デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
2款 故桂公爵記念事業会
■綱文

第49巻 p.20-24(DK490010k) ページ画像

大正6年3月10日(1917年)

是日、桂太郎五周年忌ニ際シ、記念事業完成報告ヲ兼ネ芝増上寺ニ於テ法要ヲ営ム。栄一、当会常務委員長トシテ報告文ヲ朗読ス。同夜帝国ホテルニ於テ記念事業披露会ヲ開キ、栄一、委員ヲ代表シテ事業ノ経過ヲ報告シ、追悼演説ヲナス。


■資料

中外商業新報 第一一一〇八号 大正六年三月一一日 完成せる桂公記念事業(DK490010k-0001)
第49巻 p.20-21 ページ画像

中外商業新報  第一一一〇八号 大正六年三月一一日
    ○完成せる桂公
      記念事業
        十日五周年法要
 - 第49巻 p.21 -ページ画像 
桂公爵記念事業会にては予て計画中なりし故公伝記の編纂成り、外に済生病院に桂病室を新設する事、又学士院に桂奨学基金を寄附する事等何れも此程完成したるを以て、十日恰も
△故公の五周年 に該当するを期とし、午後三時より広太郎公・かな子未亡人を始め近親及関係者一同を招き、芝増上寺に之が報告祭を兼ね故公追福の大法要を営みたるが、当時堀尾大僧正は京都地方巡錫不在中なるも、目下東京滞錫中なる浄土宗管長山下現有師を招じて導師とし、本堂祭壇に「長雲院殿忠誉義道清澄大居士」と記せる大位牌と公の写真を安置し、三時廿分、山下大僧正は野沢・樋口・岡本の三僧正以下
△一山三十幾名 の衆僧と八名の奏楽僧を率ゐて森厳なる式を始め、焼香に移り、寺内伯は中座せしが、十歳の小公爵広太郎氏は叔父なる井上大尉と焼香、引続き親族・知己拝一拝、渋沢男は記念委員を代表して報告文を朗読し、全く式を了りしは四時なり、別席には公が生前寄贈の佐久間鉄園筆十六羅漢其他遺物を陳列したり、同日の来会者は二百余名
      △記念事業報告
        帝国ホテルの盛宴
帝国ホテルの記念事業披露会は午後六時より開会、来賓は広太郎公・桂二郎・同夫人・井上三郎・同夫人・桂寿雄・同五郎・同新七諸氏を始め、生前桂公と因縁浅からざりし清浦子・加藤子・岡部子・渋沢男・松室法相・大島陸相・若槻・小松・原諸氏を始め朝野の名士百余名にして、渋沢男は広太郎公・井上三郎・桂二郎氏等と卓を共にし、次の卓には岡田文相を中に加藤子・岡部子・松室法相・大島陸相など所謂呉越同卓となりて、他の視線を引きつゝ宴を終り、渋沢男は同会委員長として事業の経過を報告し、次で故公に知遇を得し当初より説き起して済生会に全力を傾倒して今日あらしめたる功績を称へ、尚ほ公が諸般の事績を挙げ「古来一能に卓越したる者を偉人と云ひ得可くんば公の如く各般の事に亘りて卓越せる人物を偉人と称するも、敢て過称にあらざる可し」と結びて来賓の為に盃を挙げ、次に菊池男は学士院を代表し、北里博士は済生会を代表して、各記念事業の一として基金を寄贈せられたるを謝し、最後に「当主広太郎未だ幼少なれば」とて井上三郎氏代りて謝辞を述べ八時半散会せり、来賓の主なる諸氏は前記の外左の如し
 伊藤文吉・一木喜徳郎・石渡敬一・飯田義一・本郷中将・岡田文相・大谷嘉兵衛・大橋新太郎・渡辺千冬・和田豊治・加藤正義・河野広中・上山農商務次官・高橋是清男・田島信夫・添田寿一・坪井九八郎・長岡中将・中島男・中村是公・成瀬正恭・室田義文・宇佐川一正・植村澄三郎・野崎広太・野田卯太郎・久保田勝美・串田万蔵・柳沢伯・柳生一義・安場男・安田善三郎・山本三郎・山成喬六・松室法相・松方巌・近藤男・小池国三・江木千之・有松英義・有賀長文・秋山定輔・阪谷男・佐々木勇之助・西園寺八郎・木村清四郎・北里柴三郎・平山成信諸氏其他
 - 第49巻 p.22 -ページ画像 

竜門雑誌 第三四六号・第六九―七〇頁 大正六年三月 ○故桂公の法要並に奉告式(DK490010k-0002)
第49巻 p.22-23 ページ画像

竜門雑誌  第三四六号・第六九―七〇頁 大正六年三月
    ○故桂公の法要並に奉告式
 桂公爵薨じて既に五週年、同公記念事業亦こゝに完成を告げたるに依り、三月十日午後三時より芝増上寺に於て五周忌の法要を兼ね其奉告式を執行せり、定刻、故桂公記念事業会常務委員長たる青淵先生の先導にて当主広太郎公は、井上三郎氏及び寺内首相に左右を擁せられつゝ家族席に著き、故公母堂・未亡人を除ける近親外親戚の人々続いて著席し終るや、導師山下現有老師一山の衆徒を率ゐて厳なる読経あり、次で青淵先生は左の祭文を朗読せられ、終つて一同焼香の上午後四時式を閉ぢたるが、当日の来賓は田・松室・岡田の各相を始め朝野の名士無慮二百余名なりきといふ。
 維れ時三月十日、桂公爵記念事業会常務委員長渋沢栄一本会を代表し玆に薄奠を具し謹で前相国桂公の霊を祭る、嗚呼公は明治時代の大政治家にして千古の偉人也、文に武に其勲業赫々として天下の耳目に映射するもの今猶昨の如し、亦何ぞ栄一の言を俟たんや、而して公の薨ずるや、栄一等同人公の知遇を辱うしたるもの、其遺徳を追慕し景仰の情禁ぜんと欲して禁ずること能はず、相謀りて公爵記念事業会を設け三事業に着手したり、其一は恩賜財団済生会内に公の名を冠したる病室を設置すること、其二は帝国学士院内に公爵奨学基金を設置すること、其三は公爵の記伝を精査編纂して其功績を不朽に伝ふること是なり、而して栄一乏しきを本会委員長に承け、江湖諸賢賛襄の下に此事業の完成を了り、玆に公の霊前に於て結果を奉告するを得るは独り栄一の光栄とするのみならざるなり、嗚呼逝くものは復た追ふべからず、温乎たる其容、藹如たる其言、再び接するを得べからずと雖も、公の精神は其功業と共に万世に亘りて朽ちざるものあり、今や公の記伝を其霊前に捧げ、併せて本会事業の始末を奉告するに臨み感慨極まりて言ふ所を知らず、公にして知るあらば尚くは饗けよ。
  大正六年三月十日
            故桂公爵記念事業会常務委員長
             従三位勲一等 男爵渋沢栄一
 尚ほ同日右の奉告式終るや、同会は次で午後五時より帝国ホテルに故桂公の一族始め、同会に干繋ある朝野の名士百五十余名の来会を請ひて晩餐会を開き、青淵先生より同会の事業たる其一故公爵記伝編纂の件、其二済生会内に故公の名を冠せる病室を設くる為め四万円寄附の件、其三帝国学士院にも亦故公の名を冠せる学術奨学金二万円を寄附する件等経過報告に次ぎ、故公の逸事に就て左の如き述懐談あり、菊池男、北里博士の演説、井上三郎氏の桂家親戚総代としての謝辞等ありて、午後八時半散会したる由。
  予の公爵と懇親の干繋を結ぶに至つたのは寧ろ晩年の事にして、明治三十四年第一次桂内閣の時なれども、其以前公爵の陸軍大臣時代より京釜鉄道に関し公爵の援助を得たることがあつた。二十七八年戦役の後、日韓の外交干繋面白からず、韓国の鉄道は外人の権利に帰すると云ふ有様であつたが、三十年京仁鉄道買収の議が起り、
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尋で京釜鉄道敷設問題が起つた時に、公爵は熱心に同鉄道の敷設に尽力せられたが、恰も三十二年の頃、同鉄道の踏査が出来ねば其権利が消滅するといふ場合に、五万円の踏査費を得るに苦んだ。当時公爵は陸軍大臣であつて、窃に我等を招いて右の金額を調達せられた為め、我等は始めて其金額を以て右の踏査を終り玆に漸く京釜鉄道敷設に着手することを得た。併し当時此事に関して各方面より種種の反対が起つたのであるが、三十六年末に日露の危機が迫つた際には、嚮きに反対せられた有力者から同鉄道の速成を催促せらるゝ次第と為り、漸く完成を告ぐるに至つた。若しも当時公爵が英断を以て右の踏査費を支出せられなかつたならば、京釜鉄道の完成は却却容易な事ではなかつたらうと思はる。而して公爵から支出された前述の五万円は其後我等は之を公爵に返却する代りに、東洋協会附属の学校に寄附して其志に酬ゐたのである。又公爵が晩年最も力を竭されたものは恩賜財団済生会の事業であつたが、確か四十四年の二月十一日と覚えて居る、公爵が予を招いて勅諚の趣を示し、其賛成を求められたので、予は謹んで微力を効すことを誓つた。而して同会の事業に就ては、寄附金も予定以上に出来し、半年に満たずして成功を告げ、東京に於ては宏壮なる病院も建築せられ、各地方に於ても其設備の完整を見るに至つたのは、固より先帝陛下深仁厚徳の致す所に由るとは云へ、公爵の熱誠努力を欠くに於ては恐くは此に至ることは困難であつた様に思はる。尚又公爵記伝の完成は公の功績を不朽に垂るゝに於て遺憾なく、千古の史家司馬遷が心血を濺いで著述した史記と、新井白石が霊筆を揮つて編述した藩翰譜とに比するも、決して劣る所が無いと確信す云々。



〔参考〕諸会報告書(三) 【甲第三七一号 拝啓 予テ桂公爵記念事業会ヨリ本院ヘ御寄附ニ係ル学術奨励資金ニ依リ…】(DK490010k-0003)
第49巻 p.23-24 ページ画像

諸会報告書(三)             (渋沢子爵家所蔵)
 甲第三七一号
拝啓 予テ桂公爵記念事業会ヨリ本院ヘ御寄附ニ係ル学術奨励資金ニ依リ、左記ノ通授賞スルコトニ本月十二日ノ総会ニ於テ議決致候条御了承相成度、別紙授賞審査要旨相添ヘ此段及御報告候 敬具
  昭和二年三月十七日
             帝国学士院長 桜井錠二 
    元桂公爵記念事業会総代子爵渋沢栄一殿
    記
一、朝鮮植物ノ研究 研究者 理学博士 中井猛之進
        以上
(別紙)
    理学博士中井猛之進君ノ朝鮮植物ノ研究ニ対スル授賞審査要旨
中井猛之進君ハ明治三十九年朝鮮植物ノ研究ヲ始メテヨリ二十年昨今漸ク其ノ取調ヲ了レリ。中井君ノ研究ニ着手当時ハ英・露・独ノ植物学者ノ調査ニヨリテ朝鮮植物ノ知ラレタルモノ僅ニ百三科三百九十三属六百三十五種二十変種ナリシモ、同君ノ研究ニ依リテ百六十科八百八十九属三千五十九種五百四十六変種ノ植物ヲ明カニシ得タリ。其ノ
 - 第49巻 p.24 -ページ画像 
間ニ発表セシ論文ハ外国語及ビ邦語ニテ記セル大小百三十篇アリ、就中中井君ガ最モ力ヲ傾注セシハ、朝鮮森林植物編ニシテ大凡十五輯ヨリ成リ、三十科九十四属三百二十六種百十二変種ヲ詳密ニ図説シ、且ツ此等ノ科ノ研究ノ歴史、利用法等ヲ詳述セリ。其ノ中ニ記述セシ新植物ハ新属二、新種六十六種、新変種五十六種ナリ。
朝鮮森林植物編以外ノ論文ニテ発表セシ新植物ノ数左ノ如シ。
 新属 七
 新種及ビ新変種
  (一)羊歯植物   九種
  (二)裸子植物   四種
  (三)単子葉植物  三十五種、十一変種
  (四)離弁花植物  百三十種、二十六変種
  (五)合弁花植物  九十二種、十八変種
    計二百七十種  五十五変種
之ヲ前記ノ数ト合スレバ新植物累計三百三十六種百一変種トナル。
中井君ハ亦従来泰西諸学者ノ用ヰシ植物分類法ガ主トシテ欧米ノ植物ニ基準セル為メ東亜植物ニ適用シ難キニ鑑ミ、東亜植物ニ基ケル新分類法ヲ編成シ、新亜科・新属・新亜属・新節等ヲ多数ニ設ケテ植物分類学上貢献スル所少カラズ。
此他旧日本・支那ノ植物ニ関スル論著亦多ク、記載サレタル植物総計五百余種ニ達シ、其ノ内新属三、新種二百余アリ。
中井君ハ自ラ朝鮮ノ山野ニ起伏シテ其ノ研究資料ノ大部分ヲ採収シ、暴徒ノ難、急流ノ渡渉、断崖ノ登攀、孤島ノ探検ニ死生ノ巷ヲ出入セシコト幾回ナルヲ知ラズ、其ノ間ノ苦心ハ昔時ノ探検談ニ彷彿タルモノアリ、斯クシテ蒐集セル標本無慮数万点ハ整理サレテ東京帝国大学理学部ノ植物学教室ニ蔵メラレ、二十余箱ヲ充タセリ。
上記ノ如ク中井君ハ朝鮮植物ヲ研究シテ多数ノ新植物ヲ発見シ、同地方ノ植物分布上重要ナル貢献ヲナセルモノナリ。