公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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昭和7年10月(1932年)
是月、岡田純夫、栄一ノ談話ヲ編集シ「渋沢翁は語る」ト題シテ発行、東京・斯文書院ヨリ発売ス。(菊版・一冊・三四一頁、年譜一〇頁)
渋沢翁は語る 岡田純夫編 序・第一―四頁昭和七年一〇月刊 【序 渋沢敬三】(DK480047k-0001)
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渋沢翁は語る 岡田純夫編 序・第一―四頁昭和七年一〇月刊
序
雨夜譚は明治二十年に祖父が深川福住町の家で、当時の竜門社の方方の請に応じ、自分の幼時より明治六年退官までの経歴を談話したその筆記であります。此の間の事柄や又其の後の一身に起つた事や感想は数限りなく話もし、筆記にもとられて居りますが、皆断片的で、長い一生のほんの一部分とは云へ、まとまつて自叙伝とでも名付け得るのは此の雨夜譚丈と云つてよいと思ひます。そして此が其後に色々な方によつて著された各種の伝記的労作の基礎になつて居るもので、明治三十三年に竜門社で発行された『青淵先生六十年史』にその全文が載せてあります。
此の『青淵先生六十年史』は阪谷男爵初め皆様の御配慮で祖父の還暦を機として作られたものでありますが、其後二十年程経つて故穂積
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男爵の御発意で再び青淵先生伝が書き初められました。之は一つには祖父が多年心血をそゝいで著はした『徳川慶喜公伝』の編纂が終つたので主任の故萩野博士其他の方々に御願ひしやうと云ふ気持ちと、又一つには其後の二十年に世の中も祖父も大分変つて来て居りますので言はゞ八十年史が出来上り相になつたのであります。所が之は不幸にも大正十二年の震災の為に中絶を余儀なくされたのであります。其の内穂積男爵も逝かれ何となくあわたゞしい数年が過ぎました。大正十四年に私は英国から帰つて参りました時、祖父の伝記を自分の家でものすることについて深く疑ふ所がありましたので、折角中途まで出来て居た上述の伝記編纂をその中絶を機として廃止してしまひました。しかし私は祖父の伝記を自家で著すことには反対でありましたが、同時にその基礎となるべき資料の蒐集と整理は幾分でも手をつけて置くのが義務だと考へ、殊に各種の問題について祖父の生きて居る内に、その動機とか考へ方とか、つまり文章丈では得られない部分を主として聞いて置くことが後々何等かの参考にならうと思つたのでありますそして父等とも相談の上、先の雨夜譚をそのまま採つて雨夜譚会を起し、時には祖父の苦心した問題を表面丈で満足せずに裏の問題にまで質問したり、又時々色々な学者や辱知の方々に夫々の立場から祖父に質問して頂いて、祖父としては記憶はして居ても自分が主となつて話す時には洩れ勝ちな事実を把まんとしたり、又或時は祖父を単に九十歳の古老として瑣末な事柄を聞いたりしたのでした。此の雨夜譚会の記録を担当し我々の予期以上美事に筆記と整理とをして下さつたのが本書の編者である岡田君であります。以前中外商業新報に居られた岡田君は、縁あつて竜門社にも関係され既に十数年になりませう。そして竜門雑誌の為に毎月祖父の巻頭言を筆記され、その他何れの機会を問はず祖父の談話の聞き取りをされて来たのであります。無論同君の天分の然らしむる所でありますが、此の点真に手に入つて居たのであります。
此岡田君が最初の雨夜譚を中心として、最後の雨夜譚から適当に新しい事実や不足の点を補つて書かれたのが本書であります。同君から序文を依頼された私は此の機会に同君が多年祖父の有能なるステノグラファーとして働かれた労力を感謝すると同時に、それ丈本書は同君にとつても又本書を読まれる方々にとつても極めて意味の深いことゝ思ひます。
昭和七年九月彼岸中日 渋沢敬三
渋沢翁は語る 岡田純夫編 編者序・第一―四頁昭和七年一〇月刊 【編者として 岡田純夫しるす】(DK480047k-0002)
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渋沢翁は語る 岡田純夫編 編者序・第一―四頁昭和七年一〇月刊
編者として
青淵先生渋沢栄一翁が、近世稀に見る人傑であつたことは喋々しく述べるまでもありません。然し一般には実業界の大御所で、日本の資本主義をよく育て上げた第一人者である、と云ふ風にしか解釈されて居ないやうであります。私達が世人に不満を感ずるのは其点であつて翁は決して一介の実業人ではなかつた、その思想、その言辞、その行動に於て、常に時代の先覚者であつたのであります。例へば其の『経
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済道徳主義』の如きにしても、資本主義の発達最盛期に唱へられたから、経済上にも政治上にも、また教育上にも世人の注意を惹くことが尠なかつたので、今日の此の混沌たる社会状勢にあるの日となつては「成る程渋沢翁の言の如し」と誰しも悟るのであります。たゞそれが『論語』に依ると云ふ一事で、中に盛られた酒は新らしいが、その革袋は古いものである処から、新らしきを好む社会から顧みられないで居た観があります。処が『論語』と云つても翁の説は、決してそれを鵜呑にしたり、旧い道学者の説を祖述するものではなく、実に翁一家の言を為して居るのであります。更に翁が社会事業に対する幾多の尽力、就中六十年近く東京養育院長であつた如き、その一時でも立派な社会事業家として傑出した人物であるのであります。又飛鳥山の邸宅曖依村荘が、国際的に真面目な交歓の場所となつて居たことも、翁の国際主義を物語るものでありまして、翁の偉大さはこれから後、年と共に愈々世人から認められるに到るでありませう。但し翁こそは誰にも劣らぬ愛国者であり、一面従順な社会秩序を守る一市民として終始されて居ましたから、その経済界に対するも、社会事業に対するも、外国に対するも、教育に対するも、其他あらゆる方面に対する、皆其の根本観念は日本と云ふ国家を中心としたものでありました。其の意味に於て日本の渋沢栄一翁の地位は上下を通じ磐石の如く重きを為して居るのでありました。今や此の人は亡い。さりながら其の信念は日本国民一人一人の心の上に移り住んで居ります。従つて今まで発兌せられた翁の伝記は、信頼するに足らないものまでも、各方面の人々から好んで読まれて居るのでありまして、少年は発奮させられ、青年は将来の指針を得、壮年者はよき師を享け、老年者は心境に安住所を悟ると云ふ有様であります。処が遺憾なことは未だ正確な史実に基く翁の伝記が出版されて居ないことであります。何れはさうしたものが世に出るでありませうが、さし当つて私は、翁の晩年十年ばかり、常に其の含蓄のある御話を聞いて記録して居りました関係から、此処に思ひ立つて、翁の自ら語られた、その生ひ立ちを編纂して世に出したならば、社会に裨益することが少くなからうと感じ、曾て翁が壮年の頃門下の者に語り聞かされました「雨夜譚」を中心とし、それに其後の談話を織り込んで、此の「渋沢翁は語る」を成したのであります。
これを読む人は、其の少青年時代の翁の数奇な運命を知り、機に臨んで果断なる処置の如何に事に適応して執られたかを悟り、今日の時勢として学ぶ事が尠なからぬと思ふのであります。而も翁の人としての真情を随所に見、之に接する時、涙なくしては読了出来ない物語りであります。又これが翁の直話の筆記そのまゝであるに於て、其の人の文学的才能の豊かであつたことを察し得、そして翁の和歌、漢詩、文章、または書が余技の域を脱して居たのも道理であるを覚ることが出来るのであります。而して本書の中心を為す「雨夜譚」は翁の門下生の集る竜門社から出版した「青淵先生六十年史」中に蒐録されて居るものであつて、翁の自ら筆を執られた序文もありますから、次にこれを掲載することに致します。
尚ほ本書の序文を賜りました翁の嗣、現子爵渋沢敬三氏、及扉と背
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文字を御書き下さいました男爵阪谷芳郎氏に厚く感謝致す次第であります。
昭和七年九月 編者 岡田純夫しるす
渋沢翁は語る 岡田純夫編 奥付昭和七年一〇月刊(DK480047k-0003)
第48巻 p.140 ページ画像
渋沢翁は語る 岡田純夫編 奥付昭和七年一〇月刊
昭和七年十月五日印刷 渋沢翁は語る 昭和七年十月八日発行 定価金弐円五拾銭 東京市赤坂区青山北町六ノ三一 不許複製 編輯兼発行者 岡田純夫 東京市小石川区関口水道町四六 印刷者 音成貞吉 長沢製本所 東京市小石川区関口水道町四六 印刷所 和交社印刷所 発売所 東京市牛込区新小川町二ノ十一 斯文書院 振替東京五三二二九番
竜門雑誌 第五二九号・第八七頁昭和七年一〇月 『渋沢翁は語る』(其生ひ生ち)(DK480047k-0004)
第48巻 p.140 ページ画像
竜門雑誌 第五二九号・第八七頁昭和七年一〇月
『渋沢翁は語る』(其生ひ生ち)
本社竜門雑誌の編輯に現在従事して居る岡田純夫は、さきに渋沢事務所に在つて、青淵先生伝記資料の編纂に当つて居たが、此の程青淵先生の御生前に、その談話を筆記して居た関係から『渋沢翁は語る』(その生ひ立ち)と題する、青淵先生談の自伝風の一書を出版した。内容は渋沢敬三子の序文に明かであるから次にその全文を掲げる。
○前掲ニ付キ略ス。
尚ほ本書は、阪谷芳郎男の筆に成る扉文字があり、青淵先生のコロタイプ及関係者写真版が二十葉からは入つて居る菊版三百六十頁、装釘殊の外美しい本である。