デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
3款 東京市長銓衡
■綱文

第48巻 p.316-323(DK480094k) ページ画像

大正13年9月20日(1924年)

是月、永田秀次郎、東京市長ヲ辞任ス。是日栄一、市会全員協議会ノ依頼ニヨリ、市長候補者井上準之助ヲソノ邸ニ訪問シテ、市長就任ヲ懇請ス。井上辞退ス。

十月一日、栄一再ビ市会議員ノ依頼ニ応ジテ、市長候補者後藤新平ヲソノ邸ニ訪問シテ、市長就任ヲ懇請セルモ、後藤マタ受諾セズ。後、中村是公市長ニ就任ス。


■資料

竜門雑誌 第四三三号・第二―三頁大正一三年一〇月 私の接した最近の二大問題 青淵先生(DK480094k-0001)
第48巻 p.316-317 ページ画像

竜門雑誌  第四三三号・第二―三頁大正一三年一〇月
    私の接した最近の二大問題
                      青淵先生
○上略
      市長問題の成行
 永田前市長のやうな良市長を得たことを喜んで居たのに、遂にその辞職を見たのは残念である。田尻さんの後へ後藤さんが市長になられる時、私は大磯に避寒して居た処が、坪谷善四郎君が市会議員として来てこの相談を持ちかけた。それから柳沢議長とも会つて話しは順調に進んだが、当の後藤さんは他に仕事があるので中々受けなかつた。併し先づ都合よく就任して下さつて、その後が永田市長に代つた。私は後藤さんにはどうせ長く市長は御願出来ないと思つて居たので、永田さんに代つたのはなるべき様になつたのだと考へて、良い市長を得たと喜んで居たら、此度のことが起つた。其処で私も前の関係者として、柳沢議長・近藤副議長其他市会の人々の御依頼で、後任市長に当選した井上準之助さんと銀行倶楽部とか御宅とかで度々会見し、是非にと御願ひしたが、その希望は達せられないで、市会の熱心さも無駄となり、遺憾であつた。そこで又再び後藤さんにお願ひしようと云ふことになり、九名の議員の方が私に相談されたから私は賛成して、後藤さんをを訪ね、叮嚀に約二時間ばかり懇々と勧めて見たが、甚だ望み薄く感ぜられた。どうもお断りになりさうな模様である。以上は唯今即ち十月二日朝までの大体の経過であるが、斯様に市長問題が難関
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に陥ることのあるに対して、私はその推薦の方法に改善を行ふ必要があると切に思つて居る、私は法律のことには素人であるが、東京市の市長難の一つは、市長が余りに仕事の寸尺をつめられて居るにあるのであつて、制度に欠陥があるからだと見て居る。故に市将来の事を考へて、今後は今迄のやうな物議の生じないやうに、制度の上に改正をせねばなるまい。また市会議員の多くは単に目前の自己の主張に勝を得ようとばかり努めて、市全体の為め協和して事に当るといふ精神が少ないやうな惧れはないであらうか。これは斯様な議員を選んだ市民の罪もあるが、議員諸君も市百年の大計を図る公職にあることを自覚し、目前の勝よりも道義的公共心に基いて進退せねばなるまい。如何に制度が整つても之を運用する之等の人々が適当でなければ何等の効果を齎さないのである。これは徒らに市会議員を罵るのでなく、真に東京市を思ふから云ふ訳である。
○下略


竜門雑誌 第四三三号・第三七頁大正一三年一〇月 青淵先生動静大要(DK480094k-0002)
第48巻 p.317 ページ画像

竜門雑誌  第四三三号・第三七頁大正一三年一〇月
    青淵先生動静大要
      九月中
十七日 東京市長後任問題に関し井上準之助氏と会見(東京銀行倶楽部)し、後柳沢東京市会議長等と会見(渋沢事務所)。
  ○中略。
十九日 東京市長後任問題に関し東京市会全員協議会(東京市会議事堂)に出席。
二十日 東京市長後任問題に関し井上準之助氏と会見(同氏邸)。


中外商業新報 第一三八三一号大正一三年九月六日 電気局長問題に絡り永田市長辞職(DK480094k-0003)
第48巻 p.317-318 ページ画像

中外商業新報  第一三八三一号大正一三年九月六日
  電気局長問題に絡り
    永田市長辞職
      馬渡・田島・吉田三助役
        も同時に辞表提出す
別項五日の東京市会で、永田市長の推薦した岡野昇氏が
 七票の差 で敗れ、前東京鉄道局長大道良太氏が当選したので、永田市長は市会散会後直に市長室に、柳沢・近藤市会正副議長を招致、辞職の決心を声明した後、更に三助役を招致して協議の結果、馬渡・田島・吉田三助役も連袂辞職することゝなり、直に十時内記課長をして芝公園の府知事官舎に宇佐美知事を訪はしめ、辞職の手続きをなさしめたが、なるべく六日中に内務大臣から
 辞職認可 のあるやう取計らはれたき旨をも通じた、右につき永田市長は語つて曰く
 自分は一電気局長の問題で辞職しやうとは全く夢想だにもせなかつた、しかし自分の推薦した岡野氏が市会で否決された以上、市長不信任の決議されたも同様であると考へて、即時辞職を決行した次第である、もつとも市会の雲行が険悪であると聞いたから、若し市会で岡野氏が否決される時は、辞職の外はないと覚悟はしてゐた、尤
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も電気局長の選挙に対し岡野氏を推薦したのは全然自分一人の考で此点に就ては別に助役に責任がないのだが、三助役とも辞職すると申出たので、自分の辞表と共に直ちに知事に提出することゝした
とのみ多く語るを避けてゐた、市長及び助役が辞職したので、後任市長が決定するまで知事が市長職務管掌を任命するに至るべく、さきに
 田尻市長 の辞職した当時、東京府は時の内務部長大海原重義氏を市長職務管掌に任命したが、今度も百済内務部長の任命を見るであらう、なほ後任市長には震災後帝都復興事業その他政府の力にまつもの多く、従つて現内閣系の人を迎へて復興事業の促進を図らなければならぬ関係上、憲政会若しくは政友会系から選挙されるであらうが
 現在市会 の分野は、市正・新友会の両派は大体憲政系で、自治会は政友会及び旧国民党及び中立にて何れも過半数を制する能はず、後任市長選挙を機会に市会の分野にも相当離合集散を見るべく、従つて市長の決定までには幾多の波瀾を巻き起すべく、かつ相当時日を要するであらう
    市電気局長に大道当選
      五日東京市会で
東京市電気局長選挙を議題とする五日の東京市会は、局長
 候補者 に関し各派交渉に手間取り、定刻の午後四時に至るも容易に開会の運びとならず、永田市長の推薦した岡野昇氏を排し、大道良太氏を推さんとするもの優勢なので、かくては市長の進退に関する重大事に立至るからとて、市長擁護の立場にある自治会側は、各派交渉会席上で極力選挙の延期を主張したが、大道派があくまで選挙即行を主張し、決選の外なきに至つたので、午後七時に至り漸く開会、柳沢議長開会を宣し、直に
 △東京市電気事業担任の市参与選挙(局長選挙)に入り、投票
 立会人 は柳沢議長指名にて戸倉・島田・大崎・吉川四氏を選定した後単記無記名にて投票の結果、出席者総数七十六名中柳沢議長を除き投票総数七十五票にて
       当選  四十一票  大道良太
       次点  三十四票  岡野昇
大道氏七票の差を以て当選、同七時廿五分散会した、なほ大道氏を推したのは憲政系市正会及び新友会と新交会中鳩山一派で、大道氏擁立の裏面には真に大道氏を電気局長の適任としたものよりも、寧ろこれがため市長の不信任を間接に発表する結果となり、その辞職を予期して市長の推薦せる岡野氏に政略的に反対したものが多数であると


中外商業新報 第一三八四四号大正一三年九月一九日 井上氏を起たすべく 銓衡委員の大活動 後藤子は匙を投げ 渋沢子は慫慂快諾(DK480094k-0004)
第48巻 p.318-319 ページ画像

中外商業新報  第一三八四四号大正一三年九月一九日
  井上氏を起たすべく
    銓衡委員の大活動
      後藤子は匙を投げ
        渋沢子は慫慂快諾
東京市会の市長銓衡委員は、既報の如く市長候補を断つた井上準之助氏にあくまでけつ起を促すべく
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 各委員 が十八日朝来手わけして後藤子・渋沢子・山本達雄男を訪ひ、井上氏が市長就任を承諾するやう再び尽力を懇請したところ、渋沢子は名誉職市参与の立場から帝都復興の大事業を控た東京市の現状は、真に大手腕ある好市長を要求して居るとの見解の下に再勧告を快諾し、十九日午後二時から開会の市会全員協議会に出席して、議員全部一致して井上氏を推薦する光景を目睹した上で井上氏と会見し、協議会の内容を説いて、市会が誠心誠意でその出馬を求めてゐるから是非とも二百万市民のためけつ起するやう極力慫慂することゝなつたが後藤子は井上氏に再勧告するための何か新しい理由でもあるかと委員連に質したが何等新理由のなきを知り、既に市会の代表者が二回にわたつて懇請したに拘らず拒絶した以上、再び努力するの余地なしと
 再勧告 を断り、山本男は後藤子程強い言葉を避けたが、気乗りのしない態度を示した模様で、既に後藤子・山本男等の井上氏昵懇者が斡旋を避けた以上、渋沢子は如何に努力しても九分九厘までは拒絶するものと見られて居る、何れにしても十九日の市会協議会後における渋沢・井上両氏の会見により最後の起否がわかる訳である


中外商業新報 第一三八四五号大正一三年九月二〇日 渋沢子迄出席し井上氏の承諾を懇請決議 市会全員協議会(DK480094k-0005)
第48巻 p.319-320 ページ画像

中外商業新報  第一三八四五号大正一三年九月二〇日
  渋沢子迄出席し
    井上氏の
      承諾を懇請決議
      市会全員協議会
東京市会全員協議会は、十九日午後三時半市会控室に開会、全員八十余名中僅に四十余名出席、柳沢議長から
 今日渋沢子爵が市参与の資格で協議会へ出席し、井上氏出廬のため御尽力下さることゝなつて居る
と報し、満場拍手裡に渋沢子出席の上、市会代表者の依頼によつて去る十五日井上氏と会見した顛末の報告があり、年長者島田藤吉氏は左の決議文を朗読し、これまた予定の如く全員一致で可決し、次いで柳沢議長は井上氏の出廬方に関し渋沢子の労を謝し更に今後尽力を懇請し同子快諾、次いで決議文をもたらして井上氏を訪問のため柳沢・近藤正副議長及び長谷川(自治会)・鎌田(新友会)・大石(市正会)片山(新交会)・小久江(十日会)氏等各派一名づゝの代表者を選出し、同四時散会した
 東京市会全員協議会は、井上準之助君を市長候補者として適任者と認め、満場一致を以て同君の承諾を懇望す
    再び井上氏と交渉
      熟考を促がす
別項十九日の東京市会協議会の決議をもたらして、柳沢・近藤正副議長以下各派代表者は、同夜十時麻布三河台町の井上氏邸を訪問会見し柳沢義長から
 曩に市長就任を懇請し、一旦拒絶されたが本日市会協議会で是非貴下が蹶起されるやう再考方を懇望して居る
と述べ重ねて市長たらんことを懇請し、なほ廿日早朝渋沢子の訪問が
 - 第48巻 p.320 -ページ画像 
ある筈であるから、是非再考の上市会の意を容れられたいと、るゝ陳述して、約三十分後一同井上氏邸を引あげたが、結局引受けさうにもない模様であると
    口説落しに
    井上氏を訪問
      二十日渋沢子が
別項十九日の市会協議会で井上氏口説き落としの重任を引受けた渋沢子は、廿日午前七時頃、麻布区三河台町の井上氏邸を訪問し、市会協議会の模様を述べて、復興の大事業に当面した東京市政の難局に立たるゝやう懇請し、井上氏が市長就任拒絶の理由たる経済聯盟の如きも今直に片付く訳でもないから、市長の職にあつて徐にその方の計画を進められたいと、極力井上氏の出馬を求める筈である


中外商業新報 第一三八四六号大正一三年九月二一日 井上氏断然拒絶 拒絶理由を発表す;井上氏の拒絶で市長銓衡逆戻り 廿四日委員会開会の筈;後藤子擁立の企もあり 市長銓衡混沌、何れ猛烈な争にならう(DK480094k-0006)
第48巻 p.320-321 ページ画像

中外商業新報  第一三八四六号大正一三年九月二一日
    井上氏断然拒絶
      拒絶理由を発表す
重ねて東京市長候補の推薦を受けた井上準之助氏は最後の回答をなすべく、廿日午後三時丸の内銀行集会所において柳沢・近藤市会正副議長と会見し、断然拒絶の決心なる旨を告げ、この上市長銓衡を長引かすは市民の誤解を招くとてこれで本交渉は打切つて呉れと確答したが右につき往訪の記者に対し井上氏は市長就任拒絶の理由を左の如く語つた
 自分は今一般国民の利害休戚に関することに就て研究して見たいと考へて居る、それは計画中といふよりも寧ろ研究中であるといふ方がよいと思ふ、さきに洋行したのも全くその為めであつた、私は経済聯盟の理事であるが、現に計画中のある仕事といふのはそれとは関係無いのである、しかして自分の頭に描いて居る仕事を進めるためには、折角の御推薦ではあるがお受けすることは出来ぬから重ねて断つた、尚ほ此上後任市長の詮衡を長引かすことは市民に迷惑を与へかつ誤解を招く恐れがあるから、此上更に交渉の余地は全く無い、悪からず諒承されたい
井上氏の右回答は最早重ねて交渉の途が絶たれ、詮衡逆戻りとなつた訳である
    井上氏の拒絶で市長銓衡逆戻り
      廿四日委員会開会の筈
東京市会の市長銓衡委員会は廿五日午後五時より市会控室において開会、柳沢・近藤正副議長以下各派銓衡委員出席、柳沢議長から前夜以来井上氏と再交渉の顛末に就いて
 市会協議会の決議を提示して切に井上氏の出馬を懇請し、一方渋沢子・山本男等からも熱心に市民のため出馬するやう勧められた甲斐なく再び拒絶された
と別項銀行集会所における井上氏との会見内容を報告し、これに対し鎌田芳太郎氏(新友会)は
 井上氏を最も適任者として今日まで熱心にその出馬を求めたのだか
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ら、銓衡委員会や全員協議会よりも更により強い形式をとるため、正式に市会を開いて井上氏を推薦してあくまで氏の承諾を求めやう
との動議ありしも入山祐治郎氏(新交会)から
 鎌田氏の提議は一応御尤もであるが、これ以上井上氏に出馬を求める方法に出づることは却つて銓衡の時機を失する惧れある
とて井上氏との交渉打切りを提議し満場の賛成あり、次いで後任市長問題に移つた、何れも候補者を持出す者なく、たゞ竹下延保氏(新交会)が
 本日他の会合席上で勧業銀行総裁梶原仲治氏が適任であると申した人があつた
と極めて軽い意味で一寸話題に出した位で、何れ各派総会で今日までの経過をそれぞれ報告の上協議を纏めるため、後任問題は次回の銓衡委員会に譲ることゝし、各派で充分協議の上態度決定の時日を見込み三日後の廿四日午後三時より開会することゝし、なほ今日出来るだけ円満に協調解決の精神を以て廿四日の委員会には各派から、なるべく具体的に候補者を持出すべく申合せ、同六時散会
    後藤子擁立の企もあり
      市長銓衡混沌、何れ猛烈な争にならう
別項井上準之助氏が市長就任拒絶と共に、あらためて候補者を物色する外無きに至つたが
 自治会 側は十九日夜井上氏との会見で同氏の出廬見込み無きを知るや自治の窮境に陥るを恐れ二・三有力者の間に俄に善後策を講じた結果、再び後藤子擁立を策し廿日朝来各派有力者中後藤子に好意を有すると見られて居る面々に大運動を開始した、これに対し市正・新友新交会 側では
 後藤子が先年全会一致で選挙された時とは大に事情を異にし、かつ永田氏の後を襲いて後藤子が再び市長たるが如きは万々あるまいと信ずるも、若し今更に後藤子に色気あれば、これ東京市を後藤子の手中に私せんとするもので、決して公正の心□《(欠字)》といふ事が出来ないから断然反対する
といきまいてゐるから、後藤子推薦の運動は事実進んでゐるが結果は無駄骨に終るべく、他に久保田政周・藤山雷太・鎌由栄吉氏等を始め野田卯太郎・宇佐美勝夫・水野錬太郎・中橋徳五郎・阪谷芳郎男等十指を屈するにいとまなき程であるが、更に二十日の詮衡委員会で話題に上つた梶原勧銀総裁の如きも、井上氏と同様の意味で有力な候補者であり、故仲小路廉氏型の貴族院議員上山満之進氏が適任であると熱心に主張する者あり、後見者は以上諸士中の範囲を出でなからうが、各派の態度は全く決定してゐないから、具体的
 進捗を 見るは廿四日銓衡委員会開会後であらう、各派共表面協調主義の下に進まうと申合せてをるが、這回の電気局長選挙後における所謂大道・岡野両派の軋轢は意外に深刻なるものあり、益々両派間に溝渠を深めつゝある傾向があるから、結局右の行きがゝりにとらはれ第二の大道・岡野両派対峙して局長選挙以上に猛烈な争ひを演ずるであらう

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中外商業新報 第一三八五七号大正一三年一〇月二日 渋沢子に頼んで、後藤子を口説く 両子は卅日午後会見したが後藤氏矢張不承諾(DK480094k-0007)
第48巻 p.322 ページ画像

中外商業新報  第一三八五七号大正一三年一〇月二日
    渋沢子に頼んで、後藤子を口説く
      両子は卅日午後会見したが
        後藤氏矢張不承諾
東京市会で後藤子を市長に担ぎあげた自治・十日会両派の近藤・小坂外七氏は、一日早朝渋沢栄一氏を滝野川の自邸に訪ひ、後藤子が市長に就任するやう重ねて老子爵を煩はしたいと懇請したところ、子は直に快諾して午後一時半後藤子を麻布桜田町の邸に訪問、会談約一時間にわたつたが、右両子会見の内容に就て渋沢氏は語る
 言はぬがいふにまさると云ふこともあるから、別に多言を費さなかつたが、誠意を以て東京市政の現状に鑑み御奮発下さるやう御願ひした、後藤さんとは多年親友の間柄であるから極めて無遠慮に、昨日市会議員の大勢の方々から口説かれたさうだが、ソンな大勢の人から口説かれて降参するより、この老人一人に降参して市長になつて下さいと頼んだ、しかし力足らずして効果が無かつたやうである
と暗に承諾の意思無きことを仄めかしたが、なほ右会見において後藤子は渋沢子に向ひ
 此前に市長に当選した際は貴下に口説き落されたが、その後辞職する時には貴下に別に御挨拶せなかつた、それは辞職の原因は例の日露国交問題のためであつたので、予め御挨拶出来なかつたやうな訳だ、今日においても日露の外交問題は依然として当時と変らず、又対政府との関係もあり市長を引受けることは困難である
と語つたさうで、渋沢子も到底承諾しないものと見て居るやうであると


中外商業新報 第一三八五八号大正一三年一〇月三日 予定の段取りで中村氏担ぎあげ(DK480094k-0008)
第48巻 p.322-323 ページ画像

中外商業新報  第一三八五八号大正一三年一〇月三日
    予定の段取りで
      中村氏担ぎあげ
 後藤子 が市長就任をキツパリ拒絶したので、同子を推薦した市会の自治・十日会両派は反対派に対しすこぶる苦境に陥り、かつ一面一般市民に対する責任の重大なるに鑑み、最早藤子の出廬が絶対に見込無きに至つたに拘らず体面維持のため、その真相を糊塗せんと藤子に頼んで一切新聞記者を遠ざけんとしたり、あるいは既報二日回答席上藤子が一般市民に対し市長就任辞退の理由を明かにして、二百万市民に告ぐといふ長文のステートメントを発表せんとするや、周章狼狽これが発表を阻止するなど、極端なる陋劣手段を弄するに至つたが、二日夜
 自治会 の近藤・小坂・松尾・吉田・尾後貫・安東・鈴木(弥)・長町・宇都宮・金子、十日会の本田・磯部・宮島・小久江・角野諸氏は後藤子邸を訪ひ、折柄後藤子不在のため邸内応接室に約二時間余待合せ、八時過ぎ漸く会見、長時間にわたり就任の懇請を繰返したが、到底辞意を翻へす見込なきより、本田氏は
 閣下が就任出来なければ然るべき善後策に就て御考へありませんか
 - 第48巻 p.323 -ページ画像 
と泣き込むや藤子は
 別にソンナ事は考へてはないが、然し諸君から善後策に就て頼まれれば別問題である
と斡旋の労を辞せざる色を示し、漸次予定の筋書たる中村是公氏担ぎ出しの問題に辿りついたが、当夜会見の内容は極秘に附して居るが、結局藤子に向ひ中村是公氏の出馬に対し尽力を懇請し、なほ新市長の
 御用党 たらしむべく最近成立した復興クラブの今後における活動等に関し協議し、深更に至り一同漸く辞去した、なほ後藤派の幹部は同夜伊東巳代治伯邸を訪ひ、後藤子出廬の説得役を頼まんとしたが果さなかつた模様である


中外商業新報 第一三八六二号大正一三年一〇月七日 中村是公氏就任を承諾す 六日後零時半 正式回答(DK480094k-0009)
第48巻 p.323 ページ画像

中外商業新報  第一三八六二号大正一三年一〇月七日
    中村是公氏就任を承諾す
      六日後零時半 正式回答
東京市会各派から出廬を懇請された中村是公氏は「自治の経験はないが、兎に角諸君の推薦を受けたのを光栄とし、慎重の考慮を重ねた上何分の回答をなすべし」とて、六日午後零時半を期し正式回答をなすことゝなつたが、いよいよ六日約束の時刻に中村氏は芝区高輪の私邸に柳沢市会議長を訪問し、柳沢氏及び近藤副議長と会見の上「市及び市会の現状について自分は相当心配してゐる、従つて一身上のことは顧みず、市長就任の推薦をお受けすることに致す」と承諾の旨を正式に回答して同一時辞去した


索引政治経済大年表 年表編 東洋経済研究所編 第五八九頁昭和一八年九月刊(DK480094k-0010)
第48巻 p.323 ページ画像

索引政治経済大年表 年表編 東洋経済研究所編
                      第五八九頁昭和一八年九月刊
    大正十三年(紀元二五八四年西暦一九二四年)
○上略
一〇・八○中略 中村是公 東京市長に就任
○下略
  ○右ハ刊行ニ際シテ追補ス。