デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.710-717(DK470146k) ページ画像

大正7年3月18日(1918年)

是日栄一、都下ノ各新聞社及ビ雑誌社ノ人々ヲ帝国ホテルニ招キテ、当伝記ノ刊行ヲ披露ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK470146k-0001)
第47巻 p.710 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
三月十四日 晴 日ヲ追フテ寒威ノ減スルヲ覚フ
○上略 十一時半大隈侯爵ヲ其邸ニ訪フ、興山公伝記ニ関スル懐旧談又ハ時事問題ニ付テ種々談話アリ○下略
  ○中略。
三月十七日 雨午後風アリテ雨歇ム
○上略 坂本嘉治馬氏御伝記ノ事ヲ談ス○下略
三月十八日 晴
○上略 正午帝国ホテルニ抵リ、各新聞社及雑誌社ノ人ヲ集合シテ、興山公御伝記ノ刊行ヲ披露シテ爾来ノ経歴ヲ演説ス○下略

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竜門雑誌 第三五九号・第六六―六九頁 大正七年四月 ○「徳川慶喜公伝」披露会(DK470146k-0002)
第47巻 p.711-714 ページ画像

竜門雑誌  第三五九号・第六六―六九頁 大正七年四月
○「徳川慶喜公伝」披露会 青淵先生には三月十八日正午帝国ホテルに都下の新聞雑誌通信社の社長・主筆等其社の代表者を招待して、「徳川慶喜公伝」完成披露の宴を催されたり。席上青淵先生には簡単に挨拶を述べられ、且つその心附かれたる点又は批評もあらば遠慮なく意見を吐露せられんことを希望せられたるに対し、三宅雪嶺博士は来賓一同を代表して答辞を述べ、午後三時散会せる由なるが、当日は来賓一同に御墓前奉告辞の写(本誌一月号記載訂正)を贈呈せられ、尚ほ未だ寄贈せられざりし雑誌社に対して故公伝壱部宛を贈呈せられたるが、而も同書編纂に際し稿を重ねたる各種の草稿一部分を一覧に供したるは、来賓をして如何に先生が同公伝の編纂に苦心せられたるかを偲ばしめたりとなり。
 因に当日の出席者諸氏は即ち左の如し。
△来賓
 石河幹明(時事新報社)     境野黄洋(東京朝日新聞社)
 簗田𨥆次郎(中外商業新報社)  上島長久(報知新聞社)
 石井直三郎(万朝報社)     金崎賢(読売新聞社)
 田村三治(中央新聞社)     山川瑞三(国民新聞社)
 川辺直蔵(東京日日新聞社)   松井広吉(やまと新聞社)
 野崎枕城(二六新聞社)     山中静弥(東京毎日新聞社)
 増田義一(実業之日本社)    江口百太郎(東京銀行集会所)
 青柳有美(実業之世界社)    浅田江村(博文館)
 滝田哲太郎(中央公論社)    塩島仁吉(東京経済雑誌社)
 三浦鉄太郎(東洋経済雑誌社)  三宅雄二郎(政教社)
 引田源蔵(日本電報通信社)
△主人側
 青淵先生 萩野由之(編纂主任) 井野辺茂雄(編纂員)
 渡辺轍(同) 高田利吉(同) 八十島親徳(竜門社)
 増田明六(庶務掛) 長谷川福平(書肆富山房)
右に就き諸新聞紙は当日の状況を左の如く報ぜり。曰く
    ○慶喜公伝と渋沢男
      十年の苦心遂に完成
 渋沢男爵は十八日正午各新聞雑誌社の社長・主筆を帝国ホテルに招待し今回男の著述に係る徳川慶喜公伝を披露せり、主人側よりは男爵の外本書編纂主任萩野博士以下各編纂員出席、食後男爵は大要左の意味の挨拶を為し、之に対し三宅雲嶺博士の一同を代表せる答辞あり、終つて主客尚歓話を交換して散会したるが、当日の席上にては本書編纂に際し稿を重ねたる各種の草稿を一覧に供し、編纂員努力の尋常ならざるを偲ばしむるものありき。
  抑々徳川幕府の大政奉還は一に欽仰すべき慶喜公の英断に出でたるものなるも、当時世論却て公の聡明を疑ひ、或は其至誠を汚毒せんとするあり、当初一橋家に臣事せる予は公の境遇と心事とに同情すること最も深く、又一は維新政変に関する公の事蹟を闡明
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して天下後世の為に公の寃魂を慰めんと欲するの意切なりし結果明治廿六年故福地氏に公の伝記編纂の事を託したるが、突如其訃を伝へたるより、明治四十年六月萩野博士に嘱して其快諾を得、博士は編纂員を督して事に従はれたり、爾来功を積て公の生前に事業の完成を期したるも、大正二年十一月其薨去を見るの不幸事に接す、遺憾此事なり、而も三週年祭の頃に至り、第三稿全く成るを告げ、大正六年初頭より印刷に着手し、続いて公刊せり、即ち本書の編纂には十年の歳月を費したるが、福地氏の着手せる時より起算せば二十五年の星霜を経たり、而も予として若し或は感情を交ふるが如きあらば史実を曲げ公を誤るの甚だしき者なるを以て、一に事実を事実とし、萩野博士亦自家専門の史学見地よりして公平に精査究訊、以て中正の態度苟くもする所なきを期せり時勢の推移と共に世間犠牲的観念の薄らぎ行く今日、随時随処に発揮せられたる君国に対する公の犠牲的観念を観取し得る点に於ても、本書或は天下を益するを得んか云云。(中外商業新報)

    ○飽まで事実を事実とした
      徳川慶喜公伝完成の披露会
 渋沢男爵が萩野由之博士に依頼して前後十年の日月を費して、漸く昨秋完成した慶喜公伝の披露会が十八日の正午から帝国ホテルに開かれた、来賓は雪嶺博士を初め主なる新聞雑誌の主筆廿余氏であつた、自分は
 △青年時代に 故公に仕へた関係上、比較的公の性格を知ることが深いので、公の維新の際に於ける態度が、世上に誤解せられてゐるの事実を哀しみ、曩に福地桜痴居士に依頼して其伝を大成せんとしたが、不幸其死に遇ひ、更に萩野博士に依嘱此を完成した伝記を作る動機は
 △君臣の私情 に出たが、其内容に至つては、全然史論の形式を避け、あくまで事実を事実として闡明したのみで、毫も私情を挿んでゐない、若し此書が歴史上に何かの貢献ありとすれば、其は実に此の一事である、而も自分が此書に依つて将来に求めんとする所は、道義観念の頽廃せる今日に
 △故公の心事 なり態度なりが、何等かの意味を繋ぎ得ると思ふ点のみである云々、と男は語つた、稿本は印刷に附するまで、前後七度書き変へられ、其の中には、故公が親しく筆を加へた点も見へる、編纂主任萩野博士の興味ある追憶談や雪嶺博士の補遺を編すべき注文等があつて、三時頃散会した。(万朝報)

    ○刺繍が上手であつた慶喜公
      漸と故公の伝記が出来上つた
        維新当時の史外の事実を語る
 渋沢男爵が二十余年の歳月と多額の資を費して著述した徳川慶喜公の伝記が、萩野文学博士以下の尽力に依つて、此の程出来上つたに就て、已に公の墓前で奉告祭を行つたが、十八日には帝国ホテルに
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都下の操觚者を招いて其披露会を開いた、男が此事を志すに至つた
 △動機 と其伝記とは別に記す事とするが、席上男爵が故公の人物・性格等に就て話した中には、頗る珍しく面白いものがある、夫は伏見・鳥羽の戦が公の本志であつたか否かは大きな問題だが其戦争が始まつた時、公は病気と称して床に就て居た、老中共が士気に関するから直ぐ御出陣をと迫ると、公は
 △寝衣 の儘彼等に向つて『幕府方にも大久保は居るか、西郷は居るか、木戸は居るか』と質ねられた、侍臣が『遺憾ながら居りませぬ』と答へると、公は『ウム』と云はれた儘暫し瞑目して居られた、此の事は以て公の志しを語るであらう、上野の戦争の時には公も全く最後の覚悟をされて、大切な書類を悉く焼き棄られた、之が伝記編纂の為に多大の
 △不便 を与へたので、渋沢男も時々其事を公に話すと公は笑つて「其時は他日俺の伝記を書いて呉れる者があるなどゝは思はなかつた」と言はれた、又公は頗る聡明な人であつたが、又非常に器用な質で多芸多才行くとして可ならざるなしであつた、馬は大名中及ぶ者はあるまい、歌も上手、書も善く書く、油絵をも描る
 △猟は 大の天狗、網も好であつたが、初めて網打に行つて『ドレ俺も』と打つた処が、巧まと河の中へ落ちた椿事がある、不思議な事には機を織られた、刺繍は殊の外上手で、丹念に針を運ぶ出来たものが気に入らぬと、一々細かに糸を解く、侍臣が其儘頂戴をと願ふと『イヤ気に入らぬものは遣る訳には行かぬ』と仰しやつた、公の手に成つた刺繍の紙入は今徳川達道侯が持つて居られる筈である、今度の伝記の草稿が出来てから、公は丁寧に校閲されたが
 △意見 のある点や訂正を要する処は、一々紙を細く切つて其意見を書いて貼附けられた、其個所は中々少くない、此一事は明かに公の性質を語り、併せて此書の価値を示すものであらう。
                       (中央新聞)
    ○此動機で此著を
      渋沢男の「徳川慶喜公伝」
 等身とこそ云へね、堆い稿本を前にした渋沢青淵男爵は最近の上梓になる「徳川慶喜公伝」をも一度つくづくと見入つた
 △動機 は昨日正午の帝国ホテル編纂終了のお祝ひである、男爵は莞爾と『私が二十四の冬故郷を離れ、京都に赴き、翌年の春、今を去る五十四年前一橋家に御奉公を致しました。慶応二年の秋公は宗家を相続し、三年の十月政権を返上された事は周知の事であるが、其の後鳥羽・伏見の事変と急遽帰来の事共は何分事状を暁り得ずして年月を過ぎた、其の間世間の公に対する批評は是非交々実に私共として忍びないことである、願はくは公の心事を研究し事実を世間に知らせ誤解・曲解を晴らしたいとの
 △一念 が此処に此一巻となつたとある、此の日集つた二十七人は編纂主任萩野文学博士を初め、三宅・境野黄洋外新聞界知名の
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士。(東京毎日新聞)


東洋経済新報 第八一〇号・第一一頁 大正七年四月五日 小評論(DK470146k-0003)
第47巻 p.714-715 ページ画像

東洋経済新報  第八一〇号・第一一頁 大正七年四月五日
    小評論
 慶喜公伝の由来 去三月中旬初、渋沢男爵から其著徳川慶喜公伝の寄贈を受け、次に同十八日に男爵の招宴に列して、男爵から親しく慶喜公伝編著の主意・目的を聞くことを得た。其の席上に於いて、男は「二十四才の冬故郷を離れて京都に赴き、翌年の春一橋家に御奉公を致し……(中略)……比の賢明の君主に拠りて、目前危殆に瀕して居る国家を救ひたいと思ふの念は其頃よりして肝に銘じ、浪人中は倒行逆施一時に即功を期すると云ふ野心もありましたが、奉職して以後は順に依り漸を以て事を為す外、決して成功の途はなきものと覚悟しまして、何卒一橋の御家をして富強の実を挙げしめねばならぬと思惟し、思ふて言はざるなく知りて行はざるなく……(中略)……三年(慶応)よりして種々なる政変が故国に起り(当時男は命に依りて仏国に在り)其都度任地に報告されまして、海外に在る私の心は如何に苦悶したか其報告に接する毎に幾回か暗涙に咽び、殊に了解に苦みましたのは、三年(慶応)の十月政権を返上遊ばされたといふ事で、公の平生の御主義からは或は然らんと恐察しましたが、其後鳥羽・伏見の事変と、急遽御帰東の事共は、何分実状を暁り得ずして疑を持ちつゝ帰朝を致し……(中略)……其間(其後長い間)世間の公に対する批評は是非交交至るといふ有様ゆえに、益々私をして憂愁苦悶の間に置かしめたのでございます、願くは公の御心事を十分に研究して、事実を天下に公けにすることもがなと窃に考へ……(中略)……今を去る二十三年前に色々と自問自答の末、これは是非御伝記を編纂して、事実を明白にするが私の任務と思ひました」云々と語られた。之れに依れば、男は慶喜公を稀れなる賢君と仰ぎ、慶喜公は男に殊遇を与へられたことが善く分る。其賢君が一方に「政権を返上」せる大事を断じ、而して他方に名義は兎に角兵を宮闕に向け、敗軍するや、急遽御帰東、謹慎恭順したので、敵からも味方からも、何れが本心かと、厳しき批評を浴せ懸けられたのを見ては、公の殊遇を感じた男の苦痛の一と通りでなかつたことも成程と首肯かるゝ。
 慶喜公の本心 以上で男が公伝編著に努力した由来は明かだが、問題は公の此の前後不揃の行動を何う解釈すべきかである。男以為く、公は大政返上の覚悟を携へて将軍に就職したのではなからうかと。此の自問自答に炬の如き光明を得て、男は男の力で手の届く限り、当時の材料の蒐集に懸り、其の結果、其の証明が略ぼ立つ見込が付いたので、遂に公伝八冊の大著を成すことになつたのである。
 渋沢男の意地 吾輩は男の此の解釈が適当に証明されたか否かを是に述べようとは思はぬ。又た吾輩の力の及ばぬ所である。併し乍ら昔から君臣の知遇は水魚に喩へるが、此の知遇が渋沢男一代の意地に深き深き根を下ろして、之れを抂げることも抜くことも出来ぬ程盛なものに育て上げた。而して男の壮時の数年間、君と仰ぎたる慶喜公の大政返上に関する本心を明かにする為めに、而して世上の痛烈なりし批
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評に答ふる為めに、二十三年間の不撓の努力を以て、此の盛大なる著書を成すに至つた男の此の意地は、実に吾輩の驚嘆崇敬を禁じ得ぬ所である。吾輩は未だ該伝記を繙くの暇を得ぬから分らぬが、単に材料提供の立場だけから見ても価値の尠からぬものであらう。又た男の銀行業を中心として我が経済界に貢献したる功の大なる他に比肩するものはなく、此点に於いて男は光つて居る。其他男に敬服すべき点は尠くなからう。而かも此等の何れにも優りて男に最も尊貴なるものは、慶喜公の知遇に対して立て通したアノ大なる男一代の意地である。而して又た吾輩は、当日男爵から与へられた最も貴重なるお土産として感謝を禁じ得ぬものである。
 時代の墓標 今一事は、斯の如き主意目的を以てせる慶喜公伝が、一代の具胆を負ふ渋沢男に依て、些かの遠慮もなく上梓に附せられたるは全く照代の徳沢とは云へ、二十年前には六ケ敷事ではなかつたらうか、水戸の大日本史は将軍政治の死滅を事前に高々と建てた墓標だとも云はれて居る。慶喜公伝は勿論左程に顕著なものではなからうが見様に依ては之れにも同じ意味を尠からず感じ得る。


実業之日本 第二一巻第七号・第七〇―七一頁 大正七年四月一日 徳川慶喜公伝を読む 瓊川生(DK470146k-0004)
第47巻 p.715-717 ページ画像

実業之日本  第二一巻第七号・第七〇―七一頁 大正七年四月一日
    徳川慶喜公伝を読む          瓊川生
      半生の心血を濺げる著作
 渋沢男爵が『徳川慶喜公伝』を編まるゝことは久しき以前に聞き、且つ書類の一部を示されたこともあつたが、公の薨去後五年の今日、全部完成、本伝四巻、系図・年譜・文書・記録・索引等を四巻に収めて公刊せられた。
 八巻、四千二百余頁、量に於て尨大である。二十五年間苦心の作、労に於て多大である。量と労とに於ては本書に匹敵するものなきにあらざるも、本書の真価は之に加ふるに男爵半生の心血を濺ぎ熱誠を罩めた著作たるにある。由来男の一文を公にし一書を出す、必らず周到の注意を払ひ一字一句も忽にせぬのであるが、本書は男爵の臣事したる恩人を伝へ、百世に渉つて其心事を闡明するを目的としたので、其苦心絶大、男爵心血の結晶と云ふも過言であるまい。吾人は本書により男爵絶大の苦心と男爵其人の面目を想望せざるを得ない。
      本書編纂の動機
 男爵が一橋家に仕へたのは僅に五ケ年間に過ぎなかつたが、其情誼に厚きことは三代相恩の主君に対すると異ならなかつた。其の仏国より帰朝するや一身を亡きものとして慶喜公に奉ずるの覚悟であつたといふ。情誼に厚きは男爵の天授であるが、而もその公男の間に於けるが如きは真に醇美を極めたものである。
 男爵は慶喜公が静岡に謹慎中、折ある毎に公を訪ねて衷心より慰藉したのみならず、公の出京後は常に往訪し、徳川家の事とし云へば大小となく必らず奔走し、公家を見る自家より重しとしたこと五十年未だ曾て一日だも渝つたことがない。情誼の人でなければ出来ることでない。
 公は一橋卿時代より夙に名君の称あり、而も一朝々敵の汚名を受け
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静岡に退隠せられ、逼塞の情けなき有様にあり、而して薩長の士の廟堂に時めくを見ては、恐らく旧民の男爵たるもの悲憤に堪へなかつたであらう。況んや公が勤王の精神に厚く、政権返上前後の公の行動は真に国を思ふの至誠と遠慮に出で、王政復古の大業も公の大勢看破の明、大事決断の勇、忠君愛国の誠、与つて大に力あり、逆賊といふより寧ろ維新の功官たるを知り、而して又公が逆賊と誣ひられ怯懦と嘲られながら、終生敢て之を弁解せんともせぬ偉大の人格を見ては、情誼に厚き男爵の血は沸かざるを得なかつたであらう。今にして当時に於ける公の心事と行動とを明にするにあらざれば、公の精神は空しく埋没され、長く世を誤るであらう、公の伝を編むは正しく天の自分に与へた使命である。男爵はかく感じて明治二十七年愈々編纂事業に着手したのである。吾人は男爵の志の真個に美はしきものあるを想ひ、その修史の実業家の道楽仕事でなく、意義あり光輝ある至誠の一大事業であることを信ずる。
      大犠牲心の表彰
 渋沢男爵が始め本書の編纂に志したのは、公に対する世上の誤解又は曲解を雪寃するにあつたが、其後公に対する雲霧の消散して天日の光明となり、又雪寃の要なきに至つた。而も男爵として公に就て伝へなければならぬ尚ほ重大の一事があつた。男爵は此の点に付き自ら述べて曰く『輓近人心の進歩と共に、人々皆知巧に趨つて漸く犠牲的観念が乏しくなつて、自己本位の弊滔々として社会に瀰漫するやうに感じまする。此時に当りて公の御行動の唯君国の為めに御一身を犠牲に供せられた所謂殺身而成仁といふことを、能く世の中の人に知悉せしめたならば、或は春秋以上の効能があらうといひ得るかと思ふので』云云と。即ち此大精神を表明するは公の徳を表彰すると共に百千年の後までも時代の人心を匡正し、国民の精神に偉大の感化を与ふるものである。即ち端を雪寃の義に発した本書は時弊の匡正てふ仁に結んだものである。
      編纂上に於ける大苦心
 本書、始めは故福地源一郎氏を編纂主任としたが、事業未だ成らざるに氏逝去したので、更に萩野由之博士を主任とした。博士は明治四十年六月以来、新に史実を精査し、史実の指示に従つて中正の意見を以て之を記述した。
 史実の精確と公正とは男爵の最も意を用ひた所である。公の愛顧を受けた男爵の編述であるも、断じて私論でなく天下の公論であると天下の人が見るものでなければならぬ、文学的感情的の史論でなく、実際に考証した正史でなくてはならぬ、とは男爵の始めより期した眼目であつた。従つて博引旁証到らざるなく、殊に公を中心とした昔夢会なるものを組織し、毎年数回会同して種々の疑点を公に正し、公亦心を虚ふして当時の事実と心事とを説話せられ、為めに本書は多年雲霧に包まれた政権返上前後の真相を伝ふるに於て無比の史書となつた。
 殊に第一回稿本成るの日、男爵は先づ自ら審に一覧し、公及び関係者の閲覧を乞ふた。かゝる場合公は丁寧に通読し或は附箋し或は編輯員を招いて当時の事情を審に語りて訂正されたことが多い。訂正の後
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第二稿を起し更に再び訂正し、斯の如くすること前後五回、第六稿本は二十五部を印刷し之を各方面に頒ちて事実と字句とを修正し、更に改めて印刷した第七稿本を修正し、之を第八稿本として謄写したものが即ち本書の原稿である。稿を代ふること八回、事実の誤謬はもとより一字一句、苟くも正すべきもので正されぬものはない。此点に於て本書は些の虚飾なく、飽までも事実を直筆した者である。従つて史実の精詳と字句の正確、本書の如きは恐らく稀であらう。
      本書に対する男爵の抱負
 渋沢男爵が明治の実業を創始し大成したことは人皆之を知る。想ふに史家としての男爵の事業は実業の創始にも譲らざる不朽の大事業であらう。
 男爵は其自序に於て頼山陽が日本外史を著すや史家として千載の下知己を待つた大抱負を述べ、又公墓前奉告之辞に孔子が春秋を作りて乱臣賊子を恐れしめ水戸義公が大日本史編纂に着手して大義名分を明にした。自著は此等に企て及ばずと謙遜されてあるが、其史実を闡明し社会の誤解を去つた修史の目的に於て山陽の外史に優り、公の大犠牲の精神を明にし、人心を匡正するに努めたことは必ずしも孔子・義公に譲るものでない。恐らく男爵の期待する所亦爰にあり、而して本書能く其期待に酬ひたものと信ず。