デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
6款 大阪市公会堂
■綱文

第48巻 p.345-351(DK480108k) ページ画像

明治44年3月7日(1911年)

是日栄一、岩本栄之助ノ請ニヨリ大阪市ニ赴キ、同人ヨリ大阪市ニ対スル百万円ノ寄付行為ニ関シ斡旋ス。後、協議ノ上、同市公会堂ヲ建設寄付スル事ニ決シ、同年八月財団法人ノ認可ヲ得、栄一其顧問トナル。


■資料

渋沢栄一書翰 控 水野幸吉宛(明治四三年)九月二八日(DK480108k-0001)
第48巻 p.345 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 水野幸吉宛(明治四三年)九月二八日 (渋沢子爵家所蔵)
○上略
先頃大坂ニ罷越候時岩本氏ニ面会仕候、同人之宿望も明年頃ニハ発表致度と頻ニ家政之整理ニ尽力中之由ニ候、何卒善事ハ思ふ計ニ止めずして其実施を企望仕候義ニ候、至極実着之人ニ付決而虚言ニ終リ候義ハ有之間敷と存候
○中略
  九月廿八日               渋沢栄一
    水野盟台
       玉案下
   ○水野幸吉ハ当時総領事トシテアメリカ合衆国ニアリ。


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK480108k-0002)
第48巻 p.345-346 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
三月七日 晴 寒
午前六時半起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ自動車ニテ新橋ニ抵リ大阪行急行列軍ニ搭ス、岩本栄之助氏トノ兼約ヲ践ム為メナリ○中略 汽車京都ニ抵リテ中川知一氏・栗山寛一氏其他知人数名来会シテ車中雑沓ナリ、午後九時梅田停車場ニ着ス、大阪人士多人数来リ迎フ、相携ヘテ伝法屋ニ抵リテ投宿ス○下略
三月八日 晴 寒
○上略 岩本氏ノ代理トシテ栗山寛一氏来話ス、午前十時堺卯楼ニ抵ル、熊谷・西園寺同伴ス、岩本氏ノ追善会ニ列席シ其家人親戚等ニ面会シ陳列セル古書画及什器類ヲ一覧ス、就中揚文驄ノ画ハ頗ル名声アルモノナリ、畢テ北浜銀行ニ抵リテ午飧ヲ饗セラル、高崎知事・植村市長及地方有力ナル人士十数名来会ス、畢テ別室ニ一会場ヲ開キ、岩本栄之助氏此回ノ美挙ニ付来由ヲ詳叙ス、畢テ知事先ツ口ヲ開キ大体ノ賛同ヲ表シ、尋テ各自其意見ヲ陳述シ、全体ノ同意ヲ以テ知事ト市長ト栗山氏トヲ委員ト定メ、岩本氏ノ企望ヲ原案トシテ相当ノ成案ヲ調査シ、追テ一同ノ賛成ヲ求ムル事トシテ散会ス
畢テ岩本氏ノ案内ニテ文楽座ニ抵リ、六時過再ヒ堺卯ニテ岩本氏ノ宴会ニ出席シ、饗宴散シテ更ニ大阪ナル帝国劇場ニ抵リ、名古屋芸妓ノ舞踊ヲ一覧シ、夜十二時過帰宿ス
 - 第48巻 p.346 -ページ画像 
三月九日 曇 寒
午前八時起床入浴ヲ廃シ、直ニ朝飧ヲ食シテ来人ニ接ス、熊谷辰太郎西園寺・松井ノ諸氏来話ス、岩本・栗山・田辺貞吉ノ諸氏来訪ス○中略 夜飧後七時過梅田停車場ニ抵リ夜行列車ニ搭ス、送行ノ人多数来会ス○下略


(八十島親徳)日録 明治四四年(DK480108k-0003)
第48巻 p.346 ページ画像

(八十島親徳)日録 明治四四年    (八十島親義氏所蔵)
三月七日 朝豪雨 終日大風
青淵先生ハ本日午前八時十分発ノ汽車ニテ大阪ニ向ハル、予モ御見送ノ為メ新橋ニ赴ク、一昨年渡米実業団中ノ一人大阪ノ株式仲買岩本栄之助氏ハ、亡父ノ遺産中ノ大部分即金百万円ヲ公益ノ事業ニ投スヘク決心シ、一切ノ指導ヲ青淵先生ニ請ヒシニツキ、先生大ニ感賞セラレ其件ヲ他人ヘ披露ノ際列席ノコトマデ承諾、其為今朝ノ大阪行トナリシ也、岩本氏モ奇特ノコトナレトモ、先生ノ懇切亦敬仰至極ト不可不言○下略


大阪毎日新聞 第九八九五号 明治四四年三月九日 百万円の寄附 岩本栄之助氏の美挙=亡父の遺訓(DK480108k-0004)
第48巻 p.346-347 ページ画像

大阪毎日新聞 第九八九五号 明治四四年三月九日
    百万円の寄附
      岩本栄之助氏の美挙=亡父の遺訓
南区安堂寺橋通二丁目に株式仲買を営業とし、予備陸軍中尉の軍籍にある岩本栄之助氏(三十六)は亡父及母てゐ(六十四)が四十余年来刻苦勤労して一家を成せし紀念の為に、父の遺訓に基き弟栄三郎氏と協議の上金一百万円を提供し公共事業に寄附せんとて、其事業の選定及方法に関しては男爵渋沢栄一氏に托して決定する由、同男は一昨夜来阪して其相談に与り、なほ昨日北浜銀行の同男招請の午餐会席上、高崎親章植村俊平・土居通夫・村山竜平・本山彦一・加藤恒忠・片岡直輝・浜崎永三郎・永田仁助・熊谷辰太郎・西園寺亀次郎・栗山寛一諸氏に対し渋沢男より岩本氏今回の寄附金の用途方法について諸氏の意見を求め且尽力を乞ひたるが、岩本氏の主旨は(一)公会堂若くは商品陳列所を建つる事(二)東洋的商業学校を置く事(三)大学に托して新研究講座を設くる事(四)公園若くは公衆遊楽の設備をなす事の中に就きその一を選ぶことゝなし、寄附は向後五ケ年間毎年二十万円宛分割納附すべき準備にして決定次第寄附手順に及ぶ筈、栄之助氏父栄蔵氏は紀伊海草郡浜中村に生れ、二十歳の時無一物にて大阪に来り、蝋の行商より両替商に移り、明治十一年大阪株式取引所の創設の時仲買人に加入し以来三十年間一生懸命に市場に働き、盛衰激しき波瀾の中に屈せず撓まず始終其業を守りて堅忍不抜の覚悟空しからず巨万の富豪となり、三十九年に至り家督と営業を栄之助氏に譲りて退隠し、同年秋米国大平洋沿岸聯合商業会議所の招待にて渡米団の組織されし時栄之助氏も之に加はりて外遊中、栄蔵氏は同年十月七十二歳にて病歿したり、今回の寄附金につき渋沢男に相談せしも男が当時渡米団長たりし縁に由りしなりと、なほ母てゐ子は氏が寄附金の相談せし時その寄附をするに就ては決して高慢の態度があつてはならぬ、又他に迷惑を及ぼさぬやう呉々謙遜の心掛を以てするが好いと訓戒せりと、此美挙
 - 第48巻 p.347 -ページ画像 
のありしも氏が外遊中米国の公共事業に熱心なるに感じたるは、勿論平生母氏の徳深ければなるべし


竜門雑誌 第二七四号・第七三―七四頁 明治四四年三月 ○百万円の寄附(DK480108k-0005)
第48巻 p.347 ページ画像

竜門雑誌 第二七四号・第七三―七四頁 明治四四年三月
○百万円の寄附 大阪市南区安堂寺橋通り二丁目に株式仲買を営業とし、予備陸軍中尉の軍籍に在る岩本栄之助氏は、両親が四十余年来刻苦勤労して一家を成せし紀念の為に、亡父の遺訓に基き、弟栄三郎氏と協議の上、金壱百万円を提供して公共事業に寄附することに内定したるは昨年の事にて、都合ありて之を発表せざりしかど、今春三月上旬に至り、予て協議に与かれる青淵先生の来阪を請ひて之を発表することに協議纏まりたるより、青淵先生には三月七日大阪に赴かれ、岩本氏主催の北浜銀行に於ける披露会に臨まれたり、列席者は高崎親章植村俊平・土居通夫・村山竜平・本山彦一・加藤恒忠・片岡直輝・浜崎永三郎・永田仁助・熊谷辰太郎・西園寺亀次郎・栗山寛一諸氏にして、青淵先生は岩本氏に代りて百万円寄附の趣旨を述べ、且つ其寄附金の用途方法に就て列席諸氏の意見を求め、尚ほ助力を与へられんことを依頼せられたり、其資金の用途方法は(一)公会堂若くは商品陳列所を建つる事、(二)東洋的商業学校を設くる事、(三)帝国大学に托して新研究講座を設くる事、(四)公園若くは公衆遊楽の設備を為す事、其中に就て一を選び、而して青淵先生の裁断を請ひて確定することゝし、且つ其出金方法は向後五箇年間毎年二十万円宛寄附することに決定せられたりと云ふ、洵に奇特の事と謂ふべきなり。


慈善 第二編第四号・第四八―四九頁明治四十四年四月 二大寄附金と世論(DK480108k-0006)
第48巻 p.347-348 ページ画像

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渋沢栄一書翰控 水野幸吉宛 (明治四四年)四月一九日(DK480108k-0007)
第48巻 p.348-349 ページ画像

渋沢栄一書翰控 水野幸吉宛(明治四四年)四月一九日 (渋沢子爵家所蔵)
○上略 先年内々御打合之大坂岩本栄之助氏寄附金之一挙も弥以決心いたし三月八日を以て発表と相成候、其事ニ付而ハ既ニ本人よりも書状差上候よしニ候得共発表ニ至りし顛末ハ別紙記載之通ニ付一応呈貴覧候小生此事ニ関係候も如何と相考候得共、岩本氏之北堂たる者ハ実ニ賢夫人ニて、此盛挙ニ対する断案より将来岩本氏之注意ニ関する訓示まて真ニ敬服之事多く、而して其母之厚意ニ付而ハ、小生其間ニ立入候事必要と相感候旁終ニ三月八日ニハ特ニ大坂ニ出張して、地方有力之人々ヘハ小生より岩本氏之企望申伝候都合ニ取扱申候、要するニ岩本氏之挙ハ全く米国旅行より生せし動機ニして、所謂善事模倣之尤以有効なるものニ御坐候、御悦可被下候
○中略
 - 第48巻 p.349 -ページ画像 
  四月十九日
                      渋沢栄一
    水野盟台
       坐下
○別紙略ス。


渋沢栄一書翰控 水野幸吉宛 (明治四四年)八月三日(DK480108k-0008)
第48巻 p.349 ページ画像

渋沢栄一書翰控 水野幸吉宛(明治四四年)八月三日 (渋沢子爵家所蔵)
○上略
大坂市公会堂建設之事ハ先頃来色々と物議有之候得共、当初之見込通り決定致し多分近日ニ財団法人を組織し、其法人ニて建築工事取運ひ出来之上市へ引渡し候都合ニ御坐候
此等新事業ニ付而ハ時々面倒なる紛議相生し鬱陶敷事ニ御坐候
○中略
  八月三日
                      渋沢栄一
    水野賢台
       侍史


渋沢栄一書翰控 岩本栄之助宛 明治四四年一〇月八日(DK480108k-0009)
第48巻 p.349 ページ画像

渋沢栄一書翰控 岩本栄之助宛明治四四年一〇月八日 (八十島親義氏所蔵)
華翰拝読益御清適奉賀候、然者過般来御決行之公会堂建設之義者弥以財団法人之組織も出来し、其役員も相定り御寄附金之全部を右法人ニ御引継相成候趣詳細ニ御通知被下拝承仕候、小生義も是迄之行掛上顧問之位地ニ相立候様御取定之由是又了承仕候、遠隔之土地何等御用ニも相立兼候事と存候得共兎ニ角御引受申上候、従来之御宿志右ニて一段落を被為得候事と御本懐拝察仕候、右不取敢御答如此御座候 敬具
  十月八日
                      渋沢
(別筆)
      四十四年十月
    青淵先生断簡    大坂ノ
                岩本栄之助氏宛


竜門雑誌 第二七九号・第六五頁明治四四年八月 岩本栄之助氏寄附行為と青淵先生(DK480108k-0010)
第48巻 p.349 ページ画像

竜門雑誌 第二七九号・第六五頁明治四十四年八月
○岩本栄之助氏寄附行為と青淵先生 岩本栄之助氏が金百万円を公共事業に寄附するの意志を発表せられたる事は去三月の本誌に記載したる処なるが、其後種々協議の上、同家寄附行為財団法人を設立して大阪市公会堂を建設する事に決し其筋に許可出願中の処、本月九日許可せられたる由、而して法人理事として植村俊平・土居通夫・岩下清周永田仁助・栗山寛一の五氏、監事として片岡直輝・中橋徳五郎・本山彦一の三氏、顧問には青淵先生と高崎親章氏を嘱託して外に評議員十五名を選定嘱托したりと云ふ。


雨夜譚会談話筆記 下・第六二八―六三二頁昭和二年一一月―五年七月(DK480108k-0011)
第48巻 p.349-351 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第六二八―六三二頁昭和二年一一月―五年七月
                    (渋沢子爵家所蔵)
 - 第48巻 p.350 -ページ画像 
  第二十二回 昭和三年九月十五日、於飛鳥山邸
    一、岩本栄之助氏大阪市に百万円寄附の世話人となられしに就て
先生「岩本栄之助氏は大阪の株式仲買人で、親父さんも同じ商売であつたと聞いてゐる。其の後栄之助氏は事業上の失敗で、自殺したそうである。私が此の人を知つたのは、明治四十二年の渡米実業団の時であつた。岩本氏は大阪商業会議所議員の一人として団に加はつたのである。渡米実業団の起りに就ては、当時何うも日米国交が面白く行かない様になつた。殊に加州の西海岸に働いてゐる、同胞移民が嫌はれる。邦人経営の事業が好まれなくなつた。其動機と云ふのは、日露戦争に日本が勝つたが、ポーツマスの媾和談判の結果、日本国民が予期してゐた償金が取れなかつたので、一般に不満を抱いた。そして談判の調停役たるルーズヴエルト大統領にあきたらない感を持つと云つた有様で、小村(寿太郎)全権は帰国に際して秘かに上陸しなければならない次第であつた。其の上在米同胞は戦勝を笠に着て、威張り初めたと云ふ事が、亜米利加の人に悪感を抱かしめたのである。其の為め日本人の学童問題が起り、続いて日本人に職業的差別待遇を行つて日本人に洗濯屋は許さぬなど段々八釜敷なつた。小村外務大臣等は大いに之を憂へて、国民外交を促す必要から、商業会議所に話を持込まれた。当時東京商業会議所では、中野武営氏が会頭であつたが、私が前の会頭であつたので、世話人となり、亜米利加西海岸サンチヤゴからスポーケンに至る間の商業会議所議員を日本に招待して彼我の意思疏通を行つた。引続き翌年には亜米利加の商業会議所から答礼の意味で日本の主なる商業会所議の議員を招待した。其の時私も多年商業会議所に竭したと云ふので一行に加はる事になり、実業団の団長に推されたのである。先方で岩本氏は親の病気の電報に接して帰国したので別に私と懇意になる機会はなかつた。唯時々私が他との交際は斯くしなければならぬ等と云つたのを岩本氏は聞いてゐた位と思ふ。
 其の後岩本氏が大阪市に百万円を寄附して、公共事業として公会堂を建て度いと思ふて居ると云ふことを私に言つて寄越した。此の事は亡父の希望でもあつたから是非実現し度い。それに就ては、渡米実業団に於て深い感じを受けた渋沢男爵に御来阪を依頼し、其の上で此の計画を発表し度いとの事であつた。私は渡米の際にも岩本氏はよく知らなかつたし、又元来仲買なるものが概して投機仕事に陥り易い事を知り余り感心して居なかつたが、岩本氏の其の計画は立派なものと思つたから、大阪に行き岩本氏の発表を裏書したのである。其の場所は今記憶しない」
増田「あの時は栗山寛一と云ふ人が屡々先生を訪れて、種々話をきめて、百万円を公債を以て早く納めさせる事になつたのであります。其の後岩本氏は商売に失敗致しましたが、寄附金の方は早く納めてあつたので無事に済みました。若しそうでなかつたら、必ず商売の方に遣はれて居つたと思ひます。
 公会堂の建築は大正四年に定礎式がありまして、先生も御出席にな
 - 第48巻 p.351 -ページ画像 
りました。其の時先生に贈られた銀の槌はお屋敷に今も残つて居ると思ひます」(竜門雑誌第三三一号第七三頁参照)
   ○此回ノ出席者ハ栄一・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。