公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16
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大正2年5月3日(1913年)
是日、飛鳥山邸ニ於テ、第十七回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。
渋沢栄一 日記 大正二年(DK470139k-0001)
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渋沢栄一 日記 大正二年 (渋沢子爵家所蔵)
一月二日 晴 軽寒
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午前七時起床、入浴シテ後新聞紙又ハ御伝記草稿ヲ一覧ス、八時過朝飧ヲ食ス、畢テ近藤正通氏ノ来訪ニ接ス、児等ト社会問題ニ関シテ種種ノ討論ヲ為ス、後御伝記草稿ヲ精読シテ処々修正ノ意見ヲ付ス、晩ニ至リテ閲了ス。○下略
○中略。
一月十七日 曇 寒
○上略 午後一時第一銀行ニ抵リ○中略 萩野由之氏ト御伝記編纂ノ方法ニ付協議ス、午後四時過高根義人氏来話ス○下略
○中略。
一月二十日 曇 寒
○上略 午飧後事務所ニ抵リ○中略 午後四時編纂所事務ニ付主任及顧問諸氏ヲ会シテ、第一巻仮印刷ノ分ニ付種々ノ修正意見ヲ徴ス、穂積・三上二氏ヨリ逐条ノ意見陳述アリ、夜飧後更ニ協議会ヲ継続シ、夜十時散会帰宿ス、御伝記編纂ヲ着手シテヨリ十七八年ノ歳月ヲ経過シ、玆ニ至リテ僅ニ仮印刷ノ第一巻ヲ見ルヲ得タリ、修史ノ労実ニ容易ナラサルモノアルヲ覚フ
○栄一、一月二日ハ大磯ニ滞在。
(萩野由之)書翰 渋沢栄一宛大正二年一月七日(DK470139k-0002)
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(萩野由之)書翰 渋沢栄一宛大正二年一月七日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓 新年の御避寒はやかて御避俗とも相成候て、定て御清閑を得、益御多祥の御事と奉存候
御伝記稿本の続き並ニ仮印刷の分とも御評閲下され今日拝見仕候、仮印刷の分は印刷前小生重て筆削の上ニて相渡し候故、多少読易き点も可有候、此上皆様の評隲を得て文章事実とも更ニ修正可仕心得ニて候も、尚諸賢の御意見をまとめて修正可仕為に、御帰京の後は成るへく早く御小集御催しを請候て功程をすゝめ申度希望仕居候、尚御帰京の上拝芝ニ可申上奉存候
新年少閑を得候間久し振にて詩作相試申候間、別紙稿本呈覧仕候、御面倒なから御評正被下度願上候、尚又御近製も有之候はゝ一筆御垂示被下度奉存候 拝具
大正二年一月七日 萩野由之
青淵先生
侍史
○別紙略ス。
渋沢栄一 日記 大正二年(DK470139k-0003)
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渋沢栄一 日記 大正二年 (渋沢子爵家所蔵)
三月十日 晴 軽寒
○上略 事務所ニ抵リ○中略 午後四時ヨリ興山公伝記編纂ニ関スル集会アリ萩野・江間其他ノ掛員及穂積・阪谷・豊崎信氏来会、会議後夜飧ヲ共ニシ、後更ニ種々ノ討議ヲ為シ、夜十時過散会帰宿ス
(萩野由之)書翰 渋沢栄一宛(大正二年)六月八日(DK470139k-0004)
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(萩野由之)書翰 渋沢栄一宛(大正二年)六月八日
(渋沢子爵家所蔵)
啓上仕候、然は先般差上申候年表訂正致候ニ付差上申候、曩ニ差上申
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候分ハ御取捨被下度候 以上
六月八日 萩野由之
青淵先生
侍史
昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一四八―一五一頁 大正四年四月刊(DK470139k-0005)
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昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一四八―一五一頁 大正四年四月刊
第十七
大正二年五月三日飛鳥山邸に於て
興山公 男爵 渋沢栄一 文学博士 三島毅君 法学博士 穂積陳重 豊崎信君 法学博士 阪谷芳郎 猪飼正為君 男爵 文学博士 萩野由之 江間政発 渡辺轍 井野辺茂雄 藤井甚太郎 高田利吉
慎徳公の寵遇の事
慎徳公の御時には、屡一橋の御館へ御成の事これあり候、其時の御模様ども伺ひ奉りたく候
たとへば慎徳公自ら地を謡はせられ、予に舞はしめらるゝといふ有様にて、極めて御親しく遊ばされたり。此の如きは決して先例になき所なり。
孝明天皇より御製及簫御拝領の事
孝明天皇より、「詠織女渡天河」の宸筆の御歌、並に秋風丸の御簫を御拝領遊ばされしは、いつ頃の事に候や。又此御歌は、常の御書風とは異なるやう存ぜられ候、如何のものに候や。
年月は忘れたれども、上京中二条関白の手を経て賜はりしなり。此頃は宸筆と称するも、其実御代筆にて賜はること珍しからざれば、是も恐らくは其一つなるべし。
測量法製図法及電信機等につき御下問の事
慶応二年の暮、黒田久孝・川上万之丞・市川斎宮等を召され、久孝には測量の事、万之丞には製図の事、斎宮には電信機の事を御下問あり、中にも斎宮は再三召され候ことこれあり候由、西周助の伝に相見え候、事実に候や。
記憶せず、時期余り早きにあらずや。
仏語御習学の事
慶応三年三月より、西周助を召して仏蘭西語を学ばせられしも、間もなく御廃止遊ばされ候由、是亦同人の伝に相見え候、事実に候や
事実なり、やめたるは政務多端にして学習の暇なかりしによる。
二条城御引上の時の事
政権御奉還の後、二条より大坂へ御引上の時は、御馬上なりしやに記せるものこれあり候、さやうに候や。
かの時には歩けるだけ歩くべしとて、枚方辺或は橋本なりしか。まで歩きたり
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それよりは馬なりき。
油絵御習得の事
油絵を学ばせられしは、いつ頃の事に候や。
中島鍬次郎といふ者あり、嘗て開成所に出でたる者にて、少しく油絵の心得ありしかば、宝台院に謹慎の時、同人より習ひしなり。同人とても、真に絵を学びたるものにはあらざるべし。
〔参考〕昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一八一―一八五頁 大正四年四月刊(DK470139k-0006)
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昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一八一―一八五頁 大正四年四月刊
第二十五
大正二年九月九日小日向公爵邸に於て
興山公 文学博士 萩野由之 豊崎信君 渡辺轍
条約勅許御奏請の事
英米仏蘭四国の艦隊兵庫に来りて、兵庫の先期開港と条約の勅許とを迫れる時、○慶応元年九月。阿部・松前は全く朝廷へ奏聞せずして、幕府限り開港を許すことを四国公使に決答せんの意なりしかと思ふ。阿部などは、薩長の如きは幕府の威光にて圧伏せんこと容易なりと考へたれば日々打毬に耽り居る有様にて、更に心配のさまも見えず、先期開港の事も幕府限り決答せば、外国にても却て幕府の威厳を認むべく、然る上は薩長などは如何やうにもなるべしと考へたるものゝ如くなりき。当時予が飽くまで勅許を仰がざるべからずと主張し、「それまでは公使等を説得して決答の日限を延期せしめ、若し不承知にて推して上陸せば、曲彼にあれば、已むを得ず一戦に及ぶべし」と論じたるに、諸有司は「国家の為には易へ難ければ、承諾の決答をなすに如かず」といへる由稿本にあれども、○御進発略記によりて記せるなり。誤にて、予は斯かる暴言を吐きたる覚決してなし。
又井上主水正がパークス・ロセスに談判して決答の猶予を得たる時、予が阿部・松前を詰りて、「誠意を尽して応接したれども延期を諾せずとの事なりしに、今此の如きは如何」といへるに、両人其尽さゞる所あるを謝し、「屏居して命を待つべし」といへりとあれども○七年史によりて記せるなり。予は阿部・松前を詰りたることなし、両人より謝したるなり。予が松平周防と議して、主水正を兵庫に遣はしたりとの説、及予が直接主水正に命じて、阿部豊後の使と称して兵庫に赴かしめたりとの説○共に続再夢紀事によりて記せるなり。は皆誤にて、予ても話せし如く、全く主水正が一存にて赴けるなり。直接にも間接にも予が命じたるにあらず。
猶予の日数は十日間とあれども、○諸書皆然り。予は七日間と覚え居れり。稿本の按文に、「二十六日幕議の一旦承諾に決するや、其返答を与へんが為に、老中を兵庫に派遣せり。其老中を、続再夢紀事の一説・及御進発略記には阿部豊後守とし、小笠原刑部手留にも、二十七日二十六日の誤ならん。阿部豊後守向山栄五郎一履、黄村と号し、後に隼人正と称す。を随へて兵庫に赴けるに公下坂して之を聞き、軽騎を以て之を追はしめ、岸和田にて追ひつき豊後守を召し還されたる由を記したれども、岸和田は紀州路にて兵庫街道にあらざれば信じ難し。続再夢紀事には、当時中根雪江が公より承れる所を記して、松前伊豆守となす、慶応清濁編も亦同じ、これ其
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事実なるべし。公近日の親話には、松平周防守なりと仰せられたれども、周防守派遣の事は聊も傍証なし。且此上使が伊豆守なればこそ、後に豊後守と共に罪蒙りて、朝廷より免職の御沙汰も下りしなれ。然れども尚疑を存す」とあり。阿部・向山を召し還すとは、予が阿部の旅館に著したる時、周防を呼び戻したる誤にあらざるか。予は周防呼戻の使を出して程なく登城したるに、阿部・松前・両人とも登城し居り、周防は昼頃に登城せり。阿部・松前の二人が免職となれるは当然の事なり。
始めての御登城に奥女中を叱責し給ひしといふ事
一橋家御相続の後、始めての御登城弘化四年十月朔日。に、将軍家へ拝謁して御次へ下らせられし時、奥女中等公を待ち受け、四辺を囲繞して「一橋様の御母君は御名を何と仰せられ候や」など、公の御幼少なるを侮りて、少しく嘲弄しかければ、公は静に歩を止め、端然として御声高く、「予は有栖川宮の孫なるぞ」と仰せられければ、女中等は一言もなく、孰も平伏したりと、渡井量蔵の談話にこれあり、往年此事を朝比奈閑水昌広、もと甲斐守。に質したるに、「御登城の節、奥女中などに御逢あるべき筈なし、たとひ大奥へ入らせられし時の事とするも、原来女中は何事にもあれ、御尋に対して御返答するは格別なれども、三卿方に対して我より物いふことは出来ざる制規なり」と申し候、さやうの儀に候や。
斯かることはなかりしなり。始めての登城は十一歳の時なりしが、将軍家へ御目通も済み、大奥へ案内せられしに、通路の両側に、美しく著飾りたる女の数知れず並み居たるをば、異様に感じたり。水戸にては近侍の女とては老女一人のみなるに、斯くも夥しく若き女の集まり居れるを、子供心にいたく驚きたるなり。やがて我が部屋に入れば、其女中二三人づゝ、代る代る挨拶にとて入り来り、礼をして去るが余りにうるさければ、遂に何やらん悪口めきたることを言ひたりとは記憶すれども、有栖川の孫なるぞなどゝは言はざりき。
子規を打ち留め給ひしといふ事
一橋家御相続の後午年春の頃弘化三年午歳とすれば、御年十歳にして御相続前の事なり、安政五年午歳とすれば御年二十二歳なり疑ふべし。にやありけん、公小石川の邸へ入らせられ、御兄弟方御打寄にて烈公に侍座し給ひ、さまざまの御物語ありける折、烈公は御庭の樅の梢に一羽の子規のとまりしを御覧じて、「七郎あれ打ち留めよ」と仰せければ、公畏まりて、御側にありし小銃を取り、御庭に下り立ち、石橋の手前まで進み給ひしが、一発の銃声と共に子規は地上に落ちたりければ、一座の人々感歎して、暫しは鳴りもやまざりきと、其席に侍りて拝見せし寺門勤の物語りしこと御座候、さやうの事も候ひしにや。
それは似寄りたることあり、十五六の頃なりしと思ふ、他の兄弟と烈公の御側に侍座しける折、庭の樹に烏のとまれるを烈公の見給ひて、「刑部あれ打ち留めよ」と仰せられしかば、小銃を取り寄せ、縁近く進みて、障子の隙より打ち留めしなり。但子規にはあらず烏なり。又庭に下りて打ちしにもあらず。