デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂 当伝記ニ関スル其他ノ諸資料
■綱文

第47巻 p.717-720(DK470147k) ページ画像

 --


■資料

(増田明六)日誌 大正一三年(DK470147k-0001)
第47巻 p.717 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一三年      (増田正純氏所蔵)
三月十日 月 晴
○上略
井野辺茂雄氏ニ来所を請ひ、徳川興山公伝再版の件ニ付き協議す
○下略


(増田明六) 日誌 大正一四年(DK470147k-0002)
第47巻 p.717 ページ画像

(増田明六) 日誌  大正一四年     (増田正純氏所蔵)
六月十一日
○上略
穂積男爵より子爵ニ左の提案ありて、子爵も略同意せられたり
一青淵先生伝記編纂ニ関する件
一徳川慶喜公伝再版ニ関する件 但此再版は既版の分を其儘複写スルニ非すして、公の伝中必要の点ニ子爵の感想及意見を挿入したるものとする事
○中略
右青淵先生並徳川公伝の件ニ付てハ其方法を小生ニ於て立案する様との男爵の希望あり


渋沢栄一 日記 大正一五年(DK470147k-0003)
第47巻 p.717 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年        (渋沢子爵家所蔵)
三月五日 朝雪後曇 寒
○上略 井野辺・高田二氏来リテ御伝記ノ事ニ付協議ス、夜食ヲ共ニシテ後御伝記ヲ会読ス

 - 第47巻 p.718 -ページ画像 

渋沢栄一 日記 昭和二年(DK470147k-0004)
第47巻 p.718 ページ画像

渋沢栄一 日記  昭和二年         (渋沢子爵家所蔵)
一月二十一日 晴 寒気昨ト同シ
○上略 夕方ヨリ井野辺茂雄・高田利吉二氏来リ、慶喜公伝ノ復読ニ勉ム曩ニ雑誌苦楽社松本氏ヨリ申出アリテ、初号ニ其端緒ヲ発表セル幕末ニ於ル慶喜公ニ対スル余ノ観察ハ、尚雑誌社ノ希望次第継続ヲ承諾スル事トシテ、高田氏ヨリ交渉セシム
御伝記復読ノ事ハ夜食後井野辺・高田二氏ト共ニ夜九時過迄継続シ、次会ヲ約シテ散会ス、夜十時過就寝
  ○中略。
一月二十五日 曇 寒気昨ト同シ
○上略 夜井野辺・高田二氏来リ、御伝記朗読会ヲ開ク、附属書類中ニ於テ当時ヲ回想シテ種々ノ追懐アリ、夜十時過散会就寝
  ○中略。
二月一日 快晴 寒気強シ
○上略 夕方ヨリ井野辺・高田二氏及苦楽雑誌社員松本賛吉氏来会シテ、一橋公ヲ中心トスル幕末政変ニ関スル余ノ記憶ヲ演説セル筆記ヲ会読協議ス、後御伝記朗読会ヲ開ク筈ナリシモ、夜九時過トナリタルニヨリ散会ス、夜十時過就寝
○下略
  ○中略。
三月八日 曇 寒気少ク減
○上略 夜井野辺・高田二氏来リ、御伝記朗読会ヲ開ク、夜十時ニ近クシテ閉会ス、十一時頃就寝


竜門雑誌 第四四五号・第八―一一頁 大正一四年一〇月 一老人の手紙に関聯しての思ひ出 青淵先生(DK470147k-0005)
第47巻 p.718-720 ページ画像

竜門雑誌  第四四五号・第八―一一頁 大正一四年一〇月
    一老人の手紙に関聯しての思ひ出
                      青淵先生
 七月の中旬、突然、柏木交一と云ふ一向聞いたこともない人から次の様な手紙を寄せられた。
 私は、今から六十年前私が十八歳の時(本年七十八歳)貴殿が江原一橋の陣屋に来られて、募兵をせられた時に之に応じて来つたものに候、思へば六十一年の昔、転た懐旧の涙にくれ申候、朋輩のものは皆死亡し、私一人と相成、今日に至るまで漸く余命をつなぎ居申候。此度、興譲館より貴殿の御編纂に相成候、彼の徳川慶喜公伝を拝借致し、全部一読致し、公の心事の公明、正大、且つ順逆に迷はず、断の一字を以て幕末の難局を切り盛りし玉ひし忠誠に対し、実に満腔の敬意を表すると同時に、伏見(鳥羽方より先きに砲声聞えたり)戦争に従事し、今日迄生き長らへし私が、明治大帝の洪恩に蘇られし慶喜公の伝記=貴殿が、心血を注いで編纂し玉ひしこの記録を一読して、溜飲の下りたる如き心地致し候事を告白致申候。野生は其後三十四年間学校教育に尽し、晩年を恩給にて送り居り候もの、何等貴殿に求むる所あつて音信致すものに無之、六十年前の昔をしのぶと同時に、当時の貴下が今尚ほ矍鑠として、邦家に尽瘁され、慶喜公の寃罪、誤解を天下に訴へて、消極的の大偉人の面影を
 - 第47巻 p.719 -ページ画像 
躍如たらしめられし挙に対し、当時の一兵卒たる私として老の涙を禁ずる能はず、為めに此一書を呈するものに有之候。早々頓首
 名前には覚えはありませぬけれども、六十年前私が尽力した歩兵取立てに応じて出て来た者であると云ふことだから、因縁は無いとは云へない。その人が私の心血を注いだ徳川慶喜公伝を読み、その主意のある所を明かに了解して呉れたことを、病中ながら一読して深く感動しました。それでその感想を通じ度いと思ふたので、自身の手で左の通り返事しました。
 客月十六日附御門生大塚信男氏代筆之御懇書拝見致し候、先以て益御清適抃賀之至に候。老生昨年冬より持病の喘息にて、今尚全快に至らず籠居罷在候、昨今は少々宛外出も出来候に付、其内復旧可致と存候。尊翰によれば、貴兄は六十年の昔、老生が一ツ橋藩御領地備中地方に於て、歩兵募集の御用にて出張の際の応募兵の一人として、七十八歳の高齢を維持せられ、教育家として御尽瘁の趣、殊に老生十数年来の努力を以て、編纂発表致候徳川慶喜公伝を御熟読相成、公が世界の大勢と、皇国の将来とを観察せられ、維忠維誠以て幕末の難局を収拾被致候御心事を、御推察被成候事は、平常の御修養にも起因可致候も、真に感歎の至と、老生に於ては特に陳謝の涯に御座候。老生は一橋家譜代の家来と申にも無之、徳川幕府に対しても縁故なき身柄に付、公の御伝記編纂の事は、種々再考致候も、此際の事情を充分に彰明にして、真相を現出せむには、詰り詳細なる公の御伝記発表より方法無之と相考へ、即ち此挙に出候を、存寄らざる六十年前老生の募集によりて兵員に加り、終に今日に及びし貴台より、特殊の観察を以微衷貫徹致候様相成候義は、何等因縁にても相存候事かと思惟いたし候義に御座候。貴台とても既に八十に近き老齢に有之、老生は八十六歳に相成候故に、会見の如何とても難期候へ共、自然御出京の機会も候はゞ、弊屋へ御来訪、往時追懐談に一夕を費し申度存候。右不取敢貴酬如斯御座候 敬具
  尚々病後の執筆意を尽さず候へ共、御懇書を一覧して、老生は実に無上の快心を覚え、所謂食を忘るゝの想有之候、故に拙文ながら心事其儘に相認候に付、篤と御判読被下度候、右為念申添候也
すると折返して又こんな手紙を寄せられました。
 さなきだに脆き老の涙も、御鄭重なる貴殿の御親書に接しては、繰返し繰返しうれし涙にくれ、拝読いたし候。近来は、御持病にて御苦しみなされ候趣、何卒十分御摂養御長命あらん事を蔭ながら祈り上申候。私は、常に人に向つて、伏見戦争の話をすると、一口に「アア朝敵軍の方でしたか」と言はれるのが、残念に有之、殊に年を取ると気が短くなつて、腹が立つてたまらぬ事有之候に、貴殿の彼の書物を一読致候以来は、何となく肩幅広く感じ居り候処へ、御丁寧なる貴殿の御書状に接し、誠に何とも云ひ様なき感に打たれ、嬉しくてもう何時世を了り候ても、更に遺憾は無之心地致申候、回顧すれば、五十八年前、聯隊長河野佐渡頭殿、大隊長新庄源六郎殿等の部下にて、伏見京橋の北にて戦ひ、吾が持てる銃身に小銃弾を受けて相退候当時を思へば、茫乎として夢の如くに候。其夢の中の人は
 - 第47巻 p.720 -ページ画像 
皆殆んど世を去り候と存候に、野生のみ生残り、当時の募兵掛たる貴殿より、嬉しき彼の御書翰を頂くといふ事は、何たる仕合せものに候ぞ、全体小生眼を病み居り候に付、大塚信男君に代筆を願ひ申候にも不拘、御親書を下され、感謝の余り不細工千万ながら、此一書を認め申候段、不悪御推読被成下度、此頃は徳川御一家の系図を彼の書物により、写し取り居り候抔、何やかや、一層若帰り申候、幸に御自愛の上、邦家の為、益御尽力是祈り申候、先は御礼旁々御見舞迄如斯に御座候。早々頓首
其文句は左程でもありませぬが、其感動の状歴々として見るべく、誠に心嬉しいことであります。
○下略

渋沢栄一伝記資料 第四十七巻 終