デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
4款 東京市関係 1. 東京市講演会
■綱文

第48巻 p.328-329(DK480096k) ページ画像

明治42年6月26日(1909年)

是日、東京高等商業学校講堂ニ於テ、第七回東京市講演会開カル。栄一「済貧恤窮に就て」ト題シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK480096k-0001)
第48巻 p.328 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年        (渋沢子爵家所蔵)
六月十二日 曇 暑
○上略 午前稲葉東京市吏員来リ、来ル二十六日市ノ講演会ニ出演ノコトヲ請ハル
   ○中略。
六月二十六日 曇 冷
○上略 夕方高等商業講堂ニ抵リ、東京市ニ於テ開催セル講演会ニ出席シ済貧恤窮ニ関スル意見ヲ演説ス ○下略


竜門雑誌 第二五四号・第六〇―六一頁明治四二年七月 ○東京講演会(DK480096k-0002)
第48巻 p.328-329 ページ画像

竜門雑誌 第二五四号・第六〇―六一頁明治四二年七月
○東京講演会 第七回東京市講演会は、六月二十六日午後六時半より東京高等商業学校講堂に於て開かれたり、当日青淵先生が「済貧恤窮に就て」と題し述べられたる演説の要領左の如しと
自己が明治十二年の交より爾来三十年間養育院に関係し多少此事業に経験を有するを以て、我東京に於ける養育事業の歴史・現状を述べ、併せて政治・教育・経済・人道の各方面より此済貧恤窮事業を観察して此理想を説き及ばんとす、我邦も古代より既に救恤の事ありしも、家族制度の観念深くして個々に救済の方法を講ぜし為め、団体的事業として外国の如く大に発達せざりし、然れども旧幕時代より明治四・五年までは貧窮者は市中群をなして乞食をなす有様なりしが、明治四年初めて東京に於て乞食を狩り集め、東京の公有金たる松平定信公の制定せし七分金を其費用に充てゝ、旧幕時代の非人頭に其処置を依頼したるが抑々東京養育院の濫觴にして、爾来上野護国院、和泉橋藤堂屋敷跡、本所長岡町より遂に今日の大塚町に移転せしが、其間十六年に府会に廃止案出で私立となりしが、十八年自治制の布かるゝと共に市営となり傍ら慈善家の助力を仰ぐこととなれり、而して今は大塚本院、巣鴨・房州・井の頭の各分院を通じて千六百四十人を収容し其一年の経費も十三万七千余円の多きに達するの発達を見るに至れり、然れ共今倫敦の二千有余の慈善機関が、七千万余円の多額の経費を投じて救恤事業をなすと、我東京市全部の各団体の経費二十万円弱と比較すれば雲泥も啻ならず、然れども余は斯る大差は決して我市民の慈善心の欠乏と富の少なきとにのみ帰するものにあらずして、前陳の家族制度の徳に因るものとして寧ろ快とするものなり、而して今政治上よ
 - 第48巻 p.329 -ページ画像 
り此救恤事業を観れば、或は国民の元気を阻喪し惰弱心を奨励する宋襄の仁として退けざる可からざるが如しと雖も、社会の幸福は啻に自己の利益のみに依て維持せらるゝものに非ざるを見、忠恕人道の見地よりすれば大に貧窮者に同情を表すべきものあり、況んや経済上の見地よりすれば此等貧窮者を放棄するに於ては、遂には不逞不良の徒社会に出没して法令を犯し、社会の秩序風紀を紊乱し、遂には彼の恐るべき極端なる社会党などの発生せずとも限らず、故に此等を救恤して善良なる生産的人物を作らんことは、経済上よりするも甚だしき良策にして兼て人道に適せる理想的事業ならん云々(時事所載)


中外商業新報 第八三二〇号明治四二年六月二七日 ○東京市講話会(DK480096k-0003)
第48巻 p.329 ページ画像

中外商業新報 第八三二〇号明治四二年六月二七日
    ○東京市講話会
東京市講話会は廿六日午後六時より東京高等商業学校講堂に於て開かる、渋沢男爵は済貧恤窮に就いて男の関係せる養育院の成立当時より今日に至る迄の歴史を述べ、且つ曰はく、最初養育院に対して世上は府の費用を之に充つる必要なしとの論ありしも、开は今や事実に於て打破せられたり、済貧恤窮は国家として行ふべき義務ありとの主旨を述べて降壇し、次いで男爵目賀田種太郎氏は、帝都の経営に就いて家屋の建築、道路の改正、下水工事、交通機関、公園の設備、市区の区劃等に付例を海外に求めて説明し、九時半閉会せり