公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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昭和12年12月(1937年)
是月、小貫修一郎・高橋重治、昭和二年刊行ノ、「青淵回顧録」ヲ増補改訂ノ上「渋沢栄一自叙伝」ト改題シ、偉人烈士伝編纂所ヨリ発行ス。(菊版・一冊・本文一〇一九頁、年譜五九頁)
渋沢栄一自叙伝 小貫修一郎編 はしがき昭和一二年一一月刊 【はしがき 文隆学人識】(DK480049k-0001)
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渋沢栄一自叙伝 小貫修一郎編 はしがき昭和一二年一一月刊
はしがき
青淵渋沢栄一翁が、明治・大正を通じての我国実業界に於ける第一人者であることは、余りに有名な事実であるから、玆に屋上屋を架するの愚を敢てするの必要を認めぬが、本書を編纂した経路を簡単に一言したいと思ふが、それよりも本書を昭和二年に初めて公にした時の編著者小貫修一郎君の言葉を借りて述べた方が読者に便利だと思ふ。『抑も不肖が渋沢老子爵に親近する様になつたのは漸く大正六年以来の事であるが、本書は此の間に於ける老子爵の談話筆記を骨子として編纂したものである。
老子爵は非常に御多忙であるに拘らず、常に不肖を引見せられて懇切に御教示下さつた。多くは飛鳥山邸にて講述せられたが、時には事務所に於て話され、或時は伊香保に於て或時は湯河原に於て、或る時
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は大磯に於て御話された事もあり、又或時には病床に、或は御多忙の為め事務所へ御出かけの自動車中に於て話されたこともある。大正十年ワシントン会議に際して渡米せられる直前には、深夜十二時過ぎまで講述せられた事もあつた』又本書を初めて出版するに際しては『老子爵は之を快く承諾され、背文字や題字等を御揮毫下されたが、御多忙の為到底原稿に目を通す余暇なく、若し強ひて校閲するとせば、三年かゝるか、五年かゝるか分らず、且つ渋沢事務所の人の目を通させるとしても、自分自身でなければ分らぬ点が多く、随つて校閲の効果がない故文責は編纂者にあることを明かにしてくれ、さうすれば、原稿を校閲しなくとも差支ないと云ふお話であつた。斯ういふ経路で本書上梓の運びとなつたのである』であるから今回増補改訂して再び公刊するに際しても、文責は一切編者にあることを玆に明記する次第である。
昭和十二年十一月
文隆学人識
竜門雑誌 第五九二号・第一五頁昭和一三年一月 「渋沢栄一自叙伝」に就いて(DK480049k-0002)
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竜門雑誌 第五九二号・第一五頁昭和一三年一月
「渋沢栄一自叙伝」に就いて
旧臘中、「偉人烈士伝編纂所」より発行せられた「渋沢栄一自叙伝」は、「渋沢栄一述」又は「講述者渋沢栄一」などゝ僭称し、恰も先生自叙の稿本を校訂編纂したるものゝ如く装はれてありますけれども、右の編著に関しては竜門社としては勿論のこと、渋沢子爵家としても全然無関係なるものゝ由に付、会員諸君の御参考迄に一言申上げて置きます。
渋沢栄一自叙伝 小貫修一郎編 奥付昭和一二年一一月刊(DK480049k-0003)
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渋沢栄一自叙伝 小貫修一郎編 奥付昭和一二年一一月刊
昭和十二年十一月二十五日印刷納本 〔定価金拾円也〕 昭和十二年十二月一日発行 講述者 渋沢栄一 渋沢栄一自叙伝 編著者 小貫修一郎 奥付 不許 発行兼増補改訂者 高橋重治 複製 東京市芝区新橋五丁目二十六 印刷者 小林繁次郎 東京市芝区新橋五丁目二十六 印刷所 小林印刷所 発行所 東京市麹町区有楽町一ノ一四 電話銀座三四五四番 偉人烈士伝編纂所 振替東京五一六九六