デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
15款 其他 2. 大僧正天海伝
■綱文

第48巻 p.88-90(DK480027k) ページ画像

大正5年9月20日(1916年)

是ヨリ先栄一、当伝記ノ編纂ニ関シテ尽力ス。是日、当伝記冨山房ヨリ刊行セラル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK480027k-0001)
第48巻 p.88-89 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
三月八日 曇 又雨
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、畢テ○中略 川越喜多院来ル、天海僧正ノ伝記ヲ上木ノ事ニ付種々協議ヲ為ス○下略
   ○中略。
三月廿六日 雨
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、寛永寺住職大照僧正大多喜守忍師ノ来訪ニ接ス、天海僧正ノ伝記編纂ノ事ヲ談ス○下略
三月廿七日 曇
○上略 二時事務所ニ抵リ○中略 辻文学博士来リ、天海僧正ノ伝記ニ付キ萩野氏ト共ニ種々ノ協議ヲ為ス○下略
   ○中略。
五月一日 晴
○上略 午前八時頃起床セシモ別ニ病牀ヲ設ケテ休養ス○中略 寛永寺役僧三人来リテ天海僧正ノ伝記ニ付談話ス○下略
   ○中略。
 - 第48巻 p.89 -ページ画像 
五月十二日 晴
○上略
阪本嘉治馬氏来リ、天海僧正伝記印行ノ事ヲ談話ス
   ○中略。
五月十四日 晴
午前七時起床、入浴朝飧ヲ畢リテ○中略 寛永寺僧長沢徳玄氏来リ、天海師伝記ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
七月十三日 曇
○上略 朝飧ヲ畢リテ喜多院来話ス、天海僧正伝記ノコトヲ談ス○下略
   ○中略。
九月十五日 曇
午前七時起床、入浴朝飧ヲ畢リテ○中略 川越喜多院来リ、天海僧正ノ伝記ニ付談話ス○下略


大僧正天海 須藤光暉著 例言・第一―五頁大正五年九月刊(DK480027k-0002)
第48巻 p.89-90 ページ画像

大僧正天海 須藤光暉著 例言・第一―五頁大正五年九月刊
    例言 十則
一 本書は、明治四十五年の春、喜多院僧正遠賀亮中師の嘱に応じて纂輯編述の業を起し、大正五年の春、其業を卒り、同年五月十九日を以て、本文の校訂を了したり、今や其稿本全部を仙波慈眼堂の影前に献供し、其著作権を挙げて、財団法人星岳保勝会に寄進するの機会に逢著したるは、即ち余の衷心より欣幸とする所也。
一 天海伝の定本を得難き一事は、考異に於て略ぼ之を尽したりと信ず。余は初め慈眼大師年譜に基きて起稿せんとしたりしが、劈頭所生の父母、出生の年月に就きて疑団百出し、乃ち流布本に憑りて伝を立つるの錯れるを覚り、遂に筆を抛ちて、群書の渉猟に没頭したり。然れども、繙閲の図書僅に二百部を出入するに過ぎず、未だ完伝を大成するに至らざりしは、余の最も遺憾とし、且つ深く慙愧する所なりとす。
一 本書の体は、基礎を正確なる史実に据ゑ、行るに平易通俗の文を以てし、具体的に大師を描写せんと試みたり。此稿本一千数百葉、大正三年の秋、男爵渋沢栄一氏の閲に供す。然るに、男爵の意は史伝体として大師を世に伝へんとするに在りしを以て、乃ち更に博引広渉に力め、稿本は、之を文学博士辻善之助氏に致して史実の査竅を乞へり。而して博士が周匝綿密なる考拠に基き、全然編体行文を更新し、再び博士の厳閲を仰ぎ、尚ほ且つ再治三修して、漸く稿を脱するに至れる也。本書にして過つて世に利する所あらんか、そは男爵の明達なる識見と、博士の精緻なる考証との賜也。
一 巻頭並に巻中に挿入したる古文書・図画・宝器等の写真は、主として日光・上野・仙波に現存せる真蹟に就きて、本伝と密接の交渉あるものを択び、之を複写したる也。巻中第一図の如きは、上版の後新たに発見したるものにして、大師の前名を証すべき唯一の史料なれば、後より之を挿入し、無心の別号の如きは、実に世間未知のものなるが故に、版を改めて纔かに本文に添加し置きたり。此外貴
 - 第48巻 p.90 -ページ画像 
重の文書太だ多きも、さまではとて割愛せり。
一 年表は、大師の一代を通じて、年次を追ふて表出し、紀事は力めて省略に順へり。傍ら交渉ある史実を併録したるは、強ち時代の推諉を明かにする為のみならず、又以て本文の関係を保たんと欲すれば也。本表も亦博士の指導を得て、五たび其稿を改むると雖、尚ほ誤脱あらんを恐る。幸ひに高教を賜へ。
一 流布の天海伝は悉く釈氏の手に成るが故に、其法徳を著はす点には、最も深く意を用ひたるも、時代の生める偉人の行実としては、未だ慊焉たらずんばあらず。例へば皇武の乖離を仲和して、長へに皇室の尊栄を保持し得たる如き、又、徳川家光を薫陶扶掖して、能く三代の治を致さしめたる如き、若くは、皆是吾子の仏意を体して多く刑辟の人を救護したる如き逸事に至りては、槩ね措いて顧みず暦年の差異、叙事の矛盾、数ふるに勝ふべからず。是を以て浅学寡聞を顧るに遑あらず、考異を草して之を巻尾に附録したり。是亦大方の示教を仰ぐ。
一 引用書目は章尾に註記せり。是等は主として原本に就きて抄出したるも、稀には原書に憑る能はず、孫引を余儀なくしたるものなからず。又ノートに抄する際、誤つて書名を逸したるもありき。他日改版の機あらば、是正せんことを期す。書名中「東源記」とあるは「東叡開山慈眼大師伝記」、「諶泰記」は、「武州東叡開山慈眼大師伝」也。共に記者の名に因つて修む。又「縁起」「大師縁起」とあるは、同く「東叡開山慈眼大師縁起」の略也。他は類推あるべし
一 本書題簽の文字は本朝入木道の宗家、洛東粟田青蓮院尊純法親王の御筆を複写したるもの也。親王は大師に於て殊に親厚の情誼を有せられ、現に日光縁起の和訳の如き密接の交渉あるを以て、特に其御筆を選びたる也。
一 本書編纂の効を全うしたるは、一に輪王寺門跡大僧正彦坂諶照、喜多院僧正遠賀亮中、林光院大僧部長沢徳玄《(都カ)》、無動院大僧都大森亮順諸師、及び男爵渋沢栄一、文学博士辻善之助・鷲尾順敬・高木文次郎・高田町長田中仙三諸氏の指導・援助・好意に負ふ所最も多大なり。玆に満腔の敬意を表し、深甚の感謝を捧ぐるは、即ち余の光栄措く能はざる所也。
一 本書編纂半にして、太しく視力の衰耗を感じたるが、客冬遂に内障眼の診断を下され、灯下の業は絶対に禁ぜらる。殊に校正に臨みて病勢大に進み、拡大鏡を以てするも、尚ほ活字を弁ずること能はずして、屡中絶の已むなきに至れり。されば、啻に魚魯の誤謬、傍訓の錯乱のみならず、或は校字を慎まざるの跡あらんことを虞る。幸ひに高恕を賜へ。
  大正五年八月
                       著者識
   ○本書ハ大正五年九月二十日、冨山房ヨリ発行セラル。菊判六〇〇頁。別ニ年譜十九頁。