらうといふ時に其外国人を斬つたんだから、誠に国の為に善いと斯ういふ訳になる、それで坂下のことも、安藤は良くない奴だ、天下の為に良くない奴を殺さうとしたんだから、それは国の為に尽したんだから赦せと斯う仰しやる、御尤もでございますといふと、さういふことをする者は皆善いことになる、それでは幕府の方の規律……、懲罰といふものが立たない、それでどうも大変議論があつた、それで朝廷の方へ附く輩もあり、幕府の側からいふ族もあつて、朝廷ではさう仰せがあつても、どうもそれでは規律が立たぬといふ議論があり、又一つには桜田の者にしろ何にしろ……、私ども春岳・板倉、皆井伊にやられた人が出て、其者を赦すといふことになると、それから党派を生ずるやうな訳になる、又今度向ふの人が出ると、反対にやるといふやうな理窟になる、どうもそれは宜くない、将軍家でなさることを、さうどうも手の裏を返すやうに色々になつては規律が立たない、井伊や堀田を罰しやうといふ説も、私の考は、あの時分の人をば其儘にして置いて罰しない方が宜い、さうでないと、そらこつちの人が出たから、最初の人は皆叩き込めといふことになると、又今度向ふの人が出ると又変る、それではいつまでも規律の立つといふことはないといふことを最初に言ひ出したんだ、早くいふと、今日伊藤公なら伊藤公を殺した
 - 第47巻 p.579 -ページ画像 
者は、あれは誠忠な者だ、赦してしまへといふと同じ訳だ、それは決して出来ない、幕府の時でもそれは出来ない、今日御一新後になつて見れば赦すといふことになつても、それは朝廷の思召だから構はないが、幕府で政治をして居る中は、それは決して出来ない、其論が大変むづかしかつたんだね、そこで朝廷では赦すと仰しやる、赦しませぬといへば朝廷と反対になる、それでは朝廷へ楯をつくことになる、楯をつく訳にはいかぬ、といつてまるで罪の無いものとは出来ない、そこで議論が大変やかましくつて、先づ此くらゐにして置かうという訳で赦したやうなものだ、実は困つたんだ、つまり大体をいふとそれなんだ、
○井野辺 大赦の勅旨を奉ずるといふ幕府の御評議が極まりました時に、其範囲とでも申しませうか、これこれは赦すがこれこれは赦さぬといふ……、
○公 それも色々議論があつたよ、はつきり覚はないが、それも誠に困つた、大赦といふと、罪のある者を何もかも残らず赦すといふのも大赦だ、こゝまでの者は赦す、こゝまでの者は赦さぬといふ区別がまあある、で朝廷の方で仰しやるのは所謂国事犯だね、其他の者は御構ひなしだ、処が国事犯といふと、さて幕府の方になつて見ると、更にそれを全く赦してしまふといふ訳にはいかない、
○井野辺 あの時には、戊午の獄に関係した者と、桜田の事件に関係した者だけしか赦してございませぬが、其他は最初から御赦しにならぬといふ御評議でございましたらうか、それとも追つて赦すといふことになつて居つたのでございませうか、
○公 どういふことであつたか、それは覚はないがね、困つたことだけを覚えて居る、
○井野辺 板倉周防守の如きは、東禅寺の暴徒などは、絶対に赦すことは出来ないといふ議論であつたやうですが……、
○公 それは多分さうだつたらう、
○井野辺 やはり御前の御意見もさやうで……、
○公 私などもやはりさうだ、それを赦したらしやうがないからね、皆赦してしまふと交際に関するから、それは出来ない、
○井野辺 然らば御前の御意見では、先づ戊午と桜田事件に関係した者を、主として御赦しなさるくらゐの御意見で……、
○公 先づあからさまに言ふと、朝廷で赦せと仰しやる、色々の理窟は今言つた通りある、けれどもまるでそれを潰す訳にはいかぬから、此くらゐの処で朝廷の仰しやることを立てなければいかぬといふ訳なんだね、
○井野辺 此くらゐといふ範囲は……、
○公 それは今ちよつと覚はない、
○萩野 御赦しになつただけを範囲と見て置きませう、
○井野辺 最初七月十日の御評論の時に、御前が自分も罪があり、春岳も罪があるといふことを仰しやつたといふことでありますが……、
○公 それは先頃確か話したと思つて居る、それは罰する時の話ぢやないか、
 - 第47巻 p.580 -ページ画像 
○井野辺 いえ、大赦の御議論の時に御前がさう仰せられたといふことがあります、水戸の浪士の如きは不届だといふことを仰せられ、又其頃牢へはいつて居りました大橋順蔵なども、不都合の者であるから赦すことは出来ぬと仰しやつたといふことがありますが、
○公 確かさうだつたらうと思ふ、早い話が、幕府では悪いことをすると罰しなければならぬ、朝廷の方では、こつちの罰した者を赦せと斯う仰しやる、反対になつて行くのだ、そんならどうあつても御沙汰を用ゐることは出来ませぬとか、或は用ゐますとか言つてしまへばそれまでだが、朝廷の思召も少しは立てなければならず、こつちの規律も立てなければならぬといふのだから、大変むづかしい、一体は出来ないことなんだ、白いとか黒いとか、ちやんと極めてしまへば宜いが鼠色といふことは極《ゴク》むづかしいことだ、
○萩野 それ故に大赦といふ名目であつても、東禅寺・坂下といふ方は御赦しがなくつて、先づ安政の獄に関係の者と、桜田事件に関係した者だけを御赦しになつたといふ訳でありますな、
○公 あれは外国に関係したことだから、それを赦すといふことになると外交上に関係する、けれども片方の攘夷といふ方から言へば、外国人を叩き殺さうとか何とかいふのだから、遣つた者は善いに違ひない、そこで議論がむづかしかつたのだ、然らば井伊始め安藤のしたことが総て善いことかといふと、残らず善いとは言はれない、して見ると朝廷の仰しやる所は善い、善いことを遣れといふのだから、遣らぬで宜いといふ訳にもいかない、だから大変むづかしい、愈宜しうござると押すことは出来ない、
○藤井 文久三年四月に、愈攘夷の勅諚を御奉じになりまして、御帰府といふことになりました時のことでございます、三月に松平春岳侯なり、水戸中納言殿なり、それから引続きまして小笠原図書頭などが皆京都を御立になり、其後四月二十二日に御前が京都を御立ちなさいます時に、松平肥後守が申しますには、曩に小笠原図書頭が東帰し、今又御前が御帰りなさいまするといふと、何分京都に御滞在になる所の将軍様は御年が若い、其機に乗じて若し堂上方から、何か難題がましいことでも申出されて、それを将軍様が御受にでもなるといふことになりますと、取返しがつかぬやうなことになりますから、こゝは是非とも御前が、京都の方に御滞在になつて、将軍様を御輔けなされますることが必要ではございますまいか、又江戸の方へ御帰りになりました処が、既に江戸では水戸殿に攘夷を御委任といふことに極まりました以上は、政令が二途に別れるといふ憂がある、旁以て此節は御帰りなさらぬ方が御為ではありますまいかといふことを、申上げたといふことが書いてあります、今から私ども考へますると、如何にも肥後守の申したことは尤のやうに思はれますが、それにも拘りませず、御前が勅諚を受けて御帰りになりましたのは、前年其事につきまして御伺ひは致しましたが、何かまだ其他に裏面の御事情でもありましたことでございませうか、
○公 それは余程前に話したことがあつたと思ふ、攘夷の旨を受けて帰つたのは、あれはあれだけのことで、外にどうといふことはない、
 - 第47巻 p.581 -ページ画像 
○藤井 恐入つたことでございますけれども、会津の人が書きました七年史などを見ますると、何か其節御前が御不平があらしつたといふやうなことが出て居るのでありますが、さういふことはございませぬで……、
○公 あれは前年確か話したと思ふが、朝廷から二日に置かずといふくらゐに色々御難題が出る、それで閣老始め一々御答も出来ぬといつたやうなことで、実は当惑したのだ、それは第一攘夷といふことについて、色々の書面が沢山ある、それがどういふ事柄かといふと、某といふ者が斯ういふことをした、誰もどうしたから、あゝいふ者を唯置いてはならぬとかいふやうなこと、何といふことなしに、浪士だとか何とかいふ者が方々穿鑿して持つて参つたものを、すぐに採つて御書附にして御出しなさる、それで皆腹を立つて、何しろこれでは迚もいかぬといふので、四月に残らず持つて関東へ帰つてから然るべく致すといふことで、引払つてしまつたのだ、其事は前年話したと思つた、それはもうそれだけのことだ、先づそれで片をつけたといふだけのことだ、
○藤井 さう致しますと、愈勅を受けて江戸へ御帰りなさいますといふ御話は、余り漠とした御尋でございますけれども、いつ頃からさういふ……、
○公 私の帰つたのは四月であつたが、其余程前から色々評議して、どうも遣りやうがないのだ、もう長州其他では、余程討幕といふやうなことが盛になつて来た時で、何もかも持つて帰つて、それで立消にしたといふやうなものだ、つまりはどうしても処置がなかつたんだ、
○藤井 石清水の行幸といふことの前から、さういふ御話があつたのでありますか、
○公 石清水後ではないか、加茂行幸があつて、それから石清水の行幸があつて、多分其後だらうと私は覚えて居る、加茂で余程形勢が進んで、又石清水の行幸で進んで来て、それから其次に大和行幸といふことが起り掛つた、其前だ、確かさう覚えて居る、
○渋沢 伊勢へ行幸といふことがありましたな、それから関東まで行かうといふ、あれは真木和泉の建策であつたと思ひます、
○江間 あの時そつと連れ出さうといふ積りらしうございました、
○渋沢 真木の主張であつたやうに思ふ、其事が破れて中山の暴発となつたのだ、
○江間 それの破れが愈奈良へ御出でになる、大和へ御出でになり掛けたのですが、それが八月十八日です、
○公 八幡の行幸の時に、あの節には御供といふのだけれども、何分閣老始め心配して、どうしても御出でになつてはいかぬから、御出でにならぬやうにしろといふことで、其前日であつたか私は参内した、其節に三条・東久世・豊岡、あゝいふ人が皆揃つて、何とかかとかやかましく言つたんだね、色々言つた処が、どうしても承知しない、とうとう行く外ないので、私も病気であつたが御供をした、本などにはあの時私が仮病を遣つたやうに書いてあるが、実はさうでない、真に下痢をしたので、途中で休み休み御供をしたくらゐで、八幡へ御供を
 - 第47巻 p.582 -ページ画像 
した処が、山の上までは何分にも登ることが出来ない、召されることは召されたけれども……、それからすつかり装束を取つて臥て居た、処が書物などにあるのは、将軍に神前で攘夷の節刀を賜はる所であつたけれども、将軍が病気で出ない、一橋も仮病を構へて登らぬといふやうに書いてある、実は仮病どころではない、苦しくつて歩くことが出来なかつた、なに宜ければ出るよ、漸うのことで御供をして帰つたといふやうなことだ、処が本にはさういふことに書いてある、
○江間 どうも本には一方だけの思ひ設けで立てますものですから…
○公 実はけんのんの話で、若い勢で遣つたんだ、唯今還幸になるといふ、それから衣冠を著けて御通路へ出て拝謁をしなければならぬのだね、処が供の者は幾人居たか、何でも二百人か三百人だ、それが皆何か始まる覚悟であつたんだからね、それから下へ来ると、何であつたか、俄に騒ぎが始まつた、があといふ騒ぎだ、少し大きく咳払ひをすればといふやうな意気組だつた、向ふでも何か始まればといふ勢、こゝで何か出来ては大変だといふので、衣冠・中啓で先へ立つて漸う制したけれども、極危《ゴク》かつたんだ、
○江間 御供方とでございますか、
○公 あちらは御親兵だの、それから附いて来る浪士のやうな者、こつちは供がずらりと列んで居る、其前を御通りになるといふ処で、何か始まつたら大変だ、それが済んでから、どうもこれではといふので残らず引浚つて行つたのだ、それで早く言ふと、こつちもかの色々の註文の難題を持つて行つて先づ立消え、朝廷もどうなつてもそれは構はぬといふので、両方でそんなことには注意しなかつた、一方には大和行幸といふことがあり、こつちにも今に何か始まるだらう、両方に何か始まるだらうといふ考があつたのだ、
○井野辺 石清水行幸の時には、将軍家は御病気といふことで御出でになりませんでしたが、実際御病気であらしつたのでございますか、
○公 実際ぢやない、一体御出でになる積りであつたのだが、御病気といふことにしてやめたのだ、
○江間 御出でになつたら大変のことになりますな、
○公 それは始末がつかないね、
○藤井 次を伺ひます、四月二十二日に愈京都を御立ちなさいます時に、武田耕雲斎を御召連れになりました、此耕雲斎を御召連れなさいますについて御達が出て居ります、実は耕雲斎は京都の方に居りまして、松平余四麿様を御輔け申すことになつて居りましたが、此度一橋様から段々の御願に依つて御召連れといふことになつたから、一橋様が江戸に御著きなさいましたならば、早速又京都の方に上つて来いといふ御達が出て居るのであります、それで段々の御願といふやうな文句から考へて見ますると、其節御前は是非とも耕雲斎を御召連れにならなければならぬといふ思召であつたやうに思はれますが、さやうな御事情がありましたのでございませうか、
○公 連れて帰つたやうに書いてあるかね、
○藤井 さやうでございます、
○公 耕雲斎には別に用はないんだが、若し連れて帰つたことがあれ
 - 第47巻 p.583 -ページ画像 
ば、それは水戸の方の関係だらう、別に耕雲斎に用はない筈だ、多分さうだつたらう、途中で岡部駿河を浪士が斬らうとしたのは此時だらう、それから耕雲斎は別に……、
○江間 あの時は大抵は水戸人を御連れになつたのです、現に斯ういふことがあります、程ケ谷で御泊りになつた時分ですが、神奈川奉行の浅野伊賀守と山口信濃守と二人で御本陣まで伺ひまして、今度は攘夷をするといふので、一橋様が御下りになるといふが、攘夷などは迚も出来ない、併し供方などは皆水戸の攘夷家ばかり御連れになつて居るから、こちらも少し長い刀でも指して行かんぢやなるまいといつて大変武張つて大きな刀などを指して行つたら、浅野等に御逢ひなされて、色々攘夷をしなければならぬといふやうな御諭がありました、
○公 あれは神奈川だ、
○江間 さやう神奈川で、其時に二人にもつと近く来いと仰しやる、それからずつと咫尺しますと、御前が御手を御振り遊ばして、左右の者が皆水戸の攘夷家ばかりだから、開港だとか償金だとかいふことが耳にはいると大分面倒になるから、静に話をせいといふ御諭がありましたといふことを、浅野から確に承知をして居ります、
○公 さうだつたかも知れない、
○江間 其時です、大方耕雲斎も御連れになつたのでありませう、
○藤井 其節熱田に御泊の時に、江戸から目付の堀宮内といふ者が参りまして、江戸の方では愈此度償金を渡すことになつたといふことを御前に御話申しました、それですぐ、実は此度攘夷といふことの勅命を受けて下つて居る、さういふことになつては甚だ宜しくないから、是非とも攘夷をしなければならぬ、自分が帰つて篤《トク》と言うて聴かせもしやうけれども、若しそれにても異存を申すに於ては手討にでもといふ、ひどい御書面を御附けになりまして、耕雲斎は熱田から先発致すやうに御命じになつたと書いたものがあります、
○江間 さういふ順序です、あの時の御前が御下りといふことから考へて見ますと、表面上成るべく攘夷家のえらさうなのを選り抜いて御連れになつたらうと私は考へます、
○公 それはさうかも知れない、
○江間 どこまでも朝廷の思召は攘夷だから、幕府の者が命を用ゐなければ手討にしても、これを遵奉させなければならぬといふ、所謂奸吏征伐の思召で、正々堂々と御下りになりました、江戸の有司は、熱田からの御紙面で以ての外に驚慌して、此場合に攘夷の厳命などを持込まれては始末がつかぬといふので、閣老総引込みで登城せぬといふ有様、そこで小笠原が、御前の江戸へ御はいりと引違ひに、かの独断を決行してしまひまして、御前の御使命も遂に空しくなつた訳で、此間には何か一大秘密の潜伏がありはせぬかと思ふのであります、
○公 償金のことは、あれは小笠原が独断で遣つたんだ、どうも耕雲斎のことは、御供で使つたといふこともなし……、さうだつたかね、
○渋沢 武田を御連れになつたのは、一の装飾品であつた訳ですな、けれども必ず実地攘夷が出来ると思召した訳ではなかつたでせう、ずつと以前に、事実に於ては出来ることではないけれども、仕方がない
 - 第47巻 p.584 -ページ画像 
から一の方便にしたといふ仰せを伺つたことがありました、
○公 どうせ出来ないものなら、もうこゝで出来ないといふことを断然言へ、朝廷から仰しやつても、迚もさうはいかぬからといふ処まで押詰めたんだね、処で、いや私が受けて行かう、書附を皆持つて行くいけなければ私が恐入りましたといふから、其時に大樹公へ御発しなされば、大樹公は何でもない、今度御持帰りになつても出来ない、出来なければ討幕といふことにきつと来るから、先づこゝは一つ緩めてといふのが始まりだ、それぢや私が持つて帰る、宜しうござると言つて力んで来たのが始まりなんだ、どうしても策がないので、朝廷の方からはぐんぐん来る、立場も何もない、それで其事はいけませぬといふことを申上げてしまはうかといふ処を、もう一遍緩めて遣らうと斯ういふのだ、朝廷の方でもそれは出来ぬことは知つて居る、知つて居るけれどもさうしろと仰しやる、出来ぬから辞表を出す、辞表を出して見ると、尚尽力しろ、まあまあといふことになつて見ると、最初のことはどこかへ消えてしまつて、何もかもといふ訳だ、其代りに今度大和行幸といふことがそこへ出た、それから京都は長州の方にひつくりかへつた、
○三島 春岳様は逃げて帰つたですな、
○公 夜逃をしたんだ、届け放しで立つてしまつた、出来ないといふことを立派に申上げて立つてしまつた、後は春岳の家来が心得て居て堂上方へ巧《ウマ》くやつて、小言の出ないやうにそこを押附けたんだ、さうして春岳は夜逃だ、すると春岳には逃げられ、後はたつた一人だらうどうも甚だむづかしい、
○三島 山田方谷の考は、主人を引かせる積りであつたですな、迚もいかぬと見て、自分が先へ隠居して見せたです、隠居して国へ帰る時に、旧主と約束をしたのです、あなたも京都まで御上りなすつて、説が立たなければずつと御引きなさい、私は先へ帰つて居りますからといふやうなことであつた、処が春岳様に先へ逃げられてしまつて、引くにも引かれぬことになつた、一人の御老中で尚むづかしくなつた、
○渋沢 一歩先へ逃げられた訳だな、
○三島 逃げられたので仕方がないことになつた、それで始終山田が主人に迫つたのです、なぜ攘夷を御受けなさつた、腹に無いものは御受けなさらぬが宜い、出来なければ御引きなさるが宜い、斯う迫るのです、始終主人を助けるのは攘夷で突張つたのです、そんなら御受けなさるのが悪い、御引きなさいと斯う掛かるのです、
○渋沢 あの年に長州の堺町御門の固がやめになつた、亥年の八月十八日までの形勢はさやうに激しかつたが、それががらりと変つたのは薩摩が原動力であつた、其頃は薩摩と長州が相忌んだやうだ、あれがなければあの時に戊辰の討幕が出て来るんだ、つまり薩長の協和がなかつたのが、あの時の幕府の仕合になつたんだ、
○江間 恐入つたことでありますけれども、孝明天皇の御伝記なども見、色々御宸翰などを拝見しますのに、随分色々に御なり遊ばしたやうで……、
○渋沢 誠に恐縮だが、所謂反覆の綸旨もある、
 - 第47巻 p.585 -ページ画像 
○公 それで私ども実に苦しんだ、どうしやうと思ふのは、表向攘夷だといふ、そこで朝廷へ出ると、関白様とか中川宮とかゝら、密に真の叡慮で其事をさう言へと仰しやることがある、八幡行幸の節などは真にどうも御心配遊ばした、尤も少しづゝ御酒を召上つた、それで漸う勢を附けていらしつたといふ、真に御心配遊ばしたんだ、さういふことの色々秘密の御沙汰があるのだ、これは本当の思召だから、どこまでも遂げなければならぬと伝へられる、表からは又反対のことが出る、これも叡慮だと畏まつて居ると、蔭の方から、表向は斯うだが、実は斯うなつては困るから宜しくしてくれろと仰しやる、行幸のことも、漸う御酒の勢で八幡までいらしつたやうな訳であるから、行幸などは叡慮にはないのを、あれは皆御勧め申したのだと分る、どうも其内実を伺つて見ると、どうあつても内実の方は遂げなければならないそこで実にむづかしい、真に叡慮がそれであらつしやるならば、其通り遊ばすやうにといふことを申上げてしまへばそれで宜いのだ、
○江間 三条様などは余程御迫り申したやうです、御宸翰の中に、三条には実に弱つといふことがあります、
○渋沢 八月十八日には、十七日までの叡慮は真の叡慮でないといふことを仰せられた、
○江間 さやうです、
○公 叡慮は、迚も薩州へ兵権を任しても長州へ任しても、誰にどうしても治まらない、どうあつてもこれは前々の通り徳川家へ任せなければ、今外へ変へては迚も治まらぬからといふやうな御話を伺つて居るんだ、さうして見ると、表向とまるで違ふ、併しながら言つてくれるなと仰しやる、唯自分独り心得て、決して他言することはならないと仰しやる、口へ出す訳にはならず、何と言つて宜いか、実に困る、
○萩野 攘夷といふことにつきましての真の叡慮といふものは如何でございませうか、
○公 先帝の真の叡慮といふのは、誠に恐入つたことだけれども、外国の事情や何か一向御承知ない、昔からあれは禽獣だとか何とかいふやうなことが、唯御耳にはいつて居るから、どうもさういふ者のはいつて来るのは厭だと仰しやる、煎じ詰めた話が、犬猫と一緒に居るのは厭だと仰しやるのだ、別にどうといふ訳ではない、どうかしてあゝいふ者は遠ざけてしまひたい、さればといつて今戦争も厭だ、どうか一つあれを遠ざけてしまひたいと仰しやるのだね、
○萩野 色々左右の方から申上げても、御晩年までやはり禽獣同様に思召してゐらしつたのでありますか、
○公 どうも一体申上げる人が分らないからね、最初上京をした時に鷹司関白へ出て、当時外国に蒸汽船といふものが出来て斯う、大砲が出来て斯うでござると色々申上げた、成程さうかと言つて大分御分りのやうだつたね、それで大分御分りになつたと思つて段々進んで行くと、いや日本には大和魂といふものがあるから、決して恐れることはない、斯う仰しやるんだね、どうも御分りになつたかならぬか分らない、それで其やうな人が外国の事情を陛下に申上げるんだ、陛下に御分り遊ばさぬのは御尤だ、御尋があつても、それをちやんと申上げる
 - 第47巻 p.586 -ページ画像 
ことが出来ない、
○江間 最初ペルリが参りました時に、近衛家からペルリの画像を天覧に供へましたが、それは成程禽獣の態です、写して編輯所にありますが、それは迚も人間ではない、今度参ります者はこれが大将でございますと申上げる、あゝいふ御方ですから、正直に斯ういふ者だと思召したらうと思ひます、
○渋沢 御分りなさる途がないのですね、
○藤井 文久三年の五月九日に、小笠原図書頭が生麦の償金を英国の方に渡しました、さうして其跡始末に兵を率ゐて上京致しました、其節横浜に暫く滞在致しまして、英国公使に話して軍艦を借入れますとか何とか致して居ります其際に、急に小笠原を措いて、御前御自身が御上京といふことに一時極まつたやうです、併しそれは御病気といふことで、やはり小笠原が参るやうになつたのでありますが、其時のことを官武通紀といふものに、初から小笠原が上京する訳であつたけれども、横浜で小笠原が上京を渋つて居るといふことを御前が御聴きなさいまして、それでは御自分でといふことで、さういふ御話になつたのであるといふことが書いてありますが……、
○公 小笠原の兵を引いて上京といふのは、あれは償金を独断で渡した、それから朝廷へ申上げてもなかなか御承知はあるまいといふので兵力を以て少し何しやうといふ積りで小笠原が出たんだ、又私の上京といふのは、これと事が違ふのだ、それに関係はない、私の再び上京するといふのは、其前に辞表を出した処が、辞表は御聴届にならない尚尽力するやうにといふことになつて、又旧の通りになつた、処で八月七卿の長州へ落ちたあの騒ぎが出来たんだね、そこでこゝが誠に宜い機会だから、こゝで上洛を遊ばして、すつかり御取極めになつたら宜からうといふことがあつたんだ、先づ其前に先だつて上京するのが宜い、それでは上京しやうといふことになつて、私の上京のことは極まつたのだ、償金の方には関係はない、
○渋沢 あの時の御出発は九月頃でございましたか、
○藤井 十月二十六日に御出発で、十一月二十六日に京都へ御著になつて居ります、
○渋沢 私が京都へ行つたのがあの亥年であつて、私などはまだ御召抱になりませんで、平岡円四郎の家来として、とにかく京都へ来いといふことで、何でも十一月の末に京都へ著致しました、
○公 一体京都の事件が八月十八日だね、それから……、
○渋沢 もうちつと早くはありませぬか、
○公 猪飼知つて居るか、蟠竜丸でこちらを出て、それから浦賀で、勝が順動丸を大坂から引いて来た、其順動丸を止めて、それに乗替へて行つた、あれは何月であつたかな、
○猪飼 大分寒い時分でございました、
○藤井 京都へ御著になりましたのは十一月二十六日であります、
○公 あの時京都へはすぐ行かぬといふ議論があつたね、私が兵庫へ著したといふことを聞いて、一条様の方から、幸だから葬式の節に供をしてくれろと仰しやつたんだね、こちらは葬式の供に来たんぢやな
 - 第47巻 p.587 -ページ画像 
い、国事のことで来たんだから、いきなり葬式の供などをしには行かぬといふ議論があつて、そんならもうちつとぐづぐづして居れといふので、兵庫に留まつて居たんだ、処へ小松帯刀が来た、帯刀に京都の様子をすつかり聴いて、それから三四日経つて、葬式の済んだ時分に上京したんだね、それは何月頃であつたか、
○渋沢 あの時には、御旅館は差向いては東本願寺でしたが、三条屋敷へはそれから後にいらしつたやうです、何でも私ども参りまして、数珠屋町に宿を取つて居りましたが、……、
○猪飼 どうも私は十月頃のやうに思ひます、
○渋沢 さうでせう、私ども著したのが十一月二十五六日頃だつた、十四日に程ケ谷を立つて、それから十二日ばかりの行程を経て京都へ著した、多分十一月の末であつた、其時には既に御著になつて居つてやがて三条屋敷へ御移りになるといふことであつたが、まだ東本願寺の御旅館であらしつた、私は数珠屋町の、本願寺へ勤める坊さんの家へ、喜作と一緒に宿を取つた、
○猪飼 下数珠屋町へ下宿をなすつたといふことを聞いて居ります、
○江間 あの時いらしつた順動丸といふ船は、あの通り小い船ですがそれにしましても随分長い海上の御旅行で、大分諸方へ御寄りになつて居るやうですが、いつどこへ御著になつて、どこへ御碇泊になつたといふことがちつとも分らないのですが、唯浦賀を御立になつて……これは勝の日記でも分つて居ります、さうして御著になつた日だけは分つて居ります、其間どこにゐらしつたのか、大分日数が掛つて居りますが……、
○公 あれは浦賀に下田に、それから清水港、其くらゐのことだよ、それはなぜ手間取るかといふと、兵隊でも何でも、供の者は陸を行くのだ、幾日に供が向ふへ著するといふ日が極まつて居る、供より先へ行つては困る、そこで浦賀へ上つて、浦賀を方々見たり何かし、又下田へ行つても清水港へ行つても其通り、大概供の向ふへ行く頃に丁度行つたんだ、
○猪飼 浦賀へ御著の時分に、御供船が舵を損じまして三浦へ上陸致しまして、あれから陸を御供致しました、それで私はあれから引返して浦賀まで御供を致しました、それでも兵隊が少し無くつてはといふので、一小隊だけ連れて参りました、
○藤井 今の点でございますが、小笠原がまだ横浜に居ります中に、御前が御上京といふことに極まつたといふことを聞いて居りますが…
○公 それはない、小笠原の方へは一向関係がない、今の京都の騒ぎがあつたについて上京といふことになつたんだ、
○藤井 それでは横浜に小笠原が居ります中は、御上京などゝいふ噂はございませぬのでございますか、
○公 どうも無いやうだ、小笠原の立つたのは京都の八月十八日の変前だらう、
○藤井 さやうでございます、
○公 何でも変があつてから後だ、上京といふことは……、
○藤井 其前に小栗長門守が参りまして、愈御上京といふことに極つ
 - 第47巻 p.588 -ページ画像 
て……、
○公 それは上京といふことはなかつた、昭徳院様が船で御帰りになつたことを、朝廷から御咎めになつた、滞在して居ろといふ朝廷の御沙汰であつた、然る処を、もう迚も居た処が仕方がないといふので、尾州の慶勝といふ方が、後は私が御引受け申すから、御帰りなさるが宜いといふことで、これも届けつ放しくらゐの処で御帰りになつたんだね、それで後は尾州の手心にあるといふことになつて居たんだ、それを朝廷から御咎めになつて、滞在して居れと言つたのを東帰した、甚だ以て不都合だ、それのみならず、重々善くないことがあるが、追つて御沙汰に及ばれる……、追つて御沙汰に及ばれるといふことは小栗が持つて来たんだ、それで追つて御沙汰に及ばれるといふことは、どういふ訳かといふと、攘夷御親征の為に大和へ行幸があつて、それで大和で御親征の御評議があるといふ、それが討幕だ、其時に仰しやるといふことの先触れだ、それを小栗が持つて来たんだ、そこでどうなるかといふと、会津・薩州・中川宮……、大和行幸になつては容易ならぬといふので、あつちで始まつたんだ、始まつて其事は立消になつた、するとこゝが機会だから出るが宜からうといふことになつて、そんならといふので上京になつたのだ、
○藤井 七月十六日に小栗が御屋敷へ参りまして、十八日には御前から、毎度後見職辞任といふことを申上げたけれども、尚忠勤を抽でろといふ御沙汰があつて、毎度同じやうなことを申上げても御無礼だから、此度は愈決心を致して国家の為に尽す、委細は追つて上京して言上致しませうといふ御受を御出しになつて居ります、其明くる日に、仰せ立の趣がありますに依つて御前が御上京といふことに、幕府からの御達が出て居ります、
○公 すると変のあつた後だ、
○藤井 前でございます……、ちよつと考へて見ますると、どうも小栗が下つて参ります時は、既に薩州と会津の聯合といふことがほゞ出来て居るやうに思はれます、で中川宮様・近衛様から、島津三郎に至急上京しろといふ御達があり、又長州の方も三条様からの御沙汰で、表向上京しろといふ御達があり、長州の方に於きましても、小笠原上京のことを聞きまして、是非とも上京しなければならぬといふやうな形勢が見えて居ります、併しまだ其時は何方様《ドナタ》もゐらつしやらぬのですから、其辺の消息を御前に申上げたのではないかと想像されますが
○渋沢 八月十八日の目算が出来て居つたんだらう、
○江間 小栗の来たのも拠なく来たので、会津を寄越す積りであつたのですが、
○公 さうだ、あの時は会津を江戸へ遣つて、後で大和行幸を遣らう斯ういふ註文であつた、さういふ訳だから会津も動かない、それから小栗に言ひ付けた、確かさうだ、
○江間 さやうでございます、それから小栗が参りまして、今藤井が申上げます通りに、段々向ふの事情を申上げたのでせう、それから愈御上京といふことを御決断になりまして、幕府では発表しましたのです、一橋中納言が斯う斯うだといふことを……、其続きで……、
 - 第47巻 p.589 -ページ画像 
○公 さうすると小栗が来て委細を話したんだが、そんなら早く上京するが宜いとなつたので……、辞表を出しても御聴届にならないで、尚尽力しろといふ御沙汰があつて、いづれ其御礼を申上げるといふことに小栗へは言つて……、併しどうも私の記憶では、京都の事件があつて、こゝは極宜《ゴク》い機会だから御上洛が宜しからう、何しろ速に先へ出てと、斯ういふことになつたんだと覚えて居る、
○江間 けれどもあれがぽんとひつくりかへるといふことが、想像に及びませぬのです、
○渋沢 其ひつくりかへるのは想像も及ばなかつたけれども、併し会津と薩摩の消息の通じたといふのは、もつと前だらう、
○江間 それは余程前です、
○渋沢 余程前と言うた処が、あの年の中でせう、
○藤井 六月頃と思ひます、
○公 薩人は九門内へはいることはならぬといつて、不首尾になつて居る、それで今度は長州の天下になつた、そこで薩が却つて睨んで居た、処へ大和行幸が出来たんだ、会津がくつ附いて来たのだ、
○藤井 もう一つ、小笠原図書頭が兵を引いて上京致しました時のことを伺ひます、図書頃自身《(頭)》の話に、あの折は堂上方の中にも内応する人があつたけれども、其人が不慮の災難に遭はれたといふことがあるのでございますが、其堂上方は誰であるかといふことは分りませぬ、それで後の人が災難といふやうなことから推しまして、姉小路少将ではなかつたらうかといふ想像を附けて居ります、其事につきまして何か御聞込でもございましたらうか、
○公 聞込も何もないが、姉小路が何か小笠原の知己だとか何とかいふことがあつたかね、
○藤井 少し姻戚の関係があります、
○公 成程それはさうかも知れない、
○江間 まだ証拠は見出しませぬけれども、どうしてもあすこには気脈が通じて居つたやうです、
○公 どうもさう思はれる、
○三島 五月十日限り攘夷といふあの時に私は早駕籠《ハヤ》で江戸へ注進の為に来ました、
○渡辺 長州征伐のことについて一つ伺ひます、越前家の記録によりますと、元治元年正月二日に、京都の御前の御旅館へ、春岳・肥後守・伊達・島津などの諸侯が会せられまして、薩摩の小松・高崎、越前の中根などが陪席致しました、其会議の問題は、元勧修寺宮様の御還俗の事、参予の御勘方の事、それから長州の処置の事などでありましたが、此時に小松が長州で薩摩の船を撃つたことを申しました処が、御前は長州の処置は追つてするから、今やかましく言はないで置けと仰せられたといふことでございました、それから七八日経つて九日になりまして、越前の中根と酒井の両人が御前の御旅館へ参りました時に平岡・黒川の両人が御前の御内意と申して、長州の処置について随分組織立つたことを申して居ります、即ち廟議を以て長州を征伐することにし、其場合には紀州を将軍の御名代として、会津を副将とすると
 - 第47巻 p.590 -ページ画像 
いふことを、越前の方へ通じて居りまするし、其夕には御前を始め会津・島津・伊達などが春岳の邸へ御集会になりまして、其事をほゞ御決定になつたとありますが、長州を征伐するといふことは、御前始め幕府側では、疾に決せられて居つたのでございませうか、
○公 私から紀州が宜からうと言つたことはないやうに覚えて居るがね、
○渡辺 正月のことですが、其頃から御前には征討といふ御考が御ありなさいましたでせうか、
○公 征討といふことは、長州の暴発の時から見込んで、すぐに遣りたかつたけれども、段々延び延びになつた、征討は初から征討の積りだつた、だが別に紀州といふ廉はない、これは江戸で紀州といふことに極まつたやうだ、
○渡辺 今伺ひますのは暴発前のことです、
○公 暴発以前に長州征討といふことはない、福原等三謀臣が来て御所へ発砲した、あれから後で、あの節に軍令状といふものを見出してそれから征討といふことが起つた、其前は長州征討といふことはない
○渡辺 其以前の長州の処分といふ時で、若し処分に服さなかつた時には征討……、しかも大樹公の御親征などゝいふことを、会津などは申して居りますが、
○公 それはそこまではいかない、どこまでも寛大が宜からう、寛大といつた処で色々差《シナ》があるが、聴かなければ征討といふまでには議論は進まなかつた、
○萩野 正月の頃から、将軍親征といふことが書いてございますが、
○公 それは暴発後だらう、処置をさせて其処置に服さなければ征討するといふことだから、暴発前に征討といふことは……、
○渋沢 どうも其節の記憶では、征討論はなかつたやうに思ふ、私どもは其時は長州が尤だ、幕府が悪いんだ、一橋様が因循だといふやうな観念を持つて居つたものです、
○渡辺 併し此正月九日に、愈の場合長州を征討するならば、会津は副将としなければならぬ、すると京都守護職は越前の外にないから、其内意を伝へるといふことを平岡が……、
○公 それは暴発後だ、前にはない、
○渡辺 守護職の替つたのは暴発以前でございます、越前が会津に代つたことがあります、これは其時のことでございます、
○公 越前がちよつとなつたのは暴発前だ、
○渡辺 其越前を守護職とするといふ御前の御内意を、平岡と黒川から、越前の中根と酒井とに申し伝へて居りますのですが、
○渋沢 征討といふ意味は勿論なかつたやうだ其時は……、
○渡辺 服さなかつたら征討する……、
○渋沢 さういふ意味であつたらう……、いつです会津が罷めたのは、
○渡辺 暴発前で子年の二月です、
○三島 幕府の目付が長州へ行つて殺されたことがありますな、
○渋沢 中根一之丞……、
 - 第47巻 p.591 -ページ画像 
○三島 さうですあれは奇兵隊が殺した、其時分から何かあつたのですか、征討といふことはあれは暴発から出来たに違ひないですが……
○公 暴発から征長といふことが出来たんだね、征長が出来たについて、会津を其方へ向けやう、向けやうについて、後は越前を守護職にしやうといふことになつた、さうなつたけれども又止めになつて、元の通り会津が守護職になつた、斯ういふ訳だ、決して暴発しない前に征長するから会津を其方へ向ける、其後の守護職は越前にといふことぢやあるまいと思ふ、
○江間 少し御記憶違ひがありはしないかと思ふことがあります、暴発以前、即ち亥年の八月十八日以後に於て、京都では時々長州処分の御相談があつたのです、伊達の日記などにも、斯ういふことを評議したといふやうなことが、ちらほらあります、併し此事はもう一度能く事実を調べて見ませう、さう致しますと分ります、
○公 唯さうかと思ふ箇条は、会津の何を罷めて……、

○渋沢 会津の守護職を罷めて先鋒に向ける、春岳が代つて守護職になつたことがあるな、あの時は平岡が居たらう、平岡が居れば暴発後ではないのです、どうも平岡があのことに関係したやうに思ふ、さうすると暴発前だ、平岡の変死は子年の六月です、長州の暴発は七月十九日ですから、平岡がそれに関与すれば其前に相違ない、
*欄外記事
 七月十六日比筆記御覧の後の御話に「こゝは如何にも渋沢の話の通りであつたらうよ」と仰せられき 萩原由之記
○萩野 越前家の記録には平岡が関係して居ります、
○渋沢 さうすると、若し此処分について服従せなんだ時はといふことを意味して、征討といふ論がそこへ進んでいつたのでせう、
○萩野 処分を聴かなかつた場合の予備の手段としてあつたものと見えます、
○公 併しそれが暴発前とすると、あの会津の守護職を止《ヨ》すといふことが、征長の先鋒に使ふとか何とかいふのだらう、さうして見ると、暴発も何もしないに長州へ先鋒を遣るといふのも訝《ヲカ》しいな、
○江間 それは処分といふことは十分にしなければならぬから、十分に問罪をして見る、併し彼これに応ぜなかつた時は、其儘差置く訳にいかぬから、それを機会に征討しやう、それには大将はどうしたら宜からう、斯うしたら宜からう、どうしても会津が副将軍として行くが宜からう、それから会津は何の職に就かせるかといふ議論になつて、それでは総裁……、軍事総裁ですか、確かそんなことにして、軍事の大責任を負はせるといふやうなことで、それにつきまして会津から頻に伺なども出て居る、それですぐに守護職を引渡すといふことは、越前に兵がないから京都を守護し奉る力がない、暫く待つて下さい、それから兵を呼びまして、さうして引継をしました、ですからこれは暴発前です、暴発の時には会津が率先して遣りましたから、すると復職して居りますのですから、
○公 さうすると、何か長州の方へ何する箇条がなければ……、聴かなければどうといふ問題がなければならぬが、何もなしに……、
 - 第47巻 p.592 -ページ画像 
○江間 それはないやうですが、万一聴かぬ場合には、それを機会に討つてしまはなければならぬ、それで愈今度幕府の方から征討といふことになりますと、京都で御極めになつた紀州・越前を始め皆変つてしまひました、関東から達した通りにせい、斯ういふことで紀州様は妙なことになりまして……、
○公 さうすると暴発前に長州の方から歎願するんだね、
○江間 あの歎願は井原主計が持つて来て……、
○渋沢 あの時に若し征討といへば、薩摩の船を撃つたといふこと、中根一之丞を殺害したといふこと、七卿を隠匿《カクマ》つたといふこと、これらはどうしても、処分しなければならぬ、其儘差置いたら幕府の規律が立たぬ訳になるから、それで七卿はどう処置をせい、中根を殺した下手人を出せ、薩摩の船を撃つた者を処分しろ、それに服従せぬ時はどうといふ御詮議であつたかも知れぬ、
○江間 御内評定のあつたことは動かぬやうです、
○公 奉勅始末といふものがあるね、
○渋沢 さやうです、前年の五月十日が即ち攘夷鎖港の公武一致した期限である、それが極まつたから長州は其勅諚を奉じて実行したんだ其実行が悪いと仰しやるのが間違つて居る、頻に斯う言うて奉勅始末といふ書附を出したのです、勅を奉じて遣つたことを、間違つて居ると仰しやる方が間違つて居る……、井原主計の奉勅始末といふものは随分長い文章であつた、あれをどう受けたが宜からうといふことは、其時の大問題だつたのです、
○公 すると暴発前にさういふことが……、
○渋沢 あつたのでございませう、それから尾州が征討の大将を受けて行くといふことになつたのが七月の後ですな、
○江間 これは大分後です、

○公 紀州が尾州となつた、其時分に話が密について居る、それで兵を出して、そこで三謀臣を処置をしやうといふのだ、処で処置の言渡はまだない、すぐに兵を引上げてしまつたのだ、後にまだ残つて居たあの時すぐに処置を言渡して、処置に服するとか服さぬとか、服したら兵を引上げる、服さぬなら討つといふことになれば片附いてしまふ
*欄外記事
 七月十六日の御話に「こゝは詞が足らずして話が不十分だが事実は斯く斯くであつた」と仰せられて再応の御説明ありしが其趣は本書第四の中征長総督更迭の事の条に記したる所と同じければ重ねて録せず参看すべし 萩野由之記
○渋沢 それから長州征伐のことについて、編輯所では御調がついて居りませうが、御前が将軍家を御相続遊ばすといふことになつたのはあれは寅年の夏であつたと思ふ、前将軍の薨去といふことは暑い時分だと私は覚えて居る、いつであるか分つて居りませう、
○高田 七月の二十日です、発表になりましたのは確か八月の二十日でございました、
○渋沢 そこで其薨去の少し前に、一橋が将軍家の名代として、長州征伐をするといふことがあつたのですが、それで御前が其総大将とな
 - 第47巻 p.593 -ページ画像 
つて出掛ける……、
○江間 それはありました、
○渋沢 私は其時に御使番を命ぜられた、それまで勘定組頭であつたのを、俄に御使番格を言ひ付かりまして、御供を仰せ付かつて、陣笠を取換へたことを覚えて居ります、
○公 出るといふことまでになつたかね、
○渋沢 なりました、どういふ御趣意であゝいふことになりましたのか、さうすると其途端に又御相続といふことになつて、長州征伐といふ御評議は止《ヤ》んでしまつた、どういふ訳で止めになつたか分りませぬが、現に私は能く覚えて居りますのは、愈長州へ行つて戦争をして、必ず討死をする場合が来るであらう、実に世の中といふものは変なものだと、自分ながらにひどく感じたのです、まだ一橋に御奉公をせぬ前には、或は長州へ逃げ込まうと思うた、愈幕府から捕へられさうな様子になつたものですから、どうも仕方がない、長州へ逃げて行く外活路を求める手段はない、長州に多賀屋勇といふ知人がある、これを頼つて逃げ込まうといふことを考へた、逃げて行つた処でどういふことになるかと頻に懸念した、これは私一身のことですが、其頃頻に世上の大勢を観察して、頼朝の時に大江広元が幕府に功労がありながら余り発達しなかつた、其理から考へると、今幕府と朝廷との関係が一変すれば、どうも長州といふものは世に雄飛する機運があるに違ひないといふことを考へて、何でも長州へ逃げるが一番宜いと思うた、其時です、平岡円四郎がぐづぐづして居ると縛られてしまふから、それよりは早く一橋へ奉公しろ、一橋へ奉公すれば縲絏は免れる、さう一足飛びに天下を料理するといふやうなことは出来ない、それから先は貴様たちの骨折次第だ、勉強しろ、仕官をするなら此機会より外ないといふ勧告を受けて、遂に其勧告に従つた、併し其僅の間、長州へ逃げやうとしたことを能く記憶して居る、処で三年ばかり経つと、一橋の御供で長州へ戦争に行かなければならぬとなつたものですから、世の変遷といふものは妙なものだ、桑田変じて碧海となる、長州と戦争をして討死をしやうといふことは思はなかつた、大に栄転して御使番格で御供をする……、御使番といふものは、陣笠が裏金の白敲きで、幕臣は大変に名誉に思うて冠りたがつた、猪飼さんは御承知だけれども、それで其陣笠を拵へたのを覚えて居る、どういふ訳で斯うなつたといふことは知らなかつたが、それで支度をして、国元なんぞへも、愈討死する時機になつた、潔く死ねるだらうと言うて遣つたことを覚えて居る、するとぐるりと変つて、一橋が将軍様になるといふことで何のことやら訳が分らぬ、世の中のことが余り変り易いと思うた、確に出陣と御取極めになりまして、それぞれの御申渡があつた、其時は平岡は居りませんで、多分主として原市之進が担当したと思ひます、
○公 相続しない前かえ、
○渋沢 御相続になります少し前です、原・梅沢が居ります時分で、其時には黒川は多分引きましたでございませう、佐久間・榎本などが居りました、
○江間 黒川は早く引きました、穂積亮之助……、
 - 第47巻 p.594 -ページ画像 
○渋沢 あの人の末路はどうなりましたか、やはり水戸の人で、水戸の村塾か何か世話をして居るとか聞きましたが、
○江間 もう疾に死にました、
○渋沢 さうですか、二十四五年も以前でございましたが、私は朝廷の役人も罷め、商売人になつてから訪問を受けて、共に食事などをして談話したことがあります、
○公 それは昭徳院様が御不快について御名代に行く……、
○渋沢 さやうです、私は其時に、どうか早くこゝで遣らなくちやいかぬといふ議論であつたのです、御名代でいらつしやつて、間違つて負けて倒れたらそれまで、長州をこゝで本当に処分すれば、真に一橋に権力が附くから、寧ろこゝで所謂死生を賭して遣るが宜い、斯ういふ議論を主張したのを覚えて居ります、
○公 さうすると昭徳院様は内実悪くなつてからか、
○渋沢 いえまだ内実御悪くならぬ前です、御病気といふことでありました……、それでどうしても御自身では行かれぬので、御前が御名代といふことで、御床几廻などの人々は殆ど決死隊で、大層意気組んで居りました、其前から私は勘定所へ通つて居りましたが、出陣について御使番格になりましたのです、
○萩野 それでは今日伺ひますことはこれだけでございます、



〔参考〕昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一五二頁―一六三頁大正四年四月刊(DK470131k-0003)
第47巻 p.594-598 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  下巻・第一五二頁―一六三頁大正四年四月刊
  第十八
      明治四十三年六月十二日小日向公爵邸に於て

図表を画像で表示--

       興山公     文学博士 萩野由之        豊崎信君        井野辺茂雄 



    幕政改革仰せ出されの日より御登城なかりし事
文久二年閏八月十五日、将軍家黒書院に臨み、諸大名を引見して、制度を改革する旨仰せ渡されし日より、予は不平ありて、病と称し登城せざりしより、将軍家にも台慮を悩まされ、老中を遣はして登城を促されしやう稿本に記しあれども、○続再夢紀事によりて記せるなり。予は別に不平なかりしやう記憶す。たまたま病気にて引き籠りし日に斯かる仰渡ありて、然か思ひ誤りしにはあらずや。又同月二十日、海軍の制度改革に関する御前会議を、西湖の間にて開きし時、予は進献物廃止の件につき不平ありて出席せざりしやうに記しあれども、○是亦続再夢紀事によりて記せるなり。此時は出席したるやう記憶す。そは此席にて、勝が海軍を全備するには五百年を要すべしといひしより、又勝の大言が始まりしよと思ひしことあるによりて覚え居れり。今一応調査すべし。
 右につき調査したるに、十五日より二十三日までは御登城なく、又松平春岳へ遣はされたる前後二通の御書によるも、御不平なきにしもあらざるやに考へられたれば、当時の記録類を抄出して、重ねて御覧に供したるに、七月十六日の御談話に、「記録に斯くあらば、先日の話は予が記憶の誤ならん」と仰せられき。
    三条実美等公の御旅館に臨みて攘夷期限の決定を迫りし事
 - 第47巻 p.595 -ページ画像 
昼頃○文久三年二月十一日なりしと覚ゆ、三条・姉小路等八人勅使として旅館に来臨あるべき由通知ありしかば、何事ならんと不審しつゝも、急ぎ使を馳せて春岳・肥後守・容堂等を招き寄せて待ち設けたり、夕刻に至りて勅使至る。やがて正殿に導きたるに、三条は勅諚を伝へて曰く「幕府既に攘夷の命を奉ぜり、宜しく速に其期限を定むべし」と、予答へて「将軍上洛の期目前に迫れり、請ふ其上洛を待ちて之を奏上せん」といへり。幕府にては一旦攘夷の勅を奉じたれども、将軍家御上洛の上、徐に朝意を翻し奉らんと欲せしに、長州の一派は、是非とも御上洛以前に之を決定せしめずば事むつかしからんと考へて、其結果此八人の来臨とはなりたるなり。されば三条等は、「攘夷の期限未だ定まらざるが故に、形勢弥切迫し、浪士等暴発の虞ありて、叡慮頗る安からず、何はともあれ速に之を決定せざるべからず」とて、更に聴き入れざるにより、種々推問答の末、予は「たとひ浪士暴発すとも、決して恐るゝに足らず、既に守護職あり所司代あり、又不肖ながら某も後見職の重任を負ひて此地にあれば、之を鎮圧せんこといと易し、幸に叡慮を安んぜらるべし」といひしに、三条等語塞がりしが、やゝありて、「我等は勅命を奉じ、攘夷期限の決定を促さんとて来れるものなれば、たとひ浪士の暴発は恐るゝに足らずとも、叡慮貫徹せずしては勅使の任を辱むるものなり、ともかくも攘夷の期限を聴かん」といへり。蓋し三条等は久坂義助○通武。等の暴論に左右せらるゝ者なれば、若し此儘にて退出せば、かの浪士輩に強迫せられんも知るべからざるをもて、目的を達せずんば已まずと覚悟したるものなるべし。此に於て予は、「然らば一応総裁等と評議すべし」とて、別室に退きて春岳・肥後守・容堂等と議したるに、容堂は三条と姻戚の間柄なれば、試に三条に説かんと申し出でたるにより、乃ち其意に任せたり。容堂因りて三条に面して、今直に攘夷期限を定むることの不可なる所以を説明したるに、三条も当然の理に返す詞なく、唯浪士等が強迫の内情を訴へて、「予が身の上をも推察せられたし」といへりとぞ。容堂やがて座に還りて其旨を告げ、「三条とても幕府の言ふ所は十分に了解したれど、浪士等に強迫せられて、余儀なく斯かる次第に及べるなれば、何とかしてやりては如何」との事に、四人額を鳩めて凝議の上、「朝命と称して攘夷期限の決定を促すは一種の政策なれば、此方よりも政策を以て答ふべし、それには到底出来ぬ相談は分り切りたることなれば、寧ろ少しにても早き方宜しからん」とて、遂に「五月十日を攘夷の期限と定むべし」と答へしかば、三条等も漸く安心して引き取りたり。其時はもはや夜明なりき。
 右の御談話によれば、此時五月十日を攘夷の期限と定められたる如くなれども、当時の記録によれば、此時は将軍家の御滞京を十日間とし、御帰府の後二十日を限りて攘夷すべしとの御答にて、其後数度の改正を経て、四月二十日に至り、五月十日を期限と定められたりとあれば、関係諸書を抄録して御覧に入れたるに、七月十六日の御談話に、「嚮に五月十日の期限を、三条等の旅館に臨まれし時に定めたりといひしは記憶の誤にて、是等の諸書に見えたる通りなりき」と仰せられたり。
 - 第47巻 p.596 -ページ画像 
 此時又、四月十八日附公より松平相摸守への御書因州池田家尺牘草案取収。に「拒絶之義は御承知之通四月廿二日期限之処云々」とあれども、記録には二十三日とあれば、「孰れ然るべく候や」と伺ひたるに、「二十二日とあらば、そは誤写なるべし」と仰せらる。「さらば二十三日と定めて、朝廷へ申し上げられしは、いつの事に候や」と伺へるに、「そは覚なし」と仰せられたり。
    昭徳公八幡行幸供奉を辞せられし事
八幡の行幸○文久三年四月十一日。に将軍家の供奉し給ふことについては、予を始め一同大に憂慮したり。そは行幸の上、将軍家を天前に召されて如何なる勅命あらんも計られず、若し直にそを御請に及ばれなば、万事休すべければなり。殊に天前へは将軍家唯一人のみ出で給ふことにて、老中等は之に従ふこと能はず、予の如きは或は随従することを得んも将軍は天前より十間も下りて著座し、予は又十間も隔てゝ著座すべければ、如何ともすること能はず。加ふるに主上の御左右には、諸藩より出でたる所謂御親兵の侍ること故、いはゞ将軍家一人を敵中に出し奉るものにて、臣下としては実に忍びざる所なり。されば其前日なりしか、三条より将軍も是非供奉せらるゝやうにとの話ありし時、予は直に之を辞せんかと思ひしかど、斯くては議論むつかしかるべければ寧ろ期に臨み不快と称して辞し奉るに如かずと考へ、其場は程よく答へ置きたり。世には節刀を賜はんことを恐れたりとか、中山侍従○忠光。の暴発を恐れたりとか伝ふれども、孰も誤にて、朝命は唯何となく八幡へ攘夷御祈願の行幸に供奉すべしといふのみ、節刀下賜の如きは幕府の未だ知らざる所なれば、何の恐るゝ所もなく、中山の暴発の如きも亦恐るゝに足らざれども、唯天前にて将軍家の苦境に陥り給はんことを恐れしなり。
    八幡行幸に供奉し給ひし事
八幡行幸の日は非常の暑気なりしが、予は如何にしたりけん腹痛甚しく、下痢をさへ催して、苦しさに堪へざれば、八幡の山下なる何とかいへる寺院に休息し、衣冠を解きて打ち臥し居たるに、急に天前へ召されたれど、到底出仕すべくもあらざれば、其旨を言上して御断り申したり。翌日に及び少しく快くなりたれば、還幸の時には再び供奉の列に加はりたり。世には節刀を賜はんことを恐れ、仮病をつかひしやうにいふもあれど、前にもいへる如く、節刀の事は幕府にては全く知らざれば、恐を抱く謂なし、実際病気の為に御召を辞したるなり。
    昭徳公常に短刀を懐にせられしといふ事
 昭徳公は御上洛の節、若し進退谷ることあらば直に自殺し給はん思召にて、常に短刀を御懐中あらせられ候由、俗説ながら承り居り候本多氏の維新史に見ゆ。真偽如何に候や。
そは全く虚説なり、決してさることなし。

  第十九
      明治四十三年七月十二日小日向公爵邸に於て

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       興山公     文学博士 萩野由之        豊崎信君        藤井甚太郎 



 - 第47巻 p.597 -ページ画像 
    熱田より出されしといふ御辞表の事
文久三年四月帰府の途中、二十六日熱田より後見職の辞表を関白○鷹司輔熙に呈出したりといふこと○久邇宮文書・松室礼重手録によりて記せるなり。は、更に覚なし。思ふに未だ江戸にも著せざる途中より、重職の辞表を呈出するは余りに軽卒なり。尤も此時江戸より上れる目付堀宮内○利孟。を引見したるは事実なれば、同人より何事をか聴く所ありしとするも、唯一目付の言を聴けるのみにて斯かる始末に及ばんこと、片手落の処置にも当るべく旁「昨年蒙大任候以来云々」とある辞表は誤なり。

  第二十
    明治四十三年七月十六日小日向公爵邸に於て

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       興山公     文学博士 萩野由之        豊崎信君        井野辺茂雄 



    板倉勝静小笠原長行開鎖の決定を請ひし事
文久二年十月、三条等が勅使として下向せる前後の容堂の周旋より、予が辞表を出したる辺の事情は、ほゞ本文に記せる如くなれども、尚少しく筆の足らざる所あるやに思はる。且九月十九日板倉・小笠原の両人より書を予に贈りて、「目下の急務は、明に開鎖孰れにか決定したる上、誠意を以て事に従ふにあり、かの一時叡慮に従ひ置き、追つてそを引き戻すべしなどいふことは、所謂権詐の術にて、誠意を欠くものなれば、半表半裏にならざるやう、方針を定めて英断あらんことを請ふ」といへりとあれども、○国事記・七年史によりて記せるなり。さることはなかりしと覚ゆ。果して此書の如くならば、板倉等も予と同論なれば、予は不平を唱へて辞表を出す筈なきなり。
    勅使の待遇改正に反対し給ひしといふ事
同年十月、三条等が京都を発せんとするに臨み、会津の者に授けたる勅使待遇法改正案の、江戸にて松平肥後守より呈出せられたる時、板倉周防守極力之を非難し、予も亦異議を抱きたるやう記されたれども○続再夢紀事によりて記せるなり。予は勅使の待遇を改むることには同意にて、決して反対したることなし。
    勅使御送迎の事
同年十一月二十七日、三条等入城して勅諚を伝宣したる時の記事○続再夢紀事によりて記せるなり。は誤れり。此時勅使は駕籠のまゝ玄関式台に著したれば、将軍家は式台の上なる拭縁まで出迎へられ、予は式台の左、老中等は右に出でゝ之を迎へたり。斯くて将軍家勅使を先導せられ、予は勅使の後に随へり。勅書拝受の時は、勅使は上段に著し、将軍家は中段に著せられ、予は将軍家の後方、同じく中段に畏まれり。春岳・老中などは下段なりしか二の間なりしか、確には記憶せざれど、とにかく次の間に控へ居たり。将軍家勅書を拝受せらるゝや、予は座を起ちて之を賜はり、座に復して後之を老中に授けたり。
    勅使を清水邸に招待し給ひし事
同月二十九日、予が催しにて三条等を清水邸に饗したるやう記されたれども、○続再夢紀事によりて記せるなり。こは三条等よりの申込にて会見したるにて、饗応といふ程の事もなく、僅に茶菓を呈したるくらゐなりしと覚ゆ。
 - 第47巻 p.598 -ページ画像 
 按ずるに、此事は続再夢紀事に「二十九日例刻登営、○松平春岳。薄暮退出、夫より清水邸に赴かる、本日は一橋殿の催しにて、勅使両卿を同邸に請待せられしなり」とあり、又三条実美公記に、「二十九日晴、幕府勅使入城・勅書拝受を祝し、翌日使を勅使館に遣はし、公○三条実美。及公知朝臣○姉小路。を清水邸に饗する旨を告ぐ、是日○中略。哺時清水邸に赴く」とあり、勅使より申し込みての御会見にはあらざりしが如し。
    島津久光を京都守護職とするに同意し給ひし事
同月、予は春岳の主張によりて、島津三郎を守護職となすの朝旨遵奉に同意したりとあれども○続再夢紀事によりて記せるなり。予は初より此事に不同意なれば、此時とても真実同意したるにはあらず、唯一時の方便にて、朝議には異論を挟まざれども、追つて何とかすべしといふ条件附にて同意せしと覚え居れり。中心より同意したるにあらねば、其意を明にし置くべし。