公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16
第47巻 p.669-675(DK470137k) ページ画像
明治45年5月15日(1912年)
是日、飛鳥山邸ニ於テ、第十五回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。
渋沢栄一 日記 明治四五年(DK470137k-0001)
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渋沢栄一 日記 明治四五年 (渋沢子爵家所蔵)
二月十九日 晴 寒
○上略
編輯局ニテ萩野・江間二氏等ト談話ス○下略
○中略。
三月四日 雨 寒
○上略 午後六時半王子ニ帰宅シ、夜食後伝記ノ草稿ヲ検閲ス、十二時過就寝ス
○中略。
四月四日 晴 軽暖
午前六時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後御伝記原稿ヲ調査ス○下略
○栄一、大磯滞在中。
四月五日 晴 暖
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食シ、後御伝記原稿ヲ調査ス○中略 午飧後御伝記原稿調査ニ勉ム○下略
四月六日 雨 暖
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後御伝記ノ原稿ヲ調査ス○下略
○中略。
五月十五日 晴 軽寒
○上略 午後二時王子ニ帰宿ス、此日昔夢会ヲ開キ、徳川老公ヲ始メ編輯局員悉ク来会ス、阪谷・三上・稲葉・三島・猪飼ノ諸氏モ来会ス、愛蓮堂ニテ会談シ、畢リテ囲碁会アリ、七時頃夜飧ヲ了リテ再ヒ囲碁会アリ、十時頃散会ス
昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一二六―一三七頁 大正四年四月刊(DK470137k-0002)
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昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一二六―一三七頁 大正四年四月刊
第十五
明治四十五年五月十五日飛鳥山邸に於て
興山公 男爵 渋沢栄一 公爵 徳川慶久君 渋沢篤二 子爵 稲葉正縄君 法学博士 阪谷芳郎 文学博士 三島毅君 男爵 豊崎信君 文学博士 三上参次 猪飼正為君 文学博士 萩野由之 江間政発 渡辺轍 井野辺茂雄 以下p.670 ページ画像 藤井甚太郎 高田利吉
毛利慶親父子と御書通ありしといふ事
元治元年三月二十二日、長藩士有福半右衛門といふ者入京して、藩主松平大膳大夫父子大膳大夫慶親《(マヽ)》・長門守定広、慶親は後に敬親と改め、定広は後に広封と改む。の書を公に呈したり。其書の稿本は今散佚して伝はらざるも、二月二十六日附にて、攘夷の国是を変ずることなく、三条元中納言以下正議の堂上を復職せしめ、烈公の遺志を継ぎて、国家の為に力を尽されたき旨を述べたるものなりしが、四月九日公より御返書を賜ひて、「攘夷の儀につき深く尽力せらるゝこと感激に堪へず、然るに今日の形勢に至る、足下の心中察するに余あり、さりながら、貴藩の進退聊恭順の道を失はずして、勤王誠忠の実蹟弥顕然たるに於ては、攘夷成功の道も自ら開くるに至らん、国家の為厚く勘弁し、台命に応じて速に使節を差上せ、公命を仰がるべし」とありければ、半右衛門は二十六日山口に帰り、之を大膳大夫父子に呈したる由にて、防長回天史に其御返書なるものゝ全文を掲げ居り候、真偽如何に候や。
長州より使者の来りしことなければ、さる返書を遣はしたることもなし。当時の形勢より考ふるも、固よりあるべきことにあらず。
井上義斐が兵庫の先期開港問題につきて四国公使と談判せし事並に松平康直の兵庫に使せし事
慶応元年九月、先期開港・条約勅許の問題起りし時、二十六日井上主水正が兵庫に赴き、十日間決答の猶予を外人に諾せしめしことにつき、重ねて左の件々相伺ひ申し候。
外人主水正が指を切らんとするを見て其誠意に感じ、決答の猶予を諾せしことは、嚮に御談話も承り、諸書にも見え候へども、パークス伝・及立花子爵種恭、もと出雲守。実歴談には、外人の猶予を諾せしは、立花出雲守が英艦にてパークス・及米蘭公使との談判によれるが如く見え申し候。
立花出雲守は当時若年寄にして、大目付田沢対馬守政路。目付竹内日向守と共に英艦に赴きしこと、出雲守の実歴談に見え、パークス伝も符合致し候上、大目付・目付の同行は当時の制度に叶へりと考へられ候へども、主水正は大坂町奉行にて、之に参加せしこと不審に候、されど又主水正の外艦に赴きしも事実なれば、其資格について又不審を生じ候。
同日幕議は専断にて外国公使に決答するに決し、松平周防守が決答を齎して兵庫に赴きし由嚮に承り候へども、記録には周防守出張の事を記せるものなく、続再夢紀事には、公が中根雪江への御談話として、松前伊豆守が幕使として兵庫に向ひしことを記し、他にも傍証これあり侯、後に阿部豊後守・松前伊豆守の罰せられしより考ふれば、伊豆守の方然るべきかと思はれ候、如何これあるべく候や。
立花の事は少しも知らず。大目付・目付は外国人と談判することなし監察の為に列席するなり。将軍家の急命に接し予が下坂せし時の事は前にも話せるが、予は先づ阿部豊後守の旅舎に入り、程なく登城の時となりたれば、豊後守と共に登城せしに、やがて松前伊豆守も登城せ
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り。予はもはや周防守より外人に決答せざればよきがと密に憂へ居たるに、たまたま井上主水正登城して、「事態余りに重大なれば、職掌外の事ながら、外国公使に斯く斯くの次第○一指切断の事なり。を以て漸く一週日の猶予○記録には十日の猶予とあれど、公は七日と思ふと仰せらる。を諾せしめたり」と申しければ、一座少しく愁眉を開けり。其時伊豆守は予を別室に招きて、「老職にある某等が尽力の足らざりしは、誠に申し上げやうもなく慚愧の至なり、此上は公には御尽力ありて、是非とも勅許を奏請し給はりたく、勅許にさへならば、某等は如何なる厳罰を蒙らんも決して恨むる所なし」と涙を流して頼みければ、予も之を諾ひ、直に松平肥後守へ宛てて、決答猶予となりし事情をこまごまと書き記し、ついては朝廷へ周旋を望む旨の長き書面を認め、会津の公用人当時大坂に居りしと覚ゆ。に至急届くべしとて渡したることを記憶せり。さて予は将軍家にも、速に御上洛ありて勅許を仰がせられんやう御勧め申し置きて帰京せり。斯くて参内しけるに、朝廷よりは「井上主水正が町奉行の身にてすら、猶予の談判を仕遂げたる程なるに、豊後・伊豆が老中の重職にありながら、よくも外人を説得せず、軽卒にも専断にて決答するなどは、如何にも不届なり、両人には腹切らせ、主水には厚く賞せよ」との御沙汰ありき此御沙汰を伝へられしは関白○二条斉敬。なりしか賀陽宮なりしか、確と覚えず。さて両人の罪過は大なれども、皆国家の為を思ひてのことにて決して朝廷を軽視したるにあらざれば、切腹せしめんは気の毒なりとて、予は肥後守等と関白・賀陽宮を押し宥めて、遂に免官蟄居となりしなり。又主水正は程なく昇進せしやに記憶す。○主水正は十月十六日勘定奉行勝手掛となり、大坂町奉行を兼ぬるに至れり。専断の決答を齎して兵庫に赴きしは周防守に相違なし、伊豆守は登城して共に論議をもなしたるなり、兵庫に行くべきやうなし。当時は豊後守と伊豆守とが幕府の全権を握り居り周防守は唯議に列するのみ、露骨に言ふは心苦しけれど、周防守は事に当り決して意見を吐かず、唯往けと言へば往き、せよと言へばするといふ風故、豊後・伊豆両人のみ咎められて周防守は罰せられざりしことゝ思はる。
一橋家領地加増の議ありし事
慶応元年十月十日、幕府は公に政務輔翼を命じたるにより、官位一等を進めんことを奏請せしに、朝廷命じて、公を従二位大納言に任じ、御車寄の昇降を許し、且摂海防禦実備の為領地摂河泉の三箇国を指せるが如し。を宛て行はしめんとせられしが、公は官位・領地の二事を辞し給ひたれば、此議は沙汰止になりたれども、原来領地の事は幕府の否む所なれば、此朝命あるや、有司中には、是を以て公の御内請に出でたりとなして、いたく猜疑する者あり、即ち松平伯耆守・小笠原壱岐守の如きは、賀陽宮に見えて、「中納言が三国を望まるゝは如何なる子細ならん」といへることこれあり、御家臣中にも川村恵十郎正平。の如きは亦賀陽宮に謁して、「誠に困りものゝ中納言なり、過日も言上し置きたる旨あれば、よも御請は申さるまじと思へども、如何か知るべからず、此上は唯天に祈るの外なし」といひ、公の辞退し給ふに及びては大に喜びて、「徳川家の為、天下の為に安心せり、若し御請を申されたらんには、幕府は直に内乱を生ぜん」と申せしことこれある由、宮の御日記に見え申し候。又此以前、元治の
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頃、朝廷より摂河泉播の四箇国を以て一橋家を増封し、京畿を守護せしむべしと幕府に内諭ありしも、小栗上野介忠順。いたく反対せし為其事行はれざりしといふこと、栗本鋤雲鯤。の記に見え申し候。一説には此事は平岡円四郎・黒川嘉兵衛雅敬。等が内々の運動なる由も見え申し候。是等の事、当時御耳に入りたることこれなく候や。
従二位大納言宣下の事は記憶せず。御車寄昇降の事はありたり。領地の事につきては、いつなりしか松平周防守が、朝廷より摂河泉を一橋に遣はしては如何との内議ありし由を予に告げたれば、「予はさやうの事はいかぬ」といひて拒絶せしに、周防守何ともいはざりき。其以外に聞きたることなし。但家臣中には、斯かる希望ありしやも知れねど、何も聞きたることはなし。元治頃の事も亦然り。川村恵十郎は用談所の下ばたらきにて、予に直接物いふ身分にあらず、原・黒川等を経ていふのみ。賀陽宮へ申せし言も、黒川か誰かに取次ぎもらひしことの、其者より予へは通ぜざりしならん。
原来予は幕府より非常の嫌疑を受けて、謀反の野心ありとか、長州と内通せりとかいはるゝ身の、領地増されんなどいふ意は聊もなかりしなり、況や之を口にして自ら禍を求むるをや。
渋沢曰く、一橋家領地の事は、主君の心をも知らずして、黒川等を始め我々が、密に主家の為に希望せしなり、それが却て累を主君に及ぼしたるなるべし。されど一橋家の兵を募りし時の如きは、つくづく領地の必要を感じたりき。
王政復古令の発布を予期し給ひし事
慶応三年十二月九日の王政復古令発布の前、中根雪江二条城に登りて公に拝謁を請ひ、予め其事を台聴に達したる由、岩倉公実記に見え申し候、さることも候ひしや。
中根が二条城に来りて、近日王政復古の大号令を発し、関白・将軍・守護職・所司代・皆廃せらるゝに至るべしと、眼を円くして語れるは事実なり。此時は人払にて聴きたるやに覚ゆ。されど予は別に驚かざりき。既に政権を返上し、将軍職をも辞したれば、王政復古の御沙汰あるべきは当然にて、王政復古に是等の職の廃せられんことも亦当然なればなり。
中根退きて後、予は板倉伊賀守を呼びて其旨を告げ、「此上は何事も朝命のまゝに従ふこと、猶従来諸大名が幕府の命に従ひしが如くすべし」といひしに、板倉も至極同意にて、「謹んで朝命をさへ御遵奉遊ばされなば、それにて宜しかるべし」といへり。されど会桑は到底承服すべきにあらざれば、之を聞かせては事面倒なりと思ひて、未だ之を洩らさず。折から尾張大納言来りて「内大臣を辞し、二百万石を上るべし」との朝命を伝へたるが、当時幕府の歳入は凡二百万石に過ぎざれば、今若し二百万石を上らば、幕府は全く得る所なきに至るべし内大臣を辞するは易けれども、二百万石上納は到底行はるべきにあらず。されば是が為に闕下に暴発することなどありては、ゆゝしき大事なりと思ひて、急に下坂したるなり。
六国公使御引見の事
慶応三年十二月十六日、英米仏蘭孛伊六国の公使・領事を大坂城に
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御引見ありて、外交事務は依然徳川家にて取扱ふべき旨を宣告せられし御口演書に、いたく十二月九日の復古令を御非難遊ばされ候。是は全く台慮に出でたるものに候や。
六国の公使・領事等を引見したる覚なし。其頃英米仏蘭の公使等を他の用務にて引見したることはあれども、孛伊の公使は一度も引見したることなしと覚ゆ。されば其面貌等も更に記憶する所なし。
外国事務を依然徳川家にて取扱ふべしといへることはありたり。予は板倉伊賀守に向ひて「もはや万機の政総べて朝廷にて御取扱あるは当然の事ながら、朝廷には未だ外国事務を処置し給ふ設備なければ、若し各国公使等より、主権者はいづれなりや、外国事務はいづれにて取扱はるゝやなど、問ひ合はせ来ることもあらば困難なるべし」といひ合へりしが、其頃仏国公使ロセスは我が外国奉行の一人に向ひて「本国政府の命令は、何処までも幕府の為に尽すべしといふにあれども、幕府若し政権を失はれては、さやうにもなり難し」といひしより、今此処にて仏国の同情を失ひてはゆゝしき大事なりとて、議論沸騰せしことあれば、其結果にて此書は発せられたるならん。当時松平豊前守は、助力を得んが為外人に渡すなりとて、何か委任状やうのものを認め来りて予の決を仰ぎたる故、予は「彼等は固より外国人なれば、決して力にすべからず」とて、其書を見るにも及ばず断然制止せしも、豊前守は中々承服せず、「もはや御指図を受け申さず」と、塚原但馬守○昌義。と共に憤然して退座せるより、予は板倉を呼びて、「豊前守はしかじか申し立てたり、困つたものなり」と、共に嘆息したることありしが、今此書を見るに、国内の事情をも悉く打ち明けて記しあり外人に対してさる事あるべき筈のものにあらず。予にして当時此書を一見したらんには、決して斯かるものを渡さしめはせざりしものを、豊前守の剛愎に腹立たしくて書附をも見ざりしこと、今にして思へば誠に手ぬかりなりきと後悔せり。
除奸の御上表の事
慶応三年十二月十九日、大目付戸川伊豆守忠愛。をして、「速に天下列藩の衆議を尽し、正を挙げ奸を退け、万世不朽の規則を立てられんことを請ふ」との上疏を齎して入京せしめられしは、全く台命に出でたるものに候や。
是も前と同じく松平豊前守などの計らひなるべし。前のは外に対し、是は内に対しての事にて、畢竟するに同じ目的に出づるが如し。予は関知せず。
坂兵の配置の事
慶応三年十二月の末、橋本・淀・八幡・山崎・西の宮・伏見などに兵を配置せられしは、台命に出でたるものに候や。
中根雪江と今一人誰なりしか下坂して、軽装にて上京すべしとの朝命を伝へたる時も、「目下新選組伏見に陣取り居れば、是等は先づ引かしめられて然るべし」といへる故、命を伝へて退去せしめんとせしも中々承服せず、益陣を進むる有様なりき。されば兵を配るなどいふことは固よりなけれど、彼等が勝手に陣取りて、引上の命さへ行はれざりしなり。
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賀陽宮の陰謀に関与し給ひしといふ事
明治元年八月、賀陽宮異図ありとの嫌疑を蒙りて広島に幽せられ給ひしことこれあり、公にも何か其事に御関係あるが如く記せる書もこれあり候。当時朝廷より御尋を蒙らせられしことなどこれなく候や。
固より予が関与したることにあらず、又何の御尋をも蒙りたることなし。先年静岡在住中も、或人より此事を問はれたることありて、家職の者に、其頃宮より何ぞ申し越されたることもありしかと調べさせたれど、誰も知りたる者なかりき。宮の広島に遷され給へるは大事なるに、何の故といふことを知らず、不審の事なり。
〔参考〕昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一七七―一八〇頁 大正四年四月刊(DK470137k-0003)
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昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一七七―一八〇頁 大正四年四月刊
第二十四
大正元年九月二十六日小日向公爵邸に於て
興山公 文学博士 萩野由之 豊崎信君 井野辺茂雄
王政復古後の御献金の事
戸田大和○忠至。が大坂に来りて献金の事を申し立てし時、○慶応三年十二月十四日。板倉いたく心配し、小堀数馬宛の書面を認めて大和に渡したれば、大和は之を携へて数馬を訪ひ、二万両とか三万両とかの金を差出さしめたりとなり。此書面は板倉の心事を見るに最も適切なるものにて、朝廷に対し奉り少しも隔意なかりしことを知るに足るものなり。確か今以て岩倉家に保存せらるゝ由なれば、同家に照会して其書面を掲載せば可ならん。
六国公使御引見の事
慶応三年十二月十六日、大坂にて英米仏蘭伊孛六国公使を引見したりとあれども、○慶応三年十二月外国人謁見次第によりて記せるなり。嘗ても話せし如く、更に覚なし尤もいつなりしか、英米仏蘭四国公使を大坂にて引見せしことあり、そは一つには外国交際の親睦を計らん為、一つには諸大名召集までは従来の如くたるべしとの朝廷よりの御沙汰あることなれば、其旨を告げんが為なりき。但四公使一席にてはなく、日を異にして代る代る引見し、打ち寛ぎて談話を交へ、晩餐をも共にしたり。此時仏国よりは軍楽隊を派遣し、食事中奏楽するなど、従来無かりしことありき。又英仏二国は調練を御覧に入るべしとて、城内の広場にてそれを見せたり。英公使と食事を共にせし時、公使は壁間に掲げたる三十六歌仙の絵額を見て、サトーに説明を求め、人丸の「ほのぼのと明石の浦の朝霧に」の歌意について、予も亦サトーより質問を受けたり。其時予は「望ならば此額を贈らん」といひしことありき。又一日仏公使内謁見の時、引続き英公使も来りて、何やらん口論するさまなりしが、後に塩田三郎に聞けば、英公使は仏公使に向ひ、他を出しぬきて己一人謁見するは不都合なりとて詰りたるなりといふ。此外には大坂にて外国公使を引見せしことなし。
薩邸焼討の事
藩邸焼討の事○慶応三年十二月二十五日。は、板倉はいたく不同意なりき。初江戸に
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火事ありし時、庄内始めの人数多く集まりたれば、此機に乗じて薩邸を焼酎すべしとの説ありしも、宥むる者ありて中止となりしが、此事京都に聞えしかば、板倉いたく憂慮して、「そは以ての外なり、上方も江戸も、ひたすらに静まり居り、薩藩をして乗ずるの機会なからしむること肝要なり」といへり。本来斯かる暴徒は直に打ち払ふべき筈なれども、今は其力もなく、且其関係する所重大なるをもて斯く憂慮せしなるに、江戸にては之に反して、焼討を機会に上方の挙兵を誘はんとしたれば、遂に形の如き始末となれるなり。
開陽艦にて御東帰の事
予が大坂城を出でゝ天保山に赴きし時○明治元年正月六日夜。は、直に開陽丸に乗り込む考なりしが、折から開陽丸は薩州の船を追撃して此処にあらざりしかば、急に山口駿河を大坂に遣りてロセスと議せしめたるに、ロセスは「さらば米国の軍艦にて御東帰あるべし」とて、紹介状を認めくれたれば、其意に任せ米艦にて帰府する積りにて、天保山より同国軍艦に乗り込みたり。然るに間もなく開陽丸帰港せしかば、此上は初の如く自国の船にて帰らんとて、直に開陽丸に転乗せるなり。