デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
3款 東京市長銓衡
■綱文

第48巻 p.270-273(DK480091k) ページ画像

大正7年3月(1918年)

是ヨリ先大正六年八月二十一日、東京市長奥田義人逝ク。是月栄一、東京市会議長中野武営ノ依頼ニ応ジ、上山満之進ニ市長就任ヲ勧説セシモ、上山辞退ス。四月五日田尻稲次郎市長ニ就任ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK480091k-0001)
第48巻 p.270 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
三月四日 曇 風ナケレトモ天気陰鬱ニテ寒威強シ
○上略 三時事務所ニ抵リテ○中略 中野武営氏来リ市長候補ノ事ヲ議ス○下略
三月五日 晴 夕方ヨリ曇リ寒気凌キ易シ
○上略 午後四時貴族院ニ抵リ児玉書記官長ト会話シ、更ニ上山次官ト会見シテ市長タル事ヲ勧誘ス○下略
   ○中略。
三月十五日 曇
○上略 午前十時半中野武営氏ヲ訪ヘ、東京市長撰挙ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
三月二十五日 晴 朝来晴天ナリシモ風強ク夕方ヨリ雨ヲ加フ
○上略 午後三時事務所ニ抵リ○中略 中野武営氏来リテ、上山氏ノ身上ニ付内話ス○下略
三月二十六日 曇 朝ニ至リテ雨ハ歇ミタレトモ風強クシテ道路砂塵多クシテ咫尺ヲ弁セサリキ
○上略 午前八時半上山満之進氏ヲ訪ヘ、中野武営氏ト市長ノ事ニ付内話ス○中略 十二時半貴族院ニ抵リ、寺内首相ニ会見シテ柳生氏ノ事、上山氏ノ事ニ関シ種々ノ事情ヲ陳述ス○下略


竜門雑誌 第三五九号・第七五―七六頁大正七年四月 ○田尻子爵東京市長となる(DK480091k-0002)
第48巻 p.270-271 ページ画像

竜門雑誌 第三五九号・第七五―七六頁大正七年四月
 - 第48巻 p.271 -ページ画像 
○田尻子爵東京市長となる 奥田市長薨去後、其後任者を得るに苦んで荏苒、今日に至れる東京市会は、三月三十一日銓衡委員の選定せる市長候補者投票の結果、前会計検査院長子爵田尻稲次郎博士、投票数六十九票の内、三十八票を以て当選したるが、右に就き翌四月一日の東京朝日新聞は青淵先生の談として「人格学歴共に申分無し」と題し左の如く記載せり。曰く
 子爵ならば学者として人格の人として 実に申分の無いお方でして財政問題経済方面に精通して居られるし大蔵次官も長くやられ、会計検査院長も為て居られた訳でつい此間辞職された許り、御承知の通り、悪い評判は
△遂ぞ一つ 承はつた事がありませぬ、あの通り勤勉にして節倹身を持し、自ら身を以て範を垂れる主義から努めて言行一致を図つて居られる、今日の様な只形式に走り利益にのみ傾く当節に子爵の様な方を市長に戴くことは喜ばしい、私は以前大蔵省に勤務時代から子爵とは親しくして居りましたが、今度の問題で私が田尻子爵を紹介したとか
△推薦した との噂は偽りであるので、実は私としても斯う大東京市が頭無しに居ては為すべき事業の多々ある繁忙の時に困るといふ考へから、中野武営君などゝ一・二の人に骨を折つても見たが、兎角小姑の多い市会などに巧く折合がつかぬし、困り抜いて荏苒今日に及んだのでありまする、只愈推薦されたら田尻子爵はお受けなさるか否かゞ心配でした、過日子爵が枢密院に入るのを辞されたのも何かに依つて今後社会を
△警醒する だらうと私共は思つて居たのであります、然しながら子爵があんな市会を控へる中に人格が清過ぎぬか、今少し俗化しなければなりますまい、子爵は熱のある真摯なゼントルマンでありますから、軈て子爵の理想によつて革正されて行きませう、左様東京市長は一方には大外交官なので、円転滑脱な風に周囲を綾なして行れるかゞ少し懸念する点でありまするが、人としては何等の欠点なくかく市長の決つた事を聞いて私共も重荷が下りました云々。


竜門雑誌 第三六三号・第四二―四三頁大正七年八月 ○松平越中守の倹徳 青淵先生(DK480091k-0003)
第48巻 p.271-272 ページ画像

竜門雑誌 第三六三号・第四二―四三頁大正七年八月
    ○松平越中守の倹徳
                      青淵先生
 本篇は青淵先生の談として「日本魂」二月号に掲載せられたるものなり(編者識)
○中略
 最後に一言したいことは、東京市長の問題である、由来、東京市長の職たるや、煩雑なる市政の切り盛りは勿論、苟も輦轂の下に市尹として首都を代表し外国使臣及び一般公私人との応酬等、非常の劇職たる以上、健康も亦た其の資格の一に数へねばならぬし、其の地位よりしても、先づ大臣級であるから、人物銓衡も亦た自然容易ならぬに相違ない、故奥田市長が一代の名市長であつたに拘はらず『東京市政奥田市長を殺す』などいふ不祥事を二度と繰越すやうでは甚だ済まない
 - 第48巻 p.272 -ページ画像 
ことである。
 久しい間、銓衡難を喞ちつゝある東京市長は、会々相当な候補者を見附け出して当りを附けて見ると、先方では所詮成る位なら東京市長よりは、寧ろ閣員たる方が上策だといふので、不成功に終るし、と謂つて此方からの註文は、先方で否だし、先方からの申し込みは、種々な関係や、周囲の事情が許さないし、東京市長は今尚ほ宙に迷つて居るやうな次第である。
 私は、旧臘、中野議長の嘱を受けて、某方面に交渉を試みたが、是れとて不成功に終つた。倘し私をして東京市長たる理想的人物を望ましめたならば、先づ徳川公の如き人に願ひたいと思つて居る。公は嘗て一国の宰相にまで擬せられたほどの人であるし、それに手腕・声望閲歴の点よりしても、真に理想的人格者である。
 (備考)本篇は奥田市長薨去後東京市長の銓衡難を喞ちつゝありし当時談話せられしものに付念の為め附記す


中外商業新報 第一一五〇〇号 大正七年四月七日 ○新市長の挨拶 六日午前初登庁(DK480091k-0004)
第48巻 p.272 ページ画像

中外商業新報 第一一五〇〇号 大正七年四月七日
    ○新市長の挨拶
      六日午前初登庁
新東京市長田尻稲次郎子は六日午前九時四十分登庁し、直に市長室に於て市参与渋沢男、井上府知事、東園内務部長、中野市会議長、山口副議長、道家農務局長、矢野第一生命保険会社社長等より祝詞を受け終つて市学務委員室に於て高橋市長代理、宮川助役、井上電気局長以下各課長等約五十余名と会見し、先づ高橋助役より吏員一同に対し市長代理として就任以来の謝辞を述べたる上新市長を紹介す、田尻市長即ち起ちて
 余は市政に全く無経験なるも一に至誠以て貫くの考へにて就任せり由来東京市は輦轂の下にありて全国に摸範を示さゞる可らざる地位にあれば、此覚悟と方針の下に永久的市是を確立するの必要あり、殊に東京市の施設は国家の事業と関係する処浅からず、不肖幸ひにして貴族院議員の一席を有するを以て、此点に於て努力せんと欲す幸ひに諸氏の援助を望む云々
と述べ終り、更に市長室に於て十五区長に会見し就任の挨拶了り
 物価騰貴に伴ふ市民の食料問題につき、多少考慮する処もあれは諸氏と共に熱心之に当る可し
と訓示的挨拶あり、最後に鍛冶橋・武蔵野両記者倶楽部を引見して市政方針その他詳細なる意見の開陳は後日に譲られたしと述へ単に就任の挨拶をなし、昼餐後午後一時市の自動車を駆りて各宮家に御挨拶の為め外出したるが、八日より正式に執務す可しと



〔参考〕索引政治経済大年表 年表編 東洋経済研究所編 第四九四頁 昭和一八年九月刊(DK480091k-0005)
第48巻 p.272-273 ページ画像

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