デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

8章 軍事関係諸事業
1節 第一次世界大戦関係
9款 西比利亜俘虜救護会
■綱文

第48巻 p.603-606(DK480165k) ページ画像

大正8年11月29日(1919年)

是日、栄一等ノ首唱ニヨリ当会発起協議会開カレ、栄一其会長トナル。翌九年当会解散ス。


■資料

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二〇頁 昭和六年一二月刊(DK480165k-0001)
第48巻 p.603 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿)昭和六年十二月調 竜門社編
              竜門雑誌第五一九号別刷・第二〇頁昭和六年一二月刊
    大正年代
  年 月
 八 一二―西比利亜俘虜救護会々長―大、九、四。


報知新聞 第一五三六六号 大正八年一一月二八日 在露俘虜惨状 渋沢男等の慰安計画(DK480165k-0002)
第48巻 p.603 ページ画像

報知新聞  第一五三六六号 大正八年一一月二八日
    在露俘虜惨状
      渋沢男等の慰安計画
最近西伯利より東京商業会議所に達せし情報に依れば、目下露国人の手に在る俘虜は独逸人五千人、墺太利人十万人、匈牙利人九万人、土耳古人一万五千人、勃牙利人二千人、合計廿一万二千人の多きに上り居れるが、彼等は総ゆる虐待を受けて全く飢餓に責められつゝあるの状態にして、而も此が原因を成して健康を害し、目下腸窒扶斯に罹り死亡するものゝみにても日々平均百五十人の多きを見る実況なりとあり、此情報に接して渋沢男爵並に藤山東商会頭等は、世界人道の上より如何にも同情に堪へざる次第なれば此際何等かの方法を以て之が慰安救護の途を講じ度となし、商業会議所にては急遽廿八日午后臨時役員会を開き適当の方法を協議し、尚進んで世界一般の同情を求むべく近く在京各新聞社長若くは社主の会合を求め其方法を謀る計画あり


東京商業会議所報 第二〇号 大正八年一二月 ○役員会(DK480165k-0003)
第48巻 p.603 ページ画像

東京商業会議所報  第二〇号 大正八年一二月
    ○役員会
△大正八年十一月二十八日当所に於て役員会を開会したり、出席者左の如し
  副会頭 杉原栄三郎君○以下八名氏名略ス
 午前十一時開会、午後零時閉会、左の事項を協議せり○中略
一西伯利亜に於ける俘虜救済に関する件
本件は渋沢男爵・藤山両氏の連名を以て各新聞社々長に来所を請ひ相談すること
  ○ナホ下文ニ十二月一日同会議所ニ於テ議員協議会アリ、西比利亜俘虜救済ニ関シ協議セル由記載アリ。


報知新聞 第一五三六八号 大正八年一一月三〇日 西伯利の独墺俘虜を救助するため 寄附金募集と救護団組織 斃死者毎日数百を算す(DK480165k-0004)
第48巻 p.603-604 ページ画像

報知新聞  第一五三六八号 大正八年一一月三〇日
    西伯利の独墺俘虜を救助するため
      寄附金募集と救護団組織
        斃死者毎日数百を算す
 - 第48巻 p.604 -ページ画像 
目下西比利にある廿余万の独墺俘虜は物資の欠乏と衛生施設不完全な為めに、営養不良と
 伝染病流行 にて斃死するもの日に百千を数ふる惨状にあるため、渋沢男及び藤山雷太氏等は救護団体を組織して救護用の寄附金を募集する計画で、廿九日午後三時より商業会議所に協議会を開いたが、その結果渋沢男・藤山会頭・大岡衆議院議長其他
 二・三の団体 が発起となり西比利俘虜救護会を組織し、全国に向つて大々的に寄附金募集の運動を起す筈なるが、渋沢男は語る
『西伯利亜にある独墺俘虜は総計廿一万二千人だが、是等の俘虜は目下非常な窮地に陥り、殊にペトロポーロースクから浦塩斯徳に至る北部鉄道線路に沿ふ各地収容所の俘虜は大抵五年以前に捕虜となつた者だが、中には
 大学教授や 裁判官其他相当地位ある人々が多いに拘らず、現在では街路の掃除や種々の卑しい労働に従事して居り、食物は不足勝で住宅も犬小屋同然なので自然流行病が盛んになり、先頃は虎疫・窒扶斯の為めに一万以上の死亡者を出したといふ惨状であるが、人道上坐視し難いので今回起つて救済運動を起すに至つた次第である』と


竜門雑誌 第三七九号・第五〇―五一頁 大正八年一二月 ○在西比利亜の独墺俘虜救護(DK480165k-0005)
第48巻 p.604 ページ画像

竜門雑誌  第三七九号・第五〇―五一頁 大正八年一二月
○在西比利亜の独墺俘虜救護 目下西比利亜に在る廿余万の独墺俘虜は、物資の欠乏と衛生施設不完全の為め、営養不良と伝染病流行とにて倒死する者日に百千を数ふる惨状に在り、是れ人道上看過す可らずとて、青淵先生及藤山東京商業会議所会頭其他の諸氏発起となり、十一月二十九日午後東京商業会議所に於て、協議会を開きたる結果、青淵先生・藤山会頭・大岡衆議院議長其他二・三団体発起となり、西比利亜俘虜救護会を組織し全国に向つて寄附金募集を為すことに決定せりといふ。之に就て青淵先生が往訪の新聞記者に語りたる意見の概要は左の如しと報ぜらる。
  ○前掲報知新聞ノ談話ヲ転載ス。略ス。


社会と救済 第三巻第一〇号・第七九五頁 大正九年一月一五日 西伯利俘虜 救護会の設立(DK480165k-0006)
第48巻 p.604-605 ページ画像

社会と救済  第三巻第一〇号・第七九五頁 大正九年一月一五日
    ▽西伯利俘虜 救護会の設立
 開戦以来露軍の捕虜となりて、今尚ほ西伯利の配所に在る敵国聯合側の士卒約二十三万余人に達し居れるも、其給養や衛生設備頗る不充分、加ふに悪疫の流行猖獗を極め、殊に昨今寒気凛冽、其惨状実に甚しきものあり。之に対して彼等の本国は頗る冷胆なるを以て、我国在留の独墺人及俘虜等は同胞の窮状を見るに忍びずして、従来屡々醵金して之が救済に努めつゝありき。是に於て渋沢男爵・藤山東京会議所会頭・大岡衆議院議長を始め東京市内各新聞社は、人道上之を座視するに忍びずとなし、国際関係上許す範囲に於て之が救済をなさんが為に、昨年十一月二十九日、東京商業会議所に於て協議会を開催し、其結果旧臘以上の諸氏発起の下に、西伯利俘虜救護会を設立することゝなり、昨今各方面に向つて寄附金募集中なり。因に同会設立の趣意左の如し。
 - 第48巻 p.605 -ページ画像 
過去五年間世界を覆いたる戦雲漸くその跡を収め、今や有らゆる人類が平和来の歓喜を同うせんとする時、独り窮状最も憐むべきは寒気骨を砭す西伯利に遺されたる敵国人とす、其概数を調査するに独逸四万墺太利十万、勾牙利八万、土耳其一万五千、勃牙利二千にして、即ち二十三万七千人の多きを算す。而して彼等の多数は五年以上俘虜の辛酸を嘗め平和条約調印せられたる今日に於ても、北露は内乱熄む時なきが為に、南露は舟車の便絶ゆるが為に、帰路を失へるのみならず、其の大半は仍ほ破屋に呻吟し、衣は云ふ迄もなく、食亦常に欠乏し、疲憊の極病に仆るも医薬の施さるゝなく、死屍は広野に棄てられて腐爛に委す。此の如き境遇にある彼等にして朝夕其の故郷を懐ひ、父母妻子を憶ふときは、転た断腸堪へ難きものあるべし、吾人は国際の信義と人道の大本とより観て、自ら罪なくして囚虜となれる戦乱の犠牲者を九死の裏に拯ふは、当に仁夾自ら居る吾人の任務たるべきを痛感し、乃ち有志胥謀り、此に西伯利俘虜救護会を起して広く社会仁人の同情に訴へて大に義損を仰ぎ、急速今冬季の寒苦を軽んぜしめ、以て救済の実を挙げんと欲す。伏して願くは多少の援助を此の事業の上に賜らんことを、敬みて白す。


渋沢栄一 日記 大正九年(DK480165k-0007)
第48巻 p.605 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年           (渋沢子爵家所蔵)
一月八日 晴 寒
○上略 十一時事務所ニ抵リ○中略 長尾半平・斎藤某及米人同伴ニテ来訪シ西伯利兵隊慰問ノ事ヲ談ス○下略
  ○中略。
一月十六日 晴 厳寒
○上略 午後三時大磯ナル明石家ノ別居ニ投ス、此日天気朗晴少シク風アレトモ東京ノ寒気ニ比スレハ全ク別天地ノ感アリ、大磯着後読書ト書類ノ整理ニ勉焉ス。基督教青年会ニ於テ担当セル西伯利軍隊慰問ニ関スル件ニ付、調査ノ顛末ヲ記載シテ徳川公爵其他関係ノ諸氏ニ報告セシム○下略
  ○中略。
二月二十六日 曇 寒
○上略
畢テ午後三時事務所ニ帰リテ独乙人ノ来訪ニ接ス、澳州人俘虜救護《(マヽ)》ノ事ニ付種々ノ談話アリ
○下略
  ○中略。
三月三日 曇 寒
○上略 午後五時鉄道協会ニ抵リ酉比利亜俘虜救護ノ事ニ付慰労会ヲ開ク松岡氏及嘉悦・吉岡二女史来会ス、食卓上種々ノ談話アリ、救護会ニ於テ募集セシ金額処分ノ事ニ付種々協議ノ後、陸軍省ニ依頼ノ事ニ決シテ、余ノ同省ニ交渉スル事ヲ委托セラル
○下略



〔参考〕中外商業新報 第一二一七九号 大正九年二月一九日 ○流石に負嫌ひの市長も 舌を巻いて敵はぬ敵はぬ 怪力露人ケンテル君の目見(DK480165k-0008)
第48巻 p.605-606 ページ画像

中外商業新報  第一二一七九号 大正九年二月一九日
 - 第48巻 p.606 -ページ画像 
    ○流石に負嫌ひの市長も
      舌を巻いて敵はぬ敵はぬ
        怪力露人ケンテル君の目見
世界一の怪力露人ケンテル君は廿四日から七日迄神田青年会館で田尻市長・渋沢男等
◇援助の 下に、同胞露人にして目下西比利亜に俘虜になつて居る者の為め演技を催す事になり、先づ十八日敬意を表す為め市長室に田尻子を訪うた、雲突く許りの巨人と鶴の如く細い市長と握手した光景はポンチ画ソツクリ、軈てケンテル君は素裸体になり、厚さ四分幅一寸の鉄板をグルグル腕に捲きつけ
◇五寸釘 で縄をなつたり鎖をブツブツ切つたり、平手で五寸釘を板に打ちつけたりいろいろやる、何事にも負ず嫌ひの田尻子「これは呼吸ぢやから我輩にも出来る」とやつて見たが「ア痛た痛た」と止めて仕舞つた、ケンテル君は斯て市長から御褒美に本を一冊貰つて、イソイソ帰つて行つた



〔参考〕中外商業新報 第一二二五六号 大正九年五月六日 ○俘虜全部引渡 日本の待遇感謝(DK480165k-0009)
第48巻 p.606 ページ画像

中外商業新報  第一二二五六号 大正九年五月六日
    ○俘虜全部引渡
      日本の待遇感謝
在国比利亜聯合軍管理の俘虜中日本軍の直接監視に任じありし俘虜の総数は約五千名を算したるが、此等の俘虜は聯合国の協定に基き送還することゝなり、独逸人俘虜全部即ち七百二十四名及び墺国人俘虜七名計七百三十一名は、三月十九日及三十日の両日に於て之を独逸委員に引渡しの上送還し、残余の墺洪国人俘虜約三千五百名、土耳其人俘虜約六百名も近く受領委員の到着と共に送還を実施する筈なり、此等の俘虜は露国の混乱と共に非常なる窮境に陥りたるも、日本軍の管理に移りたる以後は人道的待遇を受くるを得て其の幸運を喜び、書面を以て日本陸軍大臣に謝意を表し来るもの尠からず、西比利亜各地の騒擾に際しては逃亡を企つるものなく、寧ろ俘虜の境遇に在るを安全なりとし、一意帰国の速かならん事を希へるの状況なり(陸軍当局談)