デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.687-706(DK470144k) ページ画像

大正6年11月22日(1917年)

当伝記ノ編纂完了シ、付録及ビ索引共全八冊ノ印刷成ル。是日、徳川慶喜ノ嗣子徳川慶久、谷中墓地内ノ徳川慶喜墓前ニ於テ、当伝記献呈奉告式ヲ執行ス。栄一参列、当伝記ヲ墓前ニ進献シ、且ツ献本ノ次第ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三五五号・第八一―八四頁 大正六年一二月 ○徳川慶喜公伝献呈奉告式(DK470144k-0001)
第47巻 p.687-689 ページ画像

竜門雑誌  第三五五号・第八一―八四頁 大正六年一二月
    ○徳川慶喜公伝献呈奉告式
 明治二十七年以来、青淵先生が心血を注ぎて編纂せられたる徳川慶喜公伝、今回漸く完成せるを以て、これを徳川公爵家に献呈せられし処、公爵家に於ては十一月二十二日、公の忌辰を以て、谷中なる公の墓前に於て荘厳なる奉告式を行はれたり、即ち左の如し。
      徳川慶喜公伝献呈奉告式
時日 大正六年十一月二十二日午前十時
場所 谷中徳川慶喜公御墓前
次第
 当日早旦式場を整頓す
 午前十時公爵以下御親族並顧問着床
  次で著者渋沢男爵以下参列者着床
 先神職修祓
 次神職神饌を供す
 次公爵奉告詞を奏す  一同起立
 次男爵御伝記を進献す
 次男爵御墓前に献本の次第を奏す
 次伏見若宮妃殿下玉串を捧げ拝礼
 次公爵玉串を捧げ拝礼
 次公爵の御親族並顧問玉串を捧げ拝礼
 次男爵玉串を捧げ拝礼
 次男爵の同族並関係者編纂者順次玉串を捧げ拝礼
 - 第47巻 p.688 -ページ画像 
 次神職玉串を撤す
 次男爵書籍を撤す
 次神職神饌を撤す
  各退出
而して当日式場に参列せられたるは
                公爵家側
                  公爵 徳川慶久
                  公爵 徳川家達
                     同夫人
                  侯爵 蜂須賀茂韶
                  男爵 徳川厚
                     同夫人
                  男爵 松平斉光母堂
                  侯爵 四条隆愛夫人
                  子爵 大河内輝耕
                     同夫人
                  伯爵 勝精
                     同夫人
               顧問 男爵 山内長人
               同     石渡敏一
               同     植村澄三郎
               家令    三輪修三
                     青淵先生
             編纂顧問 男爵 穂積陳重
             同    男爵 阪谷芳郎
             同   校修者 三上参次
                編纂主任 萩野由之
               渋沢家理事 八十島親徳
                 編纂員 井野辺茂雄
                 同   渡辺轍
                 同   藤井甚太郎
                 同   高田利吉
                 庶務掛 増田明六
                編纂助手 土屋新之助
                 同   山沢健一郎
等の諸氏にして、伏見若宮博恭王妃経子殿下も公の息女たるの故を以て特に臨席せさせ給ふ。午前十時神官先づ清祓を行ひ神饌を供するや徳川公爵墓前に進みて、左の奉告文を朗読せらる。
 公爵徳川慶久恭しく先考興山公の霊に申す
先考幕府の末造に膺り、国歩艱難の際に処し尊王愛国の大義を完くせんことを念ひ、政権を朝廷に奉還して維新の皇謨を賛襄し、王師を迎へて恭順苦節を守り、以て幕府有終の美を済し給へり、然れども其初に於ては心事未だ世に知られず、天下の誤解を受けたる事も少からざ
 - 第47巻 p.689 -ページ画像 
りき
男爵渋沢栄一君は橋府以来の知遇に感じ、先考が戊辰前後の心事を闡明し、以て其偉績を発揚せんとし、私財を抛ちて伝記編纂の業を起し拮据経営すること二十余年なりしが、今玆大正六年に至り始めて稿を脱し印刷を終へたるを以て、今日の忌辰を以て之を霊前に奠供せんとす、先考の霊希くは嘉納せさせ給へ
思ふに先考の心事は此書によりて愈明なるべく、先考の偉業は此書によりて長へに不朽なるべし、是啻に家門の幸慶たるのみならず、亦実に国史の光彩たらん、而して此大著述を成就せる渋沢男爵及編纂に与れる諸氏が多年の労苦は、慶久の深く感謝する所なり、編纂の顛末は著者男爵より申す所あらん、先考の霊希くは昭鑑せさせ給へ
  大正六年十一月二十二日
                  公爵徳川慶久謹みて申す
続いて青淵先生恭しく墓前に進み、典雅に装釘せられたる御伝記を案上に供へ、一拝して一旦復席の上、更に進みて御伝記完成の顛末を公の霊に奉告せられたり、其要領(速記は追て掲載)は左の如し。○中略
 言々肺腑より出で、さながら在せる君に白すが如し、列席の人々皆先生の熱誠に感動し、坐に暗涙を催さゞるはなりき。斯くて妃殿下を始め奉り、公爵以下公爵家側列席者より青淵先生以下編纂員に至るまで順次に玉串を奉りて式全く畢るや、公爵は更に一同を上野精養軒に招待して、青淵先生始め該伝記編纂関係者一同に記念として故公の筆蹟一葉つゝを恵贈せられ、更に鄭重なる午餐の饗応あり、宴半にして公爵は起ちて一場の挨拶をなし、先生が故主の恩義に感ずること深く二十余年の歳月を費して能く此大著述を完成せられたる労苦を謝し、此に一大家宝を得たるを喜ぶ旨を述べらる。先生亦起ちて答辞を述べられしが、多年の宿望漸く成就して懐旧の情に堪へずやありけん、声涙共に下りて遂に殆ど言ふ能はざるに至れり。斯くて宴畢り一同退散せしは午後二時過なりき。此日天麗に気煦く、公の霊も亦莞爾として先生の誠意に感応し給へるものに似たり。


竜門雑誌 第三五六号・第一一―一三頁 大正七年一月 興山公御墓前に於て(大正六年十一月二十二日) 渋沢栄一 敬白(DK470144k-0002)
第47巻 p.689-691 ページ画像

竜門雑誌  第三五六号・第一一―一三頁 大正七年一月
    興山公御墓前に於て
               (大正六年十一月二十二日)
                    渋沢栄一 敬白
 私は此忘るゝ能はざる忌辰を卜しまして御墓前に於て興山公の神霊に告げ奉らんと存じます。明治二十七年以降二十有余年私の心血を濺ぎて公の御伝記編纂に努力致しましたのは深い衷情の存する処でございます。公の御生前に於て此計画は詳細に聞し召され御許可も蒙りましたが、遂に其成本は御墓前に奉呈するに至つたのは、如何にも残り惜しく思ふのでございます。御伝記の編纂に付ての由来は、巻頭に自序として事長く認め置きましたから、在天の神霊も御首肯下し置かれるであらうと信じまする。又社会の人も斯様な次第であつたかと云ふことは一読されたら了解するであらうと思ふのでございまするが、今此御伝記を霊前に献ずるに際しては、事重複に亘りまするけれども、
 - 第47巻 p.690 -ページ画像 
万感胸に溢れて更に御墓前に開陳致さゞるを得ぬのでごさいます。御伝記の巻頭に掲げました『ながむればふりにしことのうかみ来て月に昔の影も見えけり』と云ふ公の御名吟は、如何にも私の心を此処に描出されるやうにございまする。又小出粲氏の歌に『心なき石も物いふ心地して向へば浮ぶ人の面影』と云ふ其情緒見るが如く思はれます。総て過ぎ来し方を回想しまして、斯かる忌辰に当りて追懐の情を申上げますると、目前其温容を拝し、高風に接するやうに感じまするのは深く思ふの情でございまする。御伝記を完成して今日あらしむるに至るまでの私の苦辛も尋常一様ではありませぬが、其経営に就きましては今日列席しました主任者萩野文学博士其他の編纂委員は勿論のこと顧問たる三上文学博士及親戚の穂積・阪谷両男爵共に心を尽して援助せられ、私をして今日此奉告を為さしめて呉れたのでございます。故に私は是も併て神霊に告げ奉らねばならぬのでございます。今往事を回想して玆に追懐の辞を陳上致しますれば、私が二十四歳の冬故郷を離れまして京都に赴き、一橋家に御奉公を致しましたのは、今を去ること五十余年の昔でございます。当時の世の中は只今現公爵の御奉告あらせられました如く、時勢の変遷朝夕を保たぬと云ふの有様にて、実に危機一髪の際でございました。而して公は幕府の懿親として将軍御補佐の重任にあらせられ、特に禁裏守衛総督の職をお兼ね遊ばして天下の衆目を御一身に集むるの御位置にあらせられ、而も内国の事のみならず、外交最も紛糾の場合にありて、皇室を尊崇して国家を愛護する御苦衷は真に恐察に余りあつたのでございます。農家に成長し且つ青年無学の私ゆへ何等御奉公の効果はございませなんだが、此賢明の君主に拠りて、目前危殆に瀕して居る国家を救ひたいと思ふの念は其頃よりして肝に銘したのでございます。浪人中は倒行逆施一時に即功を期すると云ふ野心もありましたが、御家に奉職して以来は、順に依り漸を以て事を為すの外決して成功の途は無きものと覚悟しまして何卒一橋の御家をして富強の実を挙げねばならぬと思惟し、思ふて言はざるなく知りて行はざるなく、或は歩兵組立の御用に奔走し、或は財政の整理に尽瘁し、職掌の微賤たるにも拘らず、期念は殆ど一藩の富強を以て自己の責任として勉励したのでございます。世運の転変は私の心に任せませぬで慶応二年の夏公は遂に御宗家御相続と云ふことに相成りました。此時の私の痛心は譬ふるに物なき有様で、実に我が君主をして益々危地に陥るゝものと憂慮しましたが、幾許もなくして私は仏蘭西行の命を蒙つて、憂心忡々として海外に赴任したのでございます。果して然り、其年の冬よりして種々なるお国の政変が其都度任地に報告されまして、海外に在る私の心は如何に苦悶したか、其報告に接する毎に幾回か暗涙に咽むだのでございます。殊に了解に苦みましたのは、慶応三年の十月政権を返上遊ばされたと云ふことは公の平生の御主義から或は然らむと恐察しましたが、其後伏見・鳥羽の事変と急遽御帰東の事共は何分実状を暁り得ずして疑を持ちつゝ帰朝を致したのでございます。帰朝後の私の心事は、世態は斯く変化せしも一旦三世の契を結びて、賢明の君主と仰ぎたる上は、一身は唯だ公に奉ずるを以て世を終らむと思ふたのでございます。然るに人事予想の
 - 第47巻 p.691 -ページ画像 
如くならずして、明治二年の冬朝命を蒙りまして大蔵省に職を奉ぜねばならぬ事となつた為めに、前に懐抱したる疑団を解決し得られぬで年月を経過したのでございます。其間世間の公に対する評論是非交々至ると云ふ有様ゆゑに、益々私をして憂愁苦悶の間に置かしめたのでございます。どうぞ御心事を充分に研究して事実を世の中に公けにすることもあれかしと希望致しましたが、其時機の到来が意外に遅引したのであります。今を去る凡そ二十三年前に、種々自問自答の末これは是非御伝記を編纂して、事実を明白にするが私の責任と覚悟致しました。即ち自序にも記載しました如く此御伝記を作るのは私の天より与へられたる使命と感得致しまして、爾来種々なる方面の人々に諮りまして、積累の効玆に漸く微意を貫徹することが出来たのでございます。是等の顛末も前に陳上しました自序中に其沿革を述べましたから御墓前に喋々するを憚りまするが、唯だ玆に一事特に神霊に告げ奉らんと欲することは、昔孔子春秋を作りて周末の諸侯の心を矯正し、乱臣賊子を恐れしめたことでございまする。又公の御先祖水戸の義公は大日本史編纂に御着手ありて、爾後百余年を経て其功を竣りましたが拠りて以て大義名分を明かにせられたのでござります。今私の此編纂の小事業は決して左様な宏大なことに企て及ぶべくもございませぬけれども、公の忠誠君国に奉じたる御深慮をして、広く天下の人士に知らしめ得ることが出来るとしましたならば、私の微衷も貫徹致したことゝ思ひまする。殊に最初此事を発起しましたときは、世の中が公を誤解し或は曲解するに至つたのを私は如何にも遺憾と思ふて、雪寃的の考慮を持つたのでございますが、それは其時の有様であつて、其後雲霧は消散して天日の公明、今日は社会に明瞭になりましたから、私の雪寃的の念慮は業に既に無用になりましたが、玆に此小著述に依つて後世天下の人の感応を企図するのは、即ち公の大犠牲の精神であります。輓近人文の進歩と共に人々皆智巧に趨りて漸く犠牲的観念が乏しくなつて、自己本位の弊滔々として進むやうに感じまする。此時に当りて公の御行動の唯君国の為めに御一身を犠牲に供されたと云ふことを、能く社会の人に知悉せしめたならば、或は春秋以上の効能あらむと言ひ得るかと思ふのでございます。私は今日御伝記を御墓前に呈するに方り、此一言を霊前に告げ奉りて、在天の神霊が私の微衷をお饗け下さることを懇願して已まぬのでございます。
   備考 前号『徳川慶喜公伝献呈奉告式』記事参照


徳川慶喜公伝 渋沢栄一著 巻一・前付第一―四一頁 大正七年一月刊(DK470144k-0003)
第47巻 p.691-702 ページ画像

徳川慶喜公伝 渋沢栄一著  巻一・前付第一―四一頁 大正七年一月刊
自序
徳川慶喜公の御伝記の完全なものを、私が終生の事業として作り上げたいと思うたのは、決して偶然の事ではない。私一身の特別な境遇に其動機を発し、種々なる事情よりして益其心を強くしたのである。而して此御伝記を他人が読んで、成程左様であつたかと合点するには、此事業を思ひ立つた原因から説き来らねば、玆に至つた径路が理解し得られまいと思ふ。原来私は実業を本務とする者で、優美なる文筆の才あるでもなく又御伝記を編纂する程の史学の素養ある者でもない。
 - 第47巻 p.692 -ページ画像 
然るに玆に大胆にも、自己の名を以て後世に伝へる所の大著述を為すといふは、実に烏滸がましい事である。然れども此御伝記編纂が、私に対する天の使命であるとの念慮と、是非此書を完璧たらしめ、後世の人に十分心して読んで貰ひたいとの熱望とは、編纂を始めた後に至つて更に深厚になつたやうに感ずる。今や編纂諸氏の勉強によつて、玆に稿を脱したについては、事の玆に至つた顛末を精しく述べて、此御伝記の編纂は斯様な精神から発源したといふ事を明にし、之を巻首に置いて序文に充てるのが最も適当と思うて、玆に徳川慶喜公伝編纂事情を事実有の儘に述べるのである。
私は二十四の年に埼玉県下八基村字血洗島の農家から江戸へ出て、年少気鋭にまかせ、国家の為に攘夷を実行しやうと、同志と共に横浜の異人館焼打を企てた事などもあつたが、併し其機会も去り、我力をも省みて、其野心を棄てた上は、其本に復つて農民に安んずるか、又は太閤秀吉のやうに草履取から仕上げるか、此二つより外に道はなかつた。そこで種々に審思熟慮して見ても、何分農に帰つて田畝の間に老いる事は出来ない。然らば身を国事に委ねんか、それには賢君を択んで之に仕へるの外はない、幸に玆に徳川慶喜公がある、此君に身を致すが宜しからうと決心して、翌年始めて一橋家の家来となつたのである。さて一たび公を主君と戴いた以上は、身を終はるまで臣子の分を尽さなければならぬ、貞節の婦人は一たび夫を持てば、必ず操を二三にすまいといふ観念を持つ、まして君臣の関係は所謂三世の義を結ぶもので、容易ならぬ事であるといふ覚悟を定めたのであるから、唯足掛心で後はどうなつても宜いといふやうな、浅い料簡ではなかつたのである。
其後慶喜公は徳川の宗家を御相続なされ、引続いて将軍職を御拝命になつたので、私も一橋家から幕府に召連れられて、幕臣となつたのである。故に君臣の関係には変りはないけれども、尊卑の懸隔が甚しくなつて、情意も通ぜず、言論も用ゐられず、殊に公が幕府の滅亡に瀕して宗家を嗣がせられる事は、公の為には、実に不利な御地位に立たれるのであると感じたから、頗る憂慮に堪へず、是れ程の利害得失が御解りのない御方ではない、又御側に居る輔佐の重臣も、是れ等の事が前知出来ぬ筈はない、原市之進などゝいふ、識見も学問も経歴も相当にある人が御側に居て、何故に御諫め申さぬかと思つて、原氏に会見して切に反対の意見を進言したけれども、進言は遂に貫徹しなかつた。此時の私の落胆は喩へやうもない程で、何か思案もがなと思つて居た処へ、恰も公の御弟徳川民部大輔殿が仏蘭西の博覧会に参列せられるので、其随行を命ぜられる事になつた。私は素より先見の明などといふ程の知識はないけれども、熟ら将来の形勢を予想するに、到底幕府は其権勢を持続する事の出来ぬのは明瞭であるが、併し政変の終局が如何に成行くかといふ事については、全く五里霧中であつた。孰れにもせよ、自分は此場合に海外に出て、民部公子を擁護して時勢を待つが善からうと思案を定めた。但し公子の御傅としては他に上級の人があつて、私は唯荷物の取扱、金銭の出納、文書記録の処理といふ卑職であつたけれども、心の底には、他日は此公子の輔佐に任ずるの
 - 第47巻 p.693 -ページ画像 
抱負を以て仕へたのである、斯くて慶応三年正月に横浜を出立して仏国に渡航し、博覧会終了の後、公子の御供で欧羅巴各国巡回中、本国に於ては、公は幕府の政権を返上なされた。此政変が追々電報若しくは新聞などで海外に伝はつて来たが、殊に驚いたのは鳥羽・伏見の出来事であつた。第一に政権返上が如何なる御趣意であらうかとの疑を持つて居る処へ、此の如き開戦の事を聞いては、何故に公は斯かる無謀の事をなされたかといふ憾を持たざるを得なかつた。当時の私の考へでは、最早事玆に至つては、本国は一旦分裂して群雄角逐の世となるであらう、さすれば今遽に帰国しても其効はない、寧ろ公子を擁護して費用のあらん限り留学し、公子も私も共に相当の学問を修業し、将来に報ずる外に採るべき策はないと考へて、何処までも踏留つて居る積りであつたが、其後水戸中納言慶篤侯の薨去により、公子が水戸家を相続せらるゝ事になつて、仏国へ迎の人が来た。私に於ては、是れは従来同藩に紛糾せる党争の結果で、順当の御相続とは言はれぬから、諫めて御止め申したいとは考へたけれども、既に藩論が定まり、公子の御迎として来た者も強情の人々であつたから、諫争の無用なる事を悟つて、一行と共に帰国する事にした。此に於て私の希望は事毎に齟齬して空しく帰朝したのである。それが慶応四年即ち明治元年の十一月であつた。
斯くて横浜の埠頭に帰著した後は、百事滄桑の歎に堪へなかつたが、中にも慶喜公の御境遇については、去年出発の時と今日と僅に一年半の歳月であるに、斯くも変化するものかと、最も無量の感慨に打たれた。公は此時既に駿府に退隠して居られたので、直に拝謁も出来ず、公の御心事を二三の知人に就いて聴いて見ても十分に了解し得ぬ。既に大勢を看破せられて政権を返上なされたからは、何故に鳥羽・伏見に於て戦端を開かれたのであるか、仮令公の御意中には求めて戦争をしやうとは思召さぬでも、大兵を先供として入京すれば、防禦の薩長の兵と衝突の起るのは必然の理である、それ程の事を御察しなさらぬ筈はない。果して御察しなされたとすれば、已むを得ざるに於ては、戦争も辞せぬ御覚悟であつたやうにも思はれる。然る時は何の為に大阪から俄に軍艦で御帰東なされたであらうか、尋で有栖川宮の大総督として東征の際に於ては、一意恭順謹慎、惟命是れ従ふといふ事に御決心なされたのは何故であらうか、幕臣中に相当の知識も胆力もあつて、武士の意気地已むを得ぬといふ覚悟を持つた人をも断然と排斥して、怯懦と言はれ暗愚と評せられても、聊も弁解せぬといふ御決心までなされたのは何故であらうか。是等の御挙動は実に了解に苦む所であつた。私は仏蘭西滞留中又は帰国の船中などで、時々本国からの通信を見て、公の御動作に関して余りに腑甲斐なき有様を憤慨し、天子に対しては何様の事も犠牲にせねばならぬといふ、公の御趣旨は御尤ではあるけれども、実際は薩長二藩が事を構へ、朝命を矯めて無理に幕府を朝敵としたのである、幕府が若し力を以て之を制し得れば、所謂勝てば官軍で、薩長側が却つて朝敵となる事は、元治元年蛤御門の先蹤が歴然である。是れは道理から論じても、事実から見ても、甚だ明瞭だと信じて居たから、公の思召の程を何分にも能く了解し得なか
 - 第47巻 p.694 -ページ画像 
つた。
帰朝の後は自己一身の処置が先決問題で、種々様々に苦心したが、原来農民出身の地位声望もなき一青年で、社会に対して大なる責任をも持つては居なかつたけれども、人は権勢に阿附せず、情義に厚き行動を以て一生を送らねばならぬといふ事は、少年の時から、厳父の庭訓によつて深く骨髄に染みて居たし、又聊書籍をも読み、志士を以て自ら任ずるからには、正義人道に拠つて行かねばならぬ事は、始終心掛けて居つたから、斯く時勢の変遷した上は、残念ながら此維新政府には奉仕せず、三世を契つた慶喜公の為に、自己の一身は世に無いものと諦むべしと観念して、其年の冬駿府に行き久々にて公に拝謁した。公の幽居宝台院に出たのは恰も夕暮の事で、行灯の前に端坐して公の御出座を待つて居る間に、侘住居の御様子を見廻して、昨年御別れ申した時とは実に雲泥の相違と、坐ろに暗涙に咽び居る処へ、公は座に入らせられたので、一通りの御機嫌を伺ひ畢ると、覚えず予ての宿疑が口へ出て、政権返上の事、又其後の御処置は如何なる思召であらせられたか、如何にして此の如き御情なき御境遇には御成り遊ばされたかと、御尋ね申した処が、公は泰然として、今更左様の繰言は甲斐なき事である、それよりは民部が海外に於ける様子はどうであつたかと話頭を外に転ぜられたので、私も心附いて、公子の御身上の事どもを審に言上した。久し振で公の御無事を拝したのは限りなく嬉しかつたが、胸裏に貯へた宿疑は竟に解ける機会がなかつた。
さて明治二年の元日をば駿府此年六月から静岡と改称す。で迎へて、商法会所の創設に奔走し、故郷から妻子をも呼び寄せて、此地に永住する心組であつた。此間に会所の用事で東京へ出た時の一話がある。或日「山陽遺稿」を購求して一読し、烈婦阿正の伝に至つて中心に一種の感を生じた。蓋し阿正は夫の死後、親戚の勧告に応じて他に再嫁しても、不義でも不貞でもない、然れども彼が心にはそれを快く思はぬから、両夫に見えずして貞節を遂げやうとすると、親戚から強迫せられ、拠なく自殺したのは、狭い女気と言つてしまへばそれまでゝあるが、私は其貞操の志の堅い所を買つて遣りたい、山陽が之を激賞したのは誠に心地よき事であると思つて、私も「読烈婦阿正伝」といふ漢文一篇を作つて此漢文の原稿は今も尚保存してある。友人にも示した処、杉浦蘐堂もと甲府徽典館の儒員をもした人で、外国奉行調役杉浦愛蔵氏の父である。といふ老人が見て、貴下は斯ういふ御覚悟であるかと言はれた。是れは私が新政府には仕へぬ意思を悟つたものと見えた。
惟ふに王政維新の偉業は、近因を公の政権返上に発したのである。而して公の爾来の御謹慎はさる事ながら、旧臣の目から見れば、朝廷の公に対する御仕向は余りに御情ない、畢竟是れは要路に居る人々が冷酷の致す所であると思ふについて、私は特に其頃の政界に時めく人々の挙動に甚しき厭悪の念を起し、公の逼塞の御様子が見るに忍びぬ様に思はれて、慷慨悲憤に堪へなかつた。其時に作つた拙作に曰く、
  維新偉績欲無痕、剔抉未知探本原、公議輿論果何用、千秋誰慰大菟魂、
慶喜公の寃罪をば、誰が慰めて呉れるであらう、廟堂の人々の言ふ公議も輿論も、口ばかりでは何の用をも為さぬ、此公をば斯く幽暗の中
 - 第47巻 p.695 -ページ画像 
に閉蟄せしめて置いて、他の人々が頻に威張り散らすのは、甚だ以て怪しからぬと憤慨したのである。さりながら前に疑問とした政権返上の御趣意、並に鳥羽・伏見の出兵と其後の御謹慎と、余りに権衡が取れぬ点は、何としても了解し得なかつた。二年の十一月私は大蔵省に召されて余儀なく新政府に奉仕する身となり、再び東京に移住した。此頃から公の御謹慎も少しく解けて、是れまでの如く、宝台院の一室に幽居せられぬでも宜いといふ事になつたから、私は窃に之を喜んだ事であつた。
私は前にも述べた如く、一旦覚悟した身の、新政府の官吏となるのは余儀ない事とはいへ実に不本意だと思うたから、大蔵省の召について静岡藩庁へ辞退の取次を請求したけれども、藩庁では朝命に背く事になるから、取次は出来ぬと言はれ、終に東京に出て辞令を拝受したが機会があつたらば辞職致さうと考へて、仕官の後一月ばかり経つて大隈大蔵大輔の築地の邸を訪ひ、官を辞したいといふ事を請願した。其時の大隈氏の答は実に巧妙であつた。其趣旨は、今日の維新の政治は恰も高天原に八百万の神達が神集ひに集うたやうなもので、此神々が新に日本を造りつゝあるので、君も矢張一柱の神の仲間である。それ故に静岡藩もなければ、薩摩も長州もない、そんな小事を論じては困る。君も最初は階級制度を打破しなければならぬと言つて奮起した人ではないか、今日は其理想に向つて進むのだ。然るを自己は維新には関係せぬ人である、又徳川公に深い縁故があるなどゝ、小節に汲々するは殆ど道理に合はぬではないか、何故に此日本を我物と思うて呉れぬかといふ、大きな議論を被せられて、私の請願は許して呉れない。私も亦其説の如何にも快濶雄大であるのに服して、それならば先づ出来るだけ勤めて見ませうと答へ、素志を翻して当分官務に奉仕する考を定めた。さりながら当初思ひ定めた事故、数年の後遂に強ひて大蔵省を辞して、宿望を遂げるやうになつた。其時に述懐の一絶を得た。
  官途幾歳費居諸、解印今朝意転舒、笑我杞憂難掃得、献芹留奏万言書、
是れは辞表を提出した時に、時勢を論じた一篇の奏議を奉つた事を申したのである。
官に居る間は、思ふ様に静岡へ往復する事も出来なかつたが、自由の身になつた後は、銀行用で大阪へ往復の折には、必ず静岡に伺候する事と定め、紺屋町の御住居へも数回参り、後に草深町に御新邸が出来てからは、其方へも度々伺候した。伺候の数の増す毎に、親しく御話も出来るやうになり、御慰藉として時候に適する品物などを持参したり、又落語家・講釈師などを連れて御慰め申した事もあつた。私が官を罷めて後始めて拝謁した時に、在官中の見聞を話題として、三条・岩倉・又は大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允などいふ諸公の話を申上げると、公は何時もそ知らぬ風をなされて、話題を外に転ぜさせられるので、公は全く政界の事を見聞せらるゝを避け給ふ御意思であると悟つたから、其後は聊も政治に渉る事をば申上げなかつた。唯何時か公然と社会に御顔出しが出来る様になつたらば、嘸喜ばしい事であらうが、さういふ機会が何時来るか、又は到底来ぬであらうかと、常に
 - 第47巻 p.696 -ページ画像 
焦慮して居たけれども、御伝記を編纂して後世に遺さうといふ考は、其頃はまだ無かつた。
斯くして追々と歳月を経るに従つて、政権返上の御決心が容易ならぬ事であつたと思ふと同時に、鳥羽・伏見の出兵は全く御本意ではなくて、当時の幕臣の大勢に擁せられて、已むを得ざるに出た御挙動である事、而して其事を遂げんとすれば、日本は実に大乱に陥る、又仮令幕府の力で薩長其他の諸藩を圧迫し得るとしても、国家の実力を損する事は莫大である、殊に外交の困難を極めて居る際に当つて左様な事をしては、皇国を顧みざる行動となると悟られた為である事、又玆に至つては弁解するだけ却て物議を増して、尚更事が紛糾するから、愚と言はれやうが、怯と嘲けられやうが、恭順謹慎を以て一貫するより外はない、薩長から無理と仕懸けた事ではあるが、天子を戴いて居る以上は、其無理を通させるのが臣子の分であると、斯く御覚悟をなされたのだといふ事を理解したのは実に明治二十年以後の事であつた。爾来折々公に拝謁して直接に御話をも伺ひ、又種々の人からの談話をも聞き、之を綜合して前日の疑念が益解ける様になつて来た。例へば曩には怯懦の疑があつたが、若しも彼の時に公が小勇に駆られ、卒然として干戈を執つて起たれたならば、此日本は如何なる混乱に陥つたか、真に国家を思ふの衷情があれば、黙止せられるより外に処置はなかつたのであるといふ事を、染々と理会したのである。斯様に理会して見ると、公が国を思ふ所の御思慮の深遠なる事は、私どもの凡慮の及ぶ所でないと深く感激して、公が此の如き御心で彼の如き態度に出で、御一身を犠牲になされる苦衷は、人に語るべき事ではない、却て他人よりは逆賊と誣ひられ、怯懦と嘲られても、じつと御堪へなされて、終生之が弁解をもなされぬといふは、実に偉大なる御人格ではあるまいかと、尊敬の念慮は弥益切なるのであつた。
旧友の福地桜痴とは時々幕末の事を討諭した事もあつたから、明治二十六年の夏秋の頃、帝国ホテルに催された或る宴会の後に、同氏と維新の政変を談じた際、どうか公の偉大なる御事蹟を記述して、公の大寃魂を天下後世に申雪する工夫はあるまいかと、始めて御伝記編纂の事を言ひ出した。福地氏は是れより先に、幕府の歴史を編纂したいと思ふが、誰も書かせて呉れる者がない、之を完成するには少からぬ費用を要する、願くは公明正大の筆を以て、慶長・元和の初より慶応・明治の終までの史実を書いて置きたいものだ、維新後の歴史は、とかく徳川家を讒誣する事のみを記した書が伝はるが、是れは実に後世を誤るもので、残念至極であるといふ事を申された。さりながらそれは容易な事ではないと思うて、私は遂に同意しなかつたが、帝国ホテルでは私から、慶喜公の御伝記を詳細に調べて置きたいが、君の健筆を以て編纂の主任を引受けられまいかと、同意を請うたのである。其時福地氏は屹度やれる、御引受すると確答したが、其方法に至つては詳細に論究するまでには進まなかつた。
そこで私は御伝記を編纂するについては、世に公にはせぬにしても、第一に公の御許諾を得なければならぬ、それを伺ひ定めねば著手する訳にはいかぬと思ひ、平岡準蔵氏によつて、公の御内慮を伺ふ事にし
 - 第47巻 p.697 -ページ画像 
た。其頃平岡氏は東京で米穀商を経営しながら、公の御家政の事にも熱心に尽力して、藩庁の頃から、小額の剰余金をも公の為めに蓄積の方法を講じ、私の経営する銀行に於て之が利殖を謀り、私も亦常に自己の財産と同じ観念で之を取扱つたから、平岡氏が常に公に昵近して居る事を知つて居たので、同氏に逢つて詳細に御伝記編纂の意見を述べ、是非とも御許諾を得たいと思ふが、君は如何に考へるかと問ふと平岡氏は非常に喜んで、それは誠に親切な事だ、どうぞ好都合に成就したいものである、福地氏は立派な文学者と聞いて居り、公にも全く知らせられぬ人でもないから、至極適当の人と思ふ、但し公の御同意の有無は測り難いが、ともかくも申上げて見やうと答へた。其後平岡氏が静岡から帰つての話に、公は御許諾がない、どうぞ止めて呉れと仰せられた、何故に左様に御厭ひなされますかと伺ふと、世間に知れるのが好ましくないとの事であつたといふ。依つて更に平岡氏と相談の上、必ず世間には知れぬやうに、深く私の筐底に納めて置きます、私どもは固より公の千年の御寿命を望むけれども、人生自古誰無死であるから、御死後に於て発表するものとしたならば、御厭ひなくもと思はれます。今の間に存在する史実を集めて、せめては記料にても遺して置かねば、遂に真相を失つて後世に誤謬を伝へる事と存じます。つまり私の期待する所は、現世にあらずして百年の後にあるからと、再応平岡氏を以て伺ふと、それ程の熱望ならば承諾はするが、世間に公にするのは、死後相当の時期に於てといふ事であつた。
是れから極めて内々で調査に取掛つたが、併し旧幕臣の古老には種々の実歴談を聴かなければならぬ。朝比奈閑水元甲斐守昌広。は外国奉行をも勤めた人、又其実父は十二代将軍の御小納戸頭取を勤務して、当時の大奥の事を熟知した人であつた。其他駒井朝温元甲斐守。松平勘太郎元大隅守浅野氏祐元美作守。杉浦梅潭元兵庫頭。などゝいふ人々にも就いて、段々と其実歴や伝聞を調査した。独り旧幕臣のみならず、水戸藩を首として、会津・桑名・其他の諸藩、又は幕閣に列した諸家に就いても、事実の探索に著手した。さて其御伝記の体裁は如何にすべきかといふ事について、福地氏の説は、是非とも幕府を根拠にして書くが宜い、蓋し当時の公は全く御一身に国家の安危を荷はれたのであるから、幕末史と公の御伝記とは相離るべからざるものである、殊に外国の事が又御一身の変化に最も強い関係を為して居るから、それらの事実は成るべく丁寧に調べなくてはならぬ。原来徳川家が幕府として政権を執つたのは、家康公が覇府を江戸に開かれてからであるが、又其前から論ずれば、関ケ原の戦勝から徳川の威力は既に天下を制御すべき程になつて遂に大阪を滅し、公家・武家の諸制度を定めて、幕府は確立したのであるから、幕末の政変に論及するには、どうしても溯つて家康公の幕府を立てた時の精神及び其形式をも調査して、完全に其根原を研究し最後に於て幕府がそれだけの権力を持つて居るものを、何故公は所謂敝屣を棄つるが如くにせられたかと、篤と吟味して置かねば、趣旨が明にならぬ。故に公の御伝記というても、直接公の御一身に属する本伝と、前提に属する前記と、両様の順序を以て調査せねば、結局に至つて明晣に論断し難いと思ふといふ説であつた。私はそれでは大変に
 - 第47巻 p.698 -ページ画像 
手数のかゝる事と思つたけれども、筆を執る人が切に主張する事だから、遂に其意見に依つて起草して見て呉れろと委託した。
其翌二十七年に、尾高藍香翁の紹介によつて、旧桑名藩士の江間政発氏に材料蒐集を託し、福地氏は其材料によつて本伝を執筆するといふ事に、各其受持を分けて従事せしめる事にした。三十四年の春の頃から、深川の宅の一室に始めて事務所を開いて、両人とも此処に通勤する事になつて、福地氏は御伝記の前記を起草したり、外交関係の洋書類を翻訳したりなどして、徐々と進行はしたが、福地氏は三十七年に代議士となつて、多忙の為めに捗取らず、其後は又病身になつて、執筆は思ふ様に運び兼ね、かたがた、残念ながら暫時編纂事業を中止した。其後福地氏は病の為めに世を去られたので、私は此御伝記編纂の事を如何にしやうかと、再び大に考慮せねばならぬ事になつた。併し既往に溯つて一考するに、曩に福地氏に依頼する時に、親戚なる穂積陳重・阪谷芳郎・両氏にも相談し、両氏も至極結構の事と思ふが、如何なる順序にして為さるかと問はれたから、斯々の手順にして福地氏に頼まうと思ふと答へ、それは適当でありませうとの同意を得た。其際私の胸中には斯かる重要なる歴史は、成るべく公平に記述せねばならぬ、苟も筆を執る人の感情に馳せて、一家言の論文体になつてはならぬ、此点から考究すると、寧ろ公に関係のない、単に歴史に堪能なる人に依頼するが宜くはないかといふ一案もあつた。さりながら一面には、私の心事が慶喜公の寃罪を申雪するの目的で、此御伝記の編纂を企てたものであるから、成るべく公を識つた人にと考へて、福地氏と定めたのである。然るに前に述べた如く、其後十年の歳月を経ても成就せぬのみならず、福地氏が没せられた以上は、更に方法を改正しなければならぬ事になつて、遂に再応穂積・阪谷・両氏と協議の上、穂積氏を介して三上参次博士に相談して、萩野由之博士に其主任を依頼する事になつた。而して福地氏の旧稿をば継承せず、新に起草する事として、爾後の経営は萩野博士の立案に従うて其順序を立て、是れまでの如き不規律なく、正確に取り運び、相当の年月を定めて其完成を期する事とし、玆に始めて博士の承諾を得たので、更に御伝記編纂所を兜町の事務所の楼上に設け、数名の編纂員を置いて新に編纂事務に著手した。それは明治四十年六月の末であつた。
私の発意は、其原は感情から起つて来たのであつて、公の当時の御有様が如何にも同情に堪へぬ、誰か此寃魂を慰める人がありはせぬかと思ふ処から、せめては其事実を明瞭にして、逆賊と誣ひられ怯懦と罵られた汙名が、後年に於て洗ひ浄められるやうにして上げたい。御伝記によつて、当時の公の御心事は斯うであつて、御行動は斯うであつたといふ事が明白になつたならば、逆賊でもなく、怯懦でもなく、王政維新の大業も実は是れによつて都合よく運んだのである。然らば公の御行動は、寧ろ国家に対しての大勲功であるといふ事も分るであらうと考へたのである。抑も徳川家康公が、其初めに幕府を建てゝ天下の大権を掌握したのは、敢て天子を後にするといふ精神ではなかつたらうが、国家の統一を企図する為めには、幾分か朝廷を押付けたやうな嫌はあつたけれども、之が為に国家は三百年の太平を致したのであ
 - 第47巻 p.699 -ページ画像 
る。併し日本の国体からいへば、それは完全な方法ではない。而して此国体観念は、三百年の太平の間に、学問の進歩に伴うて著しく発達した。況や外国と交際を開始する時に於て、中心力が朝幕二途に分れるやうな事は一日も許されぬから、外交の初に当つて、幕府の閣臣に早く此点に気の附く人があつたなら、時の将軍をして疾くに政権を返上せしむる手段に出なければならなかつたのであるが、大勢の推移はさう容易く行はれるものではない。此国家は武力を以て贏ち得た将軍家の物であると思ひ誤つて、徳川の流れ一日も長かれと企望する幕臣多数の情勢から、種々なる齟齬衝突を惹起して、終に大騒乱ともなるべきは当然の形勢であつた。然るに慶喜公の明敏なる、早くも大活眼を開き大勇気を振つて、先づ第一に政権返上を英断せられたのであるが、其後大勢の趨く所、事毎に意の如くならずして、遂に汙名を受けらるゝに至つたのは、真に言ふに忍びざる次第である、是れはどうしても公平なる心と正当なる筆とによつて、其際の公の御精神を叙述して、公の寃魂を慰めなくてはならぬ。斯くして幕末政変の事実は此通りの次第であつて、王政復古は結局最後の将軍たりし公の大勢看破の明と、大事決断の勇と、忠君愛国の誠とが、与つて力ある次第であるといふ事が、他日に明瞭になるやうにしたいのが、私の第一の主眼であつた。それ故成るべくは感情に趨らず、勉めて事実を精覈にした御伝記を作りたいと思うた。此点から観る時は、最初福地氏に依頼した儘で若し成功したならば、或は頼山陽の日本外史の如き、文学的感情的の歴史となつたかも知れぬが、今度の編纂方法は、萩野博士の如き史学専門の人を以て、公平に史実を精査し、其史実の指示する所に従うて、中正な意見を以て之を記述し、其時の事実は斯うであつて、此事実によつて斯く処置せられた、此政変の原因は斯うであつたから、其結局は斯くなつたと、悉く実際に考証して其成行を論断した事故、極めて正確なる考証的の歴史となり、公の愛顧を受けたる私の名によつて編述したものではあるが、決して偏見の私論でなく、所謂天下の公論であると、一般の人が見て呉れるであらうと思ふ。
文政の末年に、白河楽翁公が侍臣を以て、頼山陽に其著述した日本外史の一覧を求められた時、山陽は其厚意に感じて、楽翁公に呈する書一篇を作つた。山陽は自身を宋の蘇轍に比し、楽翁公をば韓魏公に擬へて、縦横に論弁した。其文章は山陽の筆だけに、情意も貫徹し、抑揚も変化も実に巧妙のものであるが、山陽の真意は如何にといふに、総じて史家が歴史を著作するのは、其当時に於て人に知られる事のみを期するものではない、恰も蘇轍が韓魏公に向つて、今轍は目前に閣下に知らるゝ事は求めぬ、百年を期するのであると述べた如く、拙者も此外史を編纂して、尚蘇轍の言の如く千百年を期したのである、然るに今日斯く閣下が侍臣を以て此稿本を召されて見ると、千百年後を期した文章が、今日既に大賢の鑑識を経て、後世に伝はる保証が出来たやうに思はれると言うて居る。史を編む人の心事は、実にさもありさうに思はれる。山陽既に然り、私の企てた此御伝記も、決して之を現在に発表しやうとは思はなかつた、先年平岡氏に答へた如く、公の百歳の後を期する積りであつた。
 - 第47巻 p.700 -ページ画像 
然るに其後萩野博士に依頼した頃は、計画の当初に比ぶれば時勢が大に変化し、公も東京の御住居になつて、宮中へも時々御参内なされ、明治三十四年には麝香間祗候となり、三十五年には公爵を授けられて特に一家を立てられ、従つて社会的御交際も出来て、私の宅へも数度御越し下される様になつた次第で、此編纂を思立つた頃とはまるで世の中が変つて、公の御身も最早青天白日となられたのである。況や先年薨去に際しては、聖上より誄詞を賜はつて、公が御奉公の精神を御表彰遊ばされた程の事であつた。其際私も左の一絶を作つて公の薨去を哭したのである。
  嘉遯韜光五十春、英姿今日化霊神、至誠果識天人合、赫々鴻名遍四鄰、
私の此編纂の事を企てた初めには、僅に知合の人に其事を談ずるのみであつたけれども、時勢の変化に連れて、公も此事を御厭ひなく、世間も怪しまず、私も亦公然と経営する様になり、随て尚更其事実を成るべく錯誤のない様にしたいといふ企望から、編纂諸氏の発意で、或る事柄について其事実を確かめる為に、私が会主となり、公を中心として、毎年数回会同して、種々の疑点を公に御尋ねいたし、又公の御前で討議もした。公は此会同を昔夢会と命名して、毎会必ず御出席下され、諸氏の疑問に対しては、殆ど心を虚しくして、其時の御思慮又は御行動を懇に談話せられ、事後を飾る心や依怙的感情などは一切除いて、有つた事は有つた、間違つた事は間違つたと、善なり悪なり、事実其儘、真直ぐにありし昔を御話し下されたのである。其一例を言はゞ「葵の嫩葉」といふ書に、公の御幼少の時の事を御褒め申した記事があつたから、之を伺つて見ると、左様な事は一つもない、実に恥かしい事である、嘘に褒められるくらゐ不本意の事はないと仰せられて、全然否認せられてしまつた。此一事を以ても、公の虚心坦懐が証拠立てられる。此昔夢会に於て、当時種々に紛糾した事件の真相を確めんと務めた編纂諸氏の苦心も大抵ではないが、公も亦それに対して能く古い御記憶を喚起せられて、丁寧反覆、綿密に御答へ下された事は、一通ならぬ御丹精であつた。今も其時の事を追想すると、あの問には、少し御迷惑さうな御様子があつたなどゝ恐察する事もある。公は昔夢会に御臨席なされたばかりでなく、一章脱稿する毎に、先づ私が審に一覧した後を、公の御許へ呈して御覧に入れると、喜んで丁寧に御目を通され、時には御自筆で附箋をなされ、是れは斯うあるけれども斯うではなかつたと、修正意見を御記しになり、事の複雑な所は編纂員を召して、細に当時の事情を語り聞かせられ、之が為に幾度も稿本を訂正した所が多いのである。之を以ても此御伝記が聊の虚飾もなく、飽く迄も事実を直筆したと言ふ事をば、自ら誇るに足ると思ふのである。原来此御伝記を作るについては、御本人の御行動を枉げても良くしたいといふ精神は毫もなく、此道理が斯様である、彼の事実が斯々であるといふ事を明白にするを主として筆を執つたのである。私は天下に対して、自己の責任として著者たる名義を持つが、事が著者の大切に思ふ主君に関するが為に、苟も偏頗な意見を立てたり、又は曲筆を弄した所などは、断じて無いといふ事を、どうぞ天下後世の
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読者に能く了解して貰ひたいと思ふ。
御伝記の当初の企図は、恐入つた申分ではあるが、公の薨後に社会に出す考であつたから、御生前に脱稿し刊行するとまでは予期しなかつたが、公が東京に御住居になり、且萩野博士の立案によつて此編纂を経始し、殊に昔夢会の開かれた頃からは考が変り、御伝記の全体については、素より永久に人心に碑益すべき入念の著作でありたいとは予期したけれども、一方には一日も早く其刊本を公にも御覧に入れたいと思うて、私は時々編纂諸氏を督励して、御覧に供すべき公も御老年であり、私も老人である、どうぞ其考を以て成るべく早くと催促した事は幾度もあつたけれども、記事が複雑でもあり、大部な著述で、容易に脱稿とは参らぬ中に、図らずも公の御薨去遊ばされたのは、実に終生の恨事である。今日此の如く印刷も成り、製本も調うた所を御覧に入れて、其御喜の眉を開かせられるのを拝するを得たならば、著者の名を署する私、及び編纂の責任者たる萩野博士其他の人々は、どれ程嬉しからうと思ふにつけ、猶更残懐の念を深うする次第である。併しながら、本書初稿本の公の静岡御移住の章までは、全部御覧を請ひて訂正をも了へ、第二稿も三分の一ほどは再度の御覧を経た事は、せめてもの心遣りである。
惟ふに公は生前に於て既に汙名を雪がれ、薨後には又其忠節を表彰せられたる上は、山陽の所謂百年の後を期した事が今日既に顕著になつたと言うても宜い。果して然らば史家の苦心は既に足りた、必ずしも百年を待つの必要はないと言ひ得らるゝでもあらうが、私は未ださうではないと断言し、将来を期すべき事は尚種々の方面に於て存在すると信ずるのである。蓋し維新の政変の如き大事は、決して屡帝国に生ずるものではない、然れども人の世に立つて斯かる場合に処するには如何なる覚悟を有し、如何なる行動を為すべきかといふ問題は、最も講究を要すべきものである。而して私は此問題に対して、一言以て之を掩ふ事が出来る、即ち私を棄てゝ公に徇ふにあると思ふ。畢竟我が国民に貴ぶ所のものは、国家に対する犠牲的観念である。忠君愛国も其真髄は大なる犠牲的観念の結晶にある。大なる犠牲的観念は、私を棄てゝ公に徇ふにあるが故に、其功労の世間に表はれる事を求めず、其苦心に対する報酬をも望まぬのみならず、他より毀損せられても、他より侮辱せられても、毫も其精神を動かす事なく、一意国家の為に身命を擲つて顧みざる偉大なる精神が即ち是れである。公が国難を一身に引受けられ、終始一貫して其生涯を終られた偉大なる精神は実に万世の儀表であり、又大なる犠牲的観念の権化であると思ふ。さすれば世人が此書によつて公の御事蹟を善く心得て、其御一身を国家の為に捧げられた精神の在る所を了解したならば、此御伝記が百年千年の後までも、日本の人心を針砭刺戟して、国民の精神に偉大なる感化を与へるやうにならうと思ふ。斯く考へて見れば、此御伝記編纂の事は初は唯公の寃魂を慰めやうと思ふに止まつたが、其寃魂の既に慰められた上は、更に公の御事蹟が、将来の日本の人心をして大に感奮興起せしめ、所謂懦夫をして起たしむるの効果あるを望み、且信ずるのである。果して然らば之を発起した私も、又私を助けて筆を執られた萩
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野博士を始めとして編纂諸氏も、永世に朽ちざる骨折甲斐ある事業を成就したものであると言うても、差支ない事と思ふのである。
  大正六年六月
                 男爵 渋沢栄一述


徳川慶喜公伝 渋沢栄一著 巻四・跋第一―一〇頁 大正七年一月刊(DK470144k-0004)
第47巻 p.702-704 ページ画像

徳川慶喜公伝 渋沢栄一著  巻四・跋第一―一〇頁 大正七年一月刊
徳川慶喜公伝跋
徳川慶喜公伝成るに当りて、著者渋沢男爵余をして後序を作らしむ、余も亦編纂の主任として、其経過を叙するの必要ありと信ずるを以て此に一篇を草して巻尾に附く。
渋沢男爵の此伝記編纂を企てられたるは久しき事なること、其自序に見えたるが、余が始めて此書の起草に関係するに至りしは、明治四十年六月の事なりき。初には学友三上博士の勧誘あり、次に先輩穂積男爵の慫慂あるによれり。然れども余をして公務の余暇を挙げて此事に任ずるの決心を起さしめたるは、心私に慶喜公に葵傾する所あるによれり。
余前史を読みて王覇の興亡に至る毎に、乱離相踵ぐを慨歎せずんばあらず、鎌倉幕府の末路は彼の如く、室町幕府の季世は彼の如し、然るに独り江戸幕府の令終此の如くなるに想ひ到る毎に、かしこくも明治天皇の御威徳を欽仰し奉り、又之を輔翼し奉れる三条・岩倉・西郷・大久保・木戸・諸公の忠節を追慕すると共に、最後の征夷大将軍が、善く恭順の至誠を輸すにあらざれば、之に至ること能はざるを思はずんばあらざりき。此を以て余は公に親炙して前将軍の光範に接し、活きたる歴史を読むべき機会を得たるを喜びたるなり。
編纂所は六月の末より開設せり。渋沢男爵は著者として、穂積・阪谷両男爵は顧問として、文学士小林庄次郎氏は起草者として、三上博士と余とは監修者たり、余は主任として日を定めて出所し、三上博士は時々意見を陳べらる、渋沢家秘書役増田明六氏は庶務を兼掌せり。
是より先に、渋沢男爵は江間政発氏をして晩香堂雑纂及幕末記料を編纂せしめ、故福地源一郎氏は之によりて慶喜公伝を起草せしが、其草する所は、徳川幕府の起立及制度を略記したる興山公伝前記五冊、公の幼時より安政四年までの時事・外交文書等を編録したる御伝稿二十八冊、外に四五種の翻訳書を留めたるのみ。此度渋沢男爵は福地氏の旧稿をば束閣して新に稿を起す事となし、其一切の組織を余に附託せられたり。
当時余はおもへらく、公の時内外極めて多事なれども、其政局に当り給へるは六年に満たず、之を伝するに何程の時をか要すべき、江間氏の集めたる晩香堂雑纂は九十冊に満ち、幕末記料は文久三年の初までにて七十冊に及べり、起草の任に当れる小林氏は、嘗て幕末史を著せる経験あり、其稿成るに従ひて訂正しゆかば、初稿を書き上ぐるに三年を費し、修正出版に三年を要すとして、公当局の年数程もあらば十分ならんと思ひりたき。然るに実際事に臨むに及びては、是等の考は概ね空想に属せり。
江間氏の編纂せる記料は福地氏の方針を受けて、幕末史としての史料
 - 第47巻 p.703 -ページ画像 
たり、且諸書の記事を剪裁して編次せるものなれば、今公の伝を草せんには、一々本書に溯源して熟読翫味せざるべからず、殊に公の政局に当り給へる文久三年以後は未だ稿を成さず、此に於て編纂の傍ら材料の蒐輯謄写をも務めざるべからず、但雑纂中に故老の手記・談話を採録して、今は獲難きものゝ存するを力とするのみなり。斯くて四十年の後半は準備に暮れて、実際小林氏が起稿の筆を執れるは、明くる四十一年の初よりなりしが、同四十二年九月安政大獄の章の起草中に病に罹りて頓に逝去せられしは、思ひもかけぬ不幸なりき。
此後は編纂員数人に章を分ちて担任せしめ、各自材料をも調査し、文案をも起草し、其統一訂正は余専ら之に任ずる事となる。局中には文学士渡辺轍氏・同藤井甚太郎氏あり、小林氏没するに及びて、井野辺茂雄・高田利吉の両氏も加はりて、四人編纂員となり、協同一致して校讐編摩に従事せり。
江間氏の記料は晩香堂雑纂と材料略同じければ、本伝には採り用ゐざれども、渋沢男爵は是をも完成し置かんとて、尚江間氏をして別に其編纂を続行せしめ、傍ら本伝記材料の採訪にも任ぜしめられたりしが江間氏は大正三年の頃より病に親しみて、採訪纂輯意の如くならず、五年八月遂に逝く。此に於て幕末記料は慶応元年の半に至るまで、百余冊の未定稿を留むるのみなるは、亦一の不幸なりき。
初め余が編纂の事に従ふや、男爵は公の御生前に脱稿して、刊行をも終へたき志なる上に、公もまた此書の成るを待たせ給ひければ、余等も早く呈覧して其教正を受くるを楽みとせり。編纂員諸氏は、此心を体して精励しければ、功程大に進みたるにより、縦し初稿は蕪雑なりとも、取あへず批評教正を請ひ、再稿三稿を重ねて修正せばやと、先づ男爵に出して批評を求め、次に公に呈覧して教正を請ひたり。男爵は多忙の中にも仔細に点検して、一々細評を加へられ、公は一章成る毎に喜びて之を読ませられ、事の小なるは附箋して還され、事の大なるは余等を召して反覆指教せられたり。斯くて成功を急ぎければ、或時には四人の稿本一時に余が机上に輻湊して、訂正に追はるゝこともあれば、或時は又記録の記す所と公の記憶せらるゝ所と矛盾する者もありて、其考証推断に多くの時を費し、思ひのまゝに進まざる事もありしが、大正二年七月には公の静岡移住の章までの初稿を了へて、公の検閲をも経たりき。
是より先既に検閲を経たる所も、或は新に獲たる材料により、或は編纂員の考案により、更に稿を改め、或は章段を分合して、第二稿を編成したるが、第二稿をば仮印刷に附して逐次公に呈覧し、又渋沢男爵及穂積・阪谷の両顧問、三上博士等に送りて其批評を求めたり。第二稿本にして、公の再閲を経たるものも亦数章に上れり。然るに其年の十一月、公かりそめの御病より、遂に不帰の旅に赴かせ給ひぬ、是れ実に最大なる不幸なりき。余等は公の御存生の中にと急ぎしかひなきを悔い、此上はなるべく速に之を霊前に奠供して、男爵の初志を果さんと力めたるに、公の三周年祭の頃に至りて、第三稿も全く成りたれば、大正六年の年頭より印刷に著手し、半歳を費して此に始めて公刊するに至れり。余が編纂に関係せしより正に十年を閲したりき。
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新井白石の言に、歴史を読むものは勝ち方負け方を見て斟酌すべしといへり。政権の争に勝を得たる方は、栄華と権勢とを併せ得るが故に幾多の記録・伝説の誇張せらるゝもの多きに反し、負けたる方は権勢を失ひて不遇の地に落ちたるが為に、事証に備ふべき資料すら自然に消散し、或は故意に湮滅せらる。此に於てか勝ち方の成蹟は瑣事も広く伝称せられ、負け方の成蹟は美事も多くは烟散霧消に帰す、江戸時代の初期に於ける豊太閤の事蹟の如き、鎌倉時代に於ける平相国の事蹟の如き皆是れなり。維新の政変は、過去の歴史に見ゆるが如き単純なる政権争奪にあらず、且明天子の上にましましたるが故に、負け方の徳川氏及臣属も、幸に悲惨なる運命を免れたれども、史料より見れば亦勝ち方負け方の原則を脱すること能はず、公を首として、旧幕府並に臣属諸藩の記録は殆ど散逸し尽し、其稀に存するものも、世に出だすを憚るを常とせり、今公の伝記を修むるに際し、深く白石の言に感慨なきこと能はず。
是を以て幕府方については、務めて逸書を探り、断簡を輯め、故老に質すなど、力の限り博捜し、稿を改むること三回に及びたれども、尚史料の遺漏あるべきを知る。但し本書は公の伝記にして幕末史にあらざるが故に、朝廷及諸藩の方面は勿論、幕府方にても公に関せざる方面は、唯背景として梗概を叙するに止めたれば、彼我の事蹟について詳略を異にせる所尠からず、是れは史料を得ざるにもあらず、好む所と阿りて然るにもあらず、公の伝記として自ら然らざるを得ざればなり。
又余は屡公に親炙し、公の直話をも承りたれば、公の伝記を修するに当りて、同情の為めに知らず識らず回護するが如き事あらんことを、毎に注意し反省したれども、尚或は観察の当を失へるものあらば、そは編纂主任たる余が不敏の致す所のみ。但し著者たる渋沢男爵が両度までも精読批正せられ、更に穂積・阪谷・両顧問、三上博士等の綿密なる論評訂正を経たるによりて、大なる過誤の無かるべきは、余の信じて疑はざる所なり。
大正六年七月 文学博士 萩野由之識



〔参考〕竜門雑誌 第五一九号・第三六―三八頁 昭和六年一二月 青淵先生と白河楽翁公とに就て 文学博士 三上参次(DK470144k-0005)
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竜門雑誌  第五一九号・第三六―三八頁 昭和六年一二月
    青淵先生と白河楽翁公とに就て
                 文学博士 三上参次
○上略
 先生が屡々仰せられますことに、自分に二人の大きな恩人がある。皇室の御恩は申上ぐるに及ばず、之を別にしては私は徳川慶喜公、十五代将軍と白河楽翁公と二人あると云ふ御述懐を時々承つたことがあります。其慶喜公に付ては、幕末の青淵先生二十四歳のときに、埼玉県血洗島を出られまして江戸へ来られたのでありますが、御承知の通りの幕末紛擾の際であります、先生も当時の壮士の一人として頗る攘夷思想に関係して居られました、或時には横浜の所謂異人館の焼討なども企てたことがあると承つて居ります。さう云ふ最中でありますから随分危険なる渦まきの中に捲き込まれると云ふやうな事もあつたと
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思はれるのであります。丁度其翌年に一橋家へ仕へられて慶喜公を主君と仰ぐと云ふ御関係にあらせられたのでありますから、一面から見ますると慶喜公は自分を救つて呉れた恩人である、其恩徳は永く忘れることは出来ないと云ふお話であります。そこで慶喜公が一橋から入つて徳川家の十五代将軍となられるに連れまして、青淵先生も同く幕臣とおなりになつたのであります。次で慶喜公の弟の水戸の徳川公、民部少輔が仏蘭西へ渡られるに従ひまして之にお供をして、慶応三年に向ふへ赴かれたのであります。然るに青淵先生仏蘭西に居られます間に、御承知の通りの国内の大改革でありまして、慶喜公は大政を奉還せられ、王政は復古となり、のみならず一朝事の行違ひから慶喜公は伏見・鳥羽の戦に於て賊の汚名をお蒙りになり、引続き江戸へ逃げて帰られまして、官軍が東に向ひ、是に於きまして慶喜公は只管恭順を旨として上野の山に籠つて謹慎をし、次で水戸に移り、続いて静岡に引籠つて謹慎を続けられて居つたのであります。此驚くべき報知が仏蘭西の青淵先生の所へ達しましたので、青淵先生急ぎて帰られましたのが明治元年十一月と思ひますが、静岡へ行つて慶喜公に会はれまして、昨年出張の際と今日帰朝してお目にかゝる際と、如何にも其変化の甚しいことを御述懐なされてお話があつた次第であるのであります。此慶喜公が賊名を負はれたと云ふことに付ては、青淵先生深く之を遺憾とせられ、どうかして其当時の事情を成べく早く当時の人の生きて居る中に、殊に慶喜公の御存生中に承つて明かにし、又他の方面からも材料を捜して慶喜公の伝を一つ作つて後世に遺して置きたいと云ふ御希望が余程盛でありまして、それは即ち自分の恩人である所の慶喜公に報ゆる所の最も大なる一つの方法であるとお考になつた訳であります。尚ほ青淵先生これは屡々慶喜公にも問はれ吾々にもお話になつたことでありますが、大政奉還と云ふことは事情が此の如き場合であるから之も想像が出来る。併し一旦京都から紛擾の巷を去つて大阪へ御退城になつて、部下の旗下・大名のやられた事とは言ひながら再び討薩の表を持つて京都へ出掛けられたと云ふのは、甚だ大政奉還の挙動と相一致しないやうな点が見られる。それは其時部下の大名・旗下等が制し切れなかつたと云ふことでも説明が出来るが、然らば伏見・鳥羽の一戦をして、其後直に軍艦に乗じて江戸へ逃げて来られてさうして上野の山に於て謹慎をして、部下の人に於ては随分慶喜公を励し再挙をするやうに勧めた者もあつたのですけれども、堅くさう云ふ誘ひをば退けられ、恭順を表せられたと云ふ事とも亦少しく其処に話の矛盾があるやうに思ふ。斯う云ふ点をば慶喜公に充分伺つて明かにしなければならぬと云ふお考があつたのであります。そこで伝記の編纂を企てられまして、最初之が明治二十年代のことで、福地源一郎氏に其事をお託しになりまして、福地氏も其事をお引受になつたのでありましたが、色々の事情でそれが成功せず、其中に福地氏は代議士に出ると云ふやうなこともあり、旁々伝記の出来ませぬ間に福地氏は亡くなつてしまつた。青淵先生それで大に落胆をせられましたのであります。丁度穂積・阪谷両男爵を以て私に御相談がありましたのが明治四十年、先づ阪谷男爵からお話がありました。続いて青淵先生御自
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身もお話があつたのであります。どうか之を一つ引受けて呉れないかと云うことでありました。所が私は其時丁度大学に於て授業の外に大日本史料の編纂と云ふことに従事して居りましたので、迚も余日がありませぬ。誠に光栄な仕事であり愉快な仕事である。且つ青淵先生の御委嘱と云ふのに感じて早速お受を致さなければならぬのでありますけれども、どうも私には出来ませぬ。就ては斯々の人が最も適当の人と思ふから御推薦申上げますと申して、阪谷・穂積両男爵もそれが宜からうと云ふことで、私の友人の萩野由之博士を御推薦申上げた。さうしますと青淵先生も喜ばれまして、萩野氏が之より多くの助手を率ゐて日本橋の事務所に於て編纂事業を始められまして、随分大きな規模を以て材料を進め著述に著手せられました。青淵先生は御多忙の時代にも拘らず此事業に可成り多くの時間を費されたのであります。始終原稿を御覧になりますのみならず、毎月一回飛鳥山のお住居で徳川慶喜公を御招待になりまして、青淵先生からも色々お話があり、又萩野博士以下関係者から、あの点は如何でありましたか、此点はどうでありませうか、と云ふやうなことをお話する。後でいつも夕御飯が出余興があると云ふやうなことでありまして、私も其度毎に席末に陪して居つて色々お話を承つたことがあります。随分此事業に付て青淵先生のお打込み方と云ふものは強いものがあつたやうに記憶して居ります。そこで慶喜公伝が出来ましたのは大正六年と覚えて居りますが、一方で此編纂事業が進みますと又他方では慶喜公の皇室に於かせられましての御待遇並に一般の批判と云ふものが段々変つて参つたのでありまして、慶喜公は朝廷から追々と御優遇になり、静岡から東京へ帰られる、位階も従一位勲一等麝香間祗候と云ふやうなことになりまして、軈て徳川の御本家とは別に公爵家をお創めになると云ふやうなことになりましたので、青淵先生さう云ふことに付ては大変に喜ばれまして、自分の慶喜公に報い、慶喜公の事蹟を明かにしやうとする所の素志は、それでもう半ば以上達して居るのである、と言つて大に満足をせられたのでありますが、軈て大正六年に此慶喜公伝が出来上りましたに付て、我が願ひは之で終つたと仰せられて大変に喜ばれたことがあります。其時の御満足のお顔は丁度此処に拝するやうなお顔で、今に能く私は眼底に残つて居るのであります。之が即ち青淵先生の一つの恩人に報いられた所であります。○下略