デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
5節 新聞・雑誌・通信・放送
2款 通信・放送 2. 社団法人日本放送協会
■綱文

第48巻 p.260-264(DK480080k) ページ画像

大正15年8月6日(1926年)

是日、社団法人日本放送協会設立セラレ、栄一、顧問ニ就任シ、在任歿年ニ及ブ。


■資料

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二三頁 昭和六年一二月刊(DK480080k-0001)
第48巻 p.260 ページ画像

青淵先生職任年表 (未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
               竜門雑誌第五一九号別刷・第二三頁
               昭和六年一二月刊
    大正年代
  年 月
一五 八 ―社団法人日本放送協会顧問―昭和六、一一。
 - 第48巻 p.261 -ページ画像 

日本放送協会書類(DK480080k-0002)
第48巻 p.261 ページ画像

日本放送協会書類             (渋沢子爵家所蔵)

電業第一八二〇号
    許可書
              社団法人日本放送協会
                  設立者総代
                      岩原謙三
                      永田仁助
                      神野金之助
大正十五年八月六日附申請社団法人日本放送協会設立ノ件許可ス、設立者ハ別紙命令書ノ条項ヲ遵守スヘシ
  大正十五年八月六日
               逓信大臣 安達謙蔵

電業第一八二〇号
    命令書○略ス

    社団法人日本放送協会役員
        顧問         子爵 渋沢栄一
                      永田仁助
        理事
         会長           岩原謙三
         本部常務理事       小森七郎
         同            阿部基一
   ○外一二五名氏名略ス。


社団法人日本放送協会定款(DK480080k-0003)
第48巻 p.261-262 ページ画像

社団法人日本放送協会定款        (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
    社団法人日本放送協会定款
      第一章 総則
第一条 本会ハ無線電話放送事業ヲ経営シ且無線電話ノ進歩発達ヲ図ルヲ以テ目的トス
 本会ハ前項ノ目的ニ附帯スル事業ヲ経営スルコトアルヘシ
第二条 本会ハ社団法人日本放送協会ト称ス
第三条 本会ハ主タル事務所ヲ東京市ニ置ク
第四条 本会ハ本部ヲ主タル事務所ニ置キ、本部理事会ノ決議ヲ以テ必要ト認ムル地ニ支部ヲ置ク、本部及支部ノ所管事務並支部ノ名称及管轄区域ハ細則ヲ以テ之ヲ定ム
第五条 本定款ノ実施ニ必要ナル細則ハ、本部理事会ノ決議ヲ経タル上主務官庁ノ認可ヲ受クルモノトス
 本会ノ業務ニ関スル規程ハ本部理事会又ハ支部理事会ノ決議ヲ以テ之ヲ定ム、但シ支部理事会ノ定ムル規程ニシテ重要ナルモノハ、本部理事会ノ承認ヲ受クルコトヲ要ス
      第二章 会員
 - 第48巻 p.262 -ページ画像 
第六条 会員ハ本会ニ対シ一口以上ノ出資ヲ為スモノトス、但シ会員ノ相続人ニシテ第七条ノ規定ニ依リ入会シタル者ハ出資金ヲ免除シ被相続人ト同一ノ出資ヲナシタルモノト看做ス
 前項ノ出資額ハ一口金二百円トス
 本会ハ本部理事会ノ決議ヲ以テ、学識名望アル者又ハ本会ニ対シ功労アリタル者ヲ客員ニ推薦スルコトヲ得
第七条 会員タラムトスル者ハ其ノ住所ヲ管轄区域トスル支部ヲ経由シ会長ニ申出ツルモノトス
 会員ノ入会ハ前項ニ掲クル支部ノ理事会ノ決議ヲ経タル上会長ノ承認ヲ受クルコトヲ要ス
 会員タル資格ハ出資金ヲ完納シ会員名簿ニ登録セラレタル時ヨリ生ス
第八条 会員退会セムトスルトキハ其ノ旨ヲ所属支部ヲ経由シ会長ニ申出ツルモノトス
 会員ニシテ定款ニ違反シ又ハ本会ノ体面ヲ毀損スル行為アリト認ムルトキハ、所属支部理事会ノ決議ヲ経タル上会長ノ承認ヲ得テ除名スルコトアルヘシ
      第三章 役員
第九条 本会ニ理事及監事若干名ヲ置キ、細則ノ定ムル所ニ依リ本部又ハ支部ニ配属セシム
 支部ニハ評議員ヲ置クコトヲ得
 理事・監事及評議員ハ会員タルコトヲ要ス
 本会ハ総会ノ決議ヲ以テ総裁・副総裁・顧問二名ヲ推薦スルコトヲ得
○下略


中外商業新報 第一四五三〇号大正一五年八月七日 ラヂオ統一の日本放送協会成る 決定した役員氏名(DK480080k-0004)
第48巻 p.262-263 ページ画像

中外商業新報 第一四五三〇号大正一五年八月七日
    ラヂオ統一の
      日本放送協会成る
        決定した役員氏名
安達逓相の主唱に係る放送事業は、設備費用概算一千万円、五ケ年間に於て七ケ所に強力なる放送設備をなし、地方的中心都市にもスタヂオを設けて、地方の特殊事項を供給することを目的とし、大同団結をなすことに一致し、日本放送協会を設立することゝなり、六日正午丸の内保険協会に創立総会を開き定款を可決し、左の役員を安達逓相より指名散会した
    役員氏名
        顧問         子爵 渋沢栄一
                      永田仁助
      ◇本部
                 会長   岩原謙三
                 常務理事 小森七郎
                 常務理事 阿部基一
 理事 大倉発身△同荻野元太郎△同高山圭三△同山根文雄△同上遠
 - 第48巻 p.263 -ページ画像 
野富之助△同青木鎌太郎
 監事 (常務に従事する者) 西園寺亀次郎△同新井栄吉△同大岩勇夫
      ◇関東支部
○下略


青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年四月一四日(DK480080k-0005)
第48巻 p.263 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年四月一四日
                     (渋沢子爵家所蔵)
    社団法人 日本放送協会
 社団法人日本放送協会 (昭和三年四月十四日調べ)
一、創立 大正十五年八月六日
一、所在地 東京市麹町区内山下町一ノ一東洋ビル内
一、基本金 百三十五万九千四百円(昭和三年三月末現在)
      (但し放送協会に於ては会員一口の出資額を二百円とし創立より昭和三年三月末までに至る口数は六千七百九十七口となる)
一、創立関係人 岩原謙三(東京放送局代表) 永田仁助(大阪放送局) 神野金之助(名古屋放送局代表)
       但し日本放送協会は東京・大阪・名古屋の三放送局合併して設立されたるものである、そして右三人は其設立者総代である
一、沿革 イ、大正十三年十月十六日社団法人東京放送局創立せらる、続いて名古屋・大阪にも放送局成る
      ロ、東京放送局に於ては、大正十四年三月一日芝浦仮放送所よりウヱーヴ(wave)を出して試験送信を行ふ、世間一般に試験放送と云ふは之である、次いで同年同月廿二日逓信省より正式認可を得て仮放送を為す、芝愛宕山より本放送を開始したるは同年七月十二日である、尚ほ名古屋・大阪の両放送局に於ける仮放送は各々大正十四年七月十五日、大正十五年六月一日である
      ハ、此三放送局を統一して大正十五年八月六日、日本放送協会設立さる
一、青淵先生との関係 日本放送協会には顧問二人を置くことを定款中に規定し、早速、青淵先生と永田仁助氏を推した、然し永田氏歿して目下先生一人顧問である。



〔参考〕電気年鑑 日本放送協会編 第八六頁昭和二年刊(DK480080k-0006)
第48巻 p.263-264 ページ画像

電気年鑑 日本放送協会編 第八六頁昭和二年刊
放送無線電話開設の声 日本に始めて放送無線開始の声を聞きたるは大正十一年末にして、欧米の現状を視察して帰朝したる民間の有志並に外国雑誌等に依りて之を知る技術者は、無線科学の普及、社会教化民衆娯楽等の見地より頻りに其の開始の急を力説したりしが、当初はまだ公衆通信の妨害を考慮して、政府当局は之に耳を藉さゞりしが、偶々大正十二年の関東大震災当時の無線事業の活躍は一般民衆に普く其の偉力を知らしめたるのみならず、時代の要求は遂に政府当局をも
 - 第48巻 p.264 -ページ画像 
動かして、大正十二年十二月廿一日終に放送用私設無線電話規則の制定を見るに至れり。
放送局の設立 斯くて無線電話熱は益々熾烈となり、放送無線電話設置の許可を願ひ出づるもの急激に増加する傾向を示したるを以て、逓信省にては大正十三年一月十九日を以て放送、聴取の機械設置工事に関する規則を発布し、同時に三月初旬既に申請中なる大阪朝日新聞社を始め、国際無線・日本電力・安中無線・日本無線・松竹キネマ其他数件の出願者に申請書を差出させ、右申請出願者に依て逓信省は審査詮衡の上全国出願者を呼出し、東京・大阪・名古屋・福岡・仙台・札幌等に放送設置を略制限し、尚此際一大合同の放送無電会社のみに全国の放送無電権を特許し経費を委ぬるか、又合同成立の場合には其内有力なる三・四の会社だけに取扱を許可する方針なりしが、大正十三年十月十六日東京の工業倶楽部に於て、子爵後藤新平氏を総裁とする東京無線電話放送局の設立者総会ありて同局の成立を見、翌十四年三月廿二日東京市芝区芝浦東京高等工芸学校構内に於て玆に我国始めてのラヂオ放送は試験せられたり、但し右は仮放送にして同局が東京芝区愛宕山上に移転して本放送に移りしは同年七月十一日なりき、加入受附第一日には実に八百二十通の申込あり、後数ケ月にして同年十二月末には十三万を突破せり、続いて名古屋放送局は大正十四年一月十日設立、四月一日仮放送開始同七月十五日本放送をなし、大阪放送局は同十四年二月廿八日設立、同六月一日より大阪三越呉服店屋上より放送を開始し、我国ラヂオの民衆化は共に実現せらるゝに至れり、斯くて一般素人の趣味研究は流行し、聴取セツトの自作等技術的興味を通じて一般社会の之が理解を速かならしめたること実に多大なるものありき、続いて同十四年末より短波長の研究となり、ラヂオ列車の実現となり、ラヂオ界は数年ならざるに急進的の発達を遂げたり。
日本放送協会の独立 東京・大阪・名古屋、三放送局合同問題は逓信省に於ても兼てより着々進行中たりしが、大正十五年七月十五日開催の東京放送局理事会を最後として円満に解決を見、社団法人日本放送協会は成立したり、全国礦石化等内地のラヂオは勿論、朝鮮・大連・南洋、更に進んで支那との交換放送も行ひ、国際放送の機運も招来せらるゝに至れり。