デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
3款 東京市長銓衡
■綱文

第48巻 p.273-295(DK480092k) ページ画像

大正9年12月12日(1920年)

是年十一月、田尻稲次郎東京市長ヲ辞任ス。是日栄一、銓衡委員ノ依頼ニヨリ、後任市長候補者後藤新平ト会見シテ市長就任ヲ勧誘ス。又、床次内相・原首相ヲ訪問シテ尽力ヲ依頼ス。十二月十五日、後藤新平市長就任ヲ内諾ス。同月二十三日、東京商業会議所主催新市長歓迎会催サレ、栄一出席シテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三九一号・第六一―六三頁大正九年一二月 ○東京市政刷新と青淵先生(DK480092k-0001)
第48巻 p.273-276 ページ画像

竜門雑誌 第三九一号・第六一―六三頁大正九年一二月
○東京市政刷新と青淵先生 今般収賄問題より端なくも東京市政の紊乱摘抉せられ、多数の市吏及び名誉職の検挙を見、遂に十一月二十六日田尻市長及加藤市会議長は其責を引きて辞職し、次で十一月三十日三助役市参事会員相次で辞職するに至り、又同日東京府内務部長大海原重義氏市長職務管掌を命ぜられたるが、右に関し十一月廿五日の読売新聞は青淵先生の市政観として左の如く報ぜり
 積年の悪弊其頂点に達して竟に爆発した東京市政の紊乱に対して渋沢子爵は『寔に怎うも何とも申し様のないことで――』と沈痛な口を切つた、『東京市政がまだ
 △現在の 通りに改められる以前、私も七八年間市参事会員として市政に与つたことがあつたが、どうしたものか内部に入ると政治臭味が横溢して迚も堪へられないので、私は当時の内規に従ひ二度目の市参与に推された時たうとう
 △辞職し て了つたが、夫れでも其後之も強ひられて養育院長になつて今日まで名前でも市吏員になつてる関係から、割合に市政の内情は知つてゐる、そして今日の市政の紊乱を聴くに及んでは東京市民として亦首都に住む住民として
 △此醜態 が如何にも残念に思へてならない、夫れで此際に這は根本的に市会も市会議員も総てを改革せねば大東京の面目が潰れるではないか、先達の選挙にも有力な人が現はれたのだからせめて其麼人の手で幾分でも廓清の緒に就くかと思つたのに却つて其
 △人達迄 が良くない仲間だと聞いて私は全く絶望してゐるが、事玆に至らしめたのは左様な議員を選挙した市民が第一宜しくない、そこで第一着手として市民は安心して市政を任せ得る議員を選挙せねばならない、なほ進んでは市の制度上にも大に改革を加へねばならぬ事も尠くないと思ふ、之に就いては渋沢一個の
 △私案も 持つてゐるが、今は発表の時でないから差控へるが、積り重つた弊害は一日も早く根本的に改善せねばならぬことである』と腕を組んで『市長も田尻さんが怎う斯うと云ふぢやないが、奥田さんや阪谷さんなどはまづ
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 △理想的 な人だつた――私を市長にすると仰有るか、ハヽヽ夫れは尼に髪を結へと云ふのと同様で出来ない相談だが、無理にとあれば、私を今廿年若くして下され、そしたら自分からでも市長になるが……』と此時始めて艶の良い顔が明るくなつた。
而して今般新に選ばるべき後任市長は何人を以て最適任者となすべきかに付、十一月廿七日の東京日々新聞は青淵先生談として左の記事を掲載せり。
 市長後任問題に就いて市参与渋沢子爵は語る『愈市長も両助役も辞職したとなると東京市は全く暗黒であるが、私は参与の名は持てゐても、是は養育院の方の関係であるから何も私迄辞職するには及ばないと思ふが、市政の運用が出来なくなるとすれば従前の例により一時
 △府の管轄 の下に市政は行はるべきで、今度の事件も最少し早く何うにかならなかつたものかと思ふが、何より田尻さんをかついだものが悪い、東京市長は名誉職ではない、倫敦市長の様にマンシヨンハウスで御馳走をする外交官の様な生活は許さない、腕があつて
 △暗闘裡の 市会を操縦する人でなければならないので、同時に政党政派に関係のない人であつて欲しい、阿部知事を市長にと言ふ説もある様だが、あの御老体で何も態々あの渦中に入る事は如何かと思ふ、先づ後藤男の様な世界的名声のあるそして常に万策を蔵してゐる人に成つて貰ひたい、仲小路さんも適任とは思ふが少しやり過ぎはしないかと思ふ
 △唯一人の 市長の人選に迷ふ様では日本も少し心細いが、政党に関係ある者であれば憲政会や政友会辺りにもゐるが、又一説には柳沢博士とも言ふ、誠に結構であるが市会に対して如何であらうか、先づ私の考へでは後藤男の様な人に出て貰つて市政の上に大改善をして貰ひたい、私を廿年若くすると云ふ条件をつければ私は喜んで市長になる』と笑つた。
又後任市長問題に付十一月廿七日の報知新聞は江木千之氏談として左の如く報ぜり。
 田尻市長も愈々持ち切れず辞表を提出した、其後任に種々取沙汰の多い昨今、貴族院議員江木千之翁は泰然として曰く『市政の紊乱が暴露して何時かは大掃除を断行する事のある可きは
 △予ねて予期 してゐたところで、目の当り狼狽の現状を見ても何等驚くものではない、寧ろ遅きに失する感がある』と冒頭し『田尻君は巷間伝ふる豆粕飯の発明者的無能者ではない、実に謹直な人で此麼政局に立つたのが運が悪かつたのである、一体東京市長の問題よりも市会の刷新が一大急務である、現在の市会議員は全で一種の商売屋である、従来の市会議員は
 △外賓歓迎会 には私費を投じてやつたものだ、現在は何だかと云ふとお祭り騒ぎをして私腹を肥すばかりに腐心してゐる。斯る商売議員を排斥して、市内の資産家乃至は貴族知識階級の如きものが其任に当るべきである。東京市は他の市と異つて帝国の首府だから、首府らしい議員即ち国士的議員が必要で、先づ年来の
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 △積弊を一掃 するには此点に留意する事が肝要で、さもなくば、いくら名市長が現はれても駄目だ、そこで後任市長としては殆ど市の為めには犠牲を覚悟して何と云はれても動ぜぬ人で、意見が通らねば解散も躊躇せぬ位な人物でなくてはならない、お役人上りの腕のない者等は全で話にならない、渋沢子が若しやつて呉れるといゝが、あの老人を此難局に当らしめるのは
 △実際気の毒 である、兎に角市民は此際我事として大いに革新すべく奮起する事が必要だ』
更に又十一月廿九日の東京日々新聞は某市会議員談として左の如く報ぜり。
 永井、戸野両助役の辞任は愈々一両日中正式に決する事になつたので、監督官庁は後任市長の正式に決する迄事務管掌を行ふ筈であるが、阿部知事は何人を挙げて代理せしむるか、内務省の勅任監察官とか府の大海原
 △内務部長 とか種々の取沙汰が行はれてゐるが、市会議員の多数は市参与の渋沢子爵の蹶起を熱望して当路者の諒解を得んとしてゐる、某市議は曰く『府知事は市の内外を問はず何人を挙げても差支へない訳であるが、順序上先づ
 △市参与に 持つて来るのが当然と思ふ、現参与は井上電気局長・窪田社会局長に渋沢子爵の三人であるが、声望閲歴から言つて二局長は到底子爵と比較にならぬ、殊に子爵は永年の間間接とは言へ市政に参与して
 △其消息に も通じてゐるし、其人格閲歴共に申分ないから市の内外を問はず反対者は一人もあるまい、田尻市長の銓衡には六ケ月も掛つたが、今度は永くとも三四ケ月と思ふから御老体ではあるが快諾されることと思ふ』云々。
右に付同日の同紙は左の青淵先生の談話を掲載せり
 『お尋ねのことは誠に御尤で私も亦市民として他から管理者の来られることは望ましくない、立派な東京市で御座いますから、成るべくならば他から管理者を求めなくとも内輪で何とか――お聞きすれば有志の方が私にとの仰せださうですが、管理者にしましても市民を代表する方々に於いて相当の手続きをなさることを要するのは勿論のことで、事前には何とも――然し其有志の方と等しく成るべくならば他から迎へたくないもので、どうか是丈けで御諒察を願ひます』云々。
尚ほ都下の諸新聞紙が新市長の最適任者として何人を選挙せんとするやを一般市民に問ふて其投票及意見を徴しつゝあるが、読売新聞・報知新聞の一般投票を見るに孰れも青淵先生を望むが如く高位にあり、又十一月廿八日の時事新報紙上市民の希望には
 東京市は世界の大都市中に列する大都市なり、而して腐敗の頂上に達したる市政を一掃するに渋沢子爵の如きは人物・人望・手腕共に誠に申分無き最好適任者と認む(山崎生)
等見え、十二月一日の都新聞紙上に於ける名士の希望には国民党総務関直彦氏の意見を揚げたり、曰く
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 市政の内部に、今日の如き情弊があつては、誰が市長になつても困難だ、併し強いて理想的の人を求むれば、渋沢子爵位のものであらう、子爵は徳望あり且財政経済に関する造詣が深いから、市長として申分が無いであらう、子爵は勿論市長たることを好まれまいが、無理にも推挙して、誰か手腕のある補佐役を置くならば、市政の刷新は屹度出来るだらうと思ふ。


竜門雑誌 第三九二号・第七四―七七頁大正一〇年一月 ○後藤男爵東京市長就任と青淵先生(DK480092k-0002)
第48巻 p.276-278 ページ画像

竜門雑誌 第三九二号・第七四―七七頁大正一〇年一月
○後藤男爵東京市長就任と青淵先生 過般収賄問題より端なくも東京市政の紊乱摘抉せられ、田尻市長を始め、加藤市会議長、三助役及市参事会員等相次いで辞職するに至れるは前号記載の如くなるが、当時青淵先生が此際新に選ばるべき後任市長として後藤男を最適任者なる旨言明せられたるが、果して十二月七日開会せる東京市会は東京市長並に市会議長、及市参事会員の選挙を行ひ、先づ市会議長に桐島像一氏を推し、次で市長候補に移り、大多数を以て第一候補に後藤男を推し、更に参事会員に新井与四郎氏外十一名を選挙して閉会したる由なるが、右に就き桐島・柳沢・坪谷の三銓衡委員は急遽後藤男を訪問して公式に市長就任を懇請したるも、男は周囲の関係上容易に其就任を肯ぜざるを以て、極力各方面を歴訪して男の出廬を促すに奔走せるも然も杳として暁光を認むる事能はず、依りて坪谷氏は同月九日大磯に病後静養中の青淵先生を訪問して其尽力を懇願せし趣きなるが、右に付同月十一日の中外商業新報は左の如く報ぜり。
 黄金色の蜜柑が枝も折れさうになつてゐる残雪の裏山を負ふて此処大磯の明石別荘には、市長問題を双肩に荷ふて今日後藤男を
 △説得 すべき渋沢栄一子が微恙を養ふてゐる「坪谷君の見へた事は事実だが、私に後藤男を説得せよといふ程それ程強い意味でもなかつたやうだ、私も市民の一人であり殊に市の吏員(名誉市参与の意)である以上人に頼まれなくとも此際名市長の出廬には力を至すべき筋合である」と軽く受けた子爵の顔には何処となく或る
 △確信 が刻まれて見へる、『男爵は確に立派な市長だ、あの巨腕で一つ大鉈を揮つて貰ひ度いものだ、産業調査の大機関といふのは原さんから二三ケ月前に耳にしたが、それも勿論国の為めであらうが東京市の方も亦国の為めだ、殊に市会満場一致即ち三百万市民の熱烈なる希望である以上、男子として正に奮起すべき秋だと思ふ。今日(十一日)は午前九時何分かの
 △汽車 で発つて十一時過ぎ東京着一寸事務所へ立寄り、直に工業倶楽部に於ける男爵が会長であられる都市研究会へ赴き会の開会前懇々出廬を説いて見やうと思ふ、但し新聞紙上の男の談話などで見ると却々吾々如き微力者のいふ事は肯かれさうもない」と徐に紅茶をすゝり、更に語を継ぎ「男爵の意中には現在の市会に依つて
 △選挙 されたといふ事を純理上嬉しく思はれてゐない処がありはせぬだらうか、これは余程研究ものと思ふ、若しさうだとすれば総辞職して新しく選ばれた議員によつてモ一度推薦して受けて貰ふやうにしなければならん、更に又四年間の任期悉くを市長であるのが
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困られるやうなのであれば場合により一年でも二年でもつまり男の
 △大鉈 によつて東京市政の大掃除が大体出来た時に辞めて頂いても差支はあるまいと思ふ、其辺は市会の方でモ一度相談を練り直してもよからうではないか」と微恙も忘れて、熱心に説き去り論じ来る処惻々人を動かすものがある「どうしても男の出廬されない場合は?」との記者の質問に対しては「選挙を遣り直すより外
 △途は ない、候補者としては政党政派を超越して浜口雄幸君を最も適任と信ずる、水野錬太郎博士亦適任たるを失はない、然し現行の市制を改正せざる限り如何なる人材を迎へても市政の実は挙がるものではない、特別市制にして徳川公爵にでも名誉市長になつて貰へば至極宜からうと思ふが、それも今の処では単に理想丈けに止まる」と吐息を洩らされた、夕陽が海へ沈む、座敷の電灯がパツと点いた(一記者)
右の如く青淵先生には同十一日午後十二時十二分大磯より東京駅に着せられ、同日午後二時より工業倶楽部に於ける後藤男会長の都市研究会に臨まれ、市政革新に対する市民の自覚を促す方法等に就き、男を始め一木・床次・仲小路・藤山・指田氏等朝野の名士百余名の諸氏と共に意見の交換を行はれたる由なるが、右に就き中外商業新報は青淵先生談として左の如く報ぜり。
 今日(十一日)は後藤男爵のお招きに与つた訳であるが、男の市長就任の懇請も銓衡委員から頼まれて来たのではない、私は市民の一員として且つ市参与といふ点から黙視するに忍びずして是非ともその就任を懇請する考へであつたが、今日は男に招かれた席であるから之を決めることは不穏当であらうとの説も出たので、動議は撤回された、依つて十二日午前十一時から銓衡委員と男の市長就任賛成者とが、この工業倶楽部に集まつて更ためて協議を行ふことになつた、開会前に会見したのは市長推薦の経過を話したのみで、まだ市長就任を快諾して下さいとまでの話には至らずして別れたのである云々(十二日)
超えて翌十二日午前十時青淵先生は後藤男を訪問の上、市会の希望並に市政の現状を述べ、切に蹶起を促されたる由なるも、男は産業調査会設置の関係上、回答を保留せるやにて、其旨同日正午丸ノ内中央亭(工業倶楽部変更)に開かれたる市政振興有志懇談会席上に於て報告せられたる由なるが、右に就き中外商業新報は青淵先生談として左の如く報ぜり。
 私は午前男爵に会つてお勧めした時
 △応諾 にならぬ事に就て一部一新聞に見るやうに市会を今日の儘にして置いては諾否共問題にならぬと云ふ意見であるか、それとも市会が内諾を経ずして推挙し而も二三議員が責任を以て其応諾を引受けたことを不快とせらるやに就いて男の存意を質した処、何れも辞退した理由ではないのみならず、そんな事は格別問題でもなく矢張り産業調査会の為
 △折角 ながら引受け兼ねるとあつたから、此上は原首相にも会見して更に原さんから斡旋の労を取つて貰つたら、産業調査会の方も
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何とか両者の諒解が出来て起つ事にもならうかと考へたのである、一任された吾々は明日でも首相・内相等に会見する運びにしたいと思つてゐる云々(十三日)
右の如く青淵先生には極力後藤男の市長応諾に尽力せられ、床次内相原首相を訪問の上該問題に対し切に円満なる解決を得るやう尽瘁せられたき旨希望せられたる結果、十五日午後後藤男は原首相と会見の上玆に市長就任を承諾する事に決し、翌十六日正式に各派銓衡委員に対して其旨回答する所ありし由にて、十八日午前登庁の上、市長就任の挨拶あり、久しく決定せざりし市長問題も玆に一段落を付くる事となれるが、此間に於ける青淵先生の尽瘁は実に一方ならざりき。
 因に同月廿二日市助役に永田秀次郎・池田宏・前田多門の三氏就任したりと云ふ。


中外商業新報 第一二四七四号大正九年一二月一〇日 渋沢子がお使者に立ち今日後藤男を口説く段取 行方不明の坪谷市議と子爵との密談 桐島市議市長代理に申達見合を依頼 委員は未だ脈があると主張す(DK480092k-0003)
第48巻 p.278 ページ画像

中外商業新報 第一二四七四号大正九年一二月一〇日
  渋沢子がお使者に立ち
   今日後藤男を口説く段取
    行方不明の坪谷市議と子爵との密談
    桐島市議市長代理に申達見合を依頼
      委員は未だ脈があると主張す
後藤男が絶対に市長就任を拒絶してゐる一方、市友会銓衡委員の一人桐島市会議長は九日午後三時頃
 突如 東京府に現れ、折柄知事不在の為め、大海原内務部長に面会「後藤第一候補は一応謝絶されてゐるがまだ決して絶望といふわけではないから、何卒内務省に対する申達は一時留保されたい」と希望を述べて引取つたが、右は昨朝来大磯へ行つて行方不明と称してゐた同じ銓衡委員の一人坪谷善四郎氏が、此目的を貫徹するには何うしても名誉市参与たる渋沢子の
 尽力 を俟たなければならないと、一同を代表して子爵に面会種々斡旋を乞ふたので、愈々子爵は今十日中に後藤男に会見、此際三百万市民の為め、曲げて出廬され度いと慫慂するの段取になつたらしい、猶ほ、一部に於て是れ予定のお芝居に過ぎぬとなすものあるも、他の一部に於ては、絶対にお芝居説は否定されてゐる、果して藤男出づるや否や


中外商業新報 第一二四七四号大正九年一二月一〇日 後藤男の就任努力 推薦派確信を以て奔走;市友会の総会 藤男の承諾確信 坪谷氏より報告(DK480092k-0004)
第48巻 p.278-279 ページ画像

中外商業新報 第一二四七四号大正九年一二月一〇日
    後藤男の就任努力
      推薦派確信を以て奔走
後藤男市長就任を拒絶し市会の威信為に失墜し、左なきだに市土木不正事件以来市会改造の声旺なる折柄とて、柳沢伯・桐島・坪谷市友会の三領袖は之が善後策に腐心し、九日鳩首凝議飽迄後藤男を就任せしむべく渋沢子を介して男の出廬を懇請し、一方後藤男推薦に努めたる大成会の笠原氏等亦大に奔走中にて、上記諸氏は後藤男は大政治家として自己の地位を考へ、即時就任を諾する事は到底出来得ざるを寧ろ当然なりとし、此際市政紊乱の現状を明かにし、且つ此難局に対して
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は後藤男の巨腕に俟つの外なしと極力懇請せば、男の就任は強ち絶望に非ざるべく、後藤男説服の為め三四日間時日を仮すべしとて大に自信あるものゝ如し、一方後藤男に依り第三党組織の計画を為しつゝある臼井哲夫・長島隆二氏等は極力男の出廬を諫止し居るあり、従つて銓衡委員の努力成功すべきや否やは全く疑問なるが如し
      市友会の総会
        藤男の承諾確信
        坪谷氏より報告
東京市会の市友会は後藤男市長就任拒絶に関する善後策協議の為め、九日午後六時より丸の内中央亭に於て総会を開き、市長銓衡の任に当れる柳沢伯病気と称し欠席し、桐島氏亦中途退席したる外四五の欠席者あり、河合栄三郎氏を座長に推し、坪谷銓衡委員より
 後藤男に対し市長就任交渉の為め会見したるも会見の内容は当分一切秘密とし度し、且つ吾々銓衡委員は後藤男就任勧説の為め最善の努力を為しつゝあり、結局後藤男の就任を見る積りなり
と述ぶるや、川久保源治氏は
 後藤男推薦に至る迄の詳細なる経過及後藤男に対し市長当選後の交渉顛末を報告すべし
と迫り、坪谷氏は
 吾々は後藤男に市長就任の交渉を為したるは市友会の銓衡委員としてには非ずして市会を代表したるものなり、依て市会各派に報告する前に市友会のみに報告する事は出来ず、要するに余等は後藤男勧説に対しベストを尽すべき事に信頼され度し
と其間十分の自信ある口吻を漏らし、次で今回市参事会員に当選せる者にして市会常設委員たるものあるが、斯の如き兼任は不可能なりとの論あり之に決し、同九時過散会


中外商業新報 第一二四七五号大正九年一二月一一日 現市議が嫌なのなら 解散させても是非藤男を 此際あの巨腕で大鉈を揮つて貰ひたい 若し叶はずば浜口雄幸君など最も適任 説得役を引受けた渋沢子大磯に語る;後藤男爵の問題の脈の有無は今日決す 渋沢子爵大磯から帰る 岩松氏は飽迄起つ積り(DK480092k-0005)
第48巻 p.279-280 ページ画像

中外商業新報 第一二四七五号大正九年一二月一一日
  現市議が嫌なのなら
    解散させても是非藤男を
      此際あの巨腕で大鉈を揮つて貰ひたい
      若し叶はずば浜口雄幸君など最も適任
        説得役を引受けた渋沢子大磯に語る
○中略
    後藤男爵の問題の脈の
     有無は今日決す
      渋沢子爵大磯から帰る
      岩松氏は飽迄起つ積り
後藤男の市長就任の辞退には未だ脈があると云ふので柳沢・坪谷・桐島の三銓衡委員は極力各方面を
 歴訪 して席暖まる暇なく東奔西走してゐるが、既報の如く、九日坪谷氏に縋りつかれた大磯の別邸の渋沢子は、十一日帰京して後藤男に面談懇願し其出廬を促す筈である、一方形式的にせよ戯談にせよ、大成会より推されて第二候補に当選した岩松兼経氏は、後藤男にして
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辞退せば自分は起つて田尻子以上にやつて見せると
 力み つゝあり、大成会の議員も已に選挙当夜、後藤男が辞すなら当然岩松氏を推すと云ふ条件の下に立てたものであるから、何うしても岩松氏を出すと云つて居る、併し内相は岩松氏を許可するや否やは不明であるが、不許可になれば再び市会を召集して選挙やり直しとならねばならぬ、さうなれば益々市会は紛糾するであらう


中外商業新報 第一二四七五号大正九年一二月一一日 藤男諾否 本日渋沢子帰京 就任を慫慂せん(DK480092k-0006)
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中外商業新報 第一二四七五号大正九年一二月一一日
    藤男諾否
      本日渋沢子帰京
      就任を慫慂せん
後藤新平男東京市長就任を拒絶するや、主として同男推薦に努めたる桐島市会議長・柳沢伯・坪谷氏の市会代表者は更に渋沢子爵を介して後藤男の就任を懇請する事となり、十一日午前渋沢子は大磯より帰京し後藤男と会見し其蹶起を慫慂する筈なるが、之に関し大海原府
 内務部長 は桐島議長の申込に依り市長第一候補者後藤男及第二・第三候補当選者を内務省へ申達するを見合せ居るも、十一日後藤男・渋沢子の会見にして尚要領を得ざる時は、府は直接後藤男に就任意思の有無を確むるの用意成り居れりと言明せるが、一方後藤男の就任諾否に就て男の眤懇者の語る所に依れば、八日桐島氏等が男に市長就任を懇請せる際は全く拒絶の意思なりしも、男の計画に係る産業調査会予算も、既に来年度予算に計上せられ、略其目的を達したるより、幾分之に関し男の責任軽減せられたれば、内田良平・永田秀次郎氏等の如き
 男の股肱 を助役として男の経綸を代行せしめ、国勢に対しても相当の余裕を与ふるの条件に於ては、強ち其就任絶望に非ずとせるが如し、要するに十一日渋沢子と会見の結果愈々男の就任絶望に終らば、形式的第二・第三候補者の受諾と否とに拘らず、内務省は更に市長選挙の命を発すべく、然も之が為め市会は総辞職に止まらず、二三銓衡委員の引責辞職の外無かるべしと観測せらる


中外商業新報 第一二四七六号 大正九年一二月一二日 起否疑問 渋沢子藤男会見 更に再会を約す;藤男依然拒絶 藤山・杉原氏勧説 尚ほ前説を固守(DK480092k-0007)
第48巻 p.280-281 ページ画像

中外商業新報 第一二四七六号 大正九年一二月一二日
    起否疑問
      渋沢子藤男会見
      更に再会を約す
後藤新平男東京市長就任を拒絶するや全会一致男を推薦したる東京市会の威信に関する重大問題なりとし、主として同男を推薦せる柳沢伯・桐島・坪谷氏等市友会銓衡委員は渋沢子其他後藤男と眤懇なる有力者を介し、各方面より男の就任説服に努力し居れるが、別項十一日の丸の内工業倶楽部に於ける都市研究会協議会開会前後藤男・渋沢子両氏は別室に於て約十分間の会見を遂げ、渋沢子より東京市会の衆望男に集中し、市長第一候補者に当選せる経過並に市政の現状を述べて切に男の蹶起を促したるも、折柄都市研究会協議会に臨席すべき時刻迫れる為め、渋沢子の懇請に依り近く日を期して本問題の為め会見の約を
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結びたるが、都市研究会席上鎌田栄吉・藤山雷太氏等より東京市政の為め男の出廬を促し、更に当日出席せる有力者諸氏工業倶楽部に参集渋沢子も参加し、男の起否に就て意見の交換を為し、以上の有力者を挙げて男の市長就任を勧説するの計画成れるが如きも、男の起否は全然疑問たり、一方市会各派の形勢を見るに
 後藤男推薦に最も関係深き市友会は、桐島氏等銓衡委員の斡旋に信頼し鳴を鎮めて形勢を観望し居り、公和会は男推薦の責任は自派の関知する所に非すとし頗る冷然たる態度を示し、大成会は後藤男出でざれば自派の岩松兼経氏市長たるべきものとし、両派共後藤男の蹶起に対しては何等積極的就任勧説の運動を為さず、新正会に於ても亦十日の総会に於て決定せるが如く、後藤男不承諾の場合に於ける後任候補者に就て協議せしが、今や市会四派中、市友会一派のみが後藤男の就任を熱望せるの観ありて、市会の空気は七日の市会に一致男を推薦せると事情頗る異り来れり
去れば後藤男にして遂に市長就任を諾するに於ては何等の問題生ぜざるも、若し就任拒絶に終らば市長問題は頗る紛糾錯綜し来り、一挙にして後藤男を推薦し後任市長の決定意外に急速なりしに反し、市会の総辞職若くは解散等の事無く、依然市会の改造実現せられずして現市会に依り後任市長を決定するとせば、到底急速に解決し得ざるべし
      藤男依然拒絶
        藤山・杉原氏勧説
        尚ほ前説を固守
後藤男市長問題に就き坪谷善四郎・近藤達児の両氏は、十日午後東京商業会議所に藤山会頭及杉原副会頭を訪ひ後藤男の就任勧請方を依頼せるより、藤山・杉原商会頭は同日午後五時麻布の邸に後藤男を訪問し、約一時間に亘り会談したるに、男は東京市長に推薦されたるは大に感謝し居れるも、曩に欧米視察の結果産業調査機関の設立の急なるを痛切に感じ、帰朝後朝野の士に説きて、大に諒解を得る所あり、殊に原首相の如きは非常に賛意を表し、而も其調査の局に当る者は足下を措きて他に其人無ければとて、不肖の奮起を促したる等の関係もあり、旁予は右調査機関の設立に全力を傾倒する決心なれば、到底東京市長の就任を諾する能はずとて、断然拒絶したる由にて、藤山・杉原両会頭は十一日午後、市役所に坪谷・近藤両氏を訪ひ右の趣旨を回答せり


中外商業新報 第一二四七六号大正九年一二月一二日 此処七分三分 拒否と応諾 交渉委員は渋沢子以外 更に大手から搦手から(DK480092k-0008)
第48巻 p.281-283 ページ画像

中外商業新報 第一二四七六号大正九年一二月一二日
  此処七分三分
    拒否と応諾
      交渉委員は渋沢子以外
      更に大手から搦手から
渋沢子爵の入京によつて市長問題は頓に緊張を加へ、別項工業倶楽部に於ける男爵出廬の
 慫慂 となり、更に今十二日の工業倶楽部に於ける第二回の関係者会合となつたわけであるが、市会に於ける銓衡委員桐島・柳沢・坪谷
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三氏は、如何にかして男爵を引出さゞるに於てはいよいよ市会を愚弄し、市民を瞞着したといふ譏を免れず、引責辞職は勿論の事、市政の前途に対し一段の紛乱を加へる事になるので、今や必死の勢ひを以て男爵出廬に努力中であるが
 或は 渋沢子と共に原首相・伊東巳代治子等にも懇請して出廬勧説の挙に出づべき模様で、宛然大手搦手からあらゆる武器を執つて攻め寄するにも似て、寧ろ物凄じいものがある、斯て男の応諾と否とは未だ必ずしも絶望とは見られず、七分の拒絶、三分の見込ありといふ状態にある者と観測されてゐる
    研究会招待が
      後藤男推薦会に
      決議案まで出たが夫は
場所柄不穏当だと撤回
後藤男爵は都市研究会長として目下の東京市政を根本から廓清すべく広く社会の意見を叩くべく十一日午後二時から工業倶楽部の二階
 大広間 に一木顧問官・床次内相・仲小路廉・藤山雷太・関直彦・尾崎行雄諸氏を始め朝野の名士百余名を招待した、此日は渋沢子爵が後藤男を説得しやうといふ人気問題を控へて居るので、定刻前から自動車は館前に列をなした、渋沢子爵は一時少し過ぎに来て後藤男と別室で約二十分間密談したが、内容は窺知に苦むものであつた、軈て定刻になると会長
 後藤男 は市政革新に対する市民の自覚を促す方法に就て諸君の御高説を拝聴したいと挨拶を述べ、別記の決議案を提出すると、真先に岡田良平氏から「市政が少数者の熱心によることが腐敗の根源で、即ち多数が眠つてゐるからである」と賛成意見を述べ、渋沢子爵・仲小路・藤山・加藤・指田の諸氏も相次で賛成演説があつて満場一致
 可決し 藤山・指田両氏からは後藤男に対する市長就任の懇請もあつたが別問題とあつて後廻しになり、午後三時研究会は一先づ閉会を告げる、と渋沢子爵から市長問題に就て懇談会を開きたいとの動議が出て舞台一転、渋沢子爵から後藤男の市長就任の懇請があると、鎌田栄吉氏立つて満場一致で東京市政の
 腐敗を 革新すべく、男の巨腕に待つ意味の決議案を提出朗読して満場の賛成を求むると、藤山雷太氏から「余り強過ぎるから市政の現状に鑑みて位の意味にしたい」と云ふ修正意見があると、指田氏其他多数の賛成があつたが、荒川義太郎・仲小路氏等から「今日は後藤男に招かれたものである、勿論男の就任には賛成であるが、此席で
 決議を することは礼を失し、不穏当の嫌ひがあるから後日を期して更めて推薦したい」と云ふ意見あり、鎌田氏等も之を諒として四時散会となつた
    遣りたいのだが……
      遣れないから仕方がない
        両方掛持は無論駄目だよと
            後藤男爵語る
問題の人後藤男は階上から昇降機で玄関の広間に渋沢子と共に現れた
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待受けた新聞記者に取巻かれ、笑みを湛えた顔には
 鼈甲 の鼻眼鏡を光らし、刈立てられた銀鬚を動かし乍ら後藤男は「今会場で渋沢子其他から市長就任の問題が出て勧告されたが、私としては初めから云ふ様にやれないのである、それはやりたいけれどもやれないと云ふのであるから仕方がない、今日の会合が世間からは何か市長問題に関係ある様に考へられてゐるが、去る一日此計画を
 協議 して七日に通知状を発送したのであるから、根本に於て全然関係のない事は明瞭である」と都市研究会の集会経過を告白して居る更に三銓衡委員は男との交渉結果は尚ほ余地があると云つてゐるが如何と尋ねると「それは大調査機関と両方一処にやれない事はないからと云ふ理由からである」と諾したい様な諾さない様な口吻を漏らしてゐる、丁度其処へ来合はせた内務勅参の松田源治氏が男の
 右手 を握つて引張りながら「両方やり給へ」と云ふと「それはいかんよ、君は本を読む心算でゐて国民の心を読む事を知らないからだ日本の様な幼稚な国では面倒が多いから両方を一処にやる事は出来ない」と答へる、松田氏は笑ひながら立去ると、男は再び昇降機に乗つて二階へ消え去つた
    市長就任の懇請は
     今日以後也
        渋沢子爵談
今日は後藤男爵のお招き与つた訳であるが、男の市長就任の懇請も銓衡委員から頼まれて来たのではない、私は市民の一員として且つ市参与といふ点から黙視するに忍びずして、是非共その就任を懇請する考へであつたが、今日は男に招かれた席であるから之を決めることは不穏当であらうとの説も出たので動議は撤回された、依つて十二日午前十一時から銓衡委員と、男の市長就任賛成者とがこの工業倶楽部に集まつて更ためて協議を行ふことになつた、開会前に会見したのは市長推薦の経過を話したのみで、まだ市長就任を快諾して下さいとまでの話には至らずして別れたのである


中外商業新報 第一二四七七号大正九年一二月一三日 藤男不応 渋沢子正式勧説 有力者運動開始(DK480092k-0009)
第48巻 p.283-284 ページ画像

中外商業新報 第一二四七七号大正九年一二月一三日
    藤男不応
      渋沢子正式勧説
      有力者運動開始
東京市会の輿望を荷ひ全会一致市長に推挙されたるも固辞し居る後藤新平男に対し、市政紊乱の現状に鑑み男を市長最適任の第一人者として、十二日午前十一時より丸の内中央亭に於て渋沢子・藤山東京商業会議所会頭・加藤前市会議長・近藤廉平男四氏主催にて、東京市政の為め一市民として後藤男市長就任を懇請する目的を以て懇談会開会
 大倉喜八郎男・安田善次郎・和田豊治・中島久万吉男・杉原栄三郎・山科礼三・福原有信・大橋新太郎・鎌田栄吉・有賀長文・服部金太郎・井上準之助・矢野恒太・桐島市会議長
等十一日都市研究会協議会に出席したる有力者廿余名出席、渋沢子より十二日早朝後藤男の自邸を訪問し、男に対して東京市政の現状を縷
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述し
 三百万市民の為め切に市長就任を快諾せられ、男の巨腕に依り市政廓清の重任に膺られ度し
と懇請し、切に男の市長就任を慫慂せるに対し、後藤男は
 産業調査大機関設立の計画に関係し居るを以て、即時承諾に困難なる事情あり
と容易に応諾の色無かりし旨報告あり、次で桐島市会議長より
 東京市政の現状に対し種々配慮を煩し感謝に堪へず、余は一市民としてのみならず、市会議長として全市民の為め後藤男を起たしむべく最善の努力を竭す決心なり
と一場の挨拶あり、畢つて後藤男蹶起懇請の方法に関し種々意見の交換を為したる結果、大要
 後藤男を市長に推挙せる市会の決議は至極尤もなり、而して同男に対する市長就任交渉は行悩みの状態なるが、吾人は市民として市会の議決を速に実現せしめ、後藤男を蹶起せしむべく努力すべし
と申合せ、該決議を貫徹する為め各方面に運動するに決し、渋沢子・近藤男・藤山・加藤氏の四氏を主催者の代表者として今後の運動を一任する者とし、先づ原首相及床次内相に陳情し、大に助力を乞ふ事とせしも、当日は日曜の為め十三日訪問する事とし同四時散会せり、因に散会後も渋沢子・近藤男・藤山・加藤各代表者及桐島市会議長等鳩首凝議、今後の運動方法を講ぜり


中外商業新報 第一二四七七号大正九年一二月一三日 再度の交渉にも矢張り曖昧 昨朝藤男を訪へる渋子 懇談一時間余で物別れ 併しまだ脈はある?(DK480092k-0010)
第48巻 p.284-285 ページ画像

中外商業新報 第一二四七七号大正九年一二月一三日
  再度の交渉にも矢張り曖昧
    昨朝藤男を訪へる渋子
    懇談一時間余で物別れ
      併しまだ脈はある?
十二日午前九時、王子から自動車を飛ばして渋沢男は麻布桜田に後藤男を訪ふた、用件は云ふまでもなく市長受諾の懇請の為めであるが、子一語男一語、斯くて取交された一時間に至る会談の結果は、矢張り前日同様にてきつぱり断りながらしかも内実に脈があるという甚だ曖昧な処で物別れとなつた、さうして渋沢子は余り浮かぬ顔で中央亭に急ぎ、後藤男は工業倶楽部行の仕度をした
    正式に渡りを付ける前の評定
      中央亭に渋沢子等集る
      一方藤男は区長に説明
脈があるないで連日に亘る後藤男の市長問題は十二日も其日の天気に似て晴るとも降るとも煮切らず、しかも是非今日は何とかせねばならぬとあつて、説得役の渋沢子を始め近藤廉平男・郷男・大倉男・中島男・安田善三郎・和田豊治・加藤正義・福原有信・矢野恒太・鎌田栄吉・有賀長文・大橋新太郎・藤山雷太諸氏、それに桐島市会議長と云ふ様な都市研究会中の有志有力者廿余名は、正午から丸の内中央亭に会合した、招待状は近藤男・加藤正義・藤山雷太氏及び渋沢子の四人の連名で発しられたといふ、斯くて渋沢子先づ其朝後藤男との会見の
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顛末を述べ、未だ交渉の余地があるから先づ其慫慂方法を講じた結果斡旋方は前記四人に一任することに決した模様である、そんな事は俺は知らぬと云ふ顔付きの後藤男は、午後一時から工業倶楽部に市内各区長を招待し、前日の都市研究会で決議した処を尚よりよく諒解せしめる為め説明をやつて居た(午後二時)
    首相内相に縋る事
      後藤男を動かす最後の
      手段として評定一決す
中央亭の会合は別項の如くであるが、一説に依ると桐島市会議長が渋沢子を始め商業会議所や工業倶楽部の
 主脳 に泣きついて、渋沢子・近藤男・加藤前市会議長・藤山商業会議所会頭の四人の名義で招集した会合であるが、市会議員の外は勿論有志として会したものであると云ふ、さて席上種々懇談の結果同じことを繰返すに過ぎず、且つ男の諾されぬ理由は産業調査会の問題に懸つてゐる為であるから、此問題につき原首相と
 諒解 がつき又主務大臣たる床次内相からも慫慂して貰つたら如何な後藤男も動くに相違ないと云ふことに相談が纏まつて、両相の邸に電話で在否を伺ふと何れも東京に居ないと云ふ返事だつたから、そこで首相と内相への運動は一切渋沢子・近藤男・藤山・加藤氏の四人に一任することになつて午後三時に散会したのである
    此上は首相のお力
      大産調関係の諒解も出来て
      之れなら後藤男も諾かれう
        会を終へて渋沢子語る
老体を意とせず早朝から奔走した渋沢子は、会合の相談が纏まつてから曰く「私は午前男爵に会つてお勧めした時
 応諾 にならぬ事に就て、一部一新聞に見るやうに市会を今日の儘にして置いては諾否共問題にならぬと云ふ意見であるか、それとも市会が内諾を経ずして推挙し而も二・三議員が責任を以て其応諾を引受けたことを不快とせらるやに就いて男の存意を質した処、何れも辞退した理由でないのみならず、そんな事は格別問題でもなく矢張り産業調査会の為
 折角 ながら引受け兼ねるとあつたから、此上は原首相にも会見して更に原さんから斡旋の労を取つて貰つたら、産業調査会の方も何とか両者の諒解が出来て起つ事にならうかと考へたのである、一任された吾々は、明日でも首相・内相等に会見する運びにしたいと思つてゐる」云々


中外商業新報 第一二四七八号 大正九年一二月一四日 大分調子が変つて来た 後藤男爵思案の空模様 渋沢子は掛持問題に対して出来るやうにして来ると云つてゐる…… それが出来れば「出る」と云ふ結論(DK480092k-0011)
第48巻 p.285-286 ページ画像

中外商業新報 第一二四七八号 大正九年一二月一四日
  大分調子が変つて来た
    後藤男爵思案の空模様
      渋沢子は掛持問題に対して出来る
      やうにして来ると云つてゐる……
    それが出来れば「出る」と云ふ結論
 - 第48巻 p.286 -ページ画像 
問題の後藤男は、十三日正午から丸の内工業倶楽部で、都市研究会の自治政運用に関する宣伝依頼の為め、都下各新聞通信社長を招いた、「イヤ忙しい忙しい、まるで
 俺の家 は病気見舞客でも押寄せるやうに、脈を見たり熱を計つたり、呼吸を調べたり、毎日同じ様な事を繰返されてゐるので面白くも何ともない」と鼻眼鏡を手にしてソワソワ室へ入つて来た、一しきり市長談に花が咲いて、例の十八番「出たいのだけれども出られないのだ、産業調査機関と云ふ事に就てはまだ正直の処、聡明なる原君にもホントに
 其効果 必要が呑込まれてゐないのだ、況んや他の一般人士に於ておやだ」と気焔万丈である、軈て食堂が開かれる、主人席に着いた男爵は意気益々旺に一人でメートルを揚げる「アリストートルは最良の政治家は理想家でない、国家の現状に適応した措置を執る者即ち最良の政治家であると云つた、ところが之が誤られて刹那主義、目の先政治が最良の
 政治家 の如く思はれるやうになつたのだ」などゝ大いに若返る、都市研究会の用向きを済ませ再び談話室へ帰つた男爵を捉まへ「渋沢子以下の民間推薦委員は原総理大臣・床次内務大臣に対し男の就任慫慂を懇請するといふ事であるが、若し原・床次両氏から男に交渉のあつた場合は如何されるか」との質問を発した処男は「それは未だ来ぬから判らぬ、来るといふ事を仮定して
 今予断 するといふ事は宜しくない」と遁げ「然し必ず行く事は明かであるが如何」と再度の襲撃に対しては「それは諸君の御推測に任せやう」とカラカラ笑ひ乍ら答へた、此従来と余程調子の違つた答弁振りは此際聴き洩らせぬ言葉である、男は更に語を継ぎ「渋沢子爵にも二つ掛持の出来るやうにして来れば
 宜しい のでせう、さうしませうと云つて引取られた」云々と語る男の言外には渋沢子の所謂両方出来るやうになれば出廬しても差支なしといふ意が汲み取られるのである、いよいよ問題が迷宮に入つた


中外商業新報 第一二四七九号大正九年一二月一五日 後藤さんの脈と原さんの腹 今日中に診断が付く(DK480092k-0012)
第48巻 p.286-287 ページ画像

中外商業新報 第一二四七九号大正九年一二月一五日
  後藤さんの脈と原さんの腹
      今日中に診断が付く
    首相曰く 「十五日には返事もし男にも逢ふ積り」
後藤男の市長問題で俄に中心点となつて来た原首相は、十四日午後六時頃例の優しい和服姿で京橋築地采女町の芳野家の前で
 自動車 を降り奥座敷に消えて行つた、これは当夜開かれた三浦観樹将軍の忘年会を兼ねた喜の字の祝宴に招かれたからである、席上には野田・高橋の両大臣始め田台湾総督・内田嘉吉・広岡宇一郎・大岡育造・横田千之助・望月小太郎・臼井哲夫の諸氏外十二三人がずらりと居流れて、新橋から選抜きの美人の酌に歓を尽しお開きは九時であつた、其客中に
 後藤男 と序次内相も来る筈であつたのを、御両人共欠席は聊か物
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足らなかつたけれど、それだけに話題は市長問題に花が咲いた事は云ふまでもない、恰度九時半首相は口の端を拭いてそんな事は知らぬと云つた顔付で玄関に現れたのを、待ち構へた記者連の包囲に手を振りながら「今日は市長問題では誰にも会はないからくどくど聞くな」と
 逃げる 袖を控へて「何れにせよ早くして頂きたい」と記者の言葉に、首相は眉を動かして「併し僕は早く解決して呉れとは頼まれて居ないし早くする約束もしなかつた筈だ、だが明日頃は何とか渋沢子にまで返事をしやうとも考へ又後藤男に会つて見やうかとも思つて居るこれだけで許せ許せ」と身を翻へして自動車の中へ
    山県老公へ拝付く
      口添へ位ゐして頂けや
      うと渋沢子爵尚疑はず
十四日午後五時から華族会館で渋沢子爵の忘年会が開かれたが、宴が終つた子爵は後藤男爵の件に就て語る「十四日朝八時
 自分 は後藤男と三回目の会見を遂げた、其際自分は去る十二日の委員会の顛末を語り、或は原首相からお話があるかも知れない事も語つて置いたが、男は相変らず産業調査機関の事のみを云つて市長問題に対しては一語も及ばなかつた、其処に自分としては充分望みを繋いで帰つたのである、一方原首相は十三日自分共が懇願した時「交渉の
 結果 が悪かつたら直ぐ返事をする」とのお約束であつたのに、まだ何とも首相からは返事のない処を見ると、首相も尚熟考中の事と思ふが、大丈夫口を切つて頂けるものと信じて居る、其上最後の手段として或有力者が十四日在京中の山県老公を訪ひ御斡旋を願つた事も聞いて居るが、老公としては正式に御交渉はないとしてもお口添へ位はして頂けると信じるから、自分としては矢張り後藤男の出廬を疑ふ事は出来ない」云々


中外商業新報 第一二四八〇号大正九年一二月一六日 後藤男遂に承諾す 原首相の仲介にて解決(DK480092k-0013)
第48巻 p.287 ページ画像

中外商業新報 第一二四八〇号大正九年一二月一六日
    後藤男遂に承諾す
      原首相の仲介にて解決
桐島市会議長・渋沢子・柳沢伯の三氏は十五日午後四時半、原首相と後藤男との会見終るを待ちて直に首相を官邸に訪問したるに、原首相より
 先般諸君より依頼の件は後藤男との間に諒解成りたるを以て、其結果に就ては直接同男より承知せられたし
と述べたるより、直に首相邸を辞去して同五時半頃、桐島市会議長・柳沢伯・坪谷・近藤(達)の諸氏は相前後して後藤男邸に到り、男と会見約一時間に亘り、市長就任の内諾を得たるが、其結果に対し桐島議長は
 市長就任に就ては後藤男より略ぼ内諾を得たるを以て、十六日午前九時半市会各派交渉委員会を開き、同十時各派銓衡委員一同にて後藤男邸を訪問、正式に市長就任を交渉し其承諾を得る順序なり
と男内諾の経過を報告せり
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中外商業新報 第一二四八一号大正九年一二月一七日 後藤男正式受諾 東京市長問題全く解決 銓衡委員会 内諾経過報告 全会一致可決(DK480092k-0014)
第48巻 p.288 ページ画像

中外商業新報 第一二四八一号大正九年一二月一七日
  後藤男正式受諾
    東京市長問題全く解決
      銓衡委員会
        内諾経過報告
        全会一致可決
東京市会各派の市長銓衡委員会は十六日午前九時半より市会議長室に於て開会、今回の市長候補銓衡の任に膺れる
 ▽市友会 桐島議長・柳沢伯・坪谷 ▽公和会 宮崎・辰沢・竹下 ▽大成会 長谷川・笠原・新井 ▽新正会 伊藤・若林 △無所属 真下氏
等各派委員十二名全部出席し、桐島議長より去る七日の市会に於て後藤男を市長第一候補者に選挙したる以来今日迄の経過及十五日男より市長就任の内諾を得たる旨を報告し、且つ
 渋沢子・近藤男・加藤前市会議長・藤山雷太氏等が男の就任懇請に付て大に奔走斡旋の労を執られたるは、市政の現状に鑑み傍観するに忍びずとて有志として全然自発的に出でられたるものにして、余等市会委員より依頼したるに非らず
と弁明して各派の諒解を求むる所あり、公和会の宮崎氏より桐島・柳沢伯・坪谷氏等連日の労を謝する旨を述べ、大成・新正会両派委員よりも亦同様の挨拶あり、全会一致を以て後藤男を新市長に迎ふるに決し、同十時一分打揃ふて麻布桜田町の後藤男邸に赴けり


竜門雑誌 第三九二号・第七六―七七頁大正一〇年一月 ○東京新市長後藤男歓迎会(DK480092k-0015)
第48巻 p.288 ページ画像

竜門雑誌 第三九二号・第七六―七七頁大正一〇年一月
○東京新市長後藤男歓迎会 東京商業会議所主催に係る東京新市長後藤男歓迎会は、十二月廿三日正午より同所楼上に於て開会せられ、正賓後藤男を始め、永田・池田・前田の三助役、陪賓青淵先生・大倉男・井上・木村日銀正副総裁其他、主人側藤山会頭・中島男等主客約百五十余名出席し、宴半ばにして藤山会頭の挨拶あり、終つて後藤男の答辞あり、三助役亦順次挨拶を為し、最後に青淵先生起つて後藤男就任の祝辞○次掲 を述べられ、午後三時盛会裡に散会せりと云ふ。
   ○本資料第三篇第二部実業経済中「東京商業会議所」大正九年十二月二十三日ノ条参照。


東京商業会議所報 第三三号大正一〇年一月 ○後藤市長歓迎午餐会演説速記 【渋沢子爵】(DK480092k-0016)
第48巻 p.288-290 ページ画像

東京商業会議所報 第三三号大正一〇年一月
    ○後藤市長歓迎午餐会演説速記
渋沢子爵 閣下、諸君、凡そ物事の嬉しいことは色々な場合にあるものでありますが、私自身は今日大変に嬉しく感ずる、先づ藤山君が私を此処へ据えて下さつたと云ふことを大層嬉しく思ひます、丁度此席が後藤男爵の御就任下さつたに就て会議所に於て其祝賀の宴を御張り下さつて、且それに就て殆ど東京市の所謂市を背負つて立たうといふやうな御方々多数の御集りと申して宜からうと思ふのであります、凡そ物事が思ふ様に届いたと云ふことは誰も嬉しいものである、其事柄が自己のことですら尚ほ嬉しうございますが、是が公共の事であつ
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て而も吾々が常に愛する東京市のことであります、随分国の大事と云ふやうな事が思ふ様に行つて嬉しい場合がありますが、余り広い嬉しいことは適切に感ずることが薄いものです、然るに目の前に接して此儘抛つて置けぬと云ふやうな事柄が都合好く行つた時には其嬉しさは能く現はれて来ることゝ思ふ、私は非常に嬉しい、何だか皆さんも同じくニコニコした顔をして御座るやうで、同じやうに嬉しく感ずるものと想像するのであります。東京市の今日の有様に於て自覚が足らなかつたと今藤山商業会議所会頭の言はれた御言葉は、私も其自覚をして居らぬ一人であると思ふて自ら御譴責を受けたやうな気がします、併し其受けた譴責は私も他人に自覚が悪い、悪いと言たのでありますから、謂はゞ相子でどちらからも言はれる言葉でありますが、併し後藤市長さんは其事は早く御感じ下さつて、此事に就て斯くなればならぬと云ふことは、まだ市長の銓議のない前に既に其事を御発表になつたことを深く喜ぶのであります、殊に此東京市の今日の有様に於て是非適当な市長が欲しいと云ふことは誰しも感じて居る事であります、今御自身は事に依つたら己は脱線するかも知れないと言はれましたが其脱線するが如き人が今日丁度適当な市長であると私は思ふのであります、私が此位置に立つて市長に御なり下さいと云つて奔走した為に或新聞は財閥の一人が云々、出ないでも宜い隠居が出しや張る、斯う云ふ小言を受けたのでありますが、私は決して財閥ではない、金持でもないことは皆さんも知つて居る通りであります、どう云ふ訳であるか、そんな苦情を今申した所がどうも仕方がございませぬが、実は私はさう云ふ意味でなくて全く自分も東京市民の一人であつて、どうか善い市長がないものかと真に困つて、我身苦しさの余り多少たりとも此戦場のやうな状態を切抜ける途があるならばと云ふので微力を尽したのであります、此席には新聞記者も御出でになるやうでありますけれども、財閥と云ふ寃罪だけは御免蒙りたいと思ひます、それだけ一言申上げて置きます、而して今日此重荷を新市長に御背負はせ申すことは余程吾々共憂慮に堪へませぬ次第でありますが、痩馬に重荷を背負はせるのは実に気の毒である、併ながら健全な肥つた馬は重荷の方が宜い、重荷を背負はせると能く走る、重荷を背負はせるのが適当だらうと思ふのです、此点はどうも後藤君は何と仰しやるか知らぬが満場の諸君は私に御賛成下さると思ふのであります。(拍手起る)助役とまだ皆な申上げられぬかも知れませぬけれども、既に御言葉の中にも許してあり、其手続も済んで居ると云へば助役と見做して宜いやうに思ひます、此助役御三人共田の字付いたのが面白い、永田・池田・前田と仰しやる、そこで私は考へたが、水戸の烈公が盛な政治を行つた時は二田でありました、即ち戸田銀次郎・藤田虎之助、後に戸田忠太夫・藤田誠之進となりましたが、此二人で殆ど水戸の政治を取扱つて諸藩を風靡せしめた、水戸の二田と云ふものは実に盛でありました二田でさへ盛であるのに今度は三田であります、甚だ東京市の政は如何にも挙がるに相違ないと思ふ、尤も此水戸の二田は盛であつたけれども末路は完全でない、然るに今度は三田であるから此東京市の末路は決して水戸の二田のやうなものではないと云ふことを私は玆に申上
 - 第48巻 p.290 -ページ画像 
げて置きます。(拍手喝采)


後藤新平 鶴見祐輔著 第四巻・第一九一―二〇二頁昭和一三年七月刊(DK480092k-0017)
第48巻 p.290-295 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。