デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

8章 軍事関係諸事業
2節 軍事関係諸団体
4款 社団法人大日本国防義会
■綱文

第48巻 p.632-636(DK480175k) ページ画像

大正8年1月17日(1919年)

是日栄一、東京商業会議所ニ於テ開カレタル、当会講演会ニ出席シ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK480175k-0001)
第48巻 p.632 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年          (渋沢子爵家所蔵)
一月十七日 晴 寒
○上略 午後五時半東京商業会議所ニ抵リ国防義会ニ出席ス、星野陸軍少将ノ世界ノ大勢ト軍備ト云フ演題ニテ大演説アリ、講演ノ時間二時間半余ナリ、論理明晰ニシテ挙証正確ナリ、且弁舌モ流暢ナリキ、午後十時畢リテ散会ス○下略
  ○中略。
二月五日 快晴 厳寒
○上略 事務所ニ抵リテ国防義会員相馬氏ノ来訪ニ接ス○下略


竜門雑誌 第三七〇号・第七三頁 大正八年三月 ○大日本国防義会講演会(DK480175k-0002)
第48巻 p.632 ページ画像

竜門雑誌  第三七〇号・第七三頁 大正八年三月
○大日本国防義会講演会 同会にては一月十七日夜東京商業会議所に講演会を開き、会長青淵先生開会の挨拶に次ぎ、星野陸軍少将の講演あり、同会にては此日特に貴衆両院議員を招請せしが、来会者両議員及会員百八十余名にして極めて盛会なりしと云ふ。
 因に青淵先生当日の講演は本号別項に掲載したれば、就いて一読せられたし。


竜門雑誌 第三七〇号・第二九―三四頁 大正八年三月 ○大日本国防義会に於て 青淵先生(DK480175k-0003)
第48巻 p.632-636 ページ画像

竜門雑誌  第三七〇号・第二九―三四頁 大正八年三月
    ○大日本国防義会に於て
                    青淵先生
 - 第48巻 p.633 -ページ画像 
 本篇は本年一月十七日東京商業会議所に於て開会せられたる大日本国防義会に於て青淵先生が会長就任の挨拶を兼ねて講演せられたるものなりとす。(編者識)
 柄にない名誉を荷ひまして、有難いのと痛み入つたのと、二つの心持を以て此壇に立ちますやうな次第でございます。本会の成立は疾くより承知致して、必要な機関と思ふて私も入会致して居ります。殊に最も親友たりし中野武営氏が会長となつて居らるゝことも承知して居り、又御列席の山田英太郎君も旧来の知友でございまして、同君が此の会の設立以来、種々御斡旋のことは諸君も御熟知でございますが、私も同君から毎々本会のことに就て御話も伝承しまして、仮令国防と云ふ事柄に就て経験もなく知識もないにせよ、兎に角尽力せよと毎度御勧誘を頂戴して居つたのでございます。故に折々は講演を聴聞に出やうと考へて居りました中に、中野君の逝去となり、続いて誰ぞ其後任との御詮議から、遂に私に立てと云ふことを山田君を以て懇切なる御勧告を頂戴しました。私は如何にしても其任に当らぬことで恐懼に堪へませぬけれども、既に長い間本会に何等力添もせざりし罰としても、抂て御需に応じなければ相済ぬと云ふ感じが起りまして、過日の例会に参上して、幹部の諸君と御話をしました末に遂に御引受け致すことに相成つたのでございます。而して今夕即ち会長と云ふ資格を以て此壇に立ちましたのは、当初に申上げます通り身に余る光栄にはございますけれども、同時に又頗る恐縮する次第でございます。本会の社会に必要なることは御来会の諸君へは申上げぬでも疾く御承知のことでございますれば、向後引続いて本会を大切に御愛護が願いたい。又不肖ながら私も既に其名を汚しましたに就ては、飽迄努力致しますから、どうぞ何分御懇親を願ふのみならず、御援助を望み上げます。(拍手)
 申上げることは是れだけでございますけれども、私も流儀違ひの方面から聊か国防観念を陳述致して、諸君の清聴を煩はして見たいと思ふのでございます。元来国防と云ふ字が国を守るに在りとすると全然軍事に属するやうに見えます、故に結局は硝煙弾雨とか堅甲利兵とか云ふやうなものが国防に必要であると云ふことは論を待ちませぬ。併ながら硝煙弾雨も堅甲利兵も唯それだけでは用をなさぬのである。能く之れを操縦する人がなければ、働きをなさぬ。又それに相応する兵隊がなければ軍備とは言はれぬ。即ち是等が完全したものが国防具備と云ひ得るやうに思ひます。故に国防と云ふ字を適切に解釈すれば、軍事に属することは論を待ちませぬけれども、私などの之れを理会する所は、単に軍事のみが国防だと考へるのは少しく狭いではないか、否狭いばかりでなく、それでは満足せぬやうになりはせぬか。凡そ一国として世界に立つには、勿論強剛と云ふことは必要であるけれども其の強剛は更に一の根本がなければならぬ。而して、其の根本は前に述べた煙硝の煙とか鉄砲玉の雨とか、堅い刀とか若くは良い楯とか云ふものではない。もつと柔かで其実強いものが沢山ある。想ふに防と云ふ字を軍事に聯想するのは、我が帝国に於て封建制度の長く継続した所から、此の誤謬が生じたのではないかと思ひます。維新以後五十
 - 第48巻 p.634 -ページ画像 
年の歳月を経、今日の聖代に浴して王化に洽ねき吾々であるから、最早や此誤謬は去つて宜からうと思ひますが、武門政治が七八年続いたのでございますから、余弊尚ほ未だ存すると云ふことも亦怪むに足らぬかも知れませぬ。私は玆に頼山陽の「外史」の講釈をするやうでございますけれども、昔の日本は決して武門武士は無かつたのである。事有れば天子親ら采配を御振りなされたのである。然らざるも或は皇子・親王が軍事に就いたのである。中朝に至つて追々に軍人を作るやうになつて来て、保元・平治の乱から遂に鎌倉覇府の開けるに至つて武門政治を馴致せしめた。即ち国家は封建制度になつて、兵農が全く分れた――「農」と云ふ言葉は穏当でありませぬ。兵と普通の国民とが全く乱れたのである。(山陽の外史には兵農とあります)故に古昔の全国皆兵と云ふやうな意味は段々に消滅して、国を防備することは武士の職分だと云ふやうになつて、其の他の人は国の防備には吾不関焉と云ふやうな有様になつたのでございます。甚しきは其の防備の為めに納付する租税さへ、何だが軍人の為めに吾々の懐から貪ぼり取らるるやうに誤解した。斯くの如きは古昔の全国皆兵の実が全く無くなつてしまつた、軍事に力を尽す人だけが国防に任ずるやうに相成つたからである。一般の人の誤つた解釈をしましたのも、斯う云ふ有様が然らしめたのだと申しても過言ではなからうと思ふのでございます。
 本会の趣旨とする所は、決して前に述べた誤解の意味ではなく、此の国防の意義を中朝以前王代の有様に追考へ及ぼして、国家を杆衛するは武を先とするも其武を揚ぐる処の要義を勤むるは、即ち国の富を増すに在り、故に国富を謀るは均しく国防の要務と解釈して差支へなからう。現在の「国防義会」は上来縷陳した如くに解釈して宜しからうと思ふのでございます。斯く相成りますると私の如き何等軍事の知識・経験のない者も、猶「国防義会」に就て力を致すことが出来るのである。始めには相応しからぬと恐懼しましたけれども、只今申上げた意義に解釈しましたならば、私が其の資格を有つて居るとは申されぬでも、猶甚だ必要だと云ふことが言ひ得るやうに思ふのでございます。
 頃日欧洲戦乱の休戦条約が成立つたに就て、其歓びを表する為と云ふて、各地の商業会議所が特に聯合祝賀会を開かれまして、国務大臣も多数御出席になりました。当時の景況は新聞紙に出て居りましたから、或は御覧なされた方もあらうと思ひます。其席で会頭たる藤山君から五年に亘る戦乱も玆に終熄を告げんとして休戦条約の出来たことを深く欣ぶ。此平和克復後は益々以て実業界の力を尽さねばならぬ時期に到達するであらう。而して実業界の力を世界的に伸して行かうとするには、自己の努力は勿論であるけれども殊に政治と密着して所謂相倚り相援けて行かなければ十分なる働きは為し得られぬ。ゆゑに此の戦乱の鎮定を喜こんで祝賀会を開くに当り、先以て時の政治の根本に立つ内閣の諸公を此所に御招待して其喜びを述べ、官民一致挙国合同の態度を以て進みたいと思ふ。此祝賀会を開いたのは、其希望玆にあると云ふ趣旨を述べられました。原総理大臣の是れに答へられた演説が甚だ要領を得て居られて、私も然りと敬服致しました。其要旨は
 - 第48巻 p.635 -ページ画像 
五年に亘る戦乱が如何になるかと憂慮して、所謂片唾を呑んでおつたのである。然るに最近に至つて急転直下に同盟軍の力が衰へて、首脳たる独逸が遂に降服的休戦条約の締結となつたと云ふことは、或る点から云ふと甚だ怪しむべき程に見えるが、蓋し其の実因があるに相違ない。戦乱の当時は唯武力を是れ張り、人を殺すこと芥の如く、残忍酷薄至らざるなきを以て、或は武力の側からは勇壮にも見えた、強悍にも思はれたが、其の実力が段々に衰へて、詮り兵糧に或は軍需品に更に進んでは兵員に不足して、遂に支へ切れなくなり、其内が潰へたから俄かに外に現はれ来たのが、即ち急転直下に頽敗して降を乞ふに至つたと言ふて宜いのである。故に名は休戦条約であるけれども、最早や再び干戈を動かすことは出来ぬと云ふことを確め得る如き有様に至つたのは、実に世界の為に悦ぶのである。玆に於て自分は信ずる、武の力は、富の力には勝ち得ぬものであると云ふことを証拠立つたのであると。戦争の当初から、武の力に於ては何時でも同盟軍が勝つたやうに見えたのである、それにも拘らず遂に今日に至つたと云ふは、詰り富の力が負けたから遂に多数人民の失望となつた訳である。詰り武力ばかりが国家を杆衛する完全なるものでないと云ふことが、玆に顕然となつたのである。斯う考へると東京商業会議所、否独り東京ばかりではない、各地商業会議所の諸君の未来の勉強が別して必要である。即ち武力ばかりで国を杆衛することは出来ぬ、完全なる富の力がなければ世界的に国の強大を維持することは出来ぬ。洵に殷鑑遠からず、諸君宜しく注意せよ。と斯う云ふ趣旨でありました。実に御尤に拝聴しましたが、私にも一言述べろと云ふことを会頭から望まれましたから、私は前の原首相の演説を敷愆して、只今の総理大臣の御演説は私も全然同意である、只大臣は心に思はれて言葉に発しられぬと考へるが私は更に一歩を加へたい、即ち其富は正しき富であると云ふことに致したいものである。唯富みさへすれば宜しいと云ふと尚ほ其武力と撰ぶ処なく、或る場合には大いなる誤を生ずるものである。独逸は決して貧困ではなかつたのである。故に其富は仁義道徳を具備するものたることを要すと云ふ御趣旨であらうと思ふと迄べました。是は別に其場合討論したのではございませぬが、唯私は其時に深く感じましたから、総理大臣の御言葉に一の愚見を添へたのに過ぎぬのであります。前に述べました如く、武と云ふものは、単に煙硝の煙とか鉄砲玉の雨とか、若くは堅い刀とか強い楯とか云ふばかりではない、却つて柔らかなる船も武であらう、鉄道も武であらう、食料も武であらう即ち富の力が武の力に勝つ、更に一歩を進めて道徳仁義の力が、武の力よりも富の力よりも強いと云ふことを言ひ得られるかと思ふのでございます。
 私は十分なる漢学を修めませぬが、常に漢語を振り回はす癖があります、「論語」と「孟子」に前述の意味を能く言ひ現はした句がござりまするので、写して持つて参りました。是れは洵に能く言ふて居ると思ひますから、経書の講義らしうなつて失敬でございますけれども只今の事を聖賢の説に拠りて、確めて置きたいと思ふのであります。「論語」顔淵篇に子貢が政を問ふた。「子寛政を問ふ、子曰く、食を
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足し兵を足し民之れを信ず矣」――食を足すは富の力である、兵を足すは武の力である、民之れを信ずるは道徳の力である、「子貢曰く、必ず已むを得ずして而して此の三つの者を去らば何を先んぜん」――拠なく一つ除けねばならぬ時は何を先きに除けますか。「曰く兵を去らん」――先づ武を去れ。「子貢曰く、必ず已むを得ずして而して此の二つの者を去るに何を先んぜん、曰く食を去らん」――其の孔子の言葉が面白い。「古より皆な死有り、民信なければ立たず」――極く短かい句でありますが、仁義と云ふものが必要だと云ふことを能く言ひ現はして居るやうでございます。又「孟子」の公孫丑章句の下に斯う云ふことがございます。「孟子曰く、天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」――と斯う冒頭に説いた。天の時も地の利には敵はぬ、地の利も人の和には敵はぬ、其の証拠は、「三里の城七里の郭、環つて之れを攻めて而して勝たず、それ環つて之れを攻むるは必ず天の時を得るもの有らん矣」――三里の城七里の郭、即ち城郭を取巻いて攻めると云ふは、天の時を得たからであるけれども、それを改め落すことが出来ないのは即ち「是れ天の時は、地の利に如かざるなり」――是れは天の時は地の利に如かずと云ふ解釈である。又「城高からざるにあらざるなり」――城は高いのである。「池深からざるにあらざるなり」――池も深いのである、立派な塹壕である。「兵革堅利ならざるにあらざるなり」――兵はツハモノ、革は鎧のやうなものであります。「米粟多からざるにあらざるなり」――兵糧も沢山ある然るに「委てゝ之れを去る」――逃げてしまふ場合がある。「是れ地の利は人の和に如かざるなり」――其の逃げると云ふのは、人の和がないからである。「故に曰く、民を域するに封疆の界を以てせず、国を固むるには山渓の険を以てせず、天下を威すには兵革の利を以てせず、道を得る者は助け多く、道を失ふ者は助け寡し、助け寡きの至りは親戚之れに畔く、助け多きの至りは、天下之れに順ふ、天下の順ふ所を以て親戚の畔く所を攻む、故に君子は戦はざるあり、戦へば必ず勝つ矣」――洵に適切に云ひ現はしてあります、私の国防の要旨は、此の孔孟の辞句に依りたいと思ふのでございます。斯く思考しますると、私の如き何等知識もなく経験もない者が、此の会に説を述べたからと言つて、大いなる誤りではなからうと思ふので、諸君の御批判があるかも知りませぬけれども、御挨拶旁愚見を陳述したのでございます。(拍手)