デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.598-615(DK470132k) ページ画像

明治43年7月19日(1910年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、第十回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。


■資料

昔夢会筆記 渋沢栄一編 中巻・第一〇六―一四三頁大正四年四月刊(DK470132k-0001)
第47巻 p.598-613 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  中巻・第一〇六―一四三頁大正四年四月刊
  第十
      明治四十三年七月十九日兜町事務所に於て

図表を画像で表示--

       興山公      男爵   渋沢栄一     子爵 稲葉正縄君        渋沢篤二   文学博士 三島毅君    法学博士 阪谷芳郎        豊崎信君    男爵        猪飼正為君   文学博士 三上参次                文学博士 萩野由之                     江間政発                     井野辺茂雄                     藤井甚太郎                     高田利吉 



○井野辺 文久三年の春御上京の折、浪人の跋扈につきまして、大分御苦心あらせられたやうに存じますが、其時の御意見、並に御評議の有様など、御伺を致したいのでございます、箇条書にして御手許へ差出して置きました其最初の箇条でございますが、初から御前は浪人を処分するには、朝廷の命を受けてからでなければ工合が悪いといふ御意見でございましたらうか、
○公 今ちよつと記憶はない、どうもそこの処は少し記憶がない、
○井野辺 浪人を処分する方法として、浪人を一切本国へ帰し、尚旧主の無い者は、幕府の方で御扶持になるといふやうな……、
○公 それは評議はあつたんだね、主のある者は主家へ戻す、無い者は幕府で扶持するといふことは評議があつたが、確かそれは結局行はれなかつたと思ふ、其訳は、もと浪人したといふのが、色々それに訳があるのだ、悪いことをして已むを得ず逃げたのもあるだらうし、色
 - 第47巻 p.599 -ページ画像 
色だらうから、どうも元の通りに旧主へ帰るといふ訳にもいかず、又旧主の方で其者を引取るといふ訳にも少しいかぬといふやうな議論があつて、此事は評議が確か行はれなかつたと覚えて居る、
○井野辺 其頃守護職の松平肥後守は、今浪人をこゝで以て荒い処分をしますると、又面倒が起るから、浪人に対しては成るべく言路を開いて、言ふことは言はせる方が宜いといふ主張、又御前の方では、浪人に思ふ儘のことを言はせると、益我儘勝手になつて、遂には秩序を紊すことになるから、宜しくないといふ御意見でございまして、最初正月の二十日前後のことゝ思ひますが、御前の御賛成がございませんので、其事が中止になりました、然るに翌二月の三日に又肥後守から書面を差上げまして、其説を主張しました処が、其時にはそれも宜からうといふ仰せで、御賛成になりましたので、二月八日に、言路を開いて思ふことを言はせるといふ御触が発布になつたのでございます…
○公 それは評議があつて、残らず善い者も悪い者も一纏めにした処が、どうも後の見留めが無いのだ、評議はあつたんだけれども、つまり会津に任せたからといふ処で結局極まつた、それから会津がそれを実行することに、確かなつたと思つて居る、
○井野辺 新選組などが出来まして、会津の附属にするといふやうなことは、御前の御意見で御極めになりましたのでございますか、
○公 私の意見といふ訳ではないが、それが宜からうといふことで、まあそんなことに極まつたんだ、
○井野辺 あの頃御前は、浪人をどういふ風に処分しやうといふ御考でゐらせられたのでございませうか、
○公 私の考といつては別になかつた、会津の方へ任して、会津が主として総括して、それが宜からうといふだけの考で、それより上の深い考は先づなかつたのだ、
○井野辺 正月二十二日の夜でございますが、池内大学が大阪で殺されました、其殺されました事情につきまして、馬場文英の筆記を見ますると、大学は武田耕雲斎とは昔から仲が宜しうございます、それで幕府の方の役人の或る方々が、大学と耕雲斎とが親密であるのを幸に耕雲斎を介して大学に頼みまして、丁度攘夷問題がやかましくなり掛つて居る時代でございますから、大学に朝廷の方を遊説させまして、攘夷期限のことなども、成るべく御沙汰が下らないやうにといふことを運動致しまして……、
○公 さういふことがあつたかも知れない、成程池内大学の殺されたのは承知して居るが、深しいことは知らない、いづれ何かさういふ事情があつて殺されたには違ひないが、詳しいことは知らない、
○井野辺 其頃御前に拝謁でも致したことはございませぬか、
○公 そんなことはない、
○井野辺 それから会津の守護職でございますが、守護職と申しますと、所司代の上に位して京都を指揮するもので、余程権力の強いものであらうと思はれますが、先程申上げました浪人問題のことにつきまして、二月八日守護職から言路を開くといふ御触書を出します時に、守護職から所司代に廻しまして、所司代の方から其御触を出させやう
 - 第47巻 p.600 -ページ画像 
と致しました、其時所司代がこれを拒みました詞の中に所司代は老中の命は受けるけれども、守護職の命は受けないと申して居ります、して見ますると当時の守護職は、所司代あたりに命令を下しまするだけの権力を持ちませぬ訳でございませうか、
○公 あれは一体京都の方は昔から所司代で間に合ふのだ、けれども所司代は兵力が足らない、処で浪人だの藩士だのが大勢京都へ集まり中にも長州だとか薩州だとか、所司代の力で押へることは出来かねるそこで守護職といふものが出来たんだ、其守護職の出来た最初の起りといふものは、所司代の力が足らぬから兵力を増さう、そこで兵力のある者をあすこへ置かうといふのが一番最初の起りだ、それで肥後守が守護職となつた、平常のことは所司代でする、守護職の方は構はなかつたのだ、処があすこへいつて、一方は所司代、一方は守護職となつて見ると、それは所司代のすることだから己《オレ》は構はない、守護職のすることだから己は構はないといふ訳にいかない、両方打合せて遣らなければ事が纏まらぬ処から、所司代のすべきことを守護職でしたといふことも実はある、其間の区別が後には少し混じたが、一体の処は兵力の為に置いたのだ、それから薩州にしろ長州にしろ、会津を憎んだのは何で憎んだといふと、会津の兵力を憎んだのだ、幕府の用ゐるのも兵力だ、会津の兵力といふものが、全く両方で見る所であつたんだね、それで  《ジンセン》や何かは薩長始め各藩皆遣つたのだ、それに対してこちらもしなければ間に合はない、間に合はぬから守護職でも何でも皆遣つたといふ訳だ、さういふことは所司代の方が守護職より劣つて居る、守護職の方は敢て関係しない、斯ういふやうな訳になつて居る
○井野辺 万一事のあつた場合には、昔の所司代でございますと、大名などを指揮するだけの権限を幕府から与へられて居ります、守護職なども、最初肥後守が就職致しました時には、やはりさういふことのあつた場合には、斯う斯うして宜いといふやうな権限を与へられては居りませぬか、
○公 いつといふことは能く覚えないが、一番最初は、全く兵力の為に押へとなつて出たんだね、それから其後何であつたか、守護職の存じ寄り次第で十分に取計らへといふことがあつた、それから後は守護職が全権で遣つて居る、所司代も昔からのことは其儘遣つて居る、二つ成立つた訳だが、それでなければいけないことになつたのだ、さういふことに覚えて居る、
○井野辺 すると初は唯兵力を以て京都を圧するといふ訳で……、
○公 一番初は所司代に力を添へるといふのだ、所司代がもつと強ければそれで宜いのだけれども小禄の大名で兵力も十分でないから、其兵力の補足といふのが抑始めだ、それから後に段々変つたといふ訳だ
○井野辺 守護職は老中の支配ではないやうに……、
○公 老中の支配といふものでもない、
○井野辺 将軍家に直隷するものでございますか、
○公 さうだ、
○井野辺 御手許へ差上げて置きました箇条はこれだけでございますが、序に今一箇条伺ひます、文久二年に御前が御上京の時、講武所の
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兵隊を御召連れになりましたが、凡どのくらゐの人数を御召連れになりましたでございませうか、
○公 残らずで五百人くらゐであつたと思ふ、
○井野辺 其中講武所の兵隊が二百人くらゐもありましたでございませうか、
○公 槍剣隊と小筒組、合せてどのくらゐであつたか覚がないが、何でも二三百人くらゐであつたらう、
○藤井 文久三年七月の末から八月の初頃、京都に於きましては親征論が非常に盛になりまして、其裏面に討幕といふことも亦聞えて居ります、それで其当時、京都の形勢が今の形《ナリ》で進んでは、幕府の為に甚だ宜しくない、此上は幕府の方からも、御前なり老中の御方なり御上京なさいまして、何とか大勢挽回の方法を御講じなさらなければなりますまいといふことを、毎度松平肥後守などから江戸に申遣はしました、又江戸の方に於きましては、何分攘夷を致せといふ勅命を受けて居る今日に、何一つ攘夷といふことも出来て居ない、此形にして御上京になりますれば事情を御話しなさらない前に、又何か変事が起るかも知れないといふ考もあり、旁御前が御上京といふことに決しながらも、まだ其運びにいかないといふやうな有様でございました、丁度其節に松平余九麿様を、御手許に於て芸術等の御世話をなさるといふ御願で、御屋敷の方へ御引取になりました、これについて、黒川嘉兵衛の話と申して伝はつて居りますものに、斯ういふ時節に御上京なさるについては、再び江戸の方へは御帰りなさらないといふまでの御決心で、御末弟を御養子になされて御出でなさる御覚悟であらつしやるといふことを申して居りまする、事実其辺の御意味があらつしやつたものでございませうか、如何でございませう、
○公 それは大略今言ふ通りの訳なんだが、其奥には又少し内情がある、其内情といふものは、徳信院様……、一橋の祖母に当るが、儲君問題の時分に私に仰しやるには、誠に当主の者は皆続いて三代とも僅にして代が変つて、歎はしく思つて居る処へ、水戸からしてお前が継ぐことになつて誠に喜ばしい、処が昨今承れば、御養君といふ噂がある、若し御養君といふことになれば、身には結構だけれども、又一橋は空明《カラアキ》になる、誠に歎はしく思ふ、どうかさういふことのないやうにしたいといふ御話があつたんだね、それで其節に、確か前にも話して置いたと思ふが、誠に私もそれに心配をして居ります、併し昨今のことで、追々容易ならぬ場合に至り、どうなるか分りませぬが、決して御受は致さぬ積りだから、どうか御安心を遊ばすやうに願ひたい、ついては万里小路といふ上臈だね、それは徳信院様の京都から御下りの時分に御供をして、極御親《ゴク》しい者だ、其者へ私が委細のことを書いて頼みませう、どうか宜しく御取次を願ひたい、かやうかやうで誠に心配である、どうぞさういふことのないやうにしたいから願ふといふことを書いて、徳信院様から万里小路の方へ廻したのだ、廻した処が万里小路が、私の手許に斯ういふ書面があつては何分宜しくない、書面を御返し申す、併し其事柄はいづれ申上げるやうに致さうと言つて、其書面が戻つて来たんだね、其後に模様が変つて、隠居だの謹慎だのと
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いふことになつたんだ、それが又変つて、謹慎にも及ばない、再び相続といふことになつて、徳信院様も御喜びになつた、処へ今又京都の方の大混乱の中へ私がはいるといふについて、大変御心配なすつて、どうかさういふことのないやうに、行かぬやうにしたいといふことがあつたんだね、併しどうも職掌のことで、行かぬといふ訳にはいかない、それからして私の弟の余九麿を、留守中はこちらへ芸術の稽古といふことで呼びませう、そこで私も実は死を極めて出る訳で、死生のことは測られない、万一のことがございましたら余九麿を後に立てますから、御慰めになりますやうにと言つて、余九麿をこちらへ呼ぶことになつたんだ、全くの事情はさうなんだ、
○江間 書附で見ますと、唯芸術の御世話を一橋家でして下さるといふだけでございます、
○公 幕府の方へも其事を話して、宜しいといふ許可を得て引取つたのだ、
○萩野 余九麿様は後に会津の御養子になりましたな、
○公 さうだ、後に会津の方へ養子に行つた、
○萩野 松平大学頭の方へ御養子といふことは、会津の後でございますか、
○公 会津の後だ、
○江間 会津へ入らしつた時は若狭守と仰しやいましたな、
○公 さうだ、

○萩野 先日伺ひました後見職の御辞表でございますが、どうも調べて見ましたが、記録には中川宮様の御手控にもございますし、孝明天皇御実紀にもございますが、どうも尚考へて見ますと、少し変なやうに思はれます、御詞の通りです、熱田から御出しになつたものならば関白様へ御添書か何かありまして、在京中は御世話になつたといふやふな、御挨拶がありさうなものでございますが、さういふこともございませぬ、却て第二回の時には、在京中色々御世話になつたといふことがございます、最初に無くして二度目にあるといふのは、少し変でございます、
*欄外記事
[本書第十九熱田より出されしといふ御辞表の事の条参看すべし
○公 熱田から出したといふのは少しも覚えない、又事実を考へた処が、決して無いと思ふがね、どういふ何だか、
○萩野 どういふ訳で偽作を致したものでございますか、何か為にする所がなければ偽作する訳もないのですが、
○公 熱田まで行つて、熱田で堀宮内に事情を聴いたといふのは、それはさうだ、色々事情を聴いたについて辞表を出すといふのは、どうも分らぬ話だ、何かの間違だらう、
○江間 あゝいふ御辞表なんといふものは、表面は単純なことに書いて、それに必ず添へたものが出るものでございませう、
○公 あの時分の辞表は、添へ文も何も書かず、事柄をずつと書いてそれ一本だけで、別にはない、
○萩野 あの御辞表に殿下とばかりございまして、関白殿下とも鷹司
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殿下ともございませぬが、元来さういふ書式のものでございませうか

○公 さうであつたかも知れぬ、殿下で分つて居る、
*欄外記事
 (公御手記)
 此時は関白殿下と認めたるやうにも思ふ猶取調べたし
○萩野 其頃殿下と申しますと関白様ばかりでございますか、
○公 さうだ、
○江間 前関白といふのがあります時には、前殿下と書いてあります
○公 殿下は関白様ばかりだ、
○萩野 第一の御辞表といふのは、堀宮内に御逢の日ですな、熱田へ御著といふのは、いづれ午後とか夕刻とか、
○公 夕刻だ、
○萩野 すると堀宮内に御逢は、いづれ夜分のことでございませう、
○公 さうだ、
○萩野 すると、堀宮内に御逢の日といふと、余程切迫したことでございますな、
○江間 さうして御日附だけあるのは珍らしいやうで、多くは月だけのやうです、
○公 事情と言つた処で、堀宮内から聴いたことだけだ、
○江間 唯浅学短才で大任に堪へないから、後見職を御辞退申す、其代り……、其代りとはありませぬが、攘夷の方はこれから必ず遂行する、つまりそれだけのことでございますから……、
○公 後見職で居て攘夷が出来ないといふのだ、それで後見職を罷めて一己になる、一己になつて攘夷をやるといふのは分らぬ話だ、少しも覚がない、
○萩野 右の不思議な辞表を受取つた松室礼重といふのは、京都の地下人か何かでございませうが、其人の手控と中川宮様の御控にございます、五月九日に到著したといふ日附までございます、四月二十六日に熱田から御出しになつたものが、京都へ五月の九日に著するといふのも、余り日取が遅いのです、これまでは本当のものと信じて居りましたが、御話を伺つて如何にも不審に思はれます、
○江間 外に書いたものはございませぬか、
○萩野 岩倉公実記にもございますが、元が一つだから一向取るに足らぬのです、松室の手控と中川宮の御手控だけです、何か為にする所があつたと見えるのです、それでは御辞表といふのは、「綸言汗の如し」といふ文言のある分が初ですな、
○公 あれが初だ、
○江間 今日伺ひますことは先づこれだけでございます、こゝで暫く時間を拝借致しまして、私からちよつと御耳に入れて置きたいことがございます、御承知の武田猛……、耕雲斎の子の源五郎です……、これが越前を脱しまして、今日まで存命して居ります、即ち耕雲斎の祀は、此男に依つて繋がれて居るのでございますが、此頃丁度宜い折がありまして、私ども同志の者十人ばかり集会の席へ招待しまして、予て私の分らぬことがありましたから、それを穿鑿を致しました、これ
 - 第47巻 p.604 -ページ画像 
も今御話のありました通り、あの時のことですから、書類は色々沢山あります、それから又、其当時を知つて居る連中から直接に聴きましたことを、それらと合せて見ますと、多くは間違つて居ります、穂積亮之助、あれが一番あすこを斡旋しましたので、猛を引出しましたのも穂積らしうございます、先般ちよつと御耳にも入れましたが、穂積が御前の御内意を以て、耕雲斎は誠に罪はあるけれども、其事情を察して見ると甚だ愍然の情もあるに依つて、とにかく名家であつたものを、此一挙で祀を絶やしてしまふといふのは甚だ不愍に思ふ、それでこれはあるまじきことだが、誰か一人子供でも具して居るならば、それを一つ其方が行つて秘密に救ひ出せといふ御沙汰を蒙つて、そこで有難いことだといふので、すぐに彼の地へ参りまして、さうして彼の原・梅沢などに段々相談を致しました処が、これも誠に喜びまして、幸に穂積が、これまで武田勢から趣意書・歎願書などを出しましたことについて、彼の陣へは度々往来して居りまする処から、其伝手《ツテ》で穂積が耕雲斎に会ひまして、何か秘密話を致したのでございませう、固より穂積が明言して居るのではございませぬ、又外に確証も見出しませぬが、何が動機となつたものでございますか、すぐに一行の中から武田猛・梶又左衛門・原孝三郎、此三人を連れ出して京都へ参りまして、それであすこが助かつたのでございます、其途すがら困難しましたことなども、面白く書いた書物もありますけれども、それらのことは格別必要はございませぬから、省略致しますが、さてどうも事情が判明致しかねますから、若しやと存じまして、猛に対して尋ねましたのは、「越前脱走の時、貴所《アナタ》は御父さんと如何なる御別れをなされましたか、」「別に別れといふことはしない、」「けれども貴所が今日こゝに御存命なのは、あの当時訣別をなさらなければならぬ筈、御父さんに於ては、ちやんと訣別の御考であつたらうと思はれますが、」「それでは御話をしますが、あの時は唯何となく父が呼びますから、父の前へ出た処が、これから藤田小四郎を加賀の陣屋へ遣はすから、貴様もついて行け、併し斯ういふ場合だから、どんな間違が出来ぬものでもないから、万一のことに際会したならば、潔くやれ、卑怯なことをしては相成らぬ、そこは厳重に申渡すからと言つて、懐中から黄金を三枚、それに新しい下帯を三筋添へまして、これを持つて行けと申付けました、」「其時貴所の御年齢は、」「十五歳でありましたから、大抵物心はついて居りましたけれども、唯自分はそれだけのことしか知らぬ親から立派なことをせい、卑怯なことをしちやならぬぞと言はれただけは、ちやんと覚えて居ります、」「其時は御父子御差向ひか、又は他に同席の人がありましたか、」「同時に会つたのが今の穂積亮之助、それが何用かで来て居つた、其時父は烈公から拝領した小さな銀の時計を持つて居つた……、其時には結構なもので……、それを腰から取つて穂積にくれました、それですぐに小四郎も支度をして、さあ行かうといふので、そんな連中四五人して加賀の陣へ行つて、どういふ談じがあつたか知らぬが、すぐさあ行かうといふので、三人を連れて穂積がずつと京都へ行つてしまつた、」「其時京都で綿引泰が御世話をしたといふことを、自分で話をして居りましたが、」「そんなことは覚がな
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い、すぐに因州の屋敷へはいつた、因州の屋敷に暫く居て……、」「それは三人ともですか、」「外の三人は……、一人は三木左太夫です……伏見の鳥取藩の奉行か何かの居る屋敷へはいつた、其後に岡山の方へ行つて、岡山に長く潜伏して居つて、さうして明治の世の中になつて出て来たのであります」といふ話、これは誠に実歴で、少しも私どもの知りませんことでございます、それから尚又段々と、一方では斯う聴いた、一方には斯う書いてあると一々尋ねて見ましたが、どうも似て非なるものが多いのであります、それで私は、御内命で以て云々といふことは、予て伺ひました時分に、さういふことは決して無いことだといふ御沙汰でございましたから、それはもう無いことゝ存じて居りますが、それにしました処で、どういふ処からあれが起つていつたかと考へますと、三人の中に原市之進の弟が一人居ります、格別抜け出した人物といふではありませぬ、然るに其大勢の中から原の弟をひつぱり出して来て、武田猛などゝ一同に助け出した辺から想像致しますと、やはり原・梅沢・穂積あたりの極の機密上から、君公へは恐入つたことだけれども、御名を矯め奉つて、そんな挙動に及んだのであらうと見込をつけても、大差はないであらうと考へますが、如何なものでございませうか……、それからもう一つは、原市之進の斬られました原因といふことにつきまして、薄井竜之といふ者がありまして、此頃其直話を私が又聴を致しました、それで見ますると、もうあの時の事柄はずつと能く分ります、如何にも原は気の毒のことで、僅な間違から兇刃の為に仆れてしまつたので、甚だ残念に思ふのでございます、此薄井といふ者は、もと筑波党の軍師で、それが又何故に一味を脱したらうかと段々質問をしますと、此男は信州飯田の郷士か何かでございませう、薄井某といふ者は耕雲斎に徒党をして、しかも其軍師であるといふことが、ぱつと評判になりました、それで飯田藩では、残つて居ました老母と妹を縛つて、牢屋の中へ押込めてしまつた、そこで耕雲斎はずんずん信州路へ上つて来る、薄井が聴いて見ますと、老母と妹が自分の為に牢舎せられたといふこと、これは堪らぬといふので、そこで藤田小四郎に相談に及んだ、「斯う斯ういふ場合である、もうどうも仕方がないから、こゝで別れて自首して出て、母や妹を助けやうと思ふ」といふと、藤田が「それは一応尤だけれども、お前が自首して出たつて、迚もおいそれといふ訳にはいくまいと思ふ、連中の中にお前が居るからさういふ訳になる、一味さへ脱すれば宜いのだ自首するのは愚だから、早くこゝを脱しなさい、」「それでは折角約束をしたことに背くから、」「なにそんな心配は要《イ》らぬ、我々のやることだつて、これからさき、実際出来るか出来ぬか分らぬ、まあ行く処まで行つてしまふので、遂には縛首になるかも知れぬ、どうせ死ぬのだから、どこかで此志さへ達すればそれで満足だ、速に脱しなさい、我我の方でも仲間から除いてしまつて、どこまでも存じませぬと言へば済む、其代りこゝに一つ条件がある、それは我々が斯う虚勢を張つて大勢で出掛けるやうなものゝ、目的に達することはむつかしい、唯銘銘の素志を、京都にゐらつしやる一橋様に御達し申しさへすればもうそれで宜いのだ、其事をお前が引受けて、京都へ行つて如何にもして
 - 第47巻 p.606 -ページ画像 
伝手を求めて、一橋様に申上げてくれぬか、」「宜しい、然らばそれを一つ私が条件として任じませう」と言つて、別れてすぐに江戸へ出ました、出て暫くすると、どういふ伝手がございましたか、上京をする極宜い方便を得ました、それは阿波の稲田九郎兵衛、例の大きな家老です、其人の家来に某といふ者がありまして、それと懇親になりまして、阿波藩の家来の又家来となりまして、さうして難なく京都へ出ました、其頃京都の一橋家には御用談所といふものがありまして、其主任が原・梅沢・黒川・川村、それから渋沢篤太夫・渋沢成一郎・穂積亮之助といふやうな顔触れ、そこへ何気なく出て行つて、渋沢篤太夫さんに面会したいからと斯う申込んだ、処が渋沢はまだ出勤前だとのことで、暫く待つて居ると渋沢が出て来た、薄井の顔を見ると斉しく大変の驚きで、何でこんな処へ出て来たのか、危い危い早く帰れといふ話、自分の為に形勢が穏ならぬ、これは危いと思つたから、怯気《オヂケ》づいて門まで出て来ますと、ここで又荒胆を挫がれた、門まで来ますと二十人ばかり門衛が控へて居る、そこを通り抜けて出ると、大きな声で薄井さん薄井さんと呼ぶ者がある、びつくりして胆玉を転倒した、聴かぬ体《フリ》をしてずんずん行くと、後から追つ掛けて来て、とうとう追つ附かれた、見ると自分の弟子の某といふ者の伜で、能く顔を知つて居る者、どうして来なすつた、まあまあと言つて、袖を引留めるのを、急な用があるからと言つて、振払ふやうにして逃出した、それから阿波へ逃げて暫く居りまして、どういふ訳でございますか、間もなく、又江戸へ出て来た、其時にはあの小栗上野介の意見で、軍制の改革といふことがありまして、旗本が皆浪人・百姓などを集めて兵隊を拵へる其時に七千石で御船手頭をして居ります人で佐野豊太郎といふ旗本がありました、これが本所の割下水に屋敷があつて、其人が七千石に対して、丁度一中隊程の歩兵を拵へる、そこで薄井が軍学に達して居るといふ処から、何となく先づ己《オレ》の家へ来て居れといふやうなことで、其屋敷へ招かれて兵隊を訓練することになりました、其時こちらでは新徴組がなかなか盛で、其外にも一派の壮士党がありました、其重な人は山岡鉄太郎・高橋伊勢守・関口艮輔など、あの連中がなかなかやかましい、これらの人々と原とは、所見が大変表裏のやうに違ふ、原の方はあれだけの達観の人ですから、さほど思つて居ますまいが、こつちは原を目して、彼は真に売国の奸臣だと一図に思つて居たのでございませう、そこで関口艮輔が或日のこと薄井の処へぶらつと出掛けて来た、丁度其時に原から薄井の処へ、もう世の中も大分宜い工合になつたから速に出て来い、段々相談もあるから、一刻も早く上京をしろといふ書面が参つた、そこで薄井が何心なく関口に、「原から斯ういふことを言つて来た、己は京都へ行かうと思ふがどうだ、」関口が其書面を繰返し繰返し見て居たが、「これは宜からう、君は愈行くか、」「勿論行く積りだ、」「さうか」と言つたなりに関口は帰つてしまひました、すると其翌日の夕景少し前に脇差の小さいのを一本指して、関口が又ぶらつとやつて来た、「昨日は大きに邪魔をしたが、愈上京といふなら、同志の者も段々あるから、浜町の菊池長四郎の別荘へ行つて、あすこで同志寄合つてお前の為に送別の宴を開く積りだ、これか
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ら一緒に行かう、」「それは有難い、それでは同道をしやう」と言つてそれから長い刀を指さうとすると関口が、「何だお前は、友人が寄つて酒を飲まうといふのに、そんな長いのを指して行くのか、己はこんな短いのだ」といふ、「大きにそれもさうだ」といふので、短刀を一本指して、さうして二人連れで話をしながら、本所の津軽の表門まで来ますと、日はもう全く暮れる、此あたりに待伏せて居た依田雄太郎が、後からばつさりと斬りつけましたのを、薄井は振返りながらに向ふの小手に飛びついた、そこで組討が始まつた、前の方は鈴木恒太郎が刀を真向に振りかざして居るが、斬り下すことが出来ぬ、其間に関口は居なくなつてしまつた、何しろ表門のことですからすぐに津軽の番兵が飛出して来る、そこで薄井は組合ひながら大きな声で「唯今賊にやられましたから御手当を願ひます」と呼んだ、番兵の方ではどつちが賊だと分らない、其間に依田始め三人の兇徒は、闇を便りに逃失せた、跡に残つた薄井を門内に引入れて段々の吟味、薄井は「私は本所割下水に居る斯く斯くの者でござる、どうぞそれへ御照会を願ひたい」、それからすぐに言つて遣ると、さあ先生が斬られたといふので訓練を受けて居る一中隊の兵隊が続々駈けて参つた、すぐに医者の手当を受けて、十四針縫つたといふことで今でも大きな傷痕が背中にあるさうです、薄井は斬られた翌日、創口をしつかり繃帯して、駕籠に乗つて関口の宅へやつて来た、何で斬つたのか質問に及ぶといふ考であつた、取次に出ましたのが関口の老母で、薄々知つて居たものと見えて、薄井の顔を見るとどうも非常な驚きで、「艮輔は唯今居りませぬ、」「少し面会して話したいことがある、それでは帰るまで待たう」と言つてつかつか上り込んだ、すると奥から、「いやどうも気の毒だつた」と言つて、艮輔が出て来たさうです、そこで段々質問に及ぶと「実は我々が遣つたに違ひない、お前が原の処へ行くといふことに決した以上は、我党の機密がすつかり京都の原に聞える、さうすると我我は斯うして居られぬ、先んずれば人を制すだ、気の毒だけれども遣つ附けたのだ、併しまあ殺してしまはないで大きに宜かつた」、そこで薄井が、「それはどうもお前たちの考は大きに間違つて居る、全体お前たちは原を何と見て居る、原はさういふ奸物ではない、斯く斯くの訳である」と痛みを堪へて懇々と説いた、すると関口はさながら酔へるが如くで、「まあ待つてくれ、そんな話なら己一人ではいけない外にも聴かせる者があるから」と言つて、すぐに呼びに遣りまして、そこへ出て参りましたのが豪傑連の山岡鉄太郎・中条金之助・榊原采女・小草滝三郎・松岡万、これらの勇士が出て来て、一番に山岡がずつとはいつて来た、処が誠に可笑しいのは、胸の処へ芝居の上使見たやうな工合に書附を斯う挟んで居る、関口に向つて、「どうだ」、「どうだつて斯う斯ういふ話だ、能く一緒に話を聴かうと思つて呼びに遣つた」、「さうか」、それから段々話をすると、「それは大きにこつちの見込違ひだ」、すると関口が、「間違と知れたら、彼等を呼返さうか」もう依田は薄井を斬つて、其儘すぐに原を斬りに京都へ上つたのです一座顔を見合せて、「もう箱根を越えて居るだらう、迚も間に合ふまい、」山岡が暫く考へて、「大丈夫だらうよ、原はとにかくあれだけの
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人だから、先づ五人や六人の警衛はあるだらう、彼等が三人くらゐ行つたつてちよつとむつかしい、迚もいけまいから、まあ放《ホ》つて置け」といふので、それきりになつてしまひました、これが原の不幸で、結果は立派に斬つてしまつたのです、全く此一言に引導せられたやうなものでございます、それから山岡が薄井に向つて「これを見てくれ、」懐中から出したのを見ると、此者は怪しからぬ奴だといふ罪状です、「実はこれをお前の首に附けて、両国へ曝して置く積りであつた、話を聴いて見ると大きに気の毒の訳であつた」と、今度は薄井を関口の別荘へ引取りまして、負傷の悉皆癒《ナホ》るまで手当をしてくれたさうでございます、さういふ訳です原の死にましたのは、誠に聊の違ひで、意思の通じませぬ為に、あゝいふことになつたのであります、
○公 成程さういふ訳であつたか、関係人の名は密に聞いたよ、
○阪谷 尾高惇忠がよく其時の話をして居つた、山岡鉄舟・高橋泥舟などゝいふあの連中の相談を聴いて、其当時の豪傑といはれる人が、あゝ目先が見えないでは、幕府の倒れるのも無理はないと言つて、よく嘆息話をしたことがある、どうして知つて居たのか、
○江間 あれは同志ですから、
○阪谷 薄井といふ人は生きて居りますか、
○江間 まだ達者で、確か八十歳ださうです、或は曰くに、随分法螺を吹く人であると聞きました……、
○阪谷 併し今貴所の話と尾高惇忠の話と一致して居る、薄井が斬られたといふことは知りませぬけれども、現に山岡鉄舟・高橋泥舟が斯ういふ議論であつたといふのが、やはり原市之進を斬らなければならぬといふので、誠に大事な味方を斬る、世も末になれば仕方の無いものだといふことを感じたと尾高惇忠がよく言つて居つた、其話がどういふものかと思つて居つたが、今の薄井の話で其事が能く分つて来る
○江間 もう一事申上げたう存じます、これは前以て箇条だけを差上げて置きまして、御考を願はうと存じましたが、四五日少し加減が悪うございまして、其運びに至りませぬでございましたが、それは慶応元年二月、松平伯耆守と阿部豊後守とが上京しました一件でございます、あれは一度伺つたことがありますが、尚此際ちよつと伺ひたいのは、伯耆守の京都へ著しましたのは二月五日、阿部に先だつこと丁度二日で、阿部が七日に上京しました、其阿部の上京の前日、即ち六日に、伯耆守を御前の御屋敷へ御招きになりまして……、
○公 阿部が先ぢやないか、
○江間 いえ伯耆守が先です、其時に御話をしました伯耆守の口上が尹宮様の御日記の中にあります、それは御逢ひになりました翌日、黒川嘉兵衛を以て、昨日の様子は斯うであつたといふことを、宮様へ内内御報知になりまして、それが其儘宮様の日記に書かれたのです、それで其時御前から伯耆守に、どういふ訳で上京したかといふ御尋がありました処が、今度の上京は朝廷から命ぜられたといふ訳でもなく、又関東の公然たる御使といふ訳でもない、唯一つ趣意とする所があるけれども、其要点に至つては、今一存でこゝで申上げることは出来ませぬ、もう豊後守が参りますから、上京しました上、一緒に参殿して
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親しく御話をするやうにしたい、斯う申して何も言はない、折から刻限でもありましたか、酒肴の御饗応に預かり、伯耆守はちと飲み手と見えまして、一杯機嫌になつて大分口を開くやうになつた処を、遂に御前に釣込まれてしまつて、ぽつぽつ趣意とする所の端緒を吐露しました、其箇条が十一箇条あります、それで此箇条は、尹宮様へどうか貴所様《アナタサマ》から申上げて戴きたい……、其箇条はどうかといふと、関東では開鎖の論がやかましかつたが、此節は少々穏になつて、至極緩かである、又大樹公の御進発といふことは、やかましいことでありましたが、去年の暮、同列どもが皆申合の上、断然御進発御見合といふことになりました、それから京都の方は、諸藩の兵を以て宮門並に九門の御警護をすることは、あれは誠に宜くないから、今度は一切あれを止《ヤ》める、又諸藩の周旋方といふ者がある、これが誠に有害のものであるから、これも同時に引上げさせる、それから朝廷から、此上にも尚上洛をせいといふ勅使等を自然御発しになるやうでは、もう仕方がないから、幕府の内閣は総辞職をするといふ決議に及んで居る、それから私ども両人参りましたのは、伯耆守は表から厳正なる態度を以て臨み豊後守は裏から穏和の手段を以て色々朝廷に周旋をして、内外応じてやる積りである、又禁裏を始め国事掛等へは総て金銀を贈つて、文政年間の通りにする積りである、それから朝廷で何かといふと天下の政治に御干渉遊ばす、あれは誠に宜しくない、これが即ち天下に混雑を生ずる本であるから、以後は一切さういふことのないやうにしたい、それから一橋・会津・桑名、此三家は関東へ下してしまふ、さうして自分たち両人が京師に残つて、総ての取扱をする、それから尾張老侯は是非とも御参府にならなければならぬ、これが御参府にならぬと、甚だむつかしいことになる……、そこで御前が、会津は近々下向するといふ噂のあることを御漏らしになると、至極結構のことでございますと言つて、非常に喜んだ、先づ黒川の宮様へ申上げた要領は斯ういふ訳、それから其酒肴が出まして酔興に乗じて云々といふことは、これは薩摩の大久保一蔵の日記の中にございます、これは立派な文章に書いてあります、それからこれに引続いて、両人して御前へ伺ひました、其時の御話は次に伺ひますが、此伯耆守一人出ました時分には、凡こんな御様子でありましたらうか、何か御記憶はあらつしやいませぬか、
○公 少し記憶がある、詳しいことは知らないが、私は最初に阿部が来たかと思つて居る、伯耆が先だつたか、それはどつちでも構はないが、会津の方へ阿部から言ひ込んだのが、此度両人揃つて上京したについては、いづれ伯耆守から色々御話致すことがあるでございませう併しそれはどうも甚だ道理でない、私は別に少々腹案があつて出たのであるからといふことを、会津へ言ひ込んだ、そこで会津が、二人御用を蒙つて来たのに変な訳だ、それはどういふ訳だと斯う押したんだ押すと、先づ第一にあれは宜くない、総て関東へ連れて下るといふ積りで伯耆は出たのだ、私は又それと考が少し違ふ、斯ういふのだ、それで会津も、さやうでございますかと言つて、それから会津の方で、どうも怪しからぬ、閣老たる者が御用を承つて来たのに、一人は斯う
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だ、一人はさうでない、どうもさういふことはないと言つて、大変に会津の公用人が腹を立つた、それで会津の方から私の方へ言つて来た斯ういふ積りで来たのだ、宜くいけば伯耆の方で連れて行かうし、模様が悪かつたら阿部がそこを宜いやうにしやう、斯ういふ二人の申合せで来たんだ、そこで会津が大変怒《オコ》つて、さういふ閣老の考では事は為せない、怪しからぬ、それで関東の方の評議が、私の方ではちやんと分つて居る、処へ阿部が来たんだ、阿部が来て、色々鉄砲の話、馬の話、馬は大変好きだ、私も馬は好きだ、馬の話や鉄砲の話をして、国事のことは言はないのだ、それで阿部の言ふに、私は風砲といふものを持つて居ります、風を籠めて打つ鉄砲、それを上げませう、貰はう、其風砲を貰つた、それからまあ何だか上の方を撫でるやうな、擽るやうな談判をして帰つてしまつた、それから又伯耆が来たが、これも亦何だかはつきりしない用談で帰つてしまつた、私はそれだけで、こつちは泰然として居るんだ、言ふなら何でも仰しやいといふ態度で居る、向ふから言はないのだ、それはさうだらう、斯うしやうといふ人だから言ふ訳はない、余程面白かつた、
○江間 今の宮様の日記に、「伯耆守赤面《アカヅラ》、豊後守白面《シロヅラ》にて周旋の含の事」とあります、
○公 さうだ、会津もさう言つた、悪ければ悪い、善ければ善いと、はつきり仰しやるが宜い、どうでも思召次第だ、然るをさういふことをするといふのは実にいかぬと言つて、大変会津が嘆息した、さういふ訳だから、委細のことは余り私は聴かない、
○江間 処が側から見ました時には一大事件の訳、御前始め会津なり桑名なり、何もかも背負つて立つてござる人を、老中二人出て来て引戻すなどは変な話で、薩摩の大久保などは憤慨して、あつちこつちを周旋したやうです、それから阿部は七日に上京、唯今申上げました伯耆守が、御前へ出ました其翌々日、即ち八日に、改めて両人同道で御前の御屋敷へ参殿した、其時の御問答といふのを、野中某が浅井将監といふ人から密話として聴いた書附があります、これに依つて見ますと、其時御前が、「御両人今度の御上京は、何等の御趣意でありますか」と御尋になりましたら、「今度は段々御用向があつて上つた訳であります、」「其用向といふのは、攘夷の論か、或は長州の件でありますか、」斯う御尋になりますと、「先づ主として申上げることは、御承知の通り江戸は甚だ手薄であるから、将軍様も何かに御心配、殊に御相談相手と言つては御一人もゐらつしやらない、甚だ御心細く思召す、そこで第一に小石川……、貴所様の御実家の御屋形の一条、これが甚だ容易ならぬことで、段々御処置振りが宜しくない、先づ第一にそれらの辺のことも篤と御相談遊ばして、相当の御処分になるやうにしたいといふ上の思召であるから、三十日なり五十日なり御東下になるやうにしたい、此上意を私どもから御伝へ申上げるやうにといふことであります、」そこで御返答には、「御趣意の趣は承知した、如何にも実家の処置振りの宜くないことは、自分も能く承知して居る、併しながら全くあれは中納言様の御失策で、あゝいふことになつて来たのである、それで其弟の自分が遥々関東まで出て、それに干渉して、あ
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れのこれのといふことは、人情に於ても誠に不愉快に存ずる、で此儀は上意ではあるが、幾重にも御断りしたい」、斯ういふことを仰しやいました、さうしたら向ふの返答が、「仰せの趣御尤ではあるが、上様も御心配の余り、くれぐれも申上げ、是非に一度御帰府なさるやうにといふ厚き上意であるから、尚一応緩々御思案を願ひたい」、すると其御答に、「成程思案再考といふことも、事に依つては必要であるが、今日の御話のことについては、どうも再考する必要はない、既に一昨年江戸を出立する時に、上様から厚き御直命を蒙つて居る、其時にもう十分存じ込んだ事柄もあるから、もう江戸を立つ時に、一橋の屋形へは再び帰らぬ、京都の土となつてしまふ覚悟で来て居る、かやうな次第であるから、事柄にも依るけれども、右等のことでは決して帰らぬ、此処は宜しく申上げて下さい」と仰せられました処が、両人ともに一言の答もなく、それから又十一日に二人が出て来まして、前の請求を繰返して申上げたけれども、断乎として御聴入がありませぬから、其儘に終つてしまつた、それから後会津へ参りましたのです、会津へ行つて手ひどく論ぜられたのです、其前に所司代を呼びましてこれは若うございますが、其時には出来が宜いと言つて、大層讚められたのです、越中守がなかなか二人をやり込めるのです、大変能く出来た、結局お前の言ふことはどうも理屈ばかりで、理屈では世の中は渡れぬ、第一我々に向つて斯うせいあゝせいと指図をする身分ぢやない、我々の指図を聴いて其通りにするが宜い、全体お前は口が過ぎるなどゝ叱られて、それぎりになりましたが、会津にはひどくやられました、さういふ処から今度は参内と来た……、
○公 会津がどうとか斯うとかして、それで止《ヤ》めになつたといふ話は聞いた、
○江間 それから参内しますと、又これが場所が場所なり、先生方不慣ですから、関白殿下が又非常の激怒を為して、とうとう即日豊後守は江戸へ出立し、伯耆守は大坂へ行けといふ御命令になつて、忽ち終つてしまつた……、さう致しますと唯今申しましたことは事実其通りで……、
○公 成程仄に覚えて居る、さういふ塩梅だつた、
○江間 どうも誠に有難うございます、
○阪谷 武田耕雲斎の伜を助けたといふのは、原市之進の専断でやつたやうになりますな、一橋公の御沙汰だといふことも出来ず、御沙汰がなくては出来ぬことであるし、君公の命を矯めたやうな矯めぬやうな訳でなくてはならぬのですな、何か其辺に消息がありさうなものだ
○公 罰してしまへといふのだ、処へ武田耕雲斎が降伏をした、若し助けると言ひ出すと、迚もちやんとして居る訳にいかない、といふものは、水戸の奸党の方へ幕府では肩を持つて居る、天狗といふ方は皆討つてしまへといふのだ、さうでなくても私を関東へ呼下さうとして居る処へ、武田始めが来て、少しでもそれを助けやうといふ気振が見えれば、すぐにやつて来るのだ、どうせ何といつても武田は安全といふ訳にいかない、それで誠に気の毒だが、どうせ言つても助からぬのだ、助からぬ者を救はうといひ出しても何にもならぬ、それをやると
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自分自身がやられる、併し如何に何でも、自分の手に殺すといふことは誓つて出来ない、そこで加州へ降伏した、降伏だけは承知した、それで江戸から田沼玄蕃が受取に行くから其儘にして置けといふ、それで翌春と思つた、受取に来た、其時に向ふの口上が、武田始め降伏した者を受取ります、私の方からは、御渡し申します、それだけだ、それはどうとか斯うとか事情の話があるかといふに、何もない、降伏した者は今日受取り申します、御渡し申します、さやうなら、それつきりだ、それですぐに首を斬つたと斯ういふ訳だ、もう来れば何かいふだらうと思つて、いへば断然斯うといふことがちやんと分つて居る、処が何もいはない、受取るといふから御渡し申すといつたのだ、
○江間 成程あれは罪はあるけれども、残らず殺すのはひどいとかいふことを、一言でも仰しやつたら、
○公 あの時分に本国寺に居た水戸の人を、是非関東へ下すやうにといふことは、度々いつて居る、遣らない、遣つて皆殺してしまふ訳にはいかぬ、それが後に御一新に至つて、鈴木始め市川の罪をちやんと立てるやうにといふ朝廷からの御書附を、本国寺の水藩の者が持参して下つた、丁度東京に居たものだから、斯うするが宜い、あゝするが宜いといつて、それで漸くあすこが極まつたのだ、
○江間 御話の序に伺ひますが、朝比奈弥太郎、あれも一つ縄に行くといふ考のものを、中納言様が大変に御庇ひになつて、それまでにせんでも宜からうといふ沙汰が御ありなすつたけれども、御前が断然とやつてしまはなければいけないといふ御沙汰があつたので、それに勢を得て、とうとう無二無三にやつたといふやうなことが書いてありますが、事実そんなことがございませうか、
○公 あの時分朝廷から御書附を本国寺連へ御下げになつた、烈公の趣意を奉じて、鈴木・朝比奈等を厳罰に処し、正邪の弁を立てろといふ御書附だ、それを持つて下つた、私は戦争で江戸へ帰る、まだ大慈院へ謹慎しない前だ、途中から綿引といふ市之進の弟子が来て、斯う斯ういふものが出た、守護して帰る、これからどうして宜からうか、伺つてくれろといふのだ、それから考へた、これはなかなかむづかしいが、大概の行立《ユキタテ》は分つて居るから、それから水戸の中納言に、用があるからちよつと来てくれ、呼びに遣つたんだ、ちよつとで宜いから来い、何気なく来た、来た処で、屋敷へ帰ることはならぬ、屋敷へ帰ることを止めた、すると屋敷の方の奸党は、早く御帰りなさい、帰ることはならぬ、それから、奸党の首謀になつて居るのは何といふ人かそれは藤咲伝之丞といふ人、伝之丞をすぐに呼びに遣れ、それを呼んで留めてしまつたんだね、それから本国寺連を皆城中へ呼んだ、其時には鈴木《*》・長谷川が頭で、余程大勢だつた、そこで勅諚を拝見した、それから下手《ヘタ》をすると水戸家は騒動になる、こゝは勢でやらなければならぬ、考へて、京都から来た者は勅諚を持つて中納言が帰る前に行け、それから後から中納言、それから幕府の兵隊、これを百人か二百人行列に附けてさうして帰した、帰つたらすぐに処置をしろ、若し起り立つたら討つてしまへといふ意気組で帰つてしまつたんだ、すると水戸の屋敷に居る奸党がそれを聞いて、もう仕方がないといふので、
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大変驚いて、窓から飛出したり何かして皆脱走してしまつた、それから其後へずつと乗込んで、それで本国寺に居た天狗といふ者が事を執るやうになつて、奸党の者は皆脱走してしまつて、それで綺麗に片がついた、処が奸党といふ者は行場がないから、会津へ行つて、此上は是非とも徳川家の為に薩長を討たなければならぬといふ、すると会津がやる覚悟だものだから、丁度そこへ出合つたんだ、それぢやあどうぞ一方を受持つてくれろと頼まれて、会津の加勢をしたのだ、私は水戸で謹慎して居た、其中にもう会津が降伏といふことになり、仙台でも庄内でも皆片がついた、片がついて見ると、奸党といふ者は身を置く所の地はないのだ、そこで、今度は、どうせ死ぬなら天狗と戦つて斬死をしてしまはうといふので、水戸へ引返した、それを私が水戸に居る時に気を察して、会津や何か降伏したら、もう水戸へ帰つて来るに極まつて居る、甚だ危い、私は謹慎を仰付けられて居る、どうもしやうがない、それからして勝の方へ、斯う斯ういふ訳で、今に奸党が引返して来て、水戸で戦争が始まる、其時分に水戸に居てはいけないどうか今の中に駿州宝台院で謹慎するやうに願ひたいといふことを言つて遣つたんだ、さうすると勝と大久保が三条さんなどへ其事を願つた、願ふと大変御喜びで、大変嫌疑が解けたといふことだ、それでは早速といふうので、銚子の浜から船で静岡へ行つたんだ、静岡へ行つて宝台院へ入ると、間もなく奸党が水戸へ押込んだ、それで弘道館の戦争となつたので、それから鈴木が脱走してどこで捕《ツカマ》つたかとか、市川がどこで捕つたとか、ちりぢりに逃げて捕つてしまつたので片附いた、それから私は宝台院に居たが、あすこで謹慎御免といふことになつて、其儘静岡に居たと斯ういふ訳だ、
*欄外記事
 (公御手記)
 此鈴木は天狗党
○江間 御留置になつたといふのは中納言様を……、
○公 是非留まらなければならぬ、決して帰ることはならぬと厳しく言つたのだ、何しろ兄ではあるけれども、まさかに立場が宜かつたから、枉げて帰る訳にもいかない、目付や其他へ言ひ付けて置いてもう帰さぬといへば、帰る訳にはいかない、無理に留めて置いてさういふことにしたのだ、
○江間 其折に中納言様から、今の朝比奈弥太郎、あれを呼びたいといふやうな御請求は……、
○公 色々あつたよ、それは帰つて斯う斯うする方が宜からうといふ話があつた、それはいけない、私の留置に従はなければならぬと言つて、留めて置いてやつてしまつたんだ、



〔参考〕昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一六四―一六八頁大正四年四月刊(DK470132k-0002)
第47巻 p.613-615 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  下巻・第一六四―一六八頁大正四年四月刊
  第二十一
      明治四十三年八月八日小日向公爵邸に於て

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       興山公     文学博士 萩野由之        豊崎信君        藤井甚太郎 



 - 第47巻 p.614 -ページ画像 
    酒井忠績上京の事
八月十八日の政変後、酒井雅楽頭の上京せしは、○文久三年八月晦日江戸出発。政治上の意味はなく、唯天機伺だけの上京なりしと覚ゆ。
    横浜鎖港談判の事
築地の軍艦操練所にて、米蘭二国の公使と横浜鎖港の談判を開ける時○文久三年九月十四日。予にも透聞して、相違なく談判を開きたる模様を見よとの事なれば、屏風の陰にて透聞せしに、老中より、「此度しかじかの理由にて鎖港すべし」といへるに、公使は「斯かる重大の事は、本国政府へ照会したる上ならでは、某等限りにては何とも答へ難し」といふくらゐの問答にて、案外平穏なりしかば、不審に思ひ居りしが、後に聞けば、公使へは前以て老中より「来る十四日にしかじかの次第を談判すべきも、こは固より幕府の本意にあらざれば、其含にて聴き取りくれよ」と申し合はせ置きて、此狂言を仕組みたるなりとぞ。初横浜にて談判を開くべき筈なりしを、後に本文の如く操練所に改めしも、此透聞の便宜の為なりしならんか。若き折の事なれば、此内情を聞きたる時は、いたく腹立たしく思ひたりき。
 鈴木大日記に、公此時応接の席を御覧ありて、是にては宜しからずとて、或は曲彔の位置を直させられ、或は屏風を立て直し、小柄もて金屏風へ穴を穿ち、紙撚にて結びなどし給ひしかば、外国方の者ども驚きたる由見えたれば、「さやうの事も候ひしや」と伺へるに、「さる事はなかりしよ」とて微笑み給へり。
此時老中より、「嚮に神奈川にて小笠原より発したる鎖港の告知は廃止す」といへりとの事○夷匪入港録によりて記せるなり。なれど、記憶せず。されど今日の考にていはゞ、他日改めて鎖港の使節を外国に遣はす時の障とならざるやうに、斯くいへるにはあらざるか。
又公使が、「それにては日本より条約を破るといふものなり」といへる時、池田修理○長発、後に筑後守と称す。が「条約は仮りの積りなり」といへるには予も呆れたりとの事○鈴木大日記によりて記せるなり。も、今は記憶せず。
此談判を予より朝廷に奏上するに当り、「去る十四日横浜にて鎖港談判に取り懸りたるは相違なければ、宸襟を安んぜられんことを請ふ」と申せしとあるは、○七年史によりて記せるなり。何かの誤ならん。或は横浜の鎖港談判といふべきを、横浜にてと誤り記せるにあらずや。
後に至りて鎖港談判の使節を外国に遣はすことは、岡崎藤左衛門の意見に基けりといふこと○幕末外交談によりて記せるなり。は、其通りならんも知れねど、確には覚えず。鎖港談判について、予が先づ其商人を退去せしめんとの意見なりしは事実なり。
    松平直克の政事総裁職に任ぜられし事
松平大和守○直克。の政事総裁に任ぜられしは○文久三年十月十一日。諸事予と同論の人なればとて、予が推薦したるが如く稿本に記されたり。○続再夢紀事によりて記せるなり。大和守は予と同主義の人たるには相違なけれども、此任命については、別に深き理由はなかりしやうなり、よくも覚えず。
    再度の御上京の事
文久三年再度上京の時、道筋は予て東海道と定め置きしに、俄に海路より上京することに変更せしは、八月十八日の政変後、京都を逐ひ払
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はれし攘夷党の浪士等が、一橋上京せば開国にならんなどゝいひ立て途中に要して上京を妨げんとする模様ありしが故なり。さて蟠竜丸にて築地より出航し、浦賀に至りしに、勝が順動丸を率ゐて大坂より下るに出会ひしかば、其船に乗り移らんと、平岡円四郎をして談判せしめたるに、勝は久々にて江戸に帰らんとする処を、再び上方に引き返せといふことなれば、如何にも迷惑らしかりしが、遂に其船にて西航し、大坂を経て京都に入れり。○十月二十六日江戸御出発、十一月二十一日大坂御入城、同二十六日御著京なり。其間数十日を費せしは、供の兵は皆陸路を取りて隙取るべき故、処々に寄港して、故らに航海を長引かせたるなり。其時召し連れたるは、平岡円四郎・成田藤次郎等が取り立てたる、床几廻といふ一橋の兵兵とはいへども、家中の二三男どもを催して組み立てたるまでの者なり。と、講武所の兵とにして、水戸の兵は召し連れざりしも、後に京都にて、原市之進を始め水戸の者を手許に置くことゝなりたれば、警衛の者は凡五百人余に及びしやうに覚ゆ。
さて予が上京について、有司及水戸の者等が反対せしやう稿本に見えたれども○伊達宗城在京日記によりて記せるなり。当時水戸にては、鈴木石見守○重棟。などの所謂奸党派が事を執れる時にて、攘夷の事はさほどやかましからず、されば京都の本国寺と江戸の小石川との間を往来せし武田耕雲斎○正生、後に伊賀守と称す。は、攘夷にも開国にも甚しく固執はせざりしやうなり。