デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
7款 滝野川町関係
■綱文

第48巻 p.380-383(DK480119k) ページ画像

大正12年9月(1923年)

是月栄一、滝野川町震災救援ノタメ、飛鳥山邸ヲ
 - 第48巻 p.381 -ページ画像 
食糧配給本部ニ宛テ、埼玉県ヨリ白米ヲ取寄セテ供給シ、布団三百枚ヲ寄付ス。


■資料

白石喜太郎手記 大正一二年(DK480119k-0001)
第48巻 p.381 ページ画像

白石喜太郎手記  大正一二年      (白石喜義氏所蔵)
九月三日
○上略
滝野川町附近住民並ニ罹災避難民ニ対シ飯米支給ニ付、今村正一・有馬政雄両氏ヨリ申出アリ、今村氏ハ買出ヲ負担シ有馬氏ハ配給ヲ掌ルコトトナリ、今村氏ハ渋沢子爵ヨリ武州銀行柴田愛蔵氏ニ宛タル紹介状携帯、熊谷・浦和方面ニ向ケ出発
○下略


竜門雑誌 第四二四号・第四一―四二頁大正一三年一月 大震災の追想と所感の一二(青淵先生)(DK480119k-0002)
第48巻 p.381-382 ページ画像

竜門雑誌  第四二四号・第四一―四二頁大正一三年一月
    大震災の追想と所感の一二
                     (青淵先生)
 本篇は青淵先生談として「銀行通信録」第四百五十五号に掲載せるものなり(編者識)
○上略
丁度二日の朝第一に此近所に住つて居る日本日曜学校協会主事の今村正一氏、私は宗教家ではないけれども、始終同協会の為に力を添へてやりましたから、爾来別して懇意にして居る、矢張小崎弘道氏などの手に附いて、亜米利加のコールマン氏など同協会の為に尽力して居るんで、同氏が訪ねて見えて、自分も此土地に住むが市中大火の為めどうも米が少くなつた、第一に送電が止まつたので搗くことが出来ないから白米が別して無い、自分は埼玉県人であるが、埼玉県には米が十分あるだらうと思ふから、貴方からお力添を願ひ他からもお願ひして此土地へ少し米を輸入して握飯的焚出をして見たいと思ふが、どんなものでせう、それは取敢ず必要の事と思ふから、全然御同意します、宗教家としてさう云ふ企をなさると云ふことは至極結構だけれども、併し此地方に対してさう云ふ施設をするといふ上からには、尻切蜻蛉になつて話が纏らぬやうになると面白くないから、矢張さう云ふ取扱は相当な順序立つた組織に依つてなすつた方が宜からう、夫れには滝野川町役場に取扱はせる方が良い、貴方は自分でやらずに気付だけ与へて、仕事は其処でやつて貰ひ、米に対する金の心配は私がして上げる、注意は貴方の手で、それに対する物資の補助は私が尚ほ同志者と相談してやるやうにする、取扱は滝野川町長にやつて貰ふと云ふ事であつたならば、三つの力に依つて相当の規模が出来るであらう、大した事は出来まいが、何しろ皆難儀を受けて居るのだから――米の百石や二百石はどうかならう、併しそれを自ら取扱ふことは宜しくあるまい。御尤です、それでは一つ町役場の人を呼びますから、能く相談して呉れと云ふ話であつた。○中略 米の買入は今村と云ふ人の宗教観念の作用であつた、それ故に此滝野川町は米の配給が大分都合よく行きました。此町は市に接近して居るものですから、市内から罹災者の這入つて来たのが現在人口の五万余りの所へ四万余りにも達して殆ど倍加
 - 第48巻 p.382 -ページ画像 
するやうな有様であつたから、滝野川町の雑閙は一時えらいものでありました。総てに届いたか、どうだか私は悉く明瞭に知つては居ませぬけれども、併し如斯二日に直ぐ手配したものですから始終玄米でなく白米を需用者に供給する事が出来たと云ふのは、先づ滝野川町が東京附近の中では第一に算へられるやうです、現に其最も著しい証拠は大学で玄米は得たけれども、どうしても之を白米にすることが出来ぬ已むを得ず玄米を用ゐてゐる、けれどもどうも病人に玄米の粥は困る聞けば滝野川町には大分白米があると云ふことだから、何とかして日に五俵宛でも送つて呉れぬかと云うて、近藤外科病院から言うて来ましたから、五俵位ならどうにかなるだらうと、助役に相談して五俵宛幾日間か――十日以上配給しましたらう。之を以て見ても滝野川町は白米が満足であつたと云ふことは証拠立てられる○下略


青淵先生公私履歴台帳(DK480119k-0003)
第48巻 p.382 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳           (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
昭和四年二月十六日 大正十二年十二月大震災善後会ヘ金五万円及十二年九月東京府北豊島郡滝野川町大震火災救援ノ為布団参百枚寄附ス、依テ褒章条例第三条第一項ニ拠リ、曾テ授与セシ紺綬褒章ニ附スヘキ飾版壱箇ヲ賜ヒ以テ之ヲ表彰セラル
          (右褒章簿冊登記番号第二千百三十一号)      賞勲局総裁


滝野川町制二十周年記念滝野川町誌 大島貞吉編 第一三一頁昭和八年六月刊(DK480119k-0004)
第48巻 p.382 ページ画像

滝野川町制二十周年記念滝野川町誌 大島貞吉編  第一三一頁昭和八年六月刊
    救護と配給
 震災直後、焦眉の急務は避難者中の傷病者を救護することである。吾が滝野川町では幸にも、古河男爵家の好意により、同邸内に滝野川町救療所を設け、医師七人、看護婦七人、救護事務員五名を配置して罹災民の救療に従事せしめたが、その施療を受けた者は一千九百九名の多きに達した。
 一方、避難者のために一躍倍加した民衆に片時も欠くべからざるものは、食糧品であるのに、忽ちにして欠乏払底となり、之れが調達と配給とは、当局者の非常な苦心であつたが、是亦、幸にも渋沢子爵の多大なる配慮により、郷里埼玉県より玄米の供給を得る事となり、同邸を滝野川町食糧品配給本部に宛て、全町に組織せられた公共団体並に自警団約三十団体と聯絡して、一糸乱れざる統制の下に、機敏なる配給事務が行はれた。榎本町長、有馬助役、野木収入役を初め、役場吏員の寝食を忘れて、努力奔走せると、前記各町内団体の人々が、救護、配給に従事した延人員は実に二万一千三百六十五人に達した。
○下略

 - 第48巻 p.383 -ページ画像 

渋沢子爵親話日録 第二 自大正十二年十二月至 高田利吉筆記(DK480119k-0005)
第48巻 p.383 ページ画像

渋沢子爵親話日録 第二 自大正十二年十二月至  高田利吉筆記
                     (財団法人竜門社所蔵)
○十二月十三日
△赤十字社の埼玉支部より滝野川に出張せる震災救護団今度引払につき、町の重立ちたる方より一場の御挨拶を得たき旨町役場より依頼につき、朝助役有馬氏と共に十三・四名の事務員・看護婦を飛鳥山邸に招きて謝辞を述べらる
○下略


滝野川町関係書類(DK480119k-0006)
第48巻 p.383 ページ画像

滝野川町関係書類             (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓
益々御清祥の段奉賀候、陳ば昨年九月一日ノ大震災ニ際シ罹災者救助ノ為金品御贈与相成候就テハ、来ル九月一日震災記念トシテ聊カ謝意ヲ表シ度候間、同日午前九時迄御迷惑ナガラ当役場ヘ御参集相煩シ度此段及御通知候也
  大正十三年八月二十八日  滝野川町長 榎本初五郎
    (宛名手書)
    渋沢栄一殿