デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
3款 東京市長銓衡
■綱文

第48巻 p.295-316(DK480093k) ページ画像

大正12年5月16日(1923年)

是年四月、後藤新平、東京市長ヲ辞任ス。五月十
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三日、銓衡委員懇談会ニ於テ、栄一ヲ市長ニ推薦スルノ議起リ、越エテ十五日ノ同会ニ於テ、市会各派ノ意向一致ス。是日、柳沢市会議長、市会各派代表五名ト共ニ、渋沢事務所ニ来訪、栄一ニ会見シテ市長就任ヲ懇請ス。十七日、栄一之ヲ辞退ス。後、永田秀次郎、市長ニ就任ス。


■資料

竜門雑誌 第四二〇号・第六〇頁大正一二年五月 ○後藤東京市長辞職(DK480093k-0001)
第48巻 p.296 ページ画像

竜門雑誌 第四二〇号・第六〇頁大正一二年五月
○後藤東京市長辞職 大正九年十二月青淵先生等の勧説に依りて東京市長に就任せる後藤男は、去四月二十六日身辺の多忙且は静養の為め辞表を提出したるが、右に就き東京朝日新聞は青淵先生談として左の如く報ぜり。
 自分は大正九年十二月十五日、当時原首相の招致を受け官邸に於て後藤市長と会見首相の意を受けて後藤子の市長就任を勧説する処があつた、当時後藤子は所謂産業大調査機関の事業を控へて居つたから、市長の重任を負ふ事は困難であるとの事で再三固辞したが、結局最後に就任を承諾した、就任後の後藤市長は東京市の将来の事業計画に就て多少風呂敷ではあるが、相当の経綸に於て抱負も持つて居つた、然るに就任後僅かに二年三箇月で辞職すると云ふ事は市民のために残念であるし、尚後藤子としても其計画の一部分に手を触れた位の程度で其椅子を去るは余りにアツけない話である、勿論事玆に至つたは公私種々なる事情の存するのであらうが、自分は産婆役として且市参与として此際市参事会員とも相談し一応留意を勧告する積りであるが、辞職云々は二十五日夕方耳にしたのみで後藤子よりも何等正式の挨拶がないが、一両日中には何分の通知があると思ふから、其上市参事会員と打合せをする積である。


竜門雑誌 第四二一号・第六七―六九頁大正一二年六月 ○東京市長後任と青淵先生(DK480093k-0002)
第48巻 p.296-299 ページ画像

竜門雑誌 第四二一号・第六七―六九頁大正一二年六月
○東京市長後任と青淵先生 後藤子爵辞職後に於ける東京市長後任問題は市会各派の暗流に依り、推薦候補者に対する各派の意見区々として纏らざる為め、荏苒紛糾を重ねつゝありしが、五月十三日夕開催の市長銓衡委員懇談会に於て、寧ろ此際青淵先生を市長に推戴しては如何との議纏りたるやにて夫々各派の総会を見たるが、超えて十五日夕同銓衡委員懇談会開催の席上改めて各派総会の意向を披瀝せるに、孰れも青淵先生推戴に一致したるを以て、柳沢市会議長は同委員各派代表として、近藤達児(自治会)・三木武吉(市正会)・若林武昭(新友会)・早川庄太郎(公友会)・宮島清次郎(中立倶楽部)の五氏を撰定し、翌十六日午後一時右六氏は渋沢事務所に於て青淵先生と会見の上柳沢議長より市長推薦に到れる事情と市会各派の希望とを縷述し、切に其承諾を懇請せるに、青淵先生は老齢且つ多忙の故を以て固辞せられたるも、委員一同より再三の懇請に已むなく、明十七日午後二時迄に柳沢議長迄確答すべき旨の挨拶ありたる由にて、翌日青淵先生には定刻東京会館に於て柳沢議長と会見せられ、改めて正式に辞せらるゝ
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所あり、尚ほ万一市会が紛糾を持続する点に就き協定の希望を有するに於ては聊か犬馬の労を惜まざるべき旨を附加せられたるに、議長も其意を諒とし、同日夕刻開催の銓衡委員会に於て其顛末を報告したる趣なり、かくて市長候補者に付種々の推移ありて、結局二十五日開会の市会に於て前助役永田秀次郎氏大多数を以て市長に選挙せられたる由なり。
 因に前記東京市長後任問題に関し、青淵先生の談として都下諸新聞紙に掲載せられたるものゝ一斑を示せば左の如し。
五月十五日発行東京朝日新聞に曰く
 後藤市長の辞職後市会の各派が、自己の欲する人物を市長候補者に推薦して居るが其何れが適当であるかは未知数だ、市会議員の或一派には此際我輩を名誉市長に推し一時を冷して、或時期を見て適当な市長を選ぶと云ふ事を云つて居るさうだが、余りに馬鹿々々しくトボケきつた話である、如何に候補者が多くて人選に困難だと云つても熱さましに、吾輩を引張り出すとは正気の沙汰ではない。一体今度後藤市長が辞職して後任市長問題となつても、今日只今迄何等挨拶も相談も受けた事はない、市長問題で渋沢に会見したなどゝ云ふ人がありとすれば、それは全然嘘だ、併し吾輩も市参与としての責任上今後相談を受けるとすれば、沢山立派な候補者も野に満ちて居るが、先づ現在の永田助役を市長に推すのが最も適当であるし且吾輩としても同氏を推薦する積りだ、殊に今日迄助役として二箇年余市長輔佐の実務に携はつて居るから、順序としても永田氏を推薦する事が至当であると思ふ云々
同十六日発行の時事新報に曰く
 私を東京市長候補に推薦するといふ噂は新聞で読んだだけで、未だ誰からも公式にも非公式にも交渉を受けた事はないが、万一
 △市長銓衡 委員会の決議により私に交渉があつても、私は絶対にお断りしやうと思ふ、夫といふのは東京市の如く道路・水道其他諸施設を改善して、日本帝国の首都として恥しからぬ程度に発展する必要のある都市の市長たるものは、須らく才幹秀づると共に体躯も亦強壮で活動力に富んだ人でなければならぬので、私のやうな老人では到底其職務を果す事が出来ないからである。何か世間では私が「其場塞ぎの市長候補は御免蒙りたい」といふやうな意味を洩したと噂してゐるのもあるやうだが、之は裏から考へると誠心誠意を以て推せば承諾するといふ風に聞こえて甚だ迷惑で、此点はよく諒解して置いて貰ひたい。扨斯うして私が
 △市長候補 の交渉を受けてもお断りすると、次に起つて来る問題は市長の産婆役になつて呉れとの要求が出て来るであらうとの予想であるが、私も東京市民の一人であり市参与養育院等の名誉職にもなつてゐる以上、現在の如く市長候補が何時までも決定しないで物質的にも精神的にも苦痛を嘗めるやうでは甚だ困るから、之は他の有志の諸君と一緒になつて、大に骨を折つて見やうと思ふ。現に前の後藤子爵の時にも微恙のため大磯へ行つてゐたのを、坪谷善四郎氏其他に勧められて直接後藤子勧誘に出懸けたものだ、其処で第三
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の問題として私が産婆役として
 △市長推薦 の全権を一任されたとして、果して身心共に優秀な人物を挙げられるか何うかといふ疑ひが生じて来るが、私は其の点は充分保証出来ると思ふ、尤も夫は誰であるかといふことは、今日明言することは却つて紛糾の種を蒔くことになるから避けたいと思ふ云々
同十七日発行の中外商業新報に曰く
 東京市長銓衡委員会代表者の人々から、私を市長に推薦したいから承諾して貰ひたいといふ交渉を受けたことは、誠に光栄の至りで感謝する次第であるが、私としては実は
 △意外 な交渉を受けたものだと思ふ。といふのは外でもない、私はまだやつと健康の身体を維持しては居るが、既に八十四歳といふ頽齢の老人でもあるし、又曩に実業界から隠退はしたけれども、協調会の事業を始め諸種の社会的公共事業や徳化事業に関係して甚だ多忙の身である、是等の事は委員の人々も充分承知して居られる筈である、それに第一私は東京市長の椅子に坐して大都市の行政を燮理して行き得るやうな器でない、仮に私が市長の推薦をお受けするとして考へて見ても、一旦市長の椅子に坐する以上は、私の今やつて居る種々の事業を
 △放擲 しなければならない、それを放擲しないで片手仕事に市長の任務を尽し得る手腕力量を有する程の私ではない、私の国家に尽す仕事は市長其物に限られた訳でもなく、老後の今日関係して居る種々の事業とても国家に尽す点に於ては同じことであると信ずる、私を見立てゝ市長に推薦して下さる思召は深く感謝するけれども、それを御受けする、しないといふことは自ら別問題である、要するに、第一は老人である、第二多忙である、第三は其器でない、といふ意味からして、私は
 △折角 の御推薦であるけれども、それを辞退したのである、併し斯く再三固辞しても委員の人々が何うしても納得せられず反復力説せられるので、十七日に最後の確答を致すことに御話をして置いたやうな次第である。
同十八日発行の東京朝日新聞に曰く
 私は昔大蔵省の官吏を奉職してゐた以来、すつかり政治界には出ない方針を決めて来た。東京市長も見方に依つては矢張政治家でなくては務まらないやうに思つてゐる。私は名前丈で其下に助役を沢山置けばいゝと言はれる人があるが、それでは市長は全く曠職となつて仕まつて、私の生来の意志に反することとなる。十六日午後市会の銓衡委員の方が打揃つて来られた時の話に、市会の大勢は渋沢に一致したと聞いて誠に感情に於ては喜んでゐる次第である、併しあの市長と云ふ劇職のことを思つて見ると、此の老齢の身を以てしては理性に於て不可能なことが明かに解る、実は前日の会見の席上にて断然辞退して世人の迷ひを解きたいと思つて其の意味にて応対したのであるが、一同打揃つて来られ、それに柳沢伯も居られたので一日の猶予を願つて只今正式辞退の旨を回答した次第である。併し
 - 第48巻 p.299 -ページ画像 
此の問題にて万一市会が紛糾を続け此の点に就て協定して貰ひたいと指定の上希望せられるなら、聊かながら犬馬の労は執つても宜しいと答へて置いた、勿論私の方から進んで出る意志は無いが、先方の希望あらばと云ふ意味である。今朝も三木君が来られたが私はあの人をよく知らない、自分の立場を明かにして、私に市長になるやう勧められたが、矢張辞退した次第である。


中外商業新報 第一三三五九号大正一二年五月一四日 各派白紙状態に帰つて 新に渋沢子を推薦 十三日の市長銓衡委員懇親会で(DK480093k-0003)
第48巻 p.299-300 ページ画像

中外商業新報  第一三三五九号大正一二年五月一四日
    各派白紙状態に帰つて
      新に渋沢子を推薦
        十三日の市長銓衡委員懇親会で
東京市会の市長銓衡委員懇親会は既報の如く十三日夜築地新喜楽に於て、柳沢・近藤正副議長主催の下に開催、主催者を始め各派銓衡委員全部十三名出席、座談の形式で種々懇談を遂ぐる所あつたが、要するに各派協調上自治会の永田氏推薦、市正会の尾崎行雄、久保田政周、添田寿一氏の三候補推薦、公友会の勝田主計氏推薦を総て撤回の
 意味で一先づ各派白紙主義に立帰り、表面虚心坦懐酒間の裡に意見を交換した結果、市の長老で名誉職市参与である渋沢栄一子を市長に推す事に一致して十時過散会したが、右席上の意見交換経過概要は左の如くである
 若林成昭氏(新友会)議長宜しく頼む
 宮島清次郎氏(中立倶楽部) 近藤・三木両氏宜しく頼む
 若林氏 賛成々々
 三木武吉氏(市正会) もうとても駄目だ(と一寸弱く見せる)
 竹下延保氏(公友会) 何でもよいから偉い人を出して貰ひたい、就ては宮島氏に其指名を一任し度い
 宮島氏 一体日本の自治政治は何れも党争の弊があると思ふ、然し吾々が市会議員の立場を離れて東京市の世話人といふ考で砕けた態度で且つ笑つて協調し度いと思ふ、三木君も砕けて呉れ給へ
 三木氏 僕は譲るとは言はんが先輩は余り八釜しくいふて居る、併し僕は終始一貫党争を離れて居るのである
 福田又一氏(市正会) 三木・近藤両氏共発言を遠慮すべし
 若林氏 賛成々々
 吉川忠志氏 正副議長、もう二・三度御馳走しては如何
 松崎英太郎氏(自治会) 市正会が尾崎・添田・久保田三氏を推挙するのは事実か
 三木氏 未定であるが飽迄協調し度い精神である
 宮島氏 此場合渋沢老子爵を推して円満に協調の実を挙げ度いが如何
 三木氏 反対せず
 早川庄太郎氏(公友会) 俺れも賛成する
右座談の結果、更に懇談の余地ありとして、銓衡委員より答礼の意味で、正副議長を招待して、更に十五日、夜新喜楽に会見する事に決定した
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    渋沢子推薦は窮した結果
      名誉市長の意味で擁立
市会の多数派である自治会の永田助役推薦に対し、既報の如く十二日同助役は市会で当選の上は就任承諾する旨の意思表示をした為め、妥協乎、協調破裂乎、疑問とされて居たのが、急転直下協調破裂に瀕し愈々窮した結果、別項銓衡委員懇親会では遂に各派が之れ迄推した候補を暗々裡に自然消滅させ、将来の市政を円満に運行する上に障碍無からしむべく、市の長老であり久しく市社会事業(主として養育院)に貢献して来た渋沢子を名誉市長の意味で推薦擁立し、之を輔佐する助役には現在の三名を五名に増員しやうと云ふことになつた、這は市の事業が近時著しく膨脹し来り、従つて従来の助役三名では手不足だから増員して、教育・電気局・道路局・水道・衛生等を分担せしめて事務能率の増進を図る目的にも副はんとするものであると


中外商業新報 第一三三六〇号大正一二年五月一五日 市会各派は大勢渋沢子に一致 子が受けるか受けぬかが問題の分岐点(DK480093k-0004)
第48巻 p.300-302 ページ画像

中外商業新報  第一三三六〇号大正一二年五月一五日
  市会各派は
    大勢渋沢子に一致
      子が受けるか受けぬかが
        問題の分岐点
後任市長物色に関し、自治会は永田助役昇格説で臨んだに対抗し、三木・若林氏等一派の市正・新友両派は尾崎・添田・久保田三氏中から一名物色して正面衝突を来さんとし、此間に公友会は勝田主計氏を絡ませて頗る紛紏しかけたが、自治会側では永田氏で充分の勝味ありと信じ、更に各派間に永田氏が満場一致で無ければ就任せざるべしとの見地から賛否の
 態度を躊躇する者少からじと誤算した結果、十二日に至り同派策士は局面展開策として遂に永田助役に、当選すれば就任する旨を声明せしめて日和見連を糾合せんとした処、形勢は自治会の予測を裏切り、永田助役の右声明に依り悪化し、今迄永田氏の心事の公明淡白を信じてゐた連中迄も永田氏と自治会とは最初から諒解してゐた事が判明したので、種々なる心理状態の下に反永田勢澎湃し、即ち
 (一)後藤子の辞職は、表面の口実如何に拘らず事実は政策の行詰りと対政府関係の不良の為であるから、永田氏は其跡を襲ふのは全然無意味に帰し(二)又後藤子が辞めた上は後任市長決定次第、第三助役の辞職を当然なりとして其昇格を否定し(三)更に今迄永田氏の昇格に賛意を表した根拠として市役所内部の動揺を防ぎ池田・前田両助役の留任を条件としたのに、既に両助役は永田氏の下に助役たるを欲せざる決意を明にした為め永田氏推薦の理由消滅した
等の純理論の立場並に永田氏の声明は
 後藤氏とも打合せた結果で、之れ後藤氏の予定の筋書であり且つ後藤氏が台湾や満洲を去るに臨んで常に後藤系の勢力を扶殖する事を怠らなかつた過去の遣口に徴して、永田氏の昇格も這間の事情を諒解するに苦しまず、即ち東京市政に対しても台湾・満洲と同一筆法で将来の連繋を保たんとするは後藤子の遣口としては尤もであるが、翻つて
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市民の立場から之を見れば之れ植民地政治と帝都の自治行政を同一視するもので市政を弄ばんとする態度といふべく、仮令永田氏其人に反対で無くても
 其遣口には断然反対なりとの感情論より、永田氏昇格の形勢遽に楽観し得ざるに至り、越て十三日夜の懇親会に移るや自治会委員を除き市正・新友会両派は勿論、公友会・中立倶楽部共に殆ど一致して永田氏敬遠の態度を以て渋沢子を煩はさんとするに至つて、自治会は正面より之に反対し得ざるに至つた、去りとて永田氏を推薦し且つ永田氏をして其決心を声明さした手前、今更永田氏を捨てる事もならず、進退両難の苦境に陥り、別項十四日の総会でも同様の事情より、遂に渋沢子には反対では無い空気だと苦しい態度を示して
 此窮境を脱すべく苦悩して居るが、十五日の新喜楽に於ける第二回懇親会では、結局自治会は曖昧模糊の態度裡に各派の渋沢子推薦の大勢に押されて、事実上一先づ永田氏を捨てざるべからざる破目となるべく、這は全く自治会の策戦の失敗と永田氏の決意声明の軽挙とを語るものと解せられる、而して渋沢子が銓衡委員会及市会で一致される事は、最早大体に於て実現するものと見られるが、問題は果して老子爵が市長就任を受諾するか否かで、此点に就ては渋沢子推薦の各派でも確乎たる自信無きも、誠心誠意東京市政の為め
 老子爵の出廬を懇請すれば、東京市を愛する事最も強く、従来常に市政に寄与され、殊に市の養育院其他社会事業に著大の貢献をされた渋沢子は、必ず市当面の難局救済の衝に膺らるゝ望み無しとすべからずとして、飽迄同子の蹶起を促すべく最善の努力を為して、所期の目的を達成せんと目論で居る、要するに渋沢子が市会一致で推薦された場合、之を受諾するか什うかは今後の局面展開の分岐点である
    市会の三派総会
      何れも渋沢子
        推薦に賛成
東京市長後任問題は既報の如く十三日の銓衡委員懇親会で、将来市政を円満に運行する為め各派協調を持続すべく、何れも白紙主義に立帰る事として、遂に渋沢子推薦を提唱され、何人も之に反対の意を表する者無く、何れも進んで賛意を表したので、愈々渋沢子推薦に対する態度決定の為め、新友・自治・市正の各派は十四日夫々左の如く総会を開会した
 新友会午後三時半市会食堂に開会、入山祐次郎氏を座長に推し吉川天利両銓衡委員から、十三日夜の築地新喜楽に於ける銓衡委員懇親会の内容を報告し、次で同席上若林成昭氏から、中立倶楽部の宮島清次郎氏が渋沢子を推薦した経過に就て
 最初宮島氏が渋沢老子爵を煩して円満協調の実を挙げ度いと提唱したに対して、公友会が先づ賛意を表し、次で柳沢議長も此際是非渋沢子に就任を懇請し度しと述べた
と報告し、次で小久江美代吉氏は他派で満場一致承諾せざる場合は如何にするかと駄目を押したに対し、若林銓衡委員より
 無論此事は市会一致せざれば到底老子爵の蹶起を懇請する訳には行
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かぬから、一人でも反対のある場合は困るが、他派でも反対の決議をする事は絶対に無からうと信ずる、現に新喜楽の懇親会席上で一人の異議者無く、自治会選出の五銓衡委員も総て賛成の旨言明して居るから、若し自治会が渋沢子に反対する様な事があれば委員の面目が丸潰れとなり、委員の更迭を見なければならぬ故そんな事は万無からうと信じられる
と答へ、秋山朗氏は
 渋沢子は誠に結構である、今や東京市は世界的の都市であるから、之が市長には世界的人物を挙げねはならぬ、此意味で渋沢氏は最も適任である
と熱心に賛意を表し、尚第二・第三候補者に対しても特に格段の注意を払はれ度いと希望する処あつたが、此点は後日の問題として保留し夫より各自交々立つて何れも渋沢子に賛成の意見を述べ、最後に他派との交渉並に渋沢子の出廬に対し、挙げて銓衡委員一任として六時過ぎ散会
 自治会午後六時より丸の内中央亭に於て開会、坪野房治氏を座長に推し、小坂梅吉氏より十三日夜の懇親会の内容に就て詳細報告各自の意見を求むる所あつたが、既に市長問題は銓衡委員に一任してある以上は右委員に於て機宜の措置を執られ度しと一任し、渋沢子の推薦に付いて協議した結果、大体賛成の雰囲気裡に九時過散会
 市正会午後六時より京橋区築地野田屋に開会、旅行中の村山賢作氏欠席の外全員出席し、劈頭三木武吉氏より十二日夜同派の総会後の情勢、並に前夜の銓衡委員懇親会の顛末を縷述し、尚
 自治会を除く各派の委員は総て渋沢子推薦に賛成し、余も一応諸君の意思を徴した上確定の意見を述ぶるも会内には同子推薦に反対者皆無と信ずる
と附加した旨報告し、渋沢子推薦に関し協議した処、全員大白紙主義を以て市会の平和と市政の刷新を熱望する趣旨にて渋沢子推挙に賛成し、左記決議を為して十時散会
      決議
 市正会は市会各派一致して渋沢子を市長候補者に推薦し、同子爵の之を受諾せらるゝ事に最善の努力を為すべき事を決議す


東京日日新聞 第一六七五五号大正一二年五月一五日 他に人はない 永田氏に限るよ 渋沢子爵談(DK480093k-0005)
第48巻 p.302-303 ページ画像

東京日日新聞  第一六七五五号大正一二年五月一五日
    他に人はない
      永田氏に限るよ     渋沢子爵談
別項白羽の矢を立てられた渋沢子は、かねて大磯にある第一銀行某氏の別邸に滞在中であつたが、三・四日以前或用件で訪問した某有力者に市長問題に関し左の如く語つたとつたへらる
 市長問題も大分もたついて桐島君なども話しに出てゐる様だが、同君は断じて出まいし、その他二・三の顔触れもあるらしいが、どんなものかまあ余り問題を紛糾させぬ方がよからう、永田助役を市長に頼めばそれが一番いいぢやないか、これ位適任な人は現在の所他にあるまいと思ふ、よし他にあるとしてもその人には永田君を押し
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のけても市長になる気はちよつと起るまい、市会も東京市の為を思つたらせいぜい仲よくして永田君を市長に頼み、早くこれをまとめたがよいと思ふ、なに自分が市長になつたら何うかつていふ事か、それは昔の事だよ、老躯その職に耐へずでね、もう健康も許さぬし何んといつても老人の出る幕でもないからね、ハヽヽヽ


中外商業新報 第一三三六一号大正一二年五月一六日 各派代表委員で愈々渋沢子に交渉 十五日の銓衡委員懇親会で決定 十六日子爵と会見(DK480093k-0006)
第48巻 p.303 ページ画像

中外商業新報  第一三三六一号大正一二年五月一六日
  各派代表委員で
    愈々渋沢子に交渉
      十五日の銓衡委員懇親会で決定
        十六日子爵と会見
東京市会の後任市長候補銓衡委員の柳沢・近藤正副議長招待会は、既報の如く十五日夜築地新喜楽に於て開会、渋沢子爵推薦に関し食後協議した処、老子爵推薦には各派何れも異議無きも、渋沢子の出廬懇請に対し正式に市会の議決たらしめるか、或は単に市会代表の意味で銓衡委員会の決議とするかに就て
 各意見を交換した結果、市会の正式議決を以て推薦する時は第二・第三候補者をも同時に決定を要し、斯くては其手続多岐に亘るを以て此場合真に円満妥協の精神で子の出廬を懇請するには寧ろ銓衡委員会の議決を以てし、銓衡委員は市会を代表し誠意を披瀝して熱心に其蹶起を促すを可とするに一致、尚委員一同で渋沢子に会見するよりも、議長以下各派一名の代表委員で交渉の任に当る事とし、柳沢議長指名にて
 近藤達児(自治)・若林成昭(新友)・三木武吉(市正)・早川圧太郎(公友)・宮島清治郎(中立)
の五氏を代表委員とし会見の日時に就て
 打合せた結果、右代表委員は十六日午後零時半市会議長室に参集の上午後一時日本橋区兜町渋沢事務所に於て子と会見して、市長就任を懇請して飽迄其の承諾を得るに努力し、右結果は午後三時より直に第四回銓衡委員会を市会食堂に開いて報告することゝし十一時過ぎ散会したが、十六日の渋沢子との会見で子が果して出廬を肯諾するや否やを明答するか、将た即答を避けて考慮の時日を求むるかは疑問であるが、子が就任承諾の意思を表示すれば問題は直に鳧がつく訳なるも、不幸にして其就任を拒絶する場合は問題は更に逆戻りとなり、老子推薦で一段落として各派白紙主義となつて新規に銓衡蒔直しになるか、或は
 自治会の永田助役推薦、市正会の尾崎行雄・添田寿一・久保田政周三氏中一人と対抗決戦するか、二者其一に出づべく、若し渋沢氏拒絶の場合は結局決戦の外無かるべく、此処に至れば既に背水の陣を引いて就任の意思表示をした永田助役に、相当勝味がある形勢なりと観る者もある


(増田明六)日誌 大正一二年(DK480093k-0007)
第48巻 p.303-304 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一二年     (増田正純氏所蔵)
五月十六日 水 少雨
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定刻出勤
午後一時東京市会の市長詮考委員代表者として柳沢市会議長・近藤達児(自治)・三木武吉(市正)・早川庄太郎(公友)・若林成昭(新友)・宮島清次郎(中立)の六氏渋沢子爵を兜町事務処に来訪して、市長として出廬セられん事を請ふとの熱誠なる懇請ありしニ対し、子爵は予の主義より云ふも性格より云ふも到底其任ニあらす、殊に老体到底其劇職に堪ゆる事能ハさるを以て如何に勧誘あるも御断する外無しと謝絶セられしも、是非承諾を請うと之強請ありしを以て、子爵は強て素気無く断るも気の毒と明日午後二時東京会館に於て、右代表者中の総代と会見回答する事を約されたり
代表者中の三木武吉君は子爵の諾否に関セす、右回答セらるゝ前東京市政の現況に於て特ニ参考として談話致度とて、明朝九時飛鳥山邸ニ来訪会見する事を約されたり
本日の来訪者如左
○中略
田中太郎氏 市長問題ニ関する件
○下略
五月十七日 木 曇
○上略
今日ハ午後二時東京会館に於て、昨日来訪したる市長詮衡委員総代として柳沢市会議長子爵と会し、子爵より其諾否の決答を受く、子爵ハ勿論之を辞退する意志昨も今も変る処なし、断然之を謝絶セられたりと後事務処に出勤せられたる際承りたり


中外商業新報 第一三三六二号大正一二年五月一七日 市会各派代表の交渉に渋沢子固辞す 確答は十七日(DK480093k-0008)
第48巻 p.304-305 ページ画像

中外商業新報  第一三三六二号大正一二年五月一七日
    市会各派代表の交渉に
      渋沢子固辞す
      確答は十七日
東京市会の市長銓衡委員各派代表近藤・三木・若林・早川・宮島の五氏は、十六日正午過ぎ市会議長室に参集、柳沢議長と共に午後一時より日本橋区兜町渋沢事務所を訪問、階下応接室に於て渋沢子と会見、約一時間余に亘つて会談を遂げ二時過ぎ同事務所を辞去した
 渋沢氏と各代表委員との会見内容は、柳沢議長始め各委員より市会各派の希望並に銓衡委員会及同懇親会で老子爵を推薦するに至つた事情を縷陳し、此際是非出馬され度いと懇願したに対し、渋沢子は老齢且つ多忙にして到底東京市長の劇職に堪へざるの故を以て固辞したが各委員より市長銓衡委員会が候補者決定に就て協調の望み絶え、将来の市政を円満に運行すべく多大の
 支障を来し、全然行詰つたので、子の如き徳望高き人を敬仰推薦するに至つた事情を訴へて重ねて懇請した処、老子は
 余は一生を実業家の立場より国家に捧ぐるの決心を有して、国会開設後勅選議員として貴族院に議席を有した事あるも未だ一回も議席に着かずして辞退し、爾来屡々国家の要路に立つべく交渉を受けた事もあつたが、飽く迄実業家として国家に貢献すべく悉く之を断つ
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て来た、加之曩に老齢の故を以て実業界より隠退して、余生を四五の徳化事業に捧げ来りて今日に及んだ訳であるから、今に至つて東京市政に鞅掌せんとするが如きは到底不可能であるが、諸君の再三の御懇請に対して今日直ちに御断り申上げるは聊か礼を失する故、十七日午後二時頃柳沢議長に迄確答する事とする
と挨拶し飽迄固辞の決心の下に十七日迄考慮する事となつたが、子の
 出廬は最早到底望み無き模様である、従つて十七日の銓衡委員会では単に渋沢子の確答を報告するのみで物分れとなり、之以上銓衡委員会を開かずして柳沢議長は適当の時日に市長選挙の市会期日を決定し各派意中の候補を推して決戦の外無かるべしと観測される
    渋沢氏との会見結果報告
      市長銓衡委員会
東京市会の第四回市長銓衡委員会は十六日午後三時より開会、柳沢議長より別項渋沢子との会見顛末を報告して直に散会したが、十七日午後二時迄に渋沢子より確定の挨拶ある筈であるから、同三時より第五回銓衡委員会を開会する筈である
    自治市正
      両派総会
        今後の対策協議
渋沢子の市長候補諾否は十七日確答する事となつたに対し、永田氏推薦の自治会及三木一派の市正会は、十六日夜夫々左の如く総会開会種種協議する処あつたが、両派総会の内容は渋沢子の正式回答を待つ迄孰れも絶対秘密の申合せを為した
 自治会 丸の内中央亭に於て開会、近藤副議長より渋沢子との会見顛末を報告し、幹部・反幹部の睨み合の儘散会したが、銓衡委員一派の所謂幹部の意嚮は渋沢子拒絶の上は予定の方針で永田助役昇格一本槍で進む事となつた模様であるに対し、幹部側には永田氏反対の気勢が相当に潜んで居る形勢である
 市正会 赤坂錦水に於て開会、三木武吉氏より自治会同様渋沢子との会見内容を報告し、十七日同子爵の確答を俟つて更に対策を講ずる事として九時半散会


中外商業新報 第一三三六三号大正一二年五月一八日 予期の如く果して渋沢子受けず 十七日東京会館に於て柳沢議長へ正式に回答(DK480093k-0009)
第48巻 p.305-308 ページ画像

中外商業新報  第一三三六三号大正一二年五月一八日
  予期の如く果して
    渋沢子受けず
      十七日東京会館に於て
        柳沢議長へ正式に回答
東京市会の市長銓衡各派代表委員から十六日渋沢子に後任市長たることを懇請した件に就ては、同子より十七日確答することになつて居つた結果、子は同日午後三時丸の内東京会館に於て柳沢市会議長と会見し懇談約一時間、柳沢議長から十六日の会見に於て各委員より懇請した言を更に繰返し、猶世上銓衡委員会の態度を彼是批評する者あるも全く誠実に子でなければ解決の途無き所以を縷々したに対し、子は予定の如く正式に固辞した、而して子の辞退理由は略前日の会見で述べ
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られた処と同様で
 切角帝都の市長に推薦されたが、余は明治六年官界を辞して政界から関係を断つて以来約五十年に及び、其間明治卅四年の政変で伊藤内閣倒れて山県内閣組織の際故山県公から大蔵大臣の交渉を受けたが固辞し、之が為には公と絶交さるゝも仕方が無いと堅く決心した位に主義として政界に念を絶ち、其後実業界隠退後は社会事業並に文化事業に余生を捧げて来た次第で、今に至り東京市長たるは五十年来の主義決心にも反する
と云ふにあつた、依つて柳沢議長も之以上懇請の余地無しとして子の決意を諒とし正式会見を終つてから、更に個人として子と市長問題に関し意見を交換し適当の市長候補者に対し子の意見及斡旋を求めた処子は此場合仮令意中の人あるも言明を避けたいが、将来市会又は銓衡委員会の懇請ある場合は市長産婆役として犬馬の労を辞しないと陳べ猶市会の円満協調を希望する所があつたと
    銓衡会紛糾す
      正副議長一任問題で譲らず
      本日最後の委員会
東京市会の市長銓衡委員第五回は十五日午後四時市会食堂に於て開会柳沢議長より別項東京会館に於ける渋沢子との会見の結果、市長就任拒絶の顛末並に子の希望を報告した後、同議長は個人の資格にて渋沢子に
 市長候補決定に関する市会の現状は既に行詰つて如何とも出来難い状態に陥つて居るから、若し銓衡委員会で子を煩はして之が解決に尽力を乞ふ場合あれば子爵は御心配して下さるゝや
と尋ねた処、子は
 若しそんな場合には喜んで心配(市長推薦)するが、今の処別に考へは無い
と答へられた旨併せて報告し、尚同議長は
 此場合一言し度い、私は不肖の身で銓衡委員の一人となり諸君と共に円満に候補推薦の局を結び度いと考へ、曩に銓衡委員会で渋沢子を推薦するに当つては其形式を市会の議決として候補と為すべし、若し容れられない場合は市会議員を辞職すると迄言明した程である然るに今や問題は益々紛糾して来たから此上若し尚円満に協調解決し得ざる時は、直ちに議員を辞める覚悟である
と陳べて用意して来た辞表を示すや、近藤・福田・若林等の諸氏から此場合夫れは甚だ困るとて諫止する所あり、柳沢議長
 然らば此銓衡委員会の終了する迄副議長に辞表を預け置き、協調破裂の場合に備ふべし
と述べて近藤副議長に辞表を託し、愈々渋沢子拒絶後の善後策に就て協議に入るや、竹下延保氏は銓衡委員会を閉鎖して市会で決戦を行ふべしと述べたが、一先休憩し、休憩中各派委員は同志或は他派委員と三々伍々意見を交換し、渋沢子一任、議長一任、正副議長一任、議長一任の上副議長に相談すべし等諸説あり、竹下延保氏(公友会)は市長候補者の決定を正副議長に一任し度いと主張し、三木武吉氏(市正
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会)は渋沢子に推薦を一任するか柳沢議長一任か何れかにし度しと主張し、其理由として
 渋沢氏の市に最も公平忠実なる事は吾々委員の一人も疑はざる処であつて、此公平無私の子が吾々より懇請すれば喜んで心配して遣ると明言された以上、子に一任するが一番穏当である、次に又柳沢議長に一任するのは吾々が最も公正なりと信じて議長に選挙したのだから、議長の推薦に信頼し得る訳である、併し近藤副議長は銓衡委員会には副議長として参加せられたに拘らず、其言動は往々自治会員の立場で臨んで居られること幾多の事実が之を証明する故に、近藤君自身正副議長一任を遠慮する旨言明され度い
と正副議長一任に反対し、猶竹下氏と三木氏と更に右に関し押問答あり、垣見八郎右衛門氏(自治会)は竹下氏同様近藤氏が副議長たる以上議長同様に取扱はれ度しと主張したが、若林成昭氏(新友会)から
 条理の上からは、三木氏の主張が正しいが、円満に事を解決するには多少之を譲歩する意味合で議長一任として議長は副議長に諮問する事とし度い
と仲裁説を持出し、中立倶楽部の宮島清次郎氏よりは
 寧ろ此場合、市長推薦の権限は議長に一任し、議長が候補者を推薦する際は、近藤副議長に相談する事を、自発的に声明ある事を期待する
と若林氏と同巧異曲の提議あり、之に対し自治会側は尚正副議長一任を固執したが三木氏飽く迄反対して譲らず形勢頗る険悪となり再び休憩、休憩中自治及公友両会の委員は三木氏に渋沢氏一任の理由を質した処、三木氏は渋沢子一任は非公式に自治会の小阪氏其他が唱へた事があつたからだと釈明し、猶十七日渋沢子と三木氏との会見内容を質したが絶対秘密なりとして言明を避けた、斯くて三度び開会、公友会の竹下・早川両委員は
 今日に至つて猶斯くの如き問題で争ふ事は面白くないから之で委員会を閉ぢ、議長は直ちに市会を招集して決戦する外無い
と強硬説を唱へ、天利庄次郎(新友会)及び柳沢議長より懇談の提議があつたが、早川氏等は議長のみに一任に絶対反対を唱へて肯かず、此間近藤氏より正副議長に推薦一任の場合は自分だけは受けずとの声明あり、竹下氏との間に押問答あつたが到底決すべくもないので、当日は此程度に止めて十八日午後二時より最後の銓衡委員会を開き、単に正副議長に推薦を託すべきか否やに就てのみを議題として協議する事として八時過散会
    協調、破裂
      孰れか
        本日の銓衡会で
渋沢子の市長就任内諾拒絶の為め、市会銓衡委員会は更に適当の候補者を物色する事となり、別項十七日の銓衡委員会は円満協調の空気可なり濃厚となつて、遂に議長一任か正副議長一任の二者其一を選ぶ事迄漕ぎ付け稍解決点に近づいたが、自治・公友両派が暗々裡に一致して正副議長一任を固執し、三木氏之に頑強に反対したので折角解決の
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途に近づき乍ら、もう一歩と云ふ処で妥協破裂せんとして決定を十八日に延期した、而して市正会は同夜別項の如く直に総会を開いた処決戦論旺で三木氏は頗る之が慰撫に苦んだが、三木氏が大雅量の下に正副議長一任説に同意すれば問題は簡単に終局を告げるが、同派の強硬意見を抑止し得ず正副議長一任に反対の場合は直に協調破裂し、永田助役を擁立する自治・公友両派を向ふに廻して、尾崎・久保田・添田三氏中の一名で対抗決戦とするべく、果して三氏中の何れを以て永田氏に対抗するかに就ては三木氏の意中は尾崎氏らしいが、寧ろ久保田氏ならば自治会中にも賛成者多しと主張する者あり、一面添田氏の方可なりとする等一致し居らず、愈々決戦となつた場合には更に各派同志争奪戦と共に第二段の策戦として未だ協議か進んで居らぬ模様である、要するに十八日の最後の銓衡委員会で正副議長一任となるか否かが妥協か協調かの関ケ原である
    市正会の態度
      新友会と協調に決定
東京市会の市正会総会は十七日夜日本橋区亀島町偕楽園に於て開会、三木武吉氏より別項銓衡委員会の経過報告ありて、市長推薦権限を正副議長一任とすべきや否やを諮つた処、反対者多く決戦すべしとの意見多かつたが、友党たる新友会と協調すべく十八日午前十時より更に総会を開き、最後の態度を決定する事として十時過散会


中外商業新報 第一三三六四号大正一二年五月一九日 後任市長銓衡は結局正副議長一任 十八日の最終銓衡委員で決定 廿一日結果報告(DK480093k-0010)
第48巻 p.308-310 ページ画像

中外商業新報  第一三三六四号大正一二年五月一九日
  後任市長銓衡は
    結局正副議長一任
      十八日の最終銓衡委員で決定
        廿一日結果報告
東京市長の後任候補に関する市会の銓衡委員会最後(第六回)の会合は、十八日午後三時半市会食堂に於て開会、柳沢議長より渋沢子に市長就任の懇請を為したに対し、議長は銓衡委員会を代表して子に挨拶するを至当と考へるが如何と語り異議無く決定、次で愈々自治・公友両派より提出の後任市長推薦の権限を正副議長に一任すべきか否やを議題とし
福田又一氏(市正会) 正副議長一任の可否に就て自派の総会に諮つた所副議長に対し相当問題はあつたが、結局近藤副議長の人格を信じ飽迄柳沢議長と共に市会代表者として公平に市長推薦の任に当らるゝ事を信じ、正副議長一任に同意する
天利庄次郎氏(新友会) 自派より議長一任、正副議長一任を折衷して議長一任の下に副議長を諮問とする考であつたが、之が為め市会の紛糾するは遺憾であるから、協調の精神を以て市正会同様正副議長に一任する
と市正・新友会両派の賛成あり、最後に中立倶楽部の
宮島清次郎氏 一寸念の為質して置き度いが、自治会では今猶永田氏推薦の決心で白紙主義にあらずと伝へられて居るが果して事実か
と自治会側委員に駄目を押し、同派を代表して
 - 第48巻 p.309 -ページ画像 
小坂梅吉氏 自治会は渋沢子推薦に一致した時から既に白紙主義になつて居るので無論白紙である
と答へ、即ち満場一致でさしも紛糾を重ねた本問題も遂に柳沢・近藤正副議長一任で兎に角解決を告ぐる事となつた、右終つて
柳沢議長 左様に御決定になつた以上は能く副議長共相談して、公平無私の立場より適当の候補者選定に従事致します、而して今日只今より相談し度いが、事頗る重大であるから十九・廿日の二日間考慮の余地を与へられ、廿一日午後三時其結果を報告する考である
と述べ、次で同じく
近藤副議長 自分は市長推薦を一任されても御遠慮申上る考であつたが、満場一致で御信任下さつた以上は之を御受けし、議長と相談し公正に其任を完ふすべく、只市長銓衡に就ては自分より主として議長に重きを置く考である
と其立場を弁明し、三木武吉氏亦之迄の態度に就て毫も私心を挟まなかつた事を釈明して四時過散会
    何人を
      物色するか
        議長も白紙らしい
二十日余に亘つて紛糾を重ねた市長候補銓衡問題も別項の如く兎も角各派の協調成り、正副議長は果して何人を物色し来らんとするや、柳沢議長は市会の何れの団体にも属せぬといふ意味で此際相当に重きを為して居るが、近藤副議長の立場は自治会選出だけに可なり問題視されて居る、氏は自ら今後は副議長として充分公正の立場から議長と共に銓衡の輿望を全うすべき旨を誓つて居るが、併し市正会が柳沢議長一任を主張した際永田氏推薦派の自治会及公友会が正副議長一任を主張して、近藤副議長を最後迄支持した肚の裏は、仮令表面正副議長一任の形式でも白紙主義を装つても自治会に属する近藤副議長を傀儡として、飽迄永田助役昇格の目途とした策戦なること明かであるから、近藤氏が今後其誓言通り飽迄公正の態度を以て対し得るや否やは疑問と言はねばならぬ、市正・新友両会及び中立倶楽部側では
 已に正副議長一任とした以上従来の銓衡委員会の行掛りを一掃して各派で唱へた永田・勝田・添田・尾崎・久保田等の氏名を棄て新に他に適材を物色するであらう
と解して居るが、之に反し自治会の幹部側は
 永田助役で充分勝算はあるが、各派協調を標榜した手前決戦投票を行つて将来の市政に累を貽すよりも、事実上永田氏昇格の段取で単に形式を協調とするに過ぎない
として内意を近藤氏に含めて居るやうだ、柳沢議長は自治会側の註文通り果して永田氏を推薦するか何うか頗る疑問である、現に永田派と目せらるゝ公友会の一部でも、柳沢議長の性格から推して必ずしも永田氏を推薦するものと断ぜられないと観測して居る者もある、何れにせよ玆に一両日中の正副議長間に於ける銓衡協議に対しては、各派より夫々希望も提出せらるべく、中立倶楽部の一角からは新に金子堅太郎氏を持ち出して議長に迫らんとの説さへある、一方柳沢氏は寧ろ既
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出の候補者を一擲し、全く新人物を推薦するならんと推測するものもあつて、何人を銓衡し来るやは到底窺知し得られないが、議長自身も或は未だ全く白紙状態であるやも知れぬと思はれる
    市会各派総会
      正副議長一任決定
東京市会の新友・市正・公友の各派は十八日夫々総会を開いたが、其経過概要は左の如くである
 新友会 午後二時より市参事会室に開会、若林・天利両氏より前日の市長銓衡委員会の経過を報告して、正副議長一任の可否に就て協議する所あり可なり議論あつたが、結局一任する事として三時半散会
 市正会 午後三時より市会控室に開会、前日に引続き正副議長一任の可否を協議し反対意見多かつたが、三木・福田両銓衡委員の慰撫に依り結局正副議長一任と決して直ちに散会
 中立倶楽部 午後二時市会控室に開会、宮島清次郎氏前日の銓衡委員会の経過を報告した後、正副議長一任として三時過散会
 公友会 午後六時日比谷陶々亭に開会、早川・竹下両氏より別項十八日の銓衡委員会で市長推薦するを正副議長一任に決定した経緯を詳細報告し、次で市長候補の適材に就ては正副議長に同派の希望を通ずべしとの意見も出たが、結局機宜の措置は銓衡委員に一任する事として九時半散会


中外商業新報 第一三三六六号大正一二年五月二一日 後任市長には結局永田氏推薦か 柳沢・近藤正副議長の銓衡 両者の意見は尚一致せぬが(DK480093k-0011)
第48巻 p.310-312 ページ画像

中外商業新報  第一三三六六号大正一二年五月二一日
  後任市長には
    結局永田氏推薦か
      柳沢・近藤正副議長の銓衡
        両者の意見は尚一致せぬが
後任市長人選で紛乱を重ねた市会の銓衡委員会は、既報の如く去る十八日の委員会で柳沢・近藤正副議長一任に決し各派共表面全然白紙主義に戻り、従つて後任市長の指名推薦権は正副議長の手中に帰したので、翌十九日は帝国ホテルに於て正副議長が約一時間に亘つて会見を遂げ、更に廿日には近藤副議長は議長柳沢伯邸を訪ひ両氏鳩首密議約一時間半に及び、近藤副議長は
 市会の大勢は最早永田助役昇格の外無く、而して永田氏を指名推薦せば吾々正副議長に一任の手前、反永田派の市正・新友会両派と雖も之に反対し得ないだらう、又永田氏以外の人物を推薦しても永田氏擁立の自治会が之に不同意を唱へ得ぬとしても、市長決定後の市会に至つては何れに決定するにせよ従来よりも険悪の気勢漲るべく而も這は到底避け難い事態であるから、是非現在市会の多数が信任して居る永田助役の推薦に同意され度い
とて同意を求め之に対し柳沢議長は市会の大勢は確に今日に至つては永田派多数であるが、併し反永田派との喧嘩両成敗の意味で従来爼上の候補者を総て抹殺し度い意思らしい、然るに既に「当選の上は就任する」と敢然意思表示して土俵の上に立つた永田氏を向ふに廻して到底決戦を試みんとする人も無からうし、議長自身も亦這般の消息を読
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んでか、近藤副議長に対しても永田氏以外に適材を見出して相談して居らぬことは明かで、随つて現在の処正副議長の肚が未だ一致した訳で無いが、廿一日午後三時には銓衡委員会で銓衡の経過を報告する順序だから、右時刻以前両氏に於て最後の協議を進める筈であるが、如上の事情に依り市会の現状では柳沢議長にして仮令他に適材を求めんとしても、自治・公友会両派が永田氏推薦の下心を以て自治会所属の近藤副議長を加へて正副議長一任としたのだから、結局多数派を代表する近藤副議長の意見を尊重して永田氏を推薦する外ない形勢である
    未に解らぬ
      柳沢議長の肚の裏
        今尚晴れぬ市長後任問題
後任市長推薦は既報の如く柳沢・近藤正副議長の協調如何に依つて決せられる訳だが、柳沢議長は市会の何れの団体にも属せず純然たる無所属で、随つて至公至平の立場にあるに反し、近藤副議長は市会の多数派たる自治会に属し而も自治会は永田助役昇格を真向に振翳して飽迄其実現に努力し遂に永田助役をして市長就任の意思を表示せしめた手前、仮令其推薦権は表面正副議長に一任し且形式的に白紙主義を装ふても、近藤副議長を使嗾して飽迄永田助役昇格の初志を貫徹せんとし、政友派の公友会は暗黙の裡に之を承認し、自治・公友両会の永田派は既に永田氏の市長を確定的のものと見て居るに反し、反永田派の市正・新友両会は純然公正の立場にある柳沢議長は勿論、縦令自治会所属の近藤副議長と雖も市会の代表たる以上、露骨に我田引水の態度を以て永田氏を推薦することを得ぬのは明白であつて、結局事実上の推薦は柳沢議長の方寸にありと観測し、同議長は必ずや将来の市会の平和を念として、従来問題となつた人々を一掃して新に適材を物色するだらうと各派共各々自派に都合の良い観測をして居る、而して正副議長は一任以来両氏の下に「是非永田氏を出すべし」「永田氏以外から物色すべし」等の脅迫状や激励的書面又は電話が旺に舞込むさうで是等の出所は主として市会議員が多い模様である、夫丈け又両派共真剣に各其目的の達成を驥望して居るから廿一日の銓衡委員会で正副議長が一致推薦した人には一旦一任した以上、政治道徳上異議を唱へまいが、其後の市会は永田氏が当選し又同氏以外の人が市長に就任しても可なり面倒を惹起するに至るべく、主として推薦の責任に当る柳沢議長が永田氏を推薦しても、更に又同氏以外の人を推しても、到底市会に留まることを得まいから予定の外遊をも口実に加へて結局議長を辞するの外無からう、而して其辞職の時期は後任市長選挙後であらう因に廿一日の銓衡委員会で正副議長から後任市長指名推薦の結果に依り、永田派の何れか一方が不満に畢るのは必然の事実であるが、其際正副議長に一任したのは、只市長の銓衡を一任したのだから、其顔触れ如何に依り可否の意見は各自勝手だとの三百的屁理屈を唱へて居る者もあるけれども、到底そんな勝手な態度を執ることは不可能だらう随つて正副議長一致で推薦した候補者は市会の多数が同意すると見るべく、最後に正副議長の意見不一致の場合に於ける問題が理論上当然残る訳である、既に近藤副議長は柳沢議長の意見を主として自分は従
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たる立場にあると言明した以上、仮令柳沢議長が永田氏以外の人を推薦して近藤氏に其同意を求めても拒み得まいから、両者の協調破裂は万無からうと観測される


中外商業新報 第一三三六七号大正一二年五月二二日 正副議長の市長推薦 意見遂に合はず 銓衡委員会遂に解散す 廿五日午後四時決選市会(DK480093k-0012)
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中外商業新報  第一三三六七号大正一二年五月二二日
  正副議長の市長推薦
    意見遂に合はず
      銓衡委員会遂に解散す
        廿五日午後四時決選市会
東京市長後任に関する市会銓衡委員会は既報の如く、廿一日午後三時市会食堂に開会、之より先同午前中滝野川渋沢子爵邸に主人子爵及柳沢・近藤正副議長会同、後任市長推薦に対する最後の協議を進め、柳沢議長は自治会側の希望に関せず飽迄公平振を発揮して、勝田主計・久保田政周両氏を推薦、先づ第一に勝田氏を推さんとし、近藤副議長は自治会側の意を体して永田助役昇格を固執し両者の意見一致せず、渋沢子は黙々として唯両者の論議を傍聴し何れも適材であると云ふのみで可否の意見を漏らさぬ為、遂に正副議長一致協調に至らずして其儘午後の銓衡委員会に臨んだのである、斯くて柳沢議長同会の開会と共に開口一番沈痛の語気を以て
    柳沢議長の報告
 後任市長推薦に関し正副議長に一任されて以来誠心誠意物色に腐心し、渋沢子と正副議長とは殆ど連日会見し寝食を忘れて協議を進めた結果候補者三名を挙げたが、其中何人を第一に推すべきかに就て正副議長の意見一致するに至らず遂に協調不能に終つた、這は諸君の期待に背き甚だ遺憾とする処である
と銓衡協議の経過を報告するや
 三木氏(市正会) もう一歩といふ処で両氏の意見が岐れたのは甚だ遺憾である、更に進んで今一応誠意を披瀝して交渉せられ何とか円満に協調することは出来ないか
と希望したが、柳沢議長は更に藉すに時日を以てするも到底協調の見込はなからうと答へ、近藤副議長亦同様協調の見込なきを告げ、尚
 柳沢議長 渋沢子が三名の候補者に就て選択して下されば直に之に同意して譲歩する考へで子が何人かを推されん事を密に大に期待したが、其点に関しては子は一言も挟まれなかつた
と附加し
 倉田氏(自治会) 正副議長に於て一致点を見出し得なかつた以上此上の時日遷延して市政の渋滞を来してはならぬ、之を避ける為には銓衡委員会を解散して市会で決戦するの外ない
 三木氏 先般柳沢議長は辞表を提出せんとされたが、之は円満に解決し得ない場合には将来市会の不円満を来すことを惧れた為で、此点は近藤副議長も同様であらう、斯くの如き事になつては更に市会の紛糾を繰返す事となるから、今一応正副議長の交渉を煩はし度い
早川氏(公友会) 此場合正副議長の辞表云々とか市会の紛擾とか云ふのは脅威の意味を含み不穏当であると思ふ、随つて再交渉には反
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対である
 垣見氏(自治会) 曩に田尻子と阿部浩氏とが市長選挙で決選し僅少の差で田尻子が当選したが、其後の市会は円満に進行し別に紛乱を見なかつた、亦円満協調を見なかつた責任から正副議長辞職の言があつたが、之れは銓衡委員一同も共同責任である
 竹下子(公友会) 既に渋沢子推薦で一致し、次で正副議長一任で一致し、二度迄協調の下に一致点を見出したに拘らず、更に三度論議せざるべからざるに至つたのは遺憾である
と冒頭して同じく決選の外なきを主張し、三木武吉・若林成昭(新友会)両氏は議長に対し正副議長銓衡の内容を質した処
 柳沢議長 勝田主計・久保田政周・永田秀次郎(年齢順)三氏を候補者として余は勝田氏を第一に推した処、近藤副議長は之に対し賛否の意見を述べずに永田助役の昇格を主張し、両者の意見扞格して一致するに至らなかつた訳である
と答へ、最後に自治会の松尾要氏亦決戦を主張し、即ち自治会・公友会両派から銓衡委員会解散並決戦の主張止まず、遂に満場一致本委員会解散に決定し、市長選挙は遂に議場で争ふ事となり四時散会した
    後任市長選挙市会
        廿五日に決定
別項の如く、市会の市長銓衡委員会は遂に協調破裂して解散を告げ、愈々市会議場に於て決選する事となつた為、市長選挙の市会期日は来廿五日定刻(午後四時)開会と決定した
    決選投票
      には永田派が
        三分二を占めん
去月廿六日後藤子が正式に東京市長の椅子を去つて以来既に約一ケ月を経過し、其の間市会の後任市長銓衡委員会は同懇親会(二回)を併せて前後九回も開かれ、各派共徒に誠意無き協調宣伝と駈引戦に耽り体裁丈の渋沢子推薦で一旦一致したが、推測通りの同子の拒絶に最後の正副議長一任となつて僅に維がれた協調も、別項の如き両議長の意見合はず遂に決戦の外無きに立至つた、抑々事の玆に至つたのは要するに各派共表面協調を高唱しながら、裏面に於て何れも自派に都合の好い候補者を推さんとして互に譲らなかつた結果で、其罪は各派の共同責任である、此上は最早各派の策士が如何に藻掻いても到底円満協調の望み無く、廿五日の市長選挙市会には自治会は当初の目的通り結束して永田助役に投票し、市会定員八十八名中
 △自治会卅名全部△公友会十二名全部△中立倶楽部八名中五、六名(本田・託摩氏の反永田派を除く)△新友会より大野敬吉・小久江美代吉・秋山朗・本宮辰次郎四氏△市正会から村山賢作・高橋俊太有竹雅巳氏等三名合計約五十四、五名
の多数を糾合して必勝を期し、更に一般情勢が斯く永田派に有利になつた以上、所謂事大思想者流が尚相当馳参するものと見て約六十名の多数を制し得ると楽観して居る、之に反し反永田派の市正会・新友会は気勢甚だ昂らず、市正会の意中の候補者は久保田政周氏に一致して
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居るも、友党たる新友会との交渉上未だ其の態度明確にし得ず、廿二日より両派交渉委員会で協議して更に中立倶楽部に交渉の予定である以上の如く勝敗の数は最早問題でなく一ケ月に亘つて紛糾した市会も永田助氏の昇格で鳧の付くのが最早確定的事実と見るべく、而して永田市長の下に従来の行掛り上市正・新友両会が果して好意を持し得るか、又永田氏が是等反永田派を如何に操縦するかの二点と、銓衡委員会の協調破裂の場合に辞職すると言明して辞表迄示した柳沢議長の去就如何であらう
    協調破裂善後協議
      新友・市正・自治
      各会派の総会
別項市長銓衡委員会の協調破裂に付善後策協議の為、市会の新友・市正・自治の各派は廿一日夫々総会を開いたが、其経過概要は左の如くである
◇新友会 午後四時市会参事会室に開会、若林成昭氏から銓衡委員会の経過報告あつて善後策に就き協議の結果、大野敬吉・小島七郎・入山祐次郎三氏を交渉委員に挙げ、市長人選並に各派との交渉を一任することとし五時過散会した
 ◇市正会 午後四時市参事会控室に開会、三木武吉氏より同じく経過を報告し協議の結果、大体正副議長で銓衡した勝田・久保田・永田三氏中に就き久保田氏を推薦するに内定し、大石熊吉・瀬川光行・戸倉嘉市三氏を交渉委員に挙げ他派との交渉を一任することゝし五時過散会した
 ◇新友・市正会 両派の交渉委員聯合会は両派総会後直に開会、種種意見を交換したが、廿二日午前十時更めて協議することゝし直に散会した
 ◇自治会 午後六時日比谷公園松本楼に開会、安東正臣氏を座長に推し、松崎・小坂・垣見各銓衡委員から協調不調の次第を報告あり、宇都宮政市氏は「事此に至つては是早既定の方針通り永田助役昇格を以て結束すべし」と提議し種々意見が出たが、結局幹事並に銓衡委員に対し、議場に於ける決選投票の際は各派の同志糾合に就て最善の努力を希望し、廿三日(場所時刻未定)更に総会を開くこととして九時過散会した、尚中立倶楽部は廿二日午後一時、新友会及市正会は廿四日午後三時夫々市役所内に於て又廿三日は午後三時から市政会は市役所同六時から公友会は日比谷松本楼に於て何れも総会を開き、廿五日の市長選挙市会に対する最後の協議を為す筈である


実業公論 第九巻六月号・第一九―二〇頁大正一二年六月一日 新東京市長を迎へて 子爵渋沢栄一(DK480093k-0013)
第48巻 p.314-316 ページ画像

実業公論  第九巻六月号・第一九―二〇頁大正一二年六月一日
    新東京市長を迎へて
                    子爵 渋沢栄一
        ◇
 後藤前市長が一度辞意を決せらるゝや、東京市会は嘗て予期しない突発的な事実なので一驚した議長を始め、議員の面々は尠なからず狼狽の体であつた。
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        ◇
 抑も後藤子が市長の職に任ぜらるゝ時は市長として事務の一般は勿論延ひて国運隆盛の為めには東京市財政の整理、市政の刷新等の重任を担つて起ち、市民も亦大に氏に望を嘱したるのであつた、然るに未だ是等の重要懸案が眼前に横はつて居るにも拘らず突然職を辞したるは、市民に恰も市の発展上利器を失つた様な感を抱かしめた、併し既に辞した以上は詮方なき事で、玆に於て吾等市民は市長後任者を選定せねばならなかつたので、爾来之れが銓衡には焦慮に焦慮を重ねて居つた、元来世人の知る如く、市会にも政党と同じ様に公友会とか、市正会・自治会などの各派があつて、各派議員は互に自己の党派の勢力発展上所属派の市長を推うとして居つた、素より余は市各派の内容に就ては関知する所でない、或は井上準之助氏を挙げんとしたり、又或は余にまで委嘱し来つた、繁多複雑なる市長の重職に余の如き老齢者の能く其の任に堪ゆる所でない、之は常識で直に判然し得らるゝ事で真面目な評議とは察せられない、然るに種々混沌たる経路を辿つて遂に永田秀次郎氏が多数に推されて市長に就任した、素より市長たるものは市民との間に充分な諒解かなければならぬ、永田氏の当選は蓋し当を得た事で又自然の帰趨であらう、永田氏は事務家であり又感情により事を処するといふ人でもない、且つ二年以上後藤前市長の助役として市長代理事務に鞅掌して居つた為めに、自然市の現状に就ては他の人より一層精通せると思はれる、如何なる官歴を有する人なるかは知り得ないが、余は元来人の人物評は好まない、故に永田氏の批評は玆に避けたいと思ふ、唯余が凡て市長に望む事は其の職務に誠実熱心なるは勿論、熱烈な感情的な人でなく、冷静的な観察力を有する人であつて欲しい、如何に東京市の事業が大なるにもせよ、政府に頼らず二百万の市民に頼るべきである、而して市長たる者は二百万の市民の信頼を受くるに値する人でなければならぬ、而して又財政・政治及社会政策の方面より云ふも、知識と才能を具備し上下より充分に信頼せらるゝ人たるを要するのである、然らば将来新市長が東京市の大計画大事業を能く遂行し得る人なるや否やは何人も今日直に之れを速断し難いのである、其の実績は姑く傍観せんとするのである、如何なる敏腕家と雖も相当の時期と余裕を与へなければならない、昨日播いた麦は明日刈取る事は出来ないのである、急進は大に戒しむべきであるがさりとて怠慢の弊に陥れと云ふのではない、唯着実、穏健な方針で市民本意で奮励することは軈て衆望を一身に収むることゝならう。
        ◇
 八億円計画に就き屡々余の所見を問ふ人あるが、余は市政の内容に関しては甚だ疎いから之れに対し明確適切な答弁はなし得ざるを遺憾とするが、唯玆に一言せんとするは八億円はさて措き六千万円も可なり、須らく計画は実行が第一である、如何なる名案も実行之れに伴はざる時は遂に形式・空論となり終るのである、堅実な目的を以て計画を立て敷設・改造も出来得るが、唯当面に映じた単純な考へから尨大な企図・計画を為すは為政者として最も慎しむべく又戒しむべき事である、要するに為し得らるゝ最も良き事を為すにある。
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 現在余は東京市参与と云ふ吏員の職にある、併し市長の指揮は待たぬが共に提携して市の事業に干与して居る、今より四十九年前東京市養育院を設立して爾来之れが経営に従事し来り、目下其院長の職を勤めて居る、創立当初は極めて微々たるものであつて僅かに二百人たらずを収容して居つたが、後着々発展し来り今日では二千百人の多きに達した、素より社会奉仕と云ふか、民衆本位と云ふか、要するに東京市民の為めにせる一念より生れた事業であつて、不知不識の間に規模が拡大され、今や板橋に三万坪の地を卜して、遅くも本年七月までには移転の計画である。(談)