デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.706-710(DK470145k) ページ画像

大正7年1月4日(1918年)

是日栄一、当伝記ノ発行者ヲ竜門社トシテ、冨山房ヨリ発売セシム。

  ○本書ハ附録・索引共全八冊、洋装幀、菊判、茶色クロース表紙、背表題金文字ニシテ、各冊ノ内容ハ次ノ如シ。

   徳川慶喜公伝 一

    肖像写真(コロタイプ)一枚

    興山公遺詠徳川慶久書(写真石版)二枚

    自序渋沢栄一 四一頁

    凡例 四頁

    目次 二三頁
 - 第47巻 p.707 -ページ画像 

    写真版目次 二頁

    写真(コロタイプ)九枚

    本文 四四五頁

   同 二

    目次 二一頁

    写真版目次 二頁

    写真版(コロタイプ)二〇枚

    本文 四五七頁

   同 三

    目次 二四頁

    写真版目次 三頁

    写真版(コロタイプ)二五枚

    本文 五七六頁

   同 四

    目次 二四頁

    写真版目次 五頁

    写真版(コロタイプ)四四枚(内一枚着色)

    本文 五一九頁

    跋萩野由之 一〇頁

   同 五 附録一

    目次 二八頁

    系図 八頁

    年譜 四〇頁

    文書記録 六一九頁

   同 六 附録二

    目次 二五頁

    文書記録 五二二頁

   同 七 附録三

    目次 一九頁

    文書記録 四七六頁

    引用書目 九〇頁

   同 八 索引

    目次 一頁

    索引 一六四頁

    文書記録細目 九八頁


■資料

徳川慶喜公伝 渋沢栄一著 巻八・奥付 大正七年一月刊(DK470145k-0001)
第47巻 p.707 ページ画像

徳川慶喜公伝 渋沢栄一著  巻八・奥付 大正七年一月刊

図表を画像で表示徳川慶喜公伝 渋沢栄一著  巻八・奥付 大正七年一月刊

  大正六年十一月二十二日印刷  大正七年一月四日発行       正価 金弐拾円                著者    男爵 渋沢栄一                発行者      竜門社                      東京市日本橋区兜町二番地  [img 図]著作権所有  右代表者  男爵 阪谷芳郎                印刷者       星野錫                  東京市日本橋区浜町二丁目十四番地                印刷所      東京印刷株式会社                    東京市日本橋区兜町二番地                発売所 合資会社 冨山房                   東京市神田区裏神保町九番地 


 - 第47巻 p.708 -ページ画像 

中外商業新報 第一一四一四号 大正七年一月一一日 新刊紹介 徳川慶喜公伝(男爵渋沢栄一著)(DK470145k-0002)
第47巻 p.708 ページ画像

中外商業新報  第一一四一四号 大正七年一月一一日
    新刊紹介
△徳川慶喜公伝
  (男爵渋沢栄一著)
著者宿昔の志望に基き玆に本書を大成し以て之を公刊するに至れり、本伝四冊・附録三冊・索引一冊・計八冊本、伝序・凡例・目次・本文索引目次・索引目を通じて総計四千二百四十三頁を算し外に公の肖像慶久公の題字及び百十六箇の写真版を挿入せる浩瀚の書なるが、更に其細目を見るに、本伝全篇三十五章、千百六十六項、附録全篇系図一年譜一、文書記録八百五十三通に添ふるに幾多の引用書目を以てし、索引は本伝と附録とを通じて五十音別の分類井然たるものあり、伝記として此類の書は我国に於て真に得易からざるの大著述となす
著者渋沢男爵が何故に斯の如き事業を企て又如何にして之を大成せるかは、其自序文及び編纂主任文学博士萩野由之氏の跋文に明か也、其の要領に依れば、抑も徳川政府の大政奉還は一に欽仰すべき慶喜公の英断に出でたるものなりと雖も、当時区々の論却つて公の聡明を疑ひ或は其明徳至誠を汚涜せんとする者あり、男爵は青年身を起すの初めに当り一橋家に臣事せる関係に於て、公の境遇と心事とに同情すること最も深く、又一は維新の政変に大関係を有する公の事蹟を明瞭となし天下後世の為に公の寃魂を慰めんと欲するの意切なりし結果、明治廿六年に至り知友故福地桜痴氏に託するに公の伝記編纂の事を以てせり、爾来福地氏は材料の蒐集に伴ひ三十四年を以て之が事務所を置き編纂の事に従ひしが、病気其他の事故を以て進捗予定の如くならず、一時事業中止の末、突如其訃を伝ふ、是に於て男爵は穂積陳重・阪谷芳郎両博士と協議の上、穂積博士を介して更に三上参次博士に相談し結局萩野由之博士に此事業の主任を依頼することとなれり、而して萩野博士は福地氏の旧稿を継承することなく、別の立案に基いて起草の順序を立て新に編纂事務に着手するに至りしが、時は是れ明治四十年六月なりき、編纂所の開設は同月末に係る、男爵は著者として、穂積阪谷両博士は顧問として、文学士小林庄次郎氏は起草者として、三上博士と萩野博士とは監修者として、而して萩野博士は又主任として、渋沢家秘書増田明六氏は庶務係として、何れも之に関係鞅掌し、其他数人の編纂員を置いて事業の進行を計れり、編纂員中には文学士渡辺徹氏・同藤井甚太郎氏あり、然るに四十二年九月不幸小林氏の病歿に会するや、井野辺茂雄・高田利吉両氏加はりて編纂員となり、各自分担調査起草の事に従ひ統一訂正は萩野博士専ら之に任ぜり(未完)


中外商業新報 第一一四一五号 大正七年一月一二日 新刊紹介 徳川慶喜公伝(男爵渋沢栄一著)(DK470145k-0003)
第47巻 p.708-709 ページ画像

中外商業新報  第一一四一五号 大正七年一月一二日
    新刊紹介
△徳川慶喜公伝
  (男爵渋沢栄一著)
(承前)又一面に於ては事実をして成るべく誤謬なからしめんが為の趣旨に於て、男爵自ら会主となり、毎年数回の会同を催して、之を昔夢会と称し、会同の都度慶喜公の臨席を仰ぎ、事務関係員の質問に対
 - 第47巻 p.709 -ページ画像 
して公の直話を求るの方法を講じ、更に編纂員は事務功程の進むに従ひ初稿再稿三稿を作成して先づ男爵及び穂積・阪谷の両顧問、三上博士等の批評を経、次に公の劉覧に供して其教正を乞ふなど最善の力を尽し、以て公の生前に於て此事業の完成を期したるところ、大正二年十一月遺憾にも公の薨去を見るの不幸に接す、左はれ関係諸員の努力勤勉は遂に空しからず、公の三周年祭の頃に至りて第三稿の全く成るを告げ、大正六年初頭より印刷に着手し、続いて始めて之を公刊するに至る、編纂開始以来正に十年の歳月を経たるが、福地氏の着手せる時より起算すれば実に二十五年の星霜を費やしたるもの也、而して聞く所によれば、男爵は昨年十一月廿二日公の忌日を以て谷中なる公の墓前に於て本書献呈奉告式を挙行したりといふ
公後ち公爵の栄班を蒙り、公の国家に対する至誠は彰明せられたるを以て、本事業に関する著者の趣旨は当初と多少其趣を異にしたるものありと雖も、而かも王政復古は結局最後の将軍たりし公の大勢看破と大事決断の勇と忠君愛国の誠とが与つて力あり、即ち其真相を他日に明瞭ならしめ、其事蹟を後世に伝ふるは決して無用の業にあらずとなし、斯くして此事業を進め、成るべく感情に趨らず、勉めて事実を精覈にせる伝記を作り上ぐるに重きを置き、萩野博士亦自家専門の史学見地よりして公平に史実を精査し、中正の態度苟もする所なきを以て期せり
即ち本伝は公の誕生、幼時に始まりて、公爵の栄班・薨去・逸事に亘り、公生涯の伝記事蹟を中心として、幕末及び明治維新に至る我国情対外関係・政変を始め必要なる事項は悉く之を網羅し、所述最も公明厳正を旨としたるのみならず、公の直話、故老の談話、幾多の文書記録・引用書籍に依りて考証の正確を期し、之を叙するに精彩流麗の文を以てするあり、且つ其附録にせる文書記録に至つては、史料上の至宝を以て許すに足る、蓋し公の伝記としては殆んど完璧と言ふべく、幕末及維新史としても天下後世に伝ふべき無比の大著述たるを失はず同時に又我国史学上の光彩及び一大貢献として広く之を推称するの価値あり
渋沢男爵が終始一貫国家に尽せる功労に至つては僕を更ふるも了る能はず、而かも平常多忙の身を以てして、又専門的史家ならざる身に拘らず、此特殊の事業を企て、多数の歳月と巨額の費用とを投じ、今や其晩年に於て首尾よく之が完成を遂げ、以て世に公刊するに至りしが如きは、其篤志より見るも事業の性質より見るも、男爵の生涯中に於ける大事業の一として、衷心より之を尊敬頌賛せざるを得ず、萩野博士を始め、関係諸氏の労に対しても、吾人は深甚の敬意を表する者也(菊版、葵紋入り総クロース、正価金二十円、発行者東京日本橋兜町二竜門社、発売所東京神田裏神保町富山房)(完)


渋沢栄一 日記 大正七年(DK470145k-0004)
第47巻 p.709-710 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十九日 寒強シ 少ク曇ルモ雨ニ至ラス
午前八時起床、洗面シテ病牀ニ起臥ス、朝飧後新聞紙雑誌類ヲ読マシム○中略 事務所ヨリ中野ヲ呼来リテ、褥中慶喜公伝ヲ読マシム、午前十
 - 第47巻 p.710 -ページ画像 
一時頃ヨリ夜ニ入ルマテ之ヲ継続シ、時々重要ノ所ニ於テ自ラ再読ス○中略 夕方堀井医師来診ス○下略
一月二十日 快晴 寒気昨日ト同シ
午前八時起床、洗面シテ病褥ニ凭ル、喘息ノ病昨日ニ比スレハ稍減スルヲ覚フ、熱気全ク無キヲ以テ心神ニ倦怠ノ事ナシ○中略
朝飧後御伝記ヲ読マシム、午飧後堀井医師来診ス
○下略
一月二十一日 晴 寒
午前八時半起床、洗面シテ朝飧ス、病痾尚未タ愈ヘス、褥中ニ在テ新聞雑誌類ヲ読ム○中略 中野ヲシテ御伝記ヲ読マシム、夜ニ至リテ第一巻ヲ畢リ、夜食後ハ第二巻ニ及フ、外交ノ紛糾、内政ノ齟齬読来リテ当時ヲ追想シ実ニ今昔ノ感ナクンバアラサルナリ、就中桜田ノ変、阪下ノ事ニ於ル記事ノ如キハ身其間ニ在ルカ如ク、時々扼腕奮起ヲ覚フルナリ○下略
一月二十二日 快晴 寒
○上略
褥中ニ在テ慶喜公ノ御伝記ヲ読マシム○下略
  ○中略。
一月二十六日 晴 寒
午前八時起床、昨日ト同シク病褥ニ於テ書類ヲ点検ス○中略 午前ヨリ御伝記ヲ読ム、午後ニ至ルモ継続ス○下略
  ○中略。
一月二十八日 寒 朝来雪降ル、三四寸ヲ積テ歇ム、十時頃ヨリ晴ル雪後寒威一段凛烈ナリ
午前八時起床、洗面シテ朝飧ヲ食ス、後、御伝記ヲ読ム、午飧後モ同ク読書ニ耽ル○下略
  ○中略。
一月三十日 晴 寒
○上略 興山公御伝記ヲ読ム○下略